タイトルだけを見ると刺激的な内容を想像されるかもしれませんが、本作は性犯罪そのものを描く作品ではありません。
描きたいのは、「重大な罪を犯し、更生した人間は教育者になれるのか」という、一つの倫理的な問いです。
先生を擁護するための物語でも、断罪するための物語でもありません。
賛成派にも反対派にも、それぞれ譲れない理由があります。
誰かを論破することではなく、それぞれの価値観がぶつかり合う討論劇として描いていきます。
読者の皆様にも、「自分ならどう考えるだろう」と思いながら読んでいただけたら幸いです。
それでは、『先生はロリコンでした』第一話をお楽しみください。
朝のキヴォトスは、いつも少しだけ騒がしい。
それは不穏という意味ではない。
学園都市としての、当たり前の騒がしさだった。
通学路を駆けていく生徒たち。
購買の前で朝食代わりのパンを選ぶ生徒。
昨日の課題を忘れたと叫びながら、友人のノートを借りようとする生徒。
治安維持の名目で巡回する委員会。
その横を、何事もない顔で違反ギリギリの速度で走り抜ける便利屋まがいの車両。
混沌。
だが、いつもの混沌だった。
キヴォトスでは、それが日常だった。
銃声が遠くで鳴っても、爆発音が聞こえても、生徒たちは少し顔を上げるだけで、すぐに自分の朝へ戻る。
そういう街だった。
そういう世界だった。
その日も、最初は変わらなかった。
トリニティ総合学園では、澄んだ鐘の音が校舎へ響いていた。
ミレニアムサイエンススクールでは、登校した生徒たちが端末を片手に研究棟へ向かっていた。
ゲヘナ学園では、風紀委員会の巡回ルート上で早くも小さな騒ぎが起きていた。
アビドス高等学校では、砂の混じる風が校舎の窓を軽く叩いていた。
いつもの朝。
いつものキヴォトス。
そのはずだった。
最初に異変に気づいたのは、誰だったのか。
それは分からない。
ただ、ひとつの通知音が鳴った。
次に、別の端末が震えた。
さらに数秒遅れて、別の場所で誰かが画面を見つめた。
小さな波紋だった。
だが、その波紋はあまりにも速く広がった。
『【速報】シャーレ所属教師の過去に関する報道』
その見出しが、キヴォトス中の端末に表示された。
最初は、ただの噂話のように見えた。
先生についての話題は、珍しくない。
どこかの学園を救った。
また面倒事に巻き込まれた。
今度はどこの自治区に顔を出した。
そんな話なら、キヴォトスでは日常茶飯事だった。
だが、その記事は違った。
次に表示された文字を見た瞬間、多くの生徒が言葉を失った。
『教育者として活動する人物に、有罪判決歴』
『刑期は満了。更生プログラム修了済み』
『現在まで再犯歴は確認されず』
そして。
『幼い未成年者に対する重大な性犯罪で有罪判決』
その一文だけが、画面の中で異様な重さを持っていた。
事件の詳細は書かれていない。
犯行内容の説明もない。
被害の描写もない。
ただ、判決があったという事実だけが、冷たい文字列として置かれていた。
それだけで十分だった。
十分すぎた。
「……え?」
どこかの通学路で、ひとりの生徒が足を止めた。
隣を歩いていた友人が振り返る。
「どうしたの?」
答えは返ってこない。
代わりに差し出された端末の画面を見て、その友人もまた黙り込んだ。
沈黙は伝染する。
通学路の一角で足が止まる。
教室でざわめきが生まれる。
カフェテリアで会話が途切れる。
研究室でキーを叩く音が止まる。
最初は、誰も信じなかった。
「嘘でしょ」
「先生が?」
「デマじゃないの?」
「誰かが悪質な記事を出しただけじゃない?」
「でも、連邦生徒会が確認中って書いてある」
「確認中って、否定じゃないの?」
疑問。
否定。
困惑。
怒り。
恐怖。
感情は一つではなかった。
だからこそ、収拾がつかなかった。
