TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
祝いの騒ぎってのは、だいたい三日で引く。四日目の朝から、灯火堂は通常営業に戻った。
変わったことは、少しだけある。帳場の内側に、椅子が二つ並んだこと。棚の湯呑みが、二つ一組で置かれるようになったこと。俺の左手の内側で、誰にも見えない薄橙の石が、薬研を回すたび、こつんと当たること。
変わらないことの方が、ずっと多い。乾いた薄橙の花は、帳場の一番日当たりのいい場所にいる。木彫りの熊は、相変わらず何も言わずに店番をしている。看板の三文字も、そのままだ。婆ちゃんが「屋号は変えん。灯火堂は灯火堂じゃ」と言い、俺も、それでいいと思った。
その日の営業は、いつも通りに騒がしかった。
朝一番、膝の悪い織物屋の婆さん。「新婚さん、湿布おくれ」「新婚を枕詞にするな」「あら、じゃあ若奥様」「湿布、値上げすんぞ」。婆さんはけらけら笑って、いつもの三倍ゆっくり帰っていった。あれは湿布じゃなくて、俺の顔を冷やかしに来ただけだな。
昼、第三小隊がぞろぞろ来た。全員、これ見よがしに擦り傷やら打ち身やらを見せてくるが、様子がおかしい。全員の懐から、同じ形の帳面がのぞいてる。
「……おい。それ、出せ」
観念して差し出された帳面の表紙には、『若様観察日誌』の「若様」の上から紙が貼られ、『若様ご夫妻』と訂正されていた。
「没収」
「そんな! 式の記録が、まだ清書の途中で」
「清書するな。……するなっての。……あー、もう。写しを一部だけ、あとでうちに納品しろ。婆ちゃんが読みたがるからだ。他意はない」
「「「了解であります!」」」
声を揃えるな。にやにやするな。他意はないっつってんだろ。……なお後日、納品された写しには『若様ご夫妻観察日誌・創刊号』と表紙が刷られていた。創刊するな。定期刊行を予定するな。
午後、王都から定期の荷が届いた。レオンハルト宛ての胃薬の補充依頼と、几帳面な字の礼状。末尾に『父上が「次はいつ来る」と月に三度聞く。膏薬の送付時に、訪問の予定も同封されたし』とあった。伯爵家の外堀ってのは、埋めたあとも手入れが要るらしい。膏薬、多めに詰めておこう。
その少しあと、団長がのそりと現れて、胃薬を買った。「式の樽の飲みすぎだ」と診断したら、「祝いすぎというやつじゃ」と開き直られた。帰り際、あの熊みたいな男は、戸口で一度だけ振り返った。
「……初めてここに来た日、儂は言うたな。あれは、帰る場所ができた人間の顔じゃと」
「言われたな。重いんだよ、あんたの言い方は」
「ふむ。では今日も重く言うてやろう。――今の貴様も、同じ顔をしとるぞ。薬屋」
言い逃げだった。カラン、と鈴を鳴らして、熊は往来に消えた。……まったく。この街の年寄り連中は、どいつもこいつも、人の急所を正確に撃ってくる。歴戦ってのは、そういうことなのか。
夕方の手前、雨が、ぱらりと来た。春の通り雨だ。俺は軒先の薬草を取り込みながら、灰色の空を見上げて――それだけだった。手は止まらなかった。誰もいない場所を見る用事は、もうない。あいつは今、丘の裏の慰霊碑の前あたりを、部下を連れて歩いている頃だ。雨は、ただの雨で、うちの店は、今日も開いている。
夕暮れどき、婆ちゃんが縁台で茶を啜りながら、ぽつりと言った。
「ええ店に、なったのう」
「前からいい店だろ。あんたの店だぞ」
「前はな、ええ薬屋じゃった」
婆ちゃんは、湯気の向こうで目を細めた。
「今は、ええ店じゃ。薬屋はな、傷を治すところじゃ。店はな……人が、帰ってくるところじゃよ。看板の灯りはな、客のためだけに点けるもんじゃない。昔から、そう言うとろうが」
