PC故障&仕事でしばらく更新出来ていませんでした。
ストックが無いので毎日更新できるかまだ未定ですが基本21時に投稿していきます。
「審議を続行します」
乾いた木槌の音が消えても、議場の空気はすぐには動かなかった。
壁面の大型モニターには、つい先ほどまでモモカが示していた集計結果が残っている。
討論が始まる前よりも、先生が更生していると考える生徒は増えた。
刑期を終えていることも、更生プログラムを修了していることも、再犯が確認されていないことも、午前から続いた審議を通して広く知られるようになった。
それでも、教育者としての留任に反対する声は増えていた。
理解されなかったから拒まれたのではない。
理解されたうえで、任せられないと判断された。
その事実が、議場に残っている。
モモカは端末を閉じると、自席へ戻った。
リンはすぐには次の議題を読み上げなかった。
机上の進行表へ一度目を落とし、それから正面を見る。
その視線が向かった先に、先生がいた。
今日一日、何度も名前を呼ばれてきた人物。
何度も評価され、何度も問われ、本人のいない過去まで含めて議論の対象となってきた人物。
それでも先生は、ほとんど自分のために口を開かなかった。
質問を受ければ答えた。
事実確認を求められれば答えた。
過去を否定することもなかった。
けれど、自分を残してほしいと訴えたことは一度もない。
リンは進行表の端へ指を添えた。
「最終的な判断へ進む前に、一つ残っているものがあります」
何人かが顔を上げた。
ミカも、膝の上に置いていた手を止める。
「本審議会ではこれまで、各学園の代表者から意見を伺い、相互質疑を行ってきました。また、キヴォトス全体の社会状況についても報告を受けました」
淡々とした声だった。
ここまでと変わらない、議長としての声。
「ですが、本審議会が判断の対象としている当事者本人から、まとまった形で意見を伺う機会は設けていません」
リンの視線が、改めて先生へ向く。
「先生」
「はい」
「発言をお願いします」
短い言葉だった。
先生はすぐには立たなかった。
ほんの数秒だけ、机の上に置かれた自分の手を見る。
逃げるための時間ではなかった。
何を言うかを決める時間でもない。
それはもう、今日ここへ来る前から何度も考えていた。
それでも、実際に自分の番が来れば、簡単には立てなかった。
先生は椅子を引いた。
小さな音が、妙にはっきりと議場へ響いた。
立ち上がる。
視線が集まった。
ミカ。
ヒフミ。
ハナコ。
ユウカ。
ノア。
ヒナ。
マコト。
ホシノ。
セリカ。
午前から、それぞれ違う言葉で自分について語ってきた生徒たち。
賛成した者もいる。
反対した者もいる。
まだ答えを決められない者もいる。
先生は、その全員を一度だけ見た。
「……何から話せばいいのか」
声を出してから、わずかに間を置く。
「ずっと考えていました」
誰も動かなかった。
先生は演壇へ向かわない。
自席の前に立ったまま話していた。
リンもそれを咎めなかった。
「今日、皆さんの話を聞いていて、何度も思いました。自分について話されているはずなのに、自分では考えたことのなかったことが、たくさんあったんだなと」
そこで先生は一度言葉を切った。
「制度のことも、教育者としての信頼のことも、社会復帰のことも、生徒が感じる不安のことも」
先生は苦笑しなかった。
場を和ませようともしない。
「全部について、私が答えを持っているわけではありません」
ユウカが静かに先生を見ていた。
先生が何を言うのかではなく、何を言わないのかまで確かめるように。
「だから、今日ここで皆さんが話したことに、一つずつ反論するつもりはありません」
ヒナの眉が、ごくわずかに動いた。
「私を残すべきだと言ってくれた人にも、残すべきではないと言った人にもです」
先生は息を整えた。
「ただ、当事者として話せることはあります」
議場が静まる。
外では今も、無数の生徒がこの中継を見ている。
先生はカメラへ向かなかった。
目の前にいる生徒たちへ向けて話した。
「まず、一つだけ」
先生の声は大きくなかった。
「私は、自分の過去を否定しません」
ミカの指先が、わずかに強く重なった。
「有罪判決を受けました。刑にも服しました。更生プログラムも修了しました」
すでに何度も確認されてきた事実だった。
だが、本人の口から並べられると、その響きは違った。
「再犯もしていません」
そこで先生は止まった。