数分後、記事は複数のニュースサイトに転載された。
それを誰かがスクリーンショットにして投稿した。
誰かが短い動画にまとめた。
誰かが見出しだけを切り取った。
誰かが、まだ確認もされていない憶測を足した。
真実よりも速く、言葉だけが走っていく。
情報は、いつもそうだ。
人間の理性より足が速い。
キヴォトスの通信網は優秀だった。
優秀すぎた。
こういう時に限って、実に仕事熱心だった。
◇
シャーレ。
その建物の中だけは、まだ静かだった。
外のざわめきが厚い壁の向こうで遠く揺れているように感じられる。
執務室の机には、整理された書類が並んでいた。
未処理の案件。
各学園からの相談。
治安維持に関する報告。
イベント開催の許可申請。
先生が普段向き合っている日常の断片が、いつも通りそこにあった。
けれど、その日常はもう、同じ意味を持っていなかった。
先生は机の前に座っていた。
端末には、例の記事が表示されている。
画面の明かりが、先生の表情を淡く照らしていた。
記事を読み終えても、先生はしばらく動かなかった。
驚いた様子はない。
怒りもない。
取り乱すこともない。
ただ、そこにあったのは静かな疲労だった。
長い間、胸の奥に沈めていた石が、ようやく水面へ浮かび上がってきた。
そんな表情だった。
やがて、端末に新しい通知が届く。
差出人は連邦生徒会。
本文は短かった。
『至急、本部へお越しください。』
先生はその一文を見つめる。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
いつか、この日が来るかもしれない。
そう思っていなかったわけではない。
過去は消えない。
刑を終えても。
更生プログラムを修了しても。
新しい場所で、誰かのために働いたとしても。
過去がなかったことになるわけではない。
罪は、時間で消えるものではない。
先生はそれを知っていた。
誰かに言われるまでもなく。
誰かに責められる前から。
自分が一番よく知っていた。
机の端には、生徒たちから贈られたものがいくつも置かれている。
小さな手紙。
簡単なメモ。
少し不格好な折り紙。
記念写真。
事件が解決した後に渡された感謝の言葉。
相談に乗った後、照れくさそうに置いていかれたお礼。
それらは、キヴォトスで先生が積み重ねてきたものだった。
確かにあった日々。
確かに救った生徒たち。
確かに向き合ってきた問題。
だが、それらの一つひとつが、過去の罪を消すわけではない。
先生は手紙に触れなかった。
触れれば、何かを言い訳にしてしまいそうだった。
自分はこんなにも感謝されている。
自分はこんなにも必要とされている。
だから許されてもいいはずだ。
そんな考えが、ほんのわずかでも胸をよぎることを、先生は自分に許さなかった。
静かに立ち上がる。
上着を整える。
机の上を一度だけ見た。
そして、扉へ向かう。
その途中で、端末がまた震えた。
通知は増え続けていた。
生徒からの連絡。
未読のメッセージ。
着信履歴。
そのどれにも、先生は返事をしなかった。
今、何を言っても言い訳になる。
何を言っても、誰かの判断を歪める。
だから、沈黙するしかなかった。
先生は扉を開けた。
廊下の先は、いつもより長く見えた。
◇
同じ頃。
トリニティ総合学園。
白く美しい校舎の一角で、空気が凍っていた。
普段なら朝の祈りや授業準備で慌ただしい時間帯。
しかし、その日は違った。
生徒たちの視線は黒板でも教科書でもなく、それぞれの端末に向けられていた。
誰かが小さく息を呑む。
誰かが手で口元を押さえる。
誰かが、信じられないという顔で画面を何度も読み返す。
「先生が……?」
その声は、教室の中でやけに大きく響いた。
別の生徒が、すぐに首を振る。
