(けどこいつらバンバン違法破壊行為とかするんだよな)とかちらついています。
セリカとミカが席へ戻ってからも、議場には長い沈黙が残っていた。
誰もすぐには資料を開かなかった。
先ほどまで交わされていた言葉を、自分の中へ収めるだけで精一杯だったのだろう。
先生への恩。
先生への恋。
誰かを大切に思う感情は、判断を曇らせるのか。
それとも、その感情があるからこそ、人は自分とは異なる意見から逃げずに考え続けられるのか。
結論は出なかった。
セリカもミカも、相手を説得することはできなかったし、自分の迷いを完全に整理することもできなかった。
それでも、議場の空気は質疑が始まる前とは明らかに違っている。
感情を持つこと自体が、公平さを失うことではない。
問題は、自分の感情を自覚しないまま、それを誰にでも通用する正しさとして扱うことだった。
自分は何に影響されているのか。
何を守りたくて、その答えを選ぼうとしているのか。
それを認めた上で、なお他者へ説明できる判断を探さなければならない。
扱いにくい話だった。
制度や記録なら分類できる。
賛成と反対なら数えられる。
だが、人の心は表計算の欄へ収まるほど行儀がよくない。実に非効率である。
もっとも、その非効率なものを無視して人間を判断すれば、残るのは数字だけだった。
リンは二人が着席したことを確認すると、手元の時計へ視線を落とした。
長く続いてきた審議にも、終わりは近づいている。
本日のうちに採決まで行う。
その予定に変更はない。
どれほど論点が増えても、時間まで増えるわけではなかった。
だからといって、議論を打ち切って採決へ進むこともできない。
午前中に示された立場と、今この場にいる代表者たちの考えが、同じとは限らないからだ。
たとえ答えそのものは変わっていなくても、他者の言葉を聞く前と後とでは、その答えが持つ意味は違う。
リンは静かに顔を上げた。
「ここで、審議の進行について確認します」
議場の視線が議長席へ集まる。
「本審議会は予定どおり、本日中に先生の教育者としての留任について結論を出します」
分かっていたことだった。
それでも、改めて言葉にされると空気が引き締まる。
意見を交わしている間だけは、採決はまだ遠いように感じられていた。
だが、誰もが今日中に一つの票を選ばなければならない。
逃げることはできない。
リンは議事進行表へ指を添えたまま続ける。
「ただし、これより行うのは採決ではありません」
「最終討論へ入る前に、各代表の現時点での立場を確認します」
小さなざわめきが起こった。
午前中にも、それぞれの考えは語られている。
しかし、その後に行われた相互質疑は、誰かの意見を単純に補強しただけではない。
賛成派は不安を知った。
反対派は、先生に救われた者たちの時間を知った。
制度を重視していた者も、感情を判断から完全に切り離せないことを知った。
感情を語っていた者も、それだけでは制度判断にならないことを知った。
今、同じ問いを向けられたとしても、午前中と同じ言葉だけで答えられる者は少ないだろう。
「回答は、賛成、反対、保留のいずれかとします」
リンは声の調子を変えない。
「必要であれば、簡潔に理由を付け加えてください」
「なお、ここで示した立場に最終採決まで拘束されることはありません」
何人かが顔を上げた。
リンは議場を見渡す。
「残る討論を受け、判断を変更することも認めます」
「一度示した立場を守ることより、最終的な一票へ責任を持つことを優先してください」
それは意見を変えろという命令ではない。
変えることを恐れるなという確認だった。
昨日の自分と違うことを言えば、節操がないと思われる。
だから人は、間違いに気付いても最初の意見へしがみつく。
何とも不便な自尊心である。
だが、この場で守るべきものは、各代表の体面ではない。
最後に示される結論の公正さだった。
リンは議事進行表へ視線を戻した。
「最初に、ミレニアムサイエンススクール」
「早瀬ユウカさん」
「はい」
ユウカは間を置かず立ち上がった。
机上の資料は午前中と変わらず整然と揃えられている。
筆記具の位置まで崩れていない。
だが、その表情には疲労が浮かんでいた。
長時間座り続けたせいだけではない。
先生への感謝と、教育機関として下すべき判断を、何度も同じ心の中で切り分けてきた結果だった。
リンが問いかける。
「現時点での立場をお願いします」
ユウカは、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬だけ先生を見る。
先生は何も求めていない。
残してほしいとも、反対するなとも言わない。
ただ、ユウカ自身の答えを待っている。
その姿を見てしまえば、決めていた言葉が重くなる。
それでも、ユウカは視線を議長席へ戻した。
「反対です」
声は明瞭だった。
迷いを隠したのではない。
迷った上で、答えを選んだ声だった。
「先生を教育者として留任させることには、現時点でも反対します」
「教育機関が維持すべき信頼、今後の前例、そして制度上の責任を考えれば、この結論を変えることはできません」
そこまでの内容に驚く者はいなかった。