ノアは先生を見ている。
事実。
今日、彼女が何度も整理してきたもの。
有罪判決。
刑期満了。
更生プログラム修了。
再犯歴なし。
そこまでは記録によって確認できる。
その先は評価だ。
「ここまでは、記録で確認できることです」
ノアの瞳が、わずかに揺れた。
先生は彼女の方を見て言ったわけではない。
それでも、その区切り方は今日の審議で何度も使われてきたものと重なっていた。
「でも」
先生は続ける。
「私は、自分の口から『だから私は更生しました』とは、言えません」
今度は、何人かがわずかに表情を変えた。
マコトが組んでいた指をほどく。
ハナコは先生から目を逸らさない。
リンも口を挟まなかった。
「言ってはいけない、という意味ではありません」
先生は静かに補った。
「更生した人間は、一生自分を犯罪者だと言い続けるべきだとも思っていません」
そこははっきりと言った。
「刑を終えたことまで、なかったことにするつもりもありません」
先生の声に初めて、わずかな強さが混じった。
「刑を終えました。それは事実です」
ヒナが静かに聞いている。
「社会へ戻るための手続きも受けました。それも事実です」
マコトも動かない。
社会復帰を認めるべきだと語ってきた彼女にとって、その言葉は軽くない。
「それを、自分で否定するつもりはありません。刑を受けた人間は、その後も一生、何をしても許されないと言うつもりもありません」
少し離れた席で、ヒフミが顔を上げた。
先生は自分を罰してほしいと言っているわけではない。
今日ここまでの審議でも、先生は一度もそう言わなかった。
「でも、更生したかと聞かれると」
先生は一度だけ視線を落とした。
「私は、少し困ります」
意外なほど普通の言い方だった。
重々しい宣言ではない。
「更生プログラムを終えた日から、突然別の人間になったわけではありません」
先生は自分の手を見る。
「修了証を受け取った瞬間に、過去が消えたわけでもない」
静かな声が続く。
「昨日まで罪を犯した人間で、今日から更生した人間になる。そんなふうに、きれいに線を引けるものなのか。私には、今でも分かりません」
ノアは無意識に端末へ触れかけて、手を止めた。
記録するためではない。
今は聞くべきだと思った。
「だから私は、刑を終えたあと、普通に生活しました」
先生は言う。
「仕事をして、人と話して、失敗して、誰かに迷惑をかけたら謝って」
ほんのわずかに、息を吐く。
「そういう生活を続けました」
そこに劇的なものはなかった。
誰かを救うための旅に出たわけでもない。
自分を変えるために、特別な使命を課したわけでもない。
「そして、キヴォトスへ来ました」
その言葉に、議場の空気がわずかに変わった。
ここから先は、彼女たちも知っている時間だった。
ホシノが少しだけ目を細める。
セリカは先生を見たまま動かない。
「先生になってからも、最初から立派だったとは思っていません」
セリカの眉がわずかに上がる。
ホシノの口元にも、ごく薄い変化があった。
「たぶん、皆さんの方がよく知っていると思います」
一瞬だけ。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩んだ。
笑いは起きない。
けれど、今の言葉が先生らしいと思った者はいた。
「間違えたこともあります。判断が遅れたこともあります。生徒に助けられたことも、何度もあります」
先生はそこで、誰か一人を見ることはしなかった。
「それでも、困っている生徒がいれば、できることをしました」
ミカが先生を見つめている。
「相談されたら話を聞きました。危険な場所へ行かなければならないなら行きました。止めなければならないことがあれば止めました」
その一つ一つを、功績として数え上げるような言い方ではなかった。
「それは、過去の罪を償うためではありません」
今度こそ、空気が止まった。
「少なくとも、そういうつもりで皆さんと接したことはありません」
先生はゆっくりと言葉を選ぶ。
「一人助けたから、一つ罪が軽くなる。そんなふうに考えたこともありません」
ミカの瞳が揺れる。
ヒフミは、握っていた手から少しだけ力を抜いた。
「もし、そんなつもりで皆さんを助けていたなら」
先生は首を横に振った。
「それは皆さんを、私が自分を許すための道具にしていたことになると思います」
誰も反論しなかった。
先生は生徒たちを救った。
その事実は、この議場にいる誰も否定していない。