「違うよ。きっと何かの間違いだよ」
「でも、記事が一つじゃない」
「連邦生徒会も確認中って」
「確認中なだけでしょ。まだ決まったわけじゃない」
そう言いながらも、その声には力がなかった。
信じたい。
否定したい。
だが、表示された言葉は消えてくれない。
正義実現委員会の一部にも、すでに情報は届いていた。
補習授業部の周辺にも、不安は広がっている。
誰かが先生に救われた話をした。
誰かが、それでも怖いと言った。
誰かが、今は黙っていた方がいいとつぶやいた。
トリニティらしい静けさは、そこにはなかった。
表面上は整っている。
だが、その奥で感情が乱れていた。
祈りの言葉すら、今日は遠く感じられた。
◇
ミレニアムサイエンススクール。
こちらの反応は、トリニティとは少し違っていた。
驚きの後、すぐに情報の検証が始まった。
ニュースソース。
公開記録。
時系列。
報道の出所。
記事の文体。
拡散経路。
生徒たちは、それぞれの端末で情報を追っていた。
「これ、最初の投稿はどこ?」
「判決記録って本物?」
「改ざんの可能性は?」
「いや、複数メディアが同時に出してる」
「連邦生徒会が否定してない時点で、少なくとも完全なデマではないかも」
冷静に見える。
だが、冷静さは安心を意味しない。
むしろ、情報を集めれば集めるほど、逃げ道が狭まっていく。
合理性は、ときに残酷だ。
数字と記録は、感情に配慮してくれない。
セミナーにも、報道は届いていた。
そこではまだ、誰も大声を出していなかった。
ただ、空気は張り詰めていた。
情報を整理する音だけが、室内に響いている。
キーボードを叩く音。
資料を開く音。
短く交わされる確認の声。
感情を後回しにして、まず事実を見る。
ミレニアムらしい反応だった。
そして、その事実が重すぎた。
◇
ゲヘナ学園。
混沌を愛するようなこの学園でさえ、その知らせは笑い話にならなかった。
最初に騒ぎ出した生徒たちは、すぐに声を潜めた。
冗談にするには、あまりにも重い。
煽るには、あまりにも危うい。
風紀委員会にも、速報は共有されていた。
いつもの違反報告とは違う。
爆破騒ぎでも、校則違反でも、無許可営業でもない。
教育者としての信頼に関わる問題。
その言葉だけで、空気が変わる。
「先生が?」
「まさか」
「でも、これ……」
言葉が途中で止まる。
誰も、最後まで言い切れない。
先生の功績を知らない者はいない。
ゲヘナでも、先生に助けられた生徒はいる。
先生にしか止められなかった騒動もある。
先生がいたから、救われた場面もある。
それでも。
教育者として。
生徒の前に立つ大人として。
その過去を、どう考えればいいのか。
ゲヘナの騒がしい朝にも、答えはなかった。
◇
アビドス高等学校。
砂の風が、古い窓を鳴らしていた。
対策委員会の部室には、いつもより早く集まった生徒たちがいた。
端末の画面を見つめる沈黙。
それだけで、何が起きているのか分かる。
誰もすぐには話さなかった。
アビドスにとって、先生はただの外部協力者ではない。
学校が傾きかけた時。
借金に押し潰されそうだった時。
どうにもならないと思った時。
先生は、そこにいた。
助けてくれた。
手を伸ばしてくれた。
その記憶は、簡単には消えない。
だが、記事の文字も消えない。
画面の中の一文は、何度閉じても頭から離れない。
「……嘘、だよね」
誰かが小さく言った。
その言葉に、すぐ答える者はいなかった。
嘘だと言いたい。
間違いだと言い切りたい。
けれど、まだ何も分からない。
いや、本当は少し分かっている。
連邦生徒会が確認中と出した時点で、完全な作り話ではない可能性が高い。
それが分かるから、苦しかった。
アビドスの部室に、砂の音だけが響く。
何度も危機を乗り越えてきた場所。
笑い合った場所。