ユウカは一貫して、先生個人への好悪ではなく、教育機関としての判断を重視してきた。
しかし、ユウカは一礼して席へ戻ろうとはしなかった。
「ただし」
その一言に、議場の視線が集まる。
「午前中の私とは、考え方が一つ変わっています」
ユウカはセリカとミカを順に見た。
「私は当初、制度判断へ感情を持ち込むべきではないと考えていました」
「今も、感情だけを理由に制度を変更するべきではないと思っています」
「ですが、感情を持つことと、感情に任せて判断することは同じではありません」
言葉を選びながらも、その内容にはユウカらしい整理があった。
「自分が誰に感謝し、何を失いたくないと思っているのか。それを無かったことにして判断すれば、公平になるわけではありません」
「むしろ、自分は感情に左右されていないと思い込む方が危険です」
ユウカは一度だけ息を整えた。
「私も先生に感謝しています」
制度や前例について述べていた時より、その声は小さかった。
「先生がいなくなることを、何とも思っていないわけではありません」
「それでも、反対します」
その答えは冷たくなかった。
だからこそ重い。
先生への感謝を切り捨てれば、反対することは容易になる。
しかしユウカは、その感謝を抱えたまま反対することを選んでいた。
「そして、この判断によって傷つく生徒がいることを、『制度だから仕方がない』という言葉で片付けるつもりもありません」
「制度を守る責任には、制度によって傷つく者を忘れない責任も含まれると思います」
ユウカは深く頭を下げた。
「以上です」
席へ戻る姿勢は崩れない。
だが、その背中には午前中にはなかった重さがあった。
同じ反対でも、意味は変わっている。
先生への信頼を失ったから反対するのではない。
先生へ感謝しながらも、教育者という立場には戻せないと判断している。
二つの気持ちを、どちらも捨てずに引き受けた結果だった。
リンは記録係へ視線を向ける。
「早瀬ユウカさん。反対」
ペン先が紙を擦る音が、静かな議場へ響いた。
採決ではない。
それでも、最初の立場が記録された瞬間、誰もが最終投票を意識せずにはいられなかった。
リンは次の名前を読み上げる。
「ゲヘナ学園」
「空崎ヒナさん」
ヒナは静かに立ち上がった。
外から見れば、午前中と何も変わっていない。
姿勢は整い、表情には大きな揺れがない。
疲労も迷いも、議事へ影響させまいと抑えている。
ヒナにとって責任とは、何も感じないことではなかった。
感じていても、必要な判断から逃げないことだった。
「現時点での立場をお願いします」
「反対です」
返答は短かった。
だが、ヒナもまた、そこで終わらなかった。
「私は、先生が現在も危険な人物であると考えているわけではありません」
「刑期を終え、更生のために必要な手続きを履行し、その後に再犯が確認されていないことも理解しています」
「キヴォトスで多くの生徒を救ったことも、否定するつもりはありません」
ヒナの視線が先生へ向く。
「先生個人への信頼も、失ってはいません」
小さな空気の揺れが起こった。
先生を教育者として認めない立場にありながら、先生個人への信頼は失っていない。
矛盾しているように聞こえる。
だが、この審議では、その二つを同じものとして扱わないことが何度も確認されてきた。
ヒナは静かに続ける。
「それでも、教育者として留任させることには反対します」
「教育者は、現在危険でないことだけを証明すれば認められる立場ではありません」
「先生を知らない生徒もいます」
「報道によって初めて過去を知り、不安を抱いている生徒もいます」
「その不安を、私たちが先生を信じているという理由だけで乗り越えさせることはできません」
声を強めることはない。
相手を責めてもいない。
それでも、ヒナの答えは揺らがなかった。
「私は、更生した人間が社会へ戻ること自体は必要だと考えています」
「罪を償った人間へ、社会が永遠に復帰の機会を与えないのであれば、更生という制度そのものが成り立ちません」
賛成派から出ても不思議ではない言葉だった。
だからこそ、続く言葉が際立つ。
「ですが、社会へ戻ることと、教育者として生徒の前へ立ち続けることは別です」
「私は、その二つを分けて判断します」
社会復帰を認めることは、すべての職業へ無条件に戻すことではない。
先生が更生した可能性を認めることと、教育者としての資格を認めることも同じではない。
ヒナは先生を断罪しているのではなかった。
教師という職業へ求める条件を、先生のためだけに変えないと決めていた。
「以上です」
ヒナは小さく一礼し、席へ戻った。
リンが淡々と確認する。
「空崎ヒナさん。反対」
二人続けて反対。
議場に緊張が広がる。
まだ全体の結果を予想できる段階ではない。
それでも、制度と教育現場の責任を担う二人が同じ答えを選んだ事実は重かった。
ただし、二人とも先生を否定してはいない。
理解が深まれば、必ず賛成へ近づくわけではなかった。
相手の事情を知った結果、自分がなぜ反対するのかが、より明確になることもある。
リンは次の名前へ移った。
「アビドス高等学校」
「小鳥遊ホシノさん」
「はーい」
気の抜けた返事とともに、ホシノが立ち上がる。