けれど、その善行が過去の罪を相殺するのか。
その問いもまた、何度も議論されてきた。
先生自身の答えは単純だった。
相殺しない。
「だから、私は今日まで自分がしたことを並べて、『これだけやったんだから認めてください』とは言えません」
ユウカがわずかに目を伏せた。
それは、彼女が警戒していた論理の一つでもあった。
功績を信用へ換算すること。
救った人数を積み上げれば、教育者としての適格性を証明できると考えること。
先生自身が、それを否定した。
「でも」
先生は続ける。
その一言には、それまでとは違う迷いがあった。
初めて、言葉を選ぶ時間が長くなる。
「だからといって」
先生はゆっくりと顔を上げた。
「キヴォトスで過ごした時間まで、全部なかったことにしたいとは思いません」
ミカが息を止めた。
先生の視線が、今度は初めて生徒たちを順に巡った。
「それだけは」
わずかな間。
「……そう思っています」
先生はそこで言葉を切った。
何かを訴えたわけではない。
信じてほしいとも言っていない。
ただ、自分が今まで決して口にしなかった一つの気持ちだけを、ようやく言葉にした。
議場には、誰の声もなかった。
先生はその沈黙を急かさなかった。
言葉を続ければ、もっと綺麗に説明できる気もした。自分が何を考えているのか、誤解されないように補うこともできた。
けれど、今日ここで何度も見てきた。
言葉を重ねれば、必ず正しく伝わるわけではない。
むしろ、何かを説明しようとするほど、その説明からこぼれ落ちるものもある。
先生は一度だけ息を整えた。
「今日、この場で皆さんの話を聞いていて、少し気になっていたことがあります」
ミカが顔を上げる。
「私に助けられた、と言ってくれた人がいました」
その言葉に、ミカだけではなく何人かが反応した。
ホシノは頬杖をついていた手をわずかに動かし、ヒフミも先生へ目を向ける。
「私がいたから今の自分がある、と言ってくれた人もいました」
先生はそこで止まった。
「ありがたいと思っています」
短い言葉だった。
照れ隠しもない。
謙遜もない。
「本当に」
もう一度だけ付け加える。
「ありがたいです」
ミカの唇が、ほんの少し動いた。
けれど声にはならなかった。
先生は続けた。
「でも、今日の話を聞いていて、もしその人たちが今、自分の経験まで疑っているのだとしたら」
先生の声が少しだけ遅くなる。
「それは、違うと思います」
ヒフミの指が止まった。
「私の過去を知らなかったから、騙されていたんじゃないか」
先生は自分で口にして、一度だけ視線を落とした。
「助けられたと思っていたけれど、本当はそう思ってはいけなかったんじゃないか」
今度はミカが目を伏せた。
「信じていた自分が間違っていたんじゃないか」
静かな議場へ、先生の言葉だけが落ちていく。
「そう考えている人がいるなら、それだけは違うと言いたいです」
ユウカがわずかに眉を寄せた。
反論しようとしたわけではない。
先生の言葉が、これまでの議論とは少し違う場所へ向かっていることに気づいたからだった。
「私の過去が今日分かったからといって、昨日までに起きたことが変わるわけではありません」
先生は言った。
「私がしたことの意味を、私の都合で決めるつもりはありません。助けたつもりだったから、助けられたと思ってほしい、と言うつもりもありません」
そこで先生はミカを見た。
ほんの一瞬だった。
次にヒフミ。
ホシノ。
セリカ。
そして、ほかの生徒たちへと視線が移っていく。
「でも、あなたたち自身が、あのとき助かったと思ったなら」
少しだけ言葉を探す。
「その気持ちまで、私の過去に合わせて変える必要はないと思っています」
ミカの肩が、ごくわずかに震えた。
午前からずっと、彼女は先生を信じると言い続けてきた。
自分は先生に救われた。
その事実を誰にも否定させたくない。
けれど同時に、先生の過去が明らかになったことで、その言葉そのものが擁護として扱われる場面もあった。
先生を救いたいから言っているだけなのではないか。
好きだから過去を軽く見ているのではないか。
そう問われるたび、ミカは否定した。
それでも、自分の中に迷いがまったくなかったわけではない。
先生はそんな彼女へ向けて、信じ続けてほしいとは言わなかった。
ただ、過去を知ったことで、過去の自分まで否定しなくていいと言った。
ミカは唇を結んだ。
今は、それ以上の反応を見せなかった。
「……先生」