作戦を立てた場所。
先生を信じてきた場所。
その空間で、誰も答えを出せずにいた。
◇
報道から一時間。
キヴォトスは、もう普段通りではなかった。
授業は始まっていた。
巡回も行われていた。
研究も、委員会活動も、学園ごとの日常も続いていた。
だが、表面だけだった。
誰もが同じ話題を避けていた。
避けながら、考えていた。
先生は本当に罪を犯したのか。
刑を終えているなら、それでいいのか。
更生した人間を、社会は受け入れるべきではないのか。
でも、教育者は別ではないのか。
生徒の前に立つ大人として、それは許されるのか。
先生に救われた自分たちは、どう考えればいいのか。
怖いと思うことは、先生への裏切りなのか。
信じたいと思うことは、被害を軽んじることなのか。
問いだけが増えていく。
答えはどこにもない。
キヴォトスは、答えのない朝を迎えていた。
◇
シャーレの廊下を歩く先生の足音は、やけに小さかった。
誰もいないはずの建物が、今日は人の気配を失ったように感じられる。
壁に貼られた予定表。
生徒たちと撮った写真。
処理途中の依頼一覧。
すべてが、昨日までとは違って見えた。
先生は歩きながら、一度だけ端末を取り出した。
未読の数は増えている。
名前が並んでいた。
ミカ。
ヒフミ。
ユウカ。
ホシノ。
セリカ。
ヒナ。
他にも、多くの生徒たち。
短いメッセージが通知欄に浮かんでいる。
『先生、この記事って』
『何かの間違いですよね?』
『今どこにいますか』
『返事ください』
先生は画面を見つめた。
そして、端末を閉じた。
返事をする資格が、今の自分にあるのか分からなかった。
いや。
分からないのではない。
今は返事をするべきではないと、分かっていた。
自分の言葉は、生徒たちを縛る。
先生が「信じてほしい」と言えば、信じたい生徒は苦しむ。
先生が「すまない」と言えば、救われた生徒は自分の感謝まで否定されたように感じるかもしれない。
どちらにしても、先生の言葉は重すぎる。
だから沈黙する。
それが正しいのかどうかは分からない。
けれど、少なくとも今は、自分のために言葉を使うべきではなかった。
玄関へ向かう途中、先生は足を止めた。
窓の外には、いつものキヴォトスが広がっている。
しかし、その街のどこかで、今この瞬間にも自分の名前が語られている。
信じる声。
責める声。
戸惑う声。
恐れる声。
そのすべてに、先生は何も返せない。
やがて、先生は再び歩き出した。
連邦生徒会本部へ向かうために。
自分の過去から、もう逃げないために。
◇
その日、キヴォトスでは数えきれないほどの会話が交わされた。
「刑期は終わってるんでしょ?」
「でも教育者だよ」
「先生に助けられた人はどうなるの?」
「それとこれは別じゃない?」
「更生した人を全部拒絶したら、社会復帰なんてできないよ」
「でも、生徒が怖がるなら無理だよ」
「怖いって言ったら、先生を否定することになるの?」
「信じるって言ったら、過去を許すことになるの?」
誰もが、言葉に詰まった。
簡単な善悪なら、どれほど楽だっただろう。
悪人なら追い出せばいい。
英雄なら守ればいい。
だが、先生はそのどちらにも収まらなかった。
罪を犯した過去がある。
刑を終えている。
更生プログラムも修了している。
再犯歴はない。
そして、キヴォトスで多くの生徒を救ってきた。
その事実の並びが、人々を苦しめた。
どれか一つなら、まだ判断できたかもしれない。
だが、すべてが同時に存在していた。
だから、誰も簡単に答えを出せない。
キヴォトスの朝は、いつものように始まった。
けれど、もう誰も昨日と同じ目で先生を見ることはできなかった。
その変化だけは、取り返しがつかなかった。
◇
連邦生徒会本部の前に、先生が到着したのは昼前だった。
