TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
両想いというものになって、ひと月ほどが経った。
先に言っておくが、表向きは、何も変わっていない。あいつは週の半分は店に来て、傷薬を買い、説教をされ、飯を食って帰る。俺は帳場に立って、薬を挽いて、客を診る。灯火堂の、いつもの日常だ。何も変わっていない。
……変わっていない、はずなんだが。
「メリルちゃんさあ」
ラルフが湿布を買いながら、にやにやした。
「その髪飾り、毎日つけてるよね」
「仕事の邪魔にならないんだよ、これは。軽いし、引っかからないし」
「ふうん? 雨の日も? 店が休みの日も? 薬草の仕分けしかしない日も?」
「……観察日誌にでも書いてろ」
「もう書いた」
書くな。没収するぞ。
言い訳させてもらうが、機能性の問題だ。薄橙の硝子は軽くて、留め具の当たりが柔らかくて、髪を耳にかける癖と相性がいい。それだけだ。毎朝、鏡の前でこれの位置を三回直してることとか、外して寝る前に一回だけ灯りにかざしてることとかは、機能性とは無関係の、ただの品質管理である。
そういう日々の、ある定休日だった。
「店番は儂がやる。行っといで」
朝飯の途中で、婆ちゃんが唐突に言った。定休日に店番も何もないだろ、と言い返す前に、カラン、と鈴が鳴った。私服のジークが、戸口に立っていた。……おい。この連携、事前打ち合わせありだな?
「メリル。その、今日は」
「哨戒か? 傷か? 胃薬か?」
「違う。……用は、ない。会いに来た」
用はない。会いに来た。
……おい、待て。心臓。落ち着け。おまえ六十年物だろうが。偽装恋人時代のこいつは、店に来るのに毎回律儀に「用」を用意してきた。胃薬とか、軟膏とか。それが、用もなく来ていいのだと、両想いになってからこいつは学習した。学習しやがった。誰だ、教えたのは。……俺か。『客が来ていい店に来ていいか聞くな』って言ったの、俺だな。過去の俺、余計なことを。いや、よくやった。どっちだ。
「それで、その……どこか、行かないか。行き先は、決めていない」
「決めてないのかよ。あんた、偽装のときは俺が行程表を組んだろ」
「ああ。だから今日は、組まずに歩いてみたい。……あなたと歩けるなら、どこでも、いいので」
だから! そういうのを! 朝から撃つな!
婆ちゃんが奥で「ふぉっふぉ」と笑った。俺は返事の代わりに上着を掴んだ。顔が赤くなるのを見られる前に、外に出たかっただけだ。
行き先のない散歩というのは、生まれて初めてやった。市場をひやかして、川沿いを歩いて、どこにも用がなくて、それが妙に、悪くなかった。前世の俺は「用のない外出」ができない男だった。用がないと、出る理由がない。理由がないと、動けない。……理由が隣を歩いてると、人間、この病気は簡単に治るらしい。
市場の東で、串焼きの屋台が煙を上げていた。あの屋台だ。ジークが二本買って、一本を寄越して、それから、じっと自分の串を見た。
「なんだよ」
「いや。……あの日は、あなたが俺に、齧りかけをくれた」
「宴会のノリだっつっただろ、あれは」
「では、今日は宴会ではないので」
ジークは大真面目に、自分の串を一口分、俺の口元に差し出した。
「……どうぞ」
どうぞ、じゃないんだよ。俺は周囲を確認し、確認してしまった自分に舌打ちし、腹をくくって齧った。塩と焦げ目の味がした。というか、味なんか半分も分からなかった。
「……うまいか」
「……歴史的に、な」
ジークの目が見開かれて、それから、三ミリどころじゃなく緩んだ。
午後、川沿いの道は人がまばらだった。はぐれる心配なんか、どこにもない道幅だった。