声を出したのはヒフミだった。
リンがヒフミを見る。
意見陳述の途中ではある。
だが先生は話を止め、ヒフミの方へ向いた。
「はい」
ヒフミは一度、自分の膝の上へ視線を落とした。
「それは……先生が、自分のしたことを正しかったと思っている、ということですか?」
慎重な問いだった。
「キヴォトスに来てからのことを、です」
先生はすぐに答えなかった。
ヒフミも答えを急かさない。
「全部が正しかったとは思っていません」
やがて先生は答えた。
「間違えたこともあります」
「……はい」
「でも」
先生は少し考える。
「誰かを助けようとしたことまで、間違いだったとは思っていません」
ヒフミが顔を上げる。
「それを過去の罪への言い訳にはしません。でも、罪への言い訳にしないことと、あの時間を否定することは、同じじゃないと思っています」
ヒフミは何も言わなかった。
先生も、それ以上は付け足さない。
やがてヒフミは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
先生も軽く頭を下げる。
リンは二人のやり取りが終わったのを確認してから、先生へ視線を戻した。
「続けてください」
「はい」
先生は再び前を見る。
「……たぶん、ここまでは」
少し迷ってから言う。
「私にとって、言いやすい話なんだと思います」
その言葉に、セリカが眉を寄せた。
先生自身の罪について語った。
生徒たちとの時間についても語った。
決して楽な話には聞こえない。
それでも先生は、言いやすいと言った。
「私を知っている人たちの話だからです」
ノアの表情が変わった。
ほんのわずかだった。
けれど、その言葉が何を意味しているのか、彼女には分かった。
「今日ここにいる皆さんは、私を知っています」
先生は言う。
「長さは違っても、一緒に過ごした時間があります」
先生の視線が、議場を巡る。
「私が何をしたかも知っている。失敗したところも、たぶん結構知っていると思います」
セリカの口元が一瞬だけ動いた。
今度も笑いにはならない。
「そのうえで、信じると言ってくれた人がいます」
ミカ。
ホシノ。
ハナコ。
マコト。
ノアも、セリカも、ここまで先生を残すことに賛成している。
「反対した人も、私がキヴォトスでしてきたことまで否定しているわけではありませんでした」
ユウカが先生を見る。
ヒナも同じだった。
「それは……私にとって、すごく恵まれたことだと思います」
先生はそこで少し息を吐いた。
「皆さんには、比べるものがあるからです」
ノアの指先が動いた。
少し前、モモカが読み上げた生徒たちの声が、まだ耳に残っている。
先生のことは信じている。
けれど、最初から過去を知っていたら、同じように見られたか分からない。
その言葉を聞いたとき、ノア自身も気づいてしまった。
自分たちは先生を知ってから、過去を知った。
先生は続ける。
「過去を知る前の私と、知ったあとの私を比べられる」
ノアは先生から目を離さなかった。
「だから、過去を知っても、それまで見てきたものを判断材料にできる」
先生はそこで一度止まる。
「でも」
その一言で、議場の空気が変わった。
「これから私に会う生徒には、それがありません」
セリカの肩がわずかに強張った。
「今日まで私と話したことがない生徒。助けられたこともない生徒。私が普段どんな人間なのか知らない生徒」
先生は淡々と並べる。
「そういう生徒が、これから私の前に来るかもしれない」
誰も口を挟まない。
「その子たちが最初に私について知ることの中には、今日明らかになった過去も入ります」
先生の声は変わらなかった。
「そのとき」
少し長い間があった。
「怖いと思われても、私はその子を責められません」
セリカが目を伏せた。
先ほどモモカが読み上げた一つの声が、不意に蘇る。
先生のことは信じている。
でも、もし最初から知っていたら。
同じように先生を見られたかは分からない。
その言葉を聞いたとき、セリカはすぐに否定できなかった。
自分は先生を知っている。
困っていたときに助けられた。
アビドスのために動いてくれた。
無茶をして、余計なことまで背負って、それでも生徒の側に立とうとしてきた先生を知っている。
だから信じられる。
だが、それを知らない生徒に対して。
自分は何と言えばいい。
大丈夫だから。
先生はそんな人じゃないから。
その言葉は、自分には言える。
けれど。
言われた側は、それだけで安心できるのだろうか。