建物の前には、すでに数人の記者が集まっている。
遠巻きに端末を向ける者。
何かを話しかけようとして、警備に止められる者。
先生の姿を見た瞬間、小さなどよめきが起こった。
「先生!」
「報道は事実ですか!」
「連邦生徒会との協議内容は!」
「キヴォトスの生徒に説明するつもりはありますか!」
声が飛ぶ。
先生は立ち止まらなかった。
表情を変えず、建物の入り口へ向かう。
質問に答えない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、歩く。
それがまた、周囲のざわめきを大きくした。
沈黙は、ときに言葉よりも多くの意味を勝手に背負わされる。
人は空白を見ると、そこに自分の不安を詰め込む。
実に面倒な生き物である。
先生は何も言わず、連邦生徒会本部へ入った。
扉が閉まる。
外の声が、少しだけ遠のく。
本部内の廊下は静かだった。
案内の生徒が、硬い表情で一礼する。
「こちらです」
先生はうなずいた。
その声にも、顔にも、動揺は隠しきれていなかった。
当然だった。
目の前にいるのは、キヴォトスを救ってきた先生。
そして、今朝報道された過去を持つ人物。
その二つが同じ人間であることを、まだ誰も受け止めきれていない。
先生は案内に従い、会議室へ向かう。
扉の前で、生徒は一度足を止めた。
「……リン行政官がお待ちです」
「ありがとう」
先生はその日、初めて声を発した。
短い礼だけだった。
それ以上の言葉はなかった。
案内の生徒は目を伏せる。
先生は扉を開けた。
会議室の中には、リンとモモカが待っていた。
リンは席を立たない。
ただ、静かに先生を見た。
モモカは端末から顔を上げる。
数秒間、誰も話さなかった。
やがてリンが口を開く。
「お越しいただき、ありがとうございます。先生」
その声はいつも通り冷静だった。
だが、冷たくはなかった。
「本日報道された件について、確認を行います」
先生は席に着く。
「はい」
短い返事。
リンは資料を開いた。
「報道にある判決歴は、事実ですか」
会議室の空気が、少しだけ重くなる。
先生は目をそらさなかった。
「事実です」
リンの指が、資料の上で止まった。
モモカは何も言わない。
先生は続けない。
言い訳も。
説明も。
事情も。
弁明も。
何も足さない。
リンは数秒置いてから、次の問いを口にした。
「刑期を満了していること、更生プログラムを修了していること、キヴォトス着任後に再犯歴がないことも、事実で間違いありませんか」
「はい」
「分かりました」
リンは資料へ視線を戻す。
事実は確認された。
それでも、何も終わらない。
むしろ、ここから始まる。
リンは静かに告げた。
「連邦生徒会は、キヴォトス特別教育審議会を設置します」
先生は黙って聞いていた。
「議題は一つです」
リンは、先生を見る。
「先生を、教育者として留任させるべきか」
その言葉が、会議室に落ちた。
先生は目を伏せない。
驚きもしない。
ただ、深く息を吸った。
「分かりました」
「審議会の結論には従います」
リンの表情が、わずかに動いた。
「ご自身から、何か申し立てはありますか」
先生は少しだけ沈黙した。
そして、首を横に振った。
「ありません」
「私は、過去の罪を否定しません」
「刑を終えたことと、信頼を取り戻したことは別です」
その声は静かだった。
だからこそ、重かった。
「審議会で判断してください」
「私は、その結論を受け入れます」
会議室に、長い沈黙が落ちた。
リンは何かを言いかけ、やめた。
モモカは端末を見つめたまま、指を動かさない。
誰も、先生を慰められない。
誰も、先生を責めきれない。
そして誰も、この場で結論を出せない。
だから、審議会が開かれる。
キヴォトス全体を巻き込んで。