資料を手に取ることもなく、肩にも力が入っていない。
その様子だけを見れば、重い審議の途中とは思えない。
だが、ホシノが本当に重い話をする時ほど、普段と同じ調子を崩さないことを、アビドスの生徒たちは知っていた。
リンが尋ねる。
「現時点での立場をお願いします」
「賛成」
ホシノは間を置かず答えた。
議場で初めて賛成が示される。
だが、ホシノの顔に安堵も喜びもなかった。
「おじさんが今日まで見てきた先生を、全部嘘だったとは思えないからね」
「アビドスがどうしようもなくなってた時も、先生は逃げなかった」
「危ないことにも首を突っ込んで、こっちが止めたくなるくらい無茶してさ」
「それでも最後まで、私たちを見捨てなかった」
ホシノにとって先生は、報道の中だけに存在する人物ではない。
砂に埋もれかけた学園を支え、自分たちの居場所を守るために走り続けた大人だ。
その積み重ねを知っている以上、一つの報道によって、共に過ごした時間まですべて偽物だったとは思えなかった。
「先生が昔したことを、無かったことにするつもりはないよ」
「でも、昔のことが本当だったからって、今日まで先生がしてきたことまで無かったことにはならない」
ホシノはそこで少しだけ困ったように笑った。
「ただねぇ」
「午前中より、賛成って言いにくくなった」
セリカが静かに顔を上げる。
「最初のおじさんは、先生を知らない子が怖がることを、ちゃんと考えられてなかったんだと思う」
「自分たちは先生を知ってるから大丈夫。それで終わらせかけてた」
ヒナへ目を向ける。
「でも、先生を知らない子へまで、おじさんたちと同じ信頼を持てとは言えない」
続いてユウカを見る。
「制度っていうのも、誰かを冷たく切り捨てるためだけにあるんじゃない」
「先生を知らない子が、不安なまま誰かへ預けられないようにするためでもあるんだよねぇ」
ホシノは小さく息を吐いた。
反対する理由が、理解できるようになってしまった。
以前よりも賛成を口にすることは難しい。
それでも、ホシノは答えを変えなかった。
「怖いと思う子の気持ちは間違ってない」
「だからって、おじさんが見てきた先生まで嘘になるわけでもない」
「どっちが正しいって決められないなら、おじさんは自分が見てきた方へ票を入れる」
「だから、今は賛成」
最後の二文字だけが、静かに残った。
今は。
まだ討論は終わっていない。
これから聞く言葉によって、自分の考えが変わる可能性を、ホシノは閉ざしていなかった。
その姿勢は、信頼が弱くなったことを意味しない。
自分とは異なる意見を、本当に聞こうとし始めた証だった。
ホシノは一礼して席へ戻る。
リンは記録へ加える。
「小鳥遊ホシノさん。賛成」
反対二名。
賛成一名。
現時点では反対が上回っている。
だが、確認されたのはまだ三名だけだ。
しかも、いずれも午前中から明確な立場を持っていた者たちだった。
次に呼ばれる人物は違う。
これまで自らの結論を急がず、事実と評価を整理することへ徹してきた。
感情的な断罪にも擁護にも加わらず、討論が混線するたびに論点を戻してきた人物。
その記録と分析を重視する姿勢を考えれば、教育者としての信頼を客観的に確認できない現状に、慎重な答えを出すだろう。
そう予想した者は少なくなかった。
リンは次の名前を読み上げる。
「ミレニアムサイエンススクール」
「生塩ノアさん」
ノアは、手元の記録から顔を上げた。
「はい」
穏やかに返事をし、静かに立ち上がる。
その表情から、どちらの答えを選ぶのか読み取ることはできなかった。
ノアは静かに立ち上がった。
手元の記録を閉じ、議場をゆっくりと見渡す。
感情を読み取らせない穏やかな表情は、今日一日ほとんど変わっていない。
そのため、多くの者は自然と同じ結論へ辿り着いていた。
ノアは反対。
制度を重視し、事実を積み重ねてきた彼女なら、そう判断するはずだ、と。
リンが確認する。
「現時点での立場をお願いします。」
ノアは小さく頷いた。
「賛成です。」
一瞬。
議場から音が消えた。
誰も声を上げない。
それでも空気が揺れたことは、誰もが感じていた。
ユウカが思わずノアを見る。
ヒナも僅かに視線を動かした。
予想外だった。
ノアは静かに続ける。
「誤解のないよう、最初に申し上げます。」
「私は先生の留任に積極的に賛成しているわけではありません。」
「現時点で、反対という結論を下すだけの根拠には至っていない、という判断です。」
議場は再び静まり返る。
「午前中から現在まで、先生の過去、功績、社会的影響、教育現場への信頼、被害を受けた側の心情など、多くの論点が提示されました。」
「そのいずれも重要であり、軽視すべきものではありません。」
ノアは机上の資料へ視線を落とした。
「ですが。」
「それらを総合してもなお、『教育者として留任させてはならない』という結論を、私はまだ導けません。」
「理由は一つです。」
「討論によって、先生を留任させるべき理由も、留任させるべきではない理由も、どちらも以前より説得力を増したからです。」
その言葉に、リンは静かに頷く。
ノアらしい整理だった。
一方だけが強くなったのではない。