……ないんだよ。物理的合理性が。今日は、どこにも。
なのに俺の右手は、隣を歩くでかい左手のあたりを、さっきから三回、意味もなく往復している。気づけよ、と思う。気づくなよ、とも思う。六十年物の矛盾が、右手一本に凝縮されている。
四回目で、俺は観念した。
「……手」
「む? 人混みは、ないが」
「ないよ。合理性も、ない。……ないけど、いいだろ、別に。恋人なんだから」
言った。言ってしまった。沈黙が三歩分続いて、俺がもう川に飛び込もうかと考え始めたところで、ジークの手が、そっと俺の手を包んだ。いつもより、少しだけ、湿っていた。見上げたら、耳どころか首まで赤かった。
「……すまん。今のは、その、俺も初めての型で、対応が」
「対応とか言うな。剣術か」
「剣術なら、対応できた」
「できてないんだよなあ、それが」
繋いだ手は、直せなかった。直す気も、なかった。
川沿いのベンチで、少し休んだ。そこで、風が吹いた。結い方の甘かった髪が乱れて、髪飾りが、ずれた。直そうと手を上げるより早く、あいつの手が伸びてきた。
「動くな。……直す」
でかい指が、恐ろしく慎重に、硝子の花を挿し直していく。近い。顔が、近い。息を止めてる俺の前で、あいつは真剣そのものの顔で位置を整えて、最後に、乱れた髪をひと房、俺の耳にかけた。……それ、俺の癖だぞ。いつから覚えてたんだ。
「よし。……うん。やはり、似合う」
「……自分でつけた奴が言うな」
「つけたのは装飾店だ。選んだのが、俺だ」
正確な事実で殴ってくるな、と言いかけて、今のは俺の完敗だと認めた。六十年物の心臓が、限界を訴えていた。
そのときだった。川向こうの茂みから、声にならない声が三人分ほど漏れて、水鳥が一斉に飛び立った。……第三小隊。おまえら、非番のたびに何をやってるんだ。ラルフの湿布は、来月から定価にする。
夕方、店の前まで送ってもらった。別れ際、ジークは名残惜しそうに――いや、名残惜しさを隠す訓練を全力でこなしながら、一礼した。
「では。……三日ほど、北の哨戒に出る。戻ったら、また」
「おう。傷、作るなよ。作ったら診るけど。診るけどな、作るなよ」
「善処する」
あいつが背を向けて、三歩、歩いた。
その背中に、俺の口が、勝手に動いた。
「――ジーク」
振り返る。俺は、髪飾りに指先で触れて、それから、六十年で一番の早口で言った。
「三日は、長い。……早く帰ってこい。会えないと、その、なんだ。……寂しいから」
ジークは、固まった。完全に固まった。それから、壊れた案山子みたいなぎこちなさで一回頷いて、無言で深々と礼をして、ものすごい速度で歩き去った。曲がり角の向こうで、鎧も着てないのに、がしゃん、という音がした。何かにぶつかったな、あれは。騎士団で五指に入る剣士が、業務連絡ひとつで曲がり角を曲がり損ねた。
「……ふぉっふぉっふぉ」
「婆ちゃん。聞いてたのか」
「聞いとらんよ。見とっただけじゃ」
「性質が悪いな!?」
「デレたのう、メリルや」
「デレてない。事実の伝達だ。業務連絡だ」
「ほうかい。業務連絡で、耳まで赤うなるかの」
その夜、俺は寝台で、枕に顔を埋めて、しばらくじたばたした。六十年だぞ。六十年生きて、「寂しいから早く帰ってこい」だぞ。営業二課の鉄仮面・佐々木健一は、本日をもって正式に廃業した。後継のメリル・ハーティは、恋人の背中に業務連絡ひとつ送るだけで枕が必要になる、しょうもない新人である。
……でも、まあ。
あいつの、あの壊れた案山子。ちょっと、面白かったな。次も、やってやろうか。
帳場の熊が、何も言わずにこっちを見ていた気がした。何も言うな。分かってる。デレてる。知ってるよ。俺が一番よく、知ってる。