「……先生」
今度はセリカだった。
自分から声を出したことに驚いたように、ほんの少し目を見開く。
先生は彼女を見る。
「なに?」
いつもの呼びかけだった。
審議会の証言者に対するものではない。
そのことがかえって、セリカを一瞬詰まらせた。
「じゃあ……」
セリカは言葉を探す。
「先生は、そういう子に信じてもらおうとは思わないの?」
議場の視線がセリカへ集まった。
セリカは気づいていたが、もう引っ込めなかった。
「怖いって思われたら、それでいいってこと?」
先生は少し考えた。
「よくはないよ」
「だったら」
「信じてもらえたら、嬉しい」
先生は答えた。
あまりにも素直な答えで、セリカが止まる。
「……嬉しい?」
「うん」
先生は頷いた。
「怖がられるよりは、信じてもらえる方が嬉しい」
「じゃあ……」
「でも、信じるように求めることはできない」
セリカの言葉が止まった。
先生は続ける。
「少なくとも、最初からは」
「……どうして」
先生は少しだけ考えた。
「信じる理由を持っていないから」
セリカは何も言えなかった。
「今ここにいる皆さんには、私を信じる理由も、信じない理由もあると思います。実際に一緒に過ごして、そのうえで決められるから」
先生は言う。
「でも、初めて会った生徒に、私にはこんな実績があるから信じてほしい、とは言えない」
そこで先生は小さく首を振った。
「それは、その子が自分で決めることだと思います」
セリカは先生を見たままだった。
「……じゃあ、怖いって言われても?」
「仕方ないと思う」
「嫌じゃないの?」
先生は少し困ったように黙った。
その沈黙が、答えだった。
セリカの眉が寄る。
「嫌じゃないわけじゃないよ」
やがて先生は言った。
「怖がられたら、たぶん傷つくと思う」
セリカが瞬きをした。
「できれば、普通に話してほしい。最初から避けられたら、きっと寂しいと思う」
先生は淡々と話す。
強がらない。
「でも、私が傷つくからという理由で、その子に怖がるなとは言えない」
セリカは口を閉じた。
先生の言葉には、正しさを誇る響きがなかった。
受け入れているというより、受け入れるしかないことを知っているようだった。
「……分かった」
セリカはそれだけ言って、座り直した。
先生は小さく頷いた。
そのやり取りを、ノアは黙って聞いていた。
モモカが報告した世論の変化を聞いたとき、自分の中に生まれた違和感。
自分たちは先生を知っている。
先生を知ったあとで、過去を知った。
だから、二つを比較できる。
それは判断材料が多いということだと思っていた。
けれど。
同時に、それは自分たちだけが持っている材料でもある。
ノアは机の上の端末へ目を落とす。
表示されているのは、午前から積み上げてきた記録。
先生の経歴。
刑期。
更生プログラム。
再犯の有無。
キヴォトスでの活動。
すべて事実だ。
そこへ、自分自身の経験が加わっている。
先生と交わした会話。
仕事ぶり。
生徒への接し方。
そうした記憶まで含めて、自分は「先生」という人間を判断している。
だが、その記憶を持たない生徒に同じ判断を求めることはできない。
ノアは、端末の画面を閉じた。
まだ答えは出さない。
ただ、午前に自分が出した答えを、そのまま最終回答として提出することはできない。
それだけは、はっきりしていた。
先生はノアの変化には気づかず、話を続けた。
「さっき、モモカさんが教えてくれた結果を聞いて」
モモカが先生を見る。
「正直に言うと、少し驚きました」
モモカは何も言わない。
「更生していると思う人が増えたのに、残すべきではないと思う人も増えた」
先生はその二つを口にする。
「最初は、矛盾しているように聞こえました」
マコトがわずかに目を細めた。
「でも、皆さんの話を聞いていたら、そうじゃないんだと思いました」
先生はそこで一度止まる。
「私が今、どういう人間なのか」
そして。
「私に、先生を続けてほしいか」
先生は二つを分けるように、ゆっくりと言った。
「同じ質問じゃないんですね」
ヒナの表情は変わらなかった。
だが、その視線は先生から外れない。
「今日まで、私はそこをあまり考えていませんでした」
先生は認めた。
「先生として働いている以上、ちゃんと先生でいようとは思っていました」
それは当然のこととして話す。
「生徒に信用されるように行動しようとも思っていました」
少しだけ間を置く。
「でも、それは目の前にいる生徒に対してでした」
