TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた   作:べ¥

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雨の日の、やめよう、の話

ジークたちが北の森に出て、五日目。雨が降っていた。

 

店を開けても、客はまばらだった。来るのは戦況の噂ばかりだ。第二哨戒線で交戦が続いているらしい、とか。負傷者が後送され始めた、とか。大型種はまだ討てていない、とか。噂は買い物のついでに置かれていって、雨の店内に、湿った澱みたいに溜まっていった。

 

「メリルちゃん、傷薬の在庫、あるだけ騎士団に回してくれって。ギルドからの通達」

 

「もう三回目だ。仕込みは倍でやってる。持ってきな」

 

手は動く。手だけは、いくらでも動く。前世からそうだった。心が悲鳴を上げてるときほど、手は正確になる。便利な体質だよ、まったく。

 

夜、帳場の隅の木彫りの熊と目が合った。その隣の、乾いた薄橙の花とも。

 

俺は帳場で、乾かした薬草を束ねながら、同じことばかり考えていた。祭りの夜のこと。繋いだ手のこと。「終わらせたくない」と思ってしまった、あの一瞬のこと。

 

そして、あの一瞬が、五日間の雨で膨らみ続けていることも。

 

あいつが帰ってこなかったら――と考えかけて、手が止まった。薬草の束が、握った拳の中で潰れていた。

 

五日目の夜、ラルフだけが店に顔を出した。軽傷で、歩ける、と言い訳がましい。俺は傷より先に「ジークは」と聞いた。ラルフは「生きてます。……ただ、大型種が近いため、ジーク一人で引き受けて、撤退を」

 

言葉が途切れた。俺は「続けろ」と怒鳴った。怒鳴れば怒鳴るほど、手が正確になる体質、本当に便利だ。

 

「……帰って来い、って、伝えといてくれ」

 

「伝えます。……メリルちゃん、ジークのこと、待っててくれてるって、ちゃんと」

 

ラルフは湿布を置いて、雨の中へ消えた。待ってる、か。俺は、待ってる側の顔をして、別れ際に「茶番は終わり」と言ったばかりの女だ。矛盾の塊め。

 

……ああ、もう、駄目だ。

 

これはもう「一瞬」じゃない。俺は本気で、あいつが欲しい。あいつの無事が、あいつの帰る場所が、あいつの隣が欲しい。中身60のおっさんが、21の馬鹿正直を、本気で。

 

……潮時だ、と思った。

 

フリはフリのうちに畳むから、フリなんだ。これ以上続けたら、取り返しがつかなくなる。中身おっさんの詐欺師が、あの馬鹿正直の一生を、騙し取ることになる。あいつは義理堅いから、一度情が移れば、真実を知っても責任を取ろうとするだろう。そういう男だ。だから、情が移りきる前に。あいつがまだ、引き返せるうちに。

 

契約書には書いてある。『互いに、本当に好きな相手ができたら、即座に解消する』。

 

……皮肉なもんだ。解消条件を満たしたのは、俺の方だった。

 

六日目の夕方、ジークは帰ってきた。泥と雨に汚れた鎧のまま、真っ先に店に来た。頬に新しい擦り傷。目の下に濃い隈。それでも五体満足で、俺の顔を見て、ほっとしたように三ミリ笑った。

 

雨粒が、肩当てから床に落ちる音がした。店の中だけ、妙に静かだ。

 

無事で良かった、と喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。言え。今言え。傷が浅いうちに。

 

「ジーク。……ちょうど良かった。話がある」

 

「奇遇だな。俺も、渡したいものが」

 

「見合い、もう白紙になったんだろ。兄さんも認めてくれたって」

 

ジークの手が、胸当ての内側で止まった。

 

「なら、この茶番はもう終わりでいい」

 

――言った。言ってやった。ほら、これでいい。これが正解だ。

 

「あんたは義理堅いから、なあなあで続けようとするだろうけどさ。恋人のフリなんて、いつまでもやるもんじゃない。あんたには、その、ちゃんとした相手がいるべきだ。家柄も、歳も、……中身も、釣り合う相手が」

 

雨の音だけが、店を満たした。

 

「……茶番」

 

顔を上げたジークは、俺が一度も見たことのない目をしていた。

 

