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「先生。こちらが本日最後の書類です。どうかお目通しと決裁を」
「うん、ありがとう。今日は現地の仕事は入っていたかな?」
「この後は七神首席行政官とのミーティングも兼ねた会議が行われる予定ですが、そちらはオンラインですので外出のスケジュールはございませんよ」
そんな言葉と共にチサトは先生の机に新しいティーカップを差し出し、ふわりと香るダージリンが先生の鼻腔をくすぐる。この香りは先生にとっての仕事に区切りがついた合図となっており、最後の書類に目を通した後にふっと肩の力が半ば勝手に抜けていく。
チサトが派遣されて一週間ほど経ち、先生は仕事のほぼ全てをチサトに管理されていた。その日に処理すべき書類、休憩のタイミング、果てはその日の外回りスケジュールまで。初めこそ任せることに抵抗感を求めていた先生も、その結果生まれる余裕のお陰で突発的な事案にも対応できるようになり何も言えなくなった。
「七神行政官は事務処理能力が常人離れしていますが、それに無自覚なきらいがあります。だからこそ『このくらい』のハードルが高すぎ、結果として他人の机に書類の山を積むことになってしまうのです」
書類の送り主の事務処理能力を賞賛しているようで言外に常識が分からない人間であると言い切ったチサトに、先生はうっすらと思い始めていた。
(この子、相当口が悪いな)
「能力や権力を持った人間はそれを自覚した上でその力を振るう義務があります。己が持ちうるを知り、また他人が持たぬ事を知る必要はあるかと」
「ノブレス・オブリージュみたいな感じかな?」
「いえ、他者の為に奉仕することを強いるべきではありません。それはきっと正しいでしょうが、力がある者が他人のために動く能力があるとは限りません」
力あるものがそれを自覚する事を義務として求め、しかしそれを大衆の為に用いることを是とする訳でもない。一見すると矛盾のようにも見えるチサトの意見だが、先生はその言葉に納得していた。生徒本人が望まぬ形で祭り上げられるのは先生としても決して望むところではない。
「チサトは、優しいんだね」
「決してそのような事なありません。先程の言葉は、私にとっての戒めです」
「でも私にとって、その言葉は救いになる」
「……好きに解釈なさって下さい。私は一度下がらせていただきます。会議までには戻りますので」
「あっ、ちょっと待ってチサト」
立ち去ろうとするチサトの手に、先生が慌てて一枚の紙を握らせる。怪訝そうな顔をしながら受け取った紙は彼女自身が最後に手渡した書類だった。そこには先生のサインと、承認の部分に印が押されている。
その内容は当然チサトも知るところであり、それがどういう事態を招くのかも理解できる。先生だってそれは当然理解しているはずであり、そこから導かれる答えは。
「畏まりました、資料をまとめておきます。ですが、この後七神行政官を納得させるのは先生ご自身で行って下さいね」
「こっちは任せて。そっちは宜しく、チサト」
◇
時間は過ぎていき、会議の時間になった。パソコンの前に座る先生と、その後ろで手を前で重ねるように組み立っているチサトが見つめる画面に、連邦生徒会首席行政官である七神リンが投影される。
『こちらの姿が見えますか?先生』
「うん、大丈夫だよリンちゃん」
『リンちゃんはやめてください……!まぁいいです。本日は貴重なお時間をいただき有難う御座います』
丁寧頭を下げた後、リンは鋭い視線を先生の後方に向けた。その表情は、言葉にされなくてもその感情を雄弁に語っている。
『それで、早速なのですが──何故彼女が
「おや、
『そういう意味ではありません。直接言わねば伝わりませんか?貴女がこの会議にいるという事がどの様な意味を持つのかを』
「今の私はシャーレ専属であり、トリニティのティーパーティーとは切り離されておりますので」
開幕からの言葉の応酬に、先生は口を挟むことができなかった。普段より三段階ほど冷たくなったリンの言葉とは対照的に、チサトはいつも通りの言葉で淡々と事実を述べていく。
『では問いますが、貴女がトリニティ総合学園となんの繋がりも無いことをどのように証明するのですか?』
「これはこれは、生徒会の行政官とあろう者が悪魔の証明をお望みですか?大体、貴女達だってキヴォトスという大きな単位で見た時にただの一機関に過ぎない。だというのにどの様な権利で先生の傍付きを決めるのですか?」
『先生の所属は
「そのように秘密主義な体質を改善できずにここまで来ているからイマイチ他校からの信任が集まらないのでしょう」