ひとりの教師をめぐる問いが、今、正式に議題となった。
その日の朝、速報として始まった出来事は、もう単なる報道ではなかった。
それは、キヴォトスが初めて向き合うことになる問いだった。
罪を償った人間は、教育者であり続けられるのか。
救われた記憶は、失われた信頼を補えるのか。
更生を認めることと、生徒を預けることは同じなのか。
誰も、まだ答えを持っていなかった。
先生自身でさえも。
連邦生徒会本部。
会議室を出た先生は、案内された控室で一人静かに座っていた。
窓の外には、いつもと変わらぬキヴォトスの街並みが広がっている。
高層校舎。
飛び交う輸送ドローン。
行き交う生徒たち。
その景色は昨日までと何一つ変わらない。
変わってしまったのは、その景色を見る人々の心だけだった。
先生は窓の外を見つめたまま、何も考えないようにしていた。
考え始めれば際限がない。
「あの時、別の生き方を選んでいたら。」
「もっと早く罪を償えていたら。」
「この日を避けられただろうか。」
そんな問いに答えはない。
答えがない問いを繰り返すことは、自分のためにも、生徒たちのためにもならない。
だから先生は、静かに待った。
審議会の開催を。
そして、自分に下される結論を。
◇
その頃。
連邦生徒会では慌ただしく準備が進められていた。
モモカは大型モニターへ各学園の反応を映し出していく。
「現在、主要学園はすべて報道を把握しています。」
「SNSでは賛成、反対、保留、さまざまな意見が飛び交っています。」
「情報の拡散速度は依然として上昇中です。」
リンは黙って資料を読み続ける。
ページをめくる音だけが会議室に響く。
「行政官。」
モモカが口を開いた。
「公開討論にする必要は、本当にあるのでしょうか。」
リンは顔を上げる。
「非公開で結論だけ発表することもできます。」
「ですが、それでは納得する者と納得しない者が必ず現れます。」
「今回の問題は、結論だけでは終わりません。」
「結論へ至る過程そのものが必要です。」
モモカは静かにうなずいた。
確かにそうだった。
どちらの結論になっても、必ず反発は生まれる。
だからこそ、議論そのものを公開する。
それが連邦生徒会の出した答えだった。
リンは一枚の書類を机へ置く。
表紙には大きく記されていた。
『キヴォトス特別教育審議会』
その下には議題が一つ。
『先生を教育者として留任させるべきか』
短い一文。
しかし、その重さはキヴォトス全体を揺るがすには十分だった。
「招集状を送ります。」
リンが静かに告げる。
「各学園代表へ。」
「討論は三日後。」
「全校へ公開配信します。」
モモカは一瞬だけ息を止めた。
もう後戻りはできない。
◇
トリニティ総合学園。
ティーパーティーの部屋にも、正式な招集通知が届いた。
封筒を開いたミカは、黙って書類へ目を通す。
そこには簡潔な文章だけが並んでいた。
『特別教育審議会への出席を要請します。』
『議題 先生を教育者として留任させるべきか』
部屋は静まり返る。
誰も軽々しく口を開けない。
ミカはゆっくりと書類を閉じた。
「……先生。」
その一言には、様々な感情が混じっていた。
信じたい。
助けたい。
でも。
過去が消えるわけではない。
それも理解している。
だから苦しい。
「私は……。」
言葉は続かなかった。
初めて、自分の想いだけでは届かない問題なのだと理解した。
◇
同じ頃。
補習授業部。
ヒフミもまた記事を何度も読み返していた。
「先生……。」
頭に浮かぶのは、一緒に過ごした日々ばかりだった。
困っている時に差し伸べられた手。
励ましてくれた言葉。
笑顔。
全部、本物だった。
だからこそ。
画面に映る過去を、どう受け止めればいいのか分からない。
「信じたいです。」
ぽつりと漏れた声。