「メリルにとっては、茶番だったのか。あの市場も。祭りの夜も。全部」

 

「そういう約束だっただろ」

 

「そうだな。約束だった。……だが、俺には、違った」

 

ジークは、胸当ての上から、何かを押さえた。

 

「五日間、ずっと考えていた。哨戒の合間も、野営の火の前でも。帰ったら何と言おうかと。それだけを考えて……それを、帰る理由にして、いた」

 

やめろ。

 

「市場で、メリルは俺の知らない顔で笑った。祭りの夜、あなたの手は、俺の手の中にあった。あれが全部、演技だったとは、俺には、どうしても」

 

胸当ての内側から、布の包みが少しだけ見えた。血も泥も付いていない。五日間、ずっと胸に当てていたものだろう。俺はそれに目を向けて、すぐに逸らした。見たら、言えなくなる。

 

やめろ。やめてくれ。それ以上言われたら、堪えられなくなる。

 

言ってしまえ、と俺の中の誰かが叫んだ。俺にも違ったよ、と。演技だったことなんか一度もなかったよ、と。でも駄目だ。それを言う資格を、俺は最初から持ってない。言った先にあるのは、正体を知らないままのあいつに一生を差し出させる、もっとたちの悪い詐欺だけだ。

 

だから俺は、前世で二十年鍛えた鉄仮面で、笑ってみせた。

 

「悪いな。俺は、そういうのは分かんねえんだ」

 

我ながら、完璧な営業スマイルだった。二十年間、頭を下げたくない相手に頭を下げ、笑いたくない場面で笑ってきた、その集大成みたいな顔だった。

 

こんなところで使うために、鍛えた顔じゃなかったんだけどな。

 

ジークは長いこと立ち尽くして、それから「.......わかった」と言って雨の中へ出ていった。鈴が鳴った。いつもと同じ音のはずなのに、氷の割れる音に聞こえた。

 

店の戸が閉まった瞬間、俺は膝から力が抜けた。カウンターに手をついて、息を整えた。大丈夫、正しい選択だ。正しい選択のはずなのに、なんで床が傾いて見える。

 

追いかけそうになる足を、俺はカウンターの内側に釘で打つみたいにして止めた。

 

「……阿呆じゃな、おまえは」

 

婆ちゃんが、静かに言った。責める声じゃなかった。それが逆に、深く刺さった。

 

雨音が、一瞬だけ途切れた。途切れた隙間に、遠くで鐘が鳴った。一短。まだ続く合図じゃない。だが、俺の背筋は勝手に伸びた。戦場の空気を、身体が覚えている。……覚えてるなんて、俺は戦場なんか行ったことない。前世の決算前夜のオフィスくらいだ。それでも、足音の向きが変わる音は分かった。

 

「相手のためと言いながら、おまえは自分が傷つかんように、先に手放しただけじゃ。中身がどうした。あの坊やが半年通いつめたのは、その『中身』にじゃろうが」

 

「……違う。あいつが見てるのは、看板娘のメリルだ。中身を知ったら」

 

「知ったら、どうなると?」

 

「……幻滅するに、決まってる」

 

「ほう。試しもせんで、相手の答えまで決めてやるのか。ずいぶんと親切な商売じゃの」

 

ぐ、と喉が詰まった。営業二課の佐々木が一番嫌いだった台詞を、婆ちゃんは正確に撃ち込んできた。――客の返事を勝手に決めるな。断られてから諦めろ。後輩に、何百回言った台詞だった。

 

「……婆ちゃん、俺は」

 

言いかけたときだった。

 

連鐘が鳴った。二短一長、二短一長――先日より、ずっと激しく。何度も、何度も。

 

「北門が危ない! 大型種、第二防衛線突破!」

 

外の誰かが叫んだ。雨の音より大きい。俺はカウンターの下から、止血と蘇生の薬を箱ごと引っ張り出した。手は震えない。震えてたら、婆ちゃんに三つ数えさせられる。

 

大型種が、防衛線を抜けた。騎士団、総出撃。

 

窓の外を、鎧の足音が駆けていく。雨を蹴散らして、北へ、北へ。

 

俺は、雨の向こうに消えたばかりの背中を思った。喧嘩別れのまま戦場に行かせた馬鹿がいる。ここに、いる。

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