忘れたくないから、またアサガオを彼女に贈る。
特別で、日常だった彼女を、今日も思い出している。
ジョキン。
庭先の咲いたばかりのアサガオを一つ切って、彼女の仏壇の花瓶に挿す。
切り花としては不相応なのだろうが、夏を感じる彩りとしては最適だろう。
たった五年、けれども毎年やれば慣れてはくるものだ。
手を合わせ……目を瞑る。
……親の決めた結婚だった。
昔では珍しくもないのだろうが、最近では滅多にないことだろう。
病弱な彼女と、無愛想な私。
都合が良かった、ただそれだけだった。
彼女のことをニコニコと愛想笑いを続けている言いなりの人間なのだと感じて、愛すことなどないと思っていた。
……縁を繋ぐためにされた結婚だ、両家が繋がれればそれでよかった。
彼女は……彼女は全くと言っていいほどに泣かなかった。
それどころか、一度も笑わなかった私にずっと、ずっと笑いかけてくれた。
……一度だけ、一度だけ声を上げて泣いた時があった。
彼女の祖母が死んだ時だ。
私の腕を強く掴んだまま、泣いていた。
次の日には目元を腫らしたまま、祖母の葬式を終えて、またいつもの笑顔に戻っていた。
……強い、強い人だと、芯のある人間だと、思い直した。
だが意志の強さに反して病弱という事実は覆らなかった。
二十を超えたところからそれは顕著になっていった。
……少しずつ、少しずつ寝たきりで過ごすことが多くなっていった。
『あなたにたくさん思い出を残したいの』と、力ない……いつもの笑顔で口癖のように言っていたのをよく覚えている。
父は……いや、あれはもう父ではないが、あの人は寝たきりの彼女に対して、『もはや使い物にならない、離婚し縁を切れ』……と言い放った。
私は初めて激昂した、頬に一撃をくれてやったが気分は晴れなかった。
何度も言い合った末に、二度とお前を親などと思うか、敷居を跨ぐこともない……と言い放ったことだけは覚えている。
……彼女はそれを聞いて驚いた顔をして少し泣きながらいつも以上に笑っていた。
いつしか病院に通う回数が減った。
もう治らないのだから、家で過ごしたいと。
彼女からの願いだった。
仏壇のある部屋は、好んで過ごしていた日のあたりのいい縁側がある部屋だった。
……その夏の日は、随分と暑かったからよく覚えている。
呼吸は荒く、いつもの笑顔は少しも見られなかった。
急いで呼んだ医者には、今夜が山だと言われた。
……ひどく、自分の彼女の運命を呪ったものだった。
けれど朝は来る。
彼女は……彼女は驚くほど元気だった。
いつもの笑顔を振りまいて、それどころか寝たきりよりも元気ですらあった。
『どうしてもやりたいことがあるの! 元気なうちにやらなきゃ!』と。
私の制止を無視して庭先にプランターを置いて、種を植えた。
何かと問えば『アサガオ!』ととびきりの笑顔で答えた。
『あなたが寂しくないように、私みたいな花を植えたかったの』
曰く、少しの間しか花を開かないのが、まるで自分の人生のようだと。
……自虐に、顔は笑ったが心は少しも笑えなかった。
『あぁ、それはいい、君がまた眠った時、この花を君だと思うようにするよ』
『私はあなたに何も残せていないから、これだけはね』
言葉は途切れ途切れで、正しくは何と言っていたか覚えてはいないが、彼女の笑顔は今も瞼の裏に残り続けている。
……次の日、彼女は亡くなった。
穏やかで、いつもの顔で、まるで眠るように。
医者に悪態をついたのは、きっとそれが最後だった。
私の無愛想な仮面は、彼女の葬式の時も剥がれなかった。
火葬を終えて、壺の中に骨を入れる時……どうしようもないほどの悲しみに襲われた。
彼女の二十数年は、こんなにも軽いものであるはずがないと。
こんな腕に収まってしまうような小さな壺にすら満たないはずはないと。
壺を抱えたまま立ち尽くした。
彼女の両親からゆっくりと頭を撫でられ、初めて仮面が崩れ去った。
私は、私はこんなにも彼女を愛していたのだ。
涙がとめどなく溢れ、息をするのもずっと苦しい。
涙と共に流れ出たように、世界がすっかり色彩を失ってしまった。
そのまま、何も感じないまま……ただ、ただ漫然に生き続けた。
彼女の命日に、甘い香りを嗅いだ。
庭先の、アサガオの香りだった。
アサガオの香りはかなり弱いはずだったが、確かにそう感じた。
ゆっくりと立ち上がって、アサガオの花を一つ切り取り、仏壇に置いていた椀の中に浮かべた。
胸が、ひどく熱くなった。
彼女がアサガオなものか。
彼女は向日葵だ、太陽のように私を照らしてくれていた。
彼女は桜だ、私を魅了し暖かさを届けてくれた。
彼女は薔薇だ、彼女の笑顔や立ち振る舞いは凛としていて何も変え難かった。
彼女は、彼女は……アサガオだった。
彼女がいることがいつしか当たり前で、夏空の下では……当たり前に咲いている、日常であったのだ。
なにが私に何も残さない、だ。
彼女は私に未練や悔恨ばかり残していった。
けれど確かに、少しの優しさも残していった。
……目を開けてゆっくりと縁側に座り込む。
すっかり大きくなったアサガオの花たちが、風に吹かれ……少しだけ揺れた。