『それはトリニティとて同じ事でしょう』
「その通りです。私はトリニティも連邦生徒会も平等に信じていませんし平等に嫌いです」
『っ!!貴女はっ……!!』
二人の論点はそもそも初めから噛み合っていない。自身にトリニティとの繋がりがない事を証明したいチサトと、繋がりがある事の証明を前提としたリンでは、どうあってもチサトに内通がある可能性が残る。無いことを証明することはある事を隠し通すよりも難しい。
そして、その様な可能性は大なり小なり先生の心に影を落とし、今後に差し障る。チサトはこの場で、その可能性を完全に潰し切ることを決めた。
「七神行政官、これが何か分かりますね?私のスマホです」
『?突然何を──なっ?!』
「チサト?!」
リンの注目を集めた後、チサトは自身の掌に収まる縦長い機械をその手で躊躇なく握り潰した。形容しがたい音と同時にその下半分がチサトの手から零れ落ち地面で音を立てた。
「おっと、残してはいけませんね」
そしてその半分にも躊躇のないチサトの踵が突き刺さり、チサトのスマートフォンは跡形もなくなった。
リンは愚か、先生までも二の句が告げずにいる中、何時用意したのかチサトは掃除機で床の破片を全て吸い取っていく。
手に残る破片も掃除機に吸わせて立ち上がった後、チサトは画面に目を向けてその奥にいるリンと目を合わせる。
『いいですか、連邦生徒会の七神リン首席行政官。私は確かにホストである桐藤ナギサ様より命を賜っています。先生の行動の真意を知り、その奥にある真の目的を暴けと』
画面の奥にいる少女が突然切ってきた高火力のカードに、リンの目が見開かれる。リンは、ここまで比較的落ち着いて問答を進めてきた。
スマートフォンの破壊という暴挙を見て動揺こそしたものの、それをパフォーマンスとした情報漏洩の不可能性を説いてくると考えていた。
リンにとって、この論争の目的は目の前の少女の排斥ではない。そもそもチサトは公式な手順を踏んでシャーレの所属になっており、それはつまるところ連邦生徒会の決定であり、当然行政官の認可するところである。
リンの目線から見てもチサトは事務に外交、戦闘まで極めて高精度でこなせる優秀な生徒である。その様な存在が先生の補佐をするというトリニティからの提案は、例え多くのリスクを孕んだとしても連邦生徒会長不在の今となっては許容すべき、内心としては諸手を挙げて歓迎したい程の案件だ。
だが、情報漏洩リスクの全てを許容するわけにはいかない。その為考えついた折衷案が、先生の奥底にチサトへの警戒心を埋め込んでおく事だった。お人好しの先生がほんの一ミリの疑念をチサトに見てくれればそれで十分であると。
だからこそチサトがなんの躊躇いもなく真の目的を語ったことに驚き、そして自身の失敗を悟った。
『連邦生徒会長の不在、そして先生の着任とスムーズな権利の移管。まるで仕組まれたかのようなそれらの案件に対してナギサ様は不信感を抱き、それ故に私を派遣したのです。信頼に値しない人間を今後トリニティに関わることは許容出来ない。我々は盟友たる連邦生徒会に、先生を信用させて欲しいのです』
更に畳み掛けられた言葉は、リンとしても回答の難しい部分であった。他校への干渉は先生の意思一つで決定されるし、その際には各校のトップと認識を擦り合わせなければならない。そしてその為には、先生がその学校からの信任を受ける事が必要になる。
連邦生徒会に所属しているという一点だけでも警戒されるには十分であり、それ故に本来その事は学園側にはなるべくなら認識されたくないだろう。だが、リンは先程先生の所属を明確にしてしまっている。
目の前にいるこの少女に確約させられている以上、連邦生徒会はトリニティの事情に深入りしないわけにはいかず、それには連邦生徒会がトリニティからの信頼を勝ち取ることが、たった今のやりとりによって必須に
そうして、暫くの沈黙。どう切り返すかを考えた後にリンの口から出たのは敗北宣言だった。
「……どうやら私は貴女を見誤ったようですね、香黒チサトさん」
『まだ続けますか?七神行政官』
「いえ、不要です。会長と対等に渡り合える相手に私が舌戦で挑むのは無謀な話でしたね」
『互いに少し頭を冷やしましょう。会議の本筋はその後に』
「……正直、助かります」
10分後に再開する旨を互いに決め、ビデオをオフにする。しっかりとマイクまで切れていることを確認した後リンは脱力して天井を見上げる。
「……なんで今出てきてしまったのですか、チサト」
憂いと悲しみ、そしてほんの僅かな喜びが綯い交ぜになった複雑なリンの呟きは、誰にも聞かれることなく空気に溶けていった。
会う人皆の脳を焼いている、そんな主人公です