両方の根拠が積み重なった結果、軽々しく結論を出せなくなった。
「私がここで反対を選べば、それは『教育者としての信頼』を重視した結果になります。」
「逆に賛成を選べば、『更生と社会復帰』を重視した結果になります。」
「どちらを優先するか。」
「現時点では、私はまだ後者を優先すべきだと考えています。」
ノアは一度だけ先生を見る。
「先生が現在どのような人物なのか。」
「私が確認できる事実だけを見るなら、教育者として多くの実績を積み重ねてきました。」
「その事実まで否定することはできません。」
先生は何も答えない。
ノアも返答を求めているわけではなかった。
「だから私は賛成です。」
「ですが。」
その一言で議場が再び張り詰める。
「この判断は、まだ固定されたものではありません。」
「この後の討論で、新たな論点や事実が提示されれば、私は判断を修正します。」
「事実が変われば、結論も変わる。」
「それが、私の立場です。」
ノアは深く一礼した。
「以上です。」
席へ戻る。
ざわめきは起こらない。
しかし、多くの代表者がノアの発言を反芻していた。
特にユウカは複雑な表情を浮かべる。
同じミレニアムでありながら、現時点では結論が分かれた。
だが、その理由は理解できる。
ノアは感情で賛成したのではない。
論理の積み重ねによって、まだ反対するには至らないと判断しただけだった。
リンは静かに確認する。
「生塩ノアさん。賛成。」
反対二名。
賛成二名。
再び均衡へ戻る。
リンは続けて名前を呼ぶ。
「アビドス高等学校。」
「黒見セリカさん。」
セリカは小さく肩を震わせた。
午前中から何度も発言してきた。
先生への恩。
怖いという感情。
教育者としての責任。
そのすべてを言葉にしてきた。
だからこそ、今さら「賛成です」と口にすることが、自分でも信じられなかった。
ゆっくり立ち上がる。
議場の視線が集まる。
セリカは深く息を吸った。
「……賛成です。」
今度こそ、議場がざわめいた。
ホシノが驚いたようにセリカを見る。
ヒナも目を細める。
セリカ自身が一番驚いていた。
それでも、この瞬間の答えは嘘ではない。
「私は。」
「先生を信じたいです。」
その一言に、迷いはなかった。
「今日、一日中考えていました。」
「先生に助けてもらったこと。」
「先生がやってきたこと。」
「先生が私たちに教えてくれたこと。」
「全部思い返しました。」
小さく拳を握る。
「もちろん、不安がなくなったわけじゃありません。」
「先生を知らない子が怖いと思う気持ちも、今なら分かります。」
「教育者として見た時の問題も理解しています。」
そこまで言って、一度言葉を止める。
「でも。」
「今の私は。」
「それでも先生を信じたいっていう気持ちの方が、まだ強いです。」
議場は静かだった。
誰も否定しない。
セリカは自分の胸へ手を当てる。
「だから賛成です。」
「でも。」
「この答えが絶対に正しいなんて思ってません。」
「この後の討論で変わるかもしれません。」
「それでも。」
「今、この瞬間に嘘をつく方が嫌でした。」
セリカは静かに頭を下げた。
「以上です。」
リンが記録を確認する。
「黒見セリカさん。賛成。」
賛成が三名となる。
ここで議場の空気は、少しずつ変わり始めていた。
午前中には対立していた立場が、今はそれぞれ迷いを抱えながら同じ方向を向いている者もいる。
討論は、相手を打ち負かすためのものではない。
他者の言葉を受け止め、自分自身の考えを見つめ直すためのものだった。
リンは最後の二人へ視線を向ける。
「続いて。」
「トリニティ総合学園。」
「浦和ハナコさん。」
ハナコは穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がった。
その笑みの奥にある考えを、この場で読み切れる者はいなかった。
「続いて。」
「トリニティ総合学園。」
「浦和ハナコさん。」
ハナコは穏やかな表情のまま立ち上がった。
午前中から、彼女は自分の結論を前へ出すことなく、賛成と反対の双方へ問いを投げ続けてきた。
更生は誰が認めるのか。
安心とは、誰の感覚を基準にするのか。
教育者だけへ特別な倫理を求めるなら、その根拠はどこにあるのか。
問いによって議論の前提を揺らしながらも、ハナコ自身がどこへ立っているのかは、まだ誰にも見えていなかった。
リンが確認する。
「現時点での立場をお願いします」
ハナコはすぐには答えなかった。
机上に置かれた資料へ視線を落とし、指先で紙の端をそっとなぞる。
問いを出すだけなら、自分の答えを示す必要はない。
誰かの主張に潜む矛盾を見つけ、別の可能性を提示するだけで役割を果たせる。
しかし、今求められているのは問いではなかった。
この時点で、自分はどちらを選ぶのか。
逃げ道のない、単純な確認だった。
「現時点では、賛成です」
静かな声だった。
意外だったのかどうか、議場から大きな反応は起こらない。
ハナコなら賛成も反対も選び得る。
どちらへ進んでも、彼女なりの理由を組み立てられることを、誰もが知っていたからだ。
「ただし。」
ハナコは小さく微笑む。
「先生が善良な方だから、という理由ではありません」