言われた覚えはないけどな。……いや、あるのか。前世の、夜更けの帰り道。他人の家の窓の灯りを、意味もなく数えてた頃の俺に、誰かがそう言ってくれてたら。あの頃の俺が本当に欲しかったのは、多分、ああいう灯りの方だったんだ。
日が落ちて、客足が途切れた。婆ちゃんは奥へ引っ込んだ。俺は帳場で、明日の仕込みの算段をしていた。表通りを、仕事終わりの足音が、まばらに過ぎていく。
そして、店じまい間際。
カラン、と入口の鈴が鳴った。
「……すまない。まだ、開いて――」
戸口に立っていたのは、鎧姿の騎士だった。哨戒帰り。銀の髪に、生真面目そのものという顔。ただし今日は、血も泥もついていない。無傷だ。手には、剣の代わりに、小さな紙包みがひとつ。
あいつは、言いかけた台詞を、途中で止めた。それから、ゆっくり首を横に振って、言い直した。
「……違うな。もう、違うんだった」
三ミリ、笑った。
「――ただいま」
……ああ、まったく。
一年と少し前、同じ鈴の音で、同じ時刻に、こいつは満身創痍でこの戸口に立った。「まだ、開いているか」と、消え入りそうな声で聞いた。あの夜の俺は、知らなかった。あの鈴の音が、俺の二度目の人生の、本当の開店の合図だったなんて。
「おかえり。開いてる開いてる」
俺は、帳場から立ち上がった。
「言っとくけどな。閉まってても、あんたには開けるよ。……最初の夜から、ずっとそうだった。気づいてなかったのは、俺の方だ」
ジークは戸口で軽く外套を払って、紙包みを差し出した。開けると、薄橙の花が、一輪――いや、三輪。
「花売りの屋台が、まだ開いていた。……その、今日のは、演技の一環では、ない」
「知ってる。で? 今回は店主に何て言ったんだ。また三秒固まったか」
「固まらなかった。『妻に』と言った。……一秒で」
「成長したなあ、おい。誰の教育だろうな、それは」
「あなたの、だ」
聞けば、店主のおばちゃんは「あの初々しい騎士様が!」と大喜びで、一本のつもりが三本になったらしい。しかも「奥様と、お婆様と、お店の分」と勝手に用途まで決められたという。外堀ってのは、この街じゃ花屋にまで埋まってるのか。
新しい花を、乾いた一輪目の隣に飾った。一年前の花と、今日の花。始まりと、続き。あの頃は「演技の一環だ」なんて言い訳を二人がかりでこねくり回してたのに、今日のは、何の言い訳もついてない。ただの、妻への花だ。……慣れないな、この響き。慣れないまま、一生やっていくんだろう。熊が、相変わらず黙ってそれを見てた。おまえも、長い付き合いになったな。
「メリル」
「ん?」
「今日も、開いていて良かった」
「当たり前だろ。うちの看板、読めないのか。朝まで消えない、って街中が知ってる。……朝までどころか」
俺は、点けたばかりの看板の灯りを見た。薄橙の光が、春の宵の三番街に、ぽつんと点いている。この街で一番小さくて、一番消えない灯り。あいつが帰ってくる場所で、俺が立って待つ場所で、いつかまた誰かが、血まみれで駆け込んでくる場所だ。
「――一生、消えないんだよ。覚悟しとけ」
「望むところだ」
即答だった。即答の威力は、恐ろしい。一生、慣れる気がしない。……慣れなくて、いい。慣れた瞬間に聞き流しちまうのが、前世の俺の悪癖だった。この即答だけは、毎回、初回の威力で食らっていくと決めてる。
閉店の札を裏返す。カラン、と鈴が、小さく鳴った。ただそれだけの音が、今日は祝いの鐘みたいに聞こえた。奥から、二人ぶん――いや、三人ぶんの夕飯の匂いがしてくる。婆ちゃんが、何か煮ている。俺は店の灯りをひとつ落として、ひとつだけ残して、あいつの隣に並んだ。
薬草を煮出す匂いというのは、慣れると案外悪くない。
二回の人生を全部足しても――今が、一番悪くない。
もう少しだけ続きます。