ユウカが先生を見つめる。
「相談に来た子に、ちゃんと向き合う。困っている子がいたら助ける。約束したことを守る」
先生は一つずつ言う。
「そういうことを続ければいいと思っていました」
先生の手が、机の端に触れた。
「それで十分なのかどうかを、今日初めて考えました」
今度はヒナがわずかに動いた。
「教育者として必要な信頼が、それだけで成り立つのか」
先生はヒナを見なかった。
誰かの意見を借りて反論するための言葉ではない。
「私には、まだ分かりません」
先生は答えを出さなかった。
「だから、分からないことを分かったように言うつもりもありません」
ヒナの目が、ほんの少し細くなる。
「ただ」
先生は再び、生徒たちを見る。
「私を知っている皆さんが信じてくれることを理由に、私を知らない生徒にも信じるよう求めることはできない」
今度は迷わなかった。
「それは、分かりました」
セリカが目を伏せる。
ノアは閉じた端末の上へ手を置いたまま動かない。
ヒフミは先生を見ていた。
先生を信じている。
それは変わっていない。
先生に救われた。
それも変わらない。
今まで一緒に過ごした時間が偽物になるわけではない。
先生自身が、そう言ってくれた。
その言葉に、ヒフミは救われた気がした。
なのに。
その直後から、胸の中には別の重さが増えていた。
自分が先生を信じられる理由。
その理由を持っていない誰か。
どちらも無視したくない。
どちらかを間違いだと言えば、楽になるのかもしれない。
先生を信じる自分が正しい。
怖がる生徒が間違っている。
そう決めてしまえばいい。
あるいは逆に。
怖がる生徒がいる以上、先生を信じてはいけない。
そう決めてもいい。
けれど、今日一日話を聞いてきたヒフミには、もうどちらもできなかった。
先生は、そんなヒフミの迷いを知らない。
いや。
気づいていたとしても、答えを求めることはしなかった。
「先生」
リンが声をかけた。
「はい」
「ここまでのお話を踏まえて、一点確認します」
先生がリンを見る。
リンは机上の資料へ一度目を落とした。
「今のお話は、留任を希望しないという意思表示ではありませんね?」
議場の空気が変わった。
ミカが顔を上げる。
ヒフミも。
セリカも。
先生はリンを見たまま、しばらく答えなかった。
ここまで避けてきた問いだった。
過去をどう考えるか。
キヴォトスでの日々をどう考えるか。
自分を知らない生徒の不安をどう受け止めるか。
それらとは違う。
もっと単純で。
だからこそ、逃げられない問いだった。
先生自身は、この場所に残りたいのか。
先生はゆっくり息を吸った。
「……いいえ」
ミカの指が動く。
先生は続けた。
「残りたくない、という意味ではありません」
リンは黙って待つ。
先生は一度だけ目を閉じた。
そして、もう一度生徒たちを見た。
「そこについては」
今までで一番長く、言葉を選んだ。
「ちゃんと話しておきたいと思います」
先生はそう言ったあと、すぐには続きを口にしなかった。
これまでの発言では、過去についても、キヴォトスで積み重ねてきた時間についても、自分なりに整理して話すことができていた。けれど今、リンから向けられた問いは、それらとは少し性質が違っていた。
審議会で問われているのは、先生を教育者として残すべきかどうか。
しかし今、聞かれているのは制度でも社会でもない。
先生自身が、どうしたいのか。
その問いだけは、今日ここまで意識的に切り離してきた。
自分が残りたいから残してほしい。
自分が去りたいから追放してほしい。
どちらを口にしても、審議の意味を歪める気がしていたからだ。
先生は一度だけ議場を見渡した。
自分を信じると言ってくれた者もいる。
反対すると言った者もいる。
まだ答えを出せずにいる者もいる。
その全員が、自分の意思とは関係なく、この問題に向き合わされている。
だからこそ、先生は自分の希望を前に出さないようにしてきた。
けれど、それは希望がないという意味ではなかった。
「私は」
先生はゆっくりと口を開いた。
「ここに残りたいです」
ミカの目が大きく開いた。
ヒフミも顔を上げる。
セリカは、ほんの少しだけ息を呑んだ。
それまでの先生は、自分の処遇についてほとんど意思を示さなかった。だからこそ、その言葉は想像していた以上に強く響いた。
先生は続ける。
「できることなら、これからも先生でいたいと思っています」
声は穏やかだった。