「先生に救われた生徒が多いからでもありません」
ミカとホシノが、静かにハナコへ視線を向ける。
二人の立場を否定する声音ではない。
ただ、自分の賛成が同じ理由から生まれたものではないと、最初に区別していた。
「私は、今回の審議でずっと気になっていることがあります」
ハナコは議場全体を見渡した。
「私たちは、更生を認めると言いながら、実際には何をもって更生したと判断するのでしょうか」
「刑期を終えたこと。」
「定められたプログラムを修了したこと。」
「その後に再犯が確認されていないこと。」
「社会へ戻ったあと、多くの人の役に立ってきたこと。」
「先生は、制度が求めた条件を満たしています」
誰も否定しない。
それらはすでに確認された事実だった。
「もちろん、それだけで教育者としての信頼が回復したとは言い切れません」
「更生した人間であることと、教育者として適格であることが同じではないという意見にも、私は納得しています」
ヒナが僅かに頷く。
ハナコはその反応を確認しながら続けた。
「ですが。」
「制度が示した条件をすべて満たし、その後の行動でも変化を示してきた人に対して、それでも過去があるから認められないと判断するなら。」
「私たちは、どこまで行けば更生を認めるのでしょうか」
その問いは、誰か一人へ向けられたものではなかった。
反対派だけを責めてもいない。
社会復帰を唱える賛成派に対しても、本当にその言葉を制度として引き受ける覚悟があるのかと尋ねている。
「教育者という職業が特別であることは理解しています」
「生徒が安心して学べる環境は、守られなければなりません」
「ただ。」
ハナコの表情から、わずかに笑みが薄れる。
「不安が残ることを理由に、一度失われた信頼を永久に回復不能と扱うことにも、私は危うさを感じます」
「信頼は、ゼロか百かで決められるものではありません」
「失った瞬間に二度と戻らないのであれば、信頼を回復するための行動には、最初から意味がないことになります」
議場は静まり返っている。
ヒナの主張する教育現場の安心も正しい。
ハナコが指摘する回復不能な社会の危うさも、簡単には退けられない。
どちらかだけを採れば、もう一方に矛盾が生まれる。
だからこそ、ハナコは問い続けてきた。
「私は、先生を無条件に信頼するべきだとは思っていません」
「留任させるなら、監督や制限、定期的な確認が必要になるかもしれません」
「それを先生だけに課すことが妥当なのかという、別の問題も生まれます」
「ですが。」
「不安があるから排除するという結論よりも。」
「不安がある状態で、どのように受け入れることができるのかを考える方を、現時点では選びたいと思います」
ハナコは一度だけ先生を見る。
先生は、いつもと同じように何も求めない。
その沈黙を見届け、ハナコは議長席へ向き直った。
「だから私は、賛成です」
「先生の過去を軽く考えているわけではありません」
「先生だから特別に許すつもりもありません」
「更生を認めるという言葉を、社会復帰の手前で止めてしまわないために。」
「今は、留任を認める側へ立ちます」
ハナコは静かに一礼した。
「以上です」
リンは表情を変えず、記録へ加える。
「浦和ハナコさん。賛成」
賛成は四名。
反対は二名。
まだ全員の確認は終わっていない。
それでも、議場の空気は少しずつ変わり始めていた。
留任反対が当然の帰結ではない。
先生が教育者として残る未来も、現実的な可能性として輪郭を持ち始めている。
だが、賛成を示した者の誰一人として、安堵してはいなかった。
ホシノは不安を理解した上で賛成した。
ノアは反対と断定する根拠が不足しているとして賛成した。
セリカは自分の恐怖を抱えたまま、それでも先生を信じたいと答えた。
ハナコは、更生を認める社会のあり方を問いながら賛成を選んだ。
同じ一票でも、その理由は一つとして同じではない。
リンは次の名前へ視線を移した。
「ゲヘナ学園。」
「羽沼マコトさん。」
マコトは、ゆっくりと背もたれから身体を起こした。
口元には、普段よりも控えめな笑みが浮かんでいる。
いつものように大仰に場をさらうことはしない。
ここが自分の演説を楽しむ場ではないことくらい、理解していた。
それでも、立ち上がった姿から自信が失われることはなかった。
「……よかろう。」
「私の考えを話そう。」
議場が静まり返る。
リンは表情を変えずに問いかけた。
「現時点での立場をお願いします。」
「賛成だ。」
返答に迷いはなかった。
マコトはそのまま議場全体へ視線を巡らせる。
「もっとも、これは先生個人への評価だけで出した結論ではない。」
「諸君は今日、一人の教師を教育者として残すべきかどうかを議論している。」
「無論、それは正しい。」
「この審議会の議題は、まさにその一点だからな。」
一度言葉を切る。
「だが。」
「私には、先生一人の処遇だけで終わる話には思えん。」
その声から、先ほどまで残っていたわずかな笑みが消える。
「今日ここで下される判断は、いずれ前例となる。」
「今後、罪を償い、更生のために必要な手続きを終え、再び社会へ戻ろうとする者が現れた時。」
「その者は、今日の結論を基準の一つとして判断されることになる。」