「でも……。」
その先が出てこない。
怖いと思う人を責めることもできない。
自分自身も、完全に迷いがないわけではなかった。
ヒフミは両手で端末を握り締める。
答えがほしかった。
誰かの答えではない。
自分自身が納得できる答えを。
◇
ミレニアムサイエンススクール。
セミナー。
ユウカは招集通知を読み終えると、小さく息を吐いた。
「……やっぱり。」
予想していた展開だった。
これほど大きな問題を、連邦生徒会が各学園抜きで決めるはずがない。
ノアが隣で資料を受け取る。
「公開討論ですか。」
「ええ。」
ユウカは腕を組む。
「感情だけで決められる問題じゃない。」
「でも、感情を無視しても決められない。」
その言葉にノアもうなずく。
「まずは事実を整理しましょう。」
「議論の前提を間違えれば、結論も歪みます。」
二人は互いに視線を交わす。
討論で必要なのは熱量ではない。
冷静さだ。
少なくとも、二人はそう考えていた。
◇
アビドス高等学校。
対策委員会。
ホシノは招集通知を読み終えると、机へ置いた。
「困ったねぇ。」
いつもの気の抜けた口調。
しかし、その声には疲れが滲んでいた。
セリカが言う。
「困ったじゃ済まないわよ。」
「こんなの……。」
言葉が詰まる。
「先生が助けてくれたことは本当。」
「でも。」
「怖いって思う人がいるのも、本当。」
ホシノは静かに窓の外を眺めた。
「おじさんはさ。」
「今日までの先生しか知らないんだ。」
「だから簡単には否定できない。」
「でも、それだけで残っていいとも言えない。」
部室に沈黙が落ちる。
誰も反論しなかった。
誰も正解を持っていなかった。
◇
ゲヘナ学園。
風紀委員会。
ヒナは報告書を閉じた。
「招集を受けます。」
短い返答。
部下たちは黙ってうなずく。
ヒナは窓の外を見つめる。
先生の功績は知っている。
誰よりも知っている。
それでも。
教育者という立場だけは、別だ。
その考えは揺るがない。
「私は。」
ヒナは静かに呟く。
「先生個人を憎んではいません。」
「ですが。」
「教育者は、生徒が安心して信頼できる存在でなければなりません。」
その言葉に私情はなかった。
責任だけがあった。
◇
同じ頃。
万魔殿ではマコトが通知書を読み終え、大げさに肩をすくめた。
「実に厄介な議題だ。」
芝居がかった口調とは裏腹に、その視線は真剣だった。
「更生を認めない社会は危うい。」
「だが。」
「教育という場だけは別だと考える者がいるのも理解できる。」
通知書を机へ置く。
「これは、一人の教師だけの問題ではない。」
「社会全体の問題だ。」
その場にいた誰もが、いつもの調子で笑うことはできなかった。
◇
その日の夕方。
連邦生徒会は全学園へ正式に通達を発表した。
『キヴォトス特別教育審議会開催』
『公開討論』
『議題 先生を教育者として留任させるべきか』
その一文は、朝の速報とは違う意味を持っていた。
もう噂ではない。
もう憶測でもない。
キヴォトスは、この問題から目を背けないことを選んだ。
誰かを吊し上げるためではない。
誰かを守るためでもない。
一人の教師をめぐる問いを、キヴォトス全体で考えるために。
そして、その知らせは静かに先生のもとへも届けられた。
先生は通知書を閉じる。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
覚悟は決まっていた。
逃げない。
言い訳もしない。
結論がどのようなものであっても、自分は受け入れる。
それだけだった。
数日後。
キヴォトス中が見守る討論の幕が、ついに上がろうとしていた。
けどお前イオリの足ペロペロしていたじゃんとか突っ込まないでください。
あくまで今作品の先生はきっとペロペロしないでなんとかしたんです。