ノアが静かに耳を傾ける。
ユウカも資料から顔を上げた。
「先生は刑を終えた。」
「更生のために定められた手続きも終えている。」
「その後に再犯は確認されていない。」
「さらに、キヴォトスへ来てからは、教育者として多くの生徒を救ってきた。」
マコトは、先生へ視線を向けることなく続ける。
「これらは、先生を好いている者の願望ではない。」
「反対する者が否定できる感想でもない。」
「本審議会で確認された事実だ。」
誰も口を挟まなかった。
そこに異論はない。
マコトは静かに息を継ぐ。
「もちろん、教育者という立場が特殊であるという主張は理解している。」
「生徒の安心を優先しなければならないという意見も、軽いものではない。」
その視線が、ヒナへ向く。
「風紀委員長の考えも分かる。」
ヒナは何も答えない。
だが、視線を逸らすこともなかった。
「教育者は、ただ社会へ戻ればよいという職業ではない。」
「信頼を失った者を、再び生徒の前へ立たせることへ慎重になる。」
「それ自体は、当然の判断だろう。」
マコトはそこで少しだけ顎を上げた。
「しかし。」
「慎重であることと、基準を示さないことは違う。」
議場の空気が引き締まる。
「それでも留任を認めないというのであれば、一つだけ答えなければならない。」
「人は、どこまで歩けば信頼を取り戻せるのか。」
「何を満たせば、社会はその者を更生したと認めるのか。」
「刑を終えればよいのか。」
「定められた手続きを終えればよいのか。」
「再犯せず、社会へ貢献し続ければよいのか。」
「それでも足りないというのであれば、何が必要なのか。」
問いかける声は穏やかだった。
だが、議場の誰も簡単には答えられない。
「その基準を示さず。」
「ただ過去があるから今回は認められないと結論づけるのであれば。」
マコトは一拍置く。
「それは制度ではない。」
「個々の感情によって、排除する者を選んでいるだけだ。」
その言葉は、反対派だけへ向けられたものではなかった。
先生だから認めたいと考える者も、同じ問いから逃れることはできない。
誰であっても同じ基準を適用できるのか。
先生だけを例外として扱ってはいないか。
マコトは、賛成する側にもその責任を求めていた。
「私は、先生だから賛成するのではない。」
「今日ここで残される判断が、今後の社会にとって妥当な前例となるか。」
「その観点から考えている。」
「そして現時点では、先生の留任を否定するための基準が、十分に示されたとは思っていない。」
そこで初めて、マコトは先生へ視線を向けた。
先生は何も語らない。
残してほしいと訴えることも、賛成者へ感謝を示すこともなかった。
ただ、審議する者たちの言葉を受け止めている。
マコトはその姿を数秒見つめたあと、議長席へ向き直った。
「ゆえに、現時点での私の結論は賛成だ。」
「もっとも。」
口元に、わずかな笑みが戻る。
「討論はまだ終わっていない。」
「この先、私の判断を覆すだけの議論が示されるなら、その時は票を変えよう。」
「最初に口にした答えへしがみつくために、ここへ来たわけではないからな。」
マコトは静かに一礼した。
「以上だ。」
席へ戻る足取りには、普段のような派手さはない。
しかし、自らの結論に責任を持とうとする姿勢は、十分に伝わっていた。
リンは記録係へ視線を向ける。
「羽沼マコトさん。賛成。」
ペン先が紙を走る。
これで意思を示したのは七名。
賛成五名。
反対二名。
まだ答えを示していない者が、二人残っている。
リンは議事進行表へ目を落とし、次の名前を読み上げた。
「続いて、トリニティ総合学園。」
「聖園ミカさん。」
ミカは、膝の上に重ねていた手へ一度だけ力を込めた。
つい先ほど、自分の感情が判断へ影響しているかもしれないと認めたばかりだった。
それでも、先生を信じたいという気持ちまで消えたわけではない。
議場の視線が集まる中、ミカはゆっくりと立ち上がった。
「続いて、トリニティ総合学園。」
「聖園ミカさん。」
名前を呼ばれたミカは、膝の上に重ねていた両手へ一度だけ力を込めた。
セリカとの質疑を終えてから、胸の内は少しも軽くなっていない。むしろ、自分の感情が判断へ影響している可能性を認めたことで、先生を支持するという言葉は以前より重くなっていた。
先生が好きだから、味方をしたい。
それは紛れもない本心だった。
だが、その感情を認めたからといって、自分の意見を捨てるべきなのか。恋心のある者は、公平ではないという理由だけで発言する資格を失うのか。
セリカとの対話を経ても、その答えは見つかっていない。
ミカはゆっくりと立ち上がった。
議場に集まる視線を受けながら、一度だけ先生を見る。
先生は何も言わない。
味方を求めるような目も向けていない。
ただ、ミカが自分自身の答えを口にするのを待っていた。
リンが尋ねる。
「現時点での立場をお願いします。」
ミカは小さく息を吸った。
「……賛成です。」
声は決して大きくなかった。
それでも、議場の隅まで迷いなく届いた。
「さっき、私は自分の気持ちについて話しました。」
「先生が好きだから、先生を信じたいと思っているだけなのかもしれないことも。」
「そのせいで、見えなくなっているものがあるかもしれないことも。」
ミカは僅かに視線を落とした。
自分の恋心を、この場で再び詳しく説明する必要はない。すでに隠さず語った。今問われているのは、その迷いを抱えた上で、現在どちらを選ぶのかという一点だった。
「今も、自分の判断が正しいって言い切れるわけじゃありません。」
「先生を好きじゃなかったら、違う答えを選んでいたのかもしれないっていう迷いも、まだ残っています。」
それでも、と続ける前に、ミカは一度言葉を探した。
先生を守りたいからではない、と言えば嘘になる。
恋愛感情とは別に判断した、と言い切ることもできない。
ならば、都合よく感情を切り分けたふりをするのではなく、混ざり合ったままの心で答えるしかなかった。
「でも、その気持ちがあるからって、私が見てきた先生まで全部間違いだったとは思えません。」
「先生が生徒のみんなと向き合ってきたことも、私たちを助けてくれたことも、本当にあったことです。」
「私は、その時間を信じたいです。」
ミカはそこで顔を上げた。
「恋をしていることも、その恋が判断に影響しているかもしれないことも、もう隠しません。」
「その上で、今の私は賛成を選びます。」
一度だけ、困ったように微笑む。
「もしかしたら、この後また迷うかもしれません。」
「でも、迷っているからって、本当の気持ちと逆のことを言う方が、私は嫌です。」
その言葉に、セリカが僅かに目を伏せた。
相手を追及した時と同じ問いを、ミカは今も自分自身へ向け続けている。
それでも、答えを出した。
迷いがなくなったからではない。
迷いを誤魔化さず、それでも現在の立場を選んだのだ。
ミカは静かに頭を下げた。
「以上です。」
席へ戻るミカを見届け、リンは記録係へ視線を向ける。
「聖園ミカさん。賛成。」
紙を擦るペンの音が響いた。
これで、意思を示した代表者は八名。
賛成六名。
反対二名。
数字だけを見れば、留任支持が大きく上回っている。
先生が教育者として残る未来は、もはや希望的な想像ではなく、現実に選ばれ得る結論として議場へ姿を現していた。
だが、賛成を選んだ者たちの表情に喜びはない。
ホシノは、先生を知らない生徒の不安を理解した上で賛成した。
ノアは、反対を断定するだけの根拠が現時点では足りないとして賛成した。
セリカは、恐怖を抱えながらも先生を信じたいという感情を選んだ。
ハナコは、更生を認める社会が社会復帰の可能性まで閉ざすことへの危うさから賛成した。
マコトは、今日の判断が今後の前例になることを見据えて賛成した。
ミカは、自分の恋心が判断を曇らせているかもしれないと認めながらも、先生と過ごした時間を信じる方を選んだ。
同じ賛成でも、見ているものは違う。
そして誰一人として、自分の答えを完成したものとは考えていなかった。
残る討論によって票が変わることを、全員が認めている。
賛成六という数字は優勢を示していても、結論を保証してはいなかった。
リンは議事進行表へ視線を落とした。
残された名前は一つ。
議場の誰もが、それを分かっていた。
静かな視線が、少しずつトリニティの席へ向かう。
その中心で、ヒフミは膝の上に置いた手を見つめていた。
指先が強く組まれている。
名前を呼ばれる前から、自分の番が来ることは分かっていた。
それでも顔を上げられない。
賛成と答えれば、先生を信じたい自分へ正直でいられる。
反対と答えれば、先生を知らない生徒たちの不安や、教育者へ求められる責任を重く受け止めたことになる。
どちらにも理由がある。
どちらを選んでも、もう一方を見捨てたように感じてしまう。
リンは必要以上に間を空けなかった。
だが、急かすようにも呼ばなかった。
「最後に、トリニティ総合学園。」
「阿慈谷ヒフミさん。」
「……はい。」
返事は聞こえた。
しかし、ヒフミはすぐには立てなかった。
椅子から腰を浮かせようとして、僅かに動きを止める。
それから深く息を吸い、ようやく立ち上がった。
隣のミカは何も言わない。
励ますことも、自分と同じ票を求めることもなかった。
ただ、ヒフミが自分の答えを選ぶまで待っている。
ヒフミは一度だけミカを見たあと、議長席へ向き直った。
リンが尋ねる。
「現時点での立場をお願いします。」
沈黙が流れた。
ヒフミは口を開きかけたが、言葉は出なかった。
喉の奥に引っ掛かったものを飲み込むように、一度唇を結ぶ。
先生を信じたい。
それだけなら、すぐに言える。
先生に助けられたことも、尊敬していることも、何一つ変わっていない。
だが、今求められているのは、先生への気持ちではない。
先生を教育者として残すべきか。
その問いへ答えなければならない。
二つのことを同じだと思っていた頃なら、迷わず賛成と答えただろう。
しかし、もう同じものとして扱うことはできなかった。
信じていても反対できる。
不安を抱えていても賛成できる。
今日交わされた言葉は、ヒフミが持っていた単純な答えを一つずつ崩していた。
誰かに説得されたわけではない。
どちらかの意見が間違いだと分かったわけでもない。
どちらにも納得してしまったから、選べなくなった。
長い沈黙のあと、ヒフミは小さく息を吐いた。
「……保留です。」
議場の空気が、重く沈んだ。
これまでの八名は、迷いを抱えながらも賛成か反対のどちらかを選んだ。
ヒフミだけが、その境界に立ち止まった。
リンは表情を変えない。
「差し支えなければ、理由を説明してください。」
ヒフミは頷こうとした。
だが、すぐには動けなかった。
自分の中にあるものを、どこから話せばよいのか分からない。
先生への感謝から話せば、賛成するための弁明に聞こえる。
生徒の不安から話せば、反対する理由を探しているように聞こえる。
そのどちらでもなかった。
「皆さんのお話を聞く前は。」
ようやく出た声は、微かに震えていた。
「自分なりに、答えを持っているつもりでした。」
先生は今の先生だ。
過去に罪があっても、今まで多くの生徒を救ってきた。
刑も終えている。
ならば信じたい。
最初は、それで十分だと思っていた。
「先生に救われたことも、先生を信じていることも、今も変わっていません。」
ヒフミは先生を見た。
先生は静かに視線を返す。
何も求めないその表情を見ていると、かえって胸が苦しくなる。
「でも、皆さんの話を聞くほど、分からなくなりました。」
「先生を知らない生徒が怖いと思うことも分かります。」
「罪を償った人が社会へ戻れなければ、更生という考え方が成り立たないという意見も分かります。」
「教師には、ほかの仕事とは違う信頼が必要だという話も。」
「その信頼を、一度失ったら二度と取り戻せないことにしていいのかという疑問も。」
どれか一つだけなら、選べたかもしれない。
しかし、すべてが同時に成立している。
ヒフミは、自分の胸元で両手を重ねた。
「どの意見も、簡単に間違いだとは思えません。」
「だから今、どちらかを選んだら。」
一度言葉を止める。
「選ばなかった方を、ちゃんと考えないまま切り捨ててしまう気がするんです。」
それは、結論から逃げるための言葉ではなかった。
自分がまだ十分に考えられていないことを認める言葉だった。
本日中に採決は行われる。
永遠に保留することはできない。
最後には、必ず賛成か反対を選ばなければならない。
ヒフミ自身も、それを理解している。
「今日中に決めなきゃいけないことは分かっています。」
「最後まで保留のままでいられないことも。」
「でも、今ここで答えを出したら。」
「私は、ただ早く楽になりたくて選んだことになると思います。」
その声は弱かった。
だが、言葉は逃げていなかった。
迷い続けることは苦しい。
どちらかを選べば、その苦しさから一度は解放される。
だからこそ、苦しさから逃れるためだけに結論を選んではならない。
「もう少しだけ、考えさせてください。」
「皆さんが何を守ろうとしているのか。」
「先生が、何を考えているのか。」
「最後まで聞いた上で、自分の答えを出したいです。」
ヒフミは深く頭を下げた。
「現時点では、保留です。」
誰も責めなかった。
採決の行方を左右する一票を持ちながら答えを出せないことへ、苛立ちを向ける者もいない。
この場にいる者たちは、ヒフミの迷いが優柔不断から生まれたものではないと理解していた。
むしろ、すべての意見を真剣に受け止めたからこそ、最も深い場所で立ち止まっている。
リンは小さく頷いた。
「承知しました。」
「阿慈谷ヒフミさん。保留。」
記録係のペンが、最後の欄へ文字を書き込んだ。
リンは全員の意思が記録されたことを確認し、集計へ目を通す。
議場は静まり返っている。
賛成が多数であることは、すでに誰もが分かっていた。
それでも、リンが正式に読み上げるまでは、誰も口を開かなかった。
「現時点での立場を確認します。」
「賛成、六名。」
「反対、二名。」
「保留、一名。」
数字だけを見れば、留任支持が大きく優勢だった。
この時点で採決を行えば、先生は教育者として残ることになる。
その可能性が、議場の中へはっきりと形を持って現れた。
ミカは安堵しなかった。
ホシノも笑わない。
反対を示したユウカとヒナも、敗北したような表情を見せなかった。
これは採決ではない。
全員が、そのことを理解している。
残された討論によって、賛成がさらに増えるかもしれない。
反対へ流れが変わるかもしれない。
保留の一票が、どちらへ動くかも分からない。
この数字は結論ではなく、揺れ続ける議場を一度だけ切り取ったものにすぎなかった。
リンは集計表を閉じた。
「以上で、現時点の意思確認を終了します。」
「ここで示された立場は、最終採決を拘束しません。」
「今後の討論を受け、必要であれば判断を変更してください。」
誰も異議を唱えない。
リンは次の議事へ視線を移した。
「これより、最終討論へ向けた審議を続行します。」
賛成六。
反対二。
保留一。
先生の留任は、数字の上では現実へ近づいていた。
だが、その場にいる誰一人として、結論が決まったとは考えていなかった。
むしろ、ここから初めて、自分の一票を本当に選ぶための議論が始まる。
ヒフミは席へ戻ったあとも、顔を上げられずにいた。
膝の上で重ねられた手には、まだ強く力が入っている。
答えは出ていない。
それでも、時間だけは確実に進んでいた。
気づいたら16000文字オーバーやんけ