けれど、そこには今までより明確な感情があった。
「まだ話したい生徒がいます。途中になっている相談もあります。これから関わるはずだった仕事もありますし、約束したことも残っています」
先生はそれを大げさに語らなかった。
自分が必要とされていると言いたいわけではない。
自分がいなければ困ると主張したいわけでもない。
ただ、本当に残りたいのだと認めているだけだった。
「キヴォトスに来てから、私はたくさんの人に助けてもらいました」
先生の視線が、自然に生徒たちの方へ向く。
「先生なのに、生徒に支えられたことも何度もあります」
ホシノが少しだけ目を細めた。
「失敗したときに怒られたこともありますし、無茶をしたときに止められたこともあります。自分では正しいつもりだったのに、あとから考えれば間違っていたこともありました」
ユウカは何も言わずに聞いている。
「それでも、そういう時間を含めて、私はここが好きです」
議場の空気がわずかに揺れた。
先生は、そこだけはごまかさなかった。
「だから、残れるなら残りたい」
もう一度、今度はよりはっきりと言う。
「それが私の本当の気持ちです」
ミカの指先から少しだけ力が抜けた。
先生が自分から残りたいと言った。
それだけなら、彼女にとっては嬉しい言葉だった。
午前から何度も、先生に残ってほしいと考えてきた。
それでも、その喜びは長く続かなかった。
先生の表情を見れば、続きがあることくらい分かったからだ。
「でも」
先生は一度、視線を下げる。
「私が残りたいと思っていることを、留任させる理由にはしないでください」
ミカの表情が止まった。
ヒフミは先生を見つめたまま動かない。
「私が先生を続けたいことと、私を先生として残すべきかどうかは、別の話です」
その言葉は、これまで審議会で何度も繰り返されてきた考え方と重なっていた。
けれど、当事者自身が自分の願いに対してそれを言うと、響きはまるで違った。
「教師という立場が、自分一人の希望だけで成り立つものではないことは分かっています」
先生は続ける。
「私が続けたいから続ける。それだけで決められる仕事なら、そもそも今日ここまで話し合う必要はなかったと思います」
リンは黙って聞いている。
議長として表情は崩さない。
「先生という仕事は、生徒がいて初めて成り立ちます」
先生は、自分の言葉を確かめるようにゆっくり話した。
「教える相手がいて、相談してくれる相手がいて、任せてもらう相手がいて、初めて先生でいられる」
ヒナが静かに先生を見る。
「だから、私が自分で『私は先生でいていい』と決めることはできないと思っています」
その言葉を聞いても、ヒナは表情を変えなかった。
先生がここまで理解しているからといって、教育者として残すべきという結論にはならない。
むしろ彼女にとっては、今の発言もまた、判断材料の一つにすぎない。
それでも、先生が自分の希望と職務上の適格性を分けて考えていることは、きちんと受け取っていた。
「今日、反対だと言ってくれた人の話を聞いて」
先生は少しだけ間を置いた。
「つらくなかったと言えば、嘘になります」
ユウカの眉がわずかに動く。
ヒナも目を逸らさない。
「自分がしてきたことを知っている人から、それでも先生としては残せないと言われるのは、やっぱりつらいです」
先生は率直に言った。
「でも」
その先に非難は続かなかった。
「だから言わないでほしかったとは思っていません」
ユウカがゆっくりと息を吐く。
「むしろ、言ってくれてよかったと思っています」
先生は続ける。
「もし皆さんが、私を傷つけたくないからという理由で本当の考えを言わなかったら、それはたぶん、もっと困ることだったと思うから」
誰かへの慰めでもない。
自分を大きく見せるための言葉でもない。
先生はただ、そう考えていた。
「賛成してくれた人にも、反対してくれた人にも、まだ迷っている人にも」
先生の視線がゆっくりと巡る。
「私のために答えを変えてほしいとは思いません」
今度はヒフミの肩がわずかに揺れた。
その言葉だけは、彼女に向けられたように感じた。
実際には、先生は誰か一人へ言ったわけではない。
それでもヒフミには重かった。
先生を信じたい。
残ってほしいとも思っている。
けれど、自分の一票が先生を傷つけるかもしれないと考えた瞬間から、どこかで正しい答えより先生が傷つかない答えを探そうとしていたのかもしれない。
先生はそれを求めていなかった。
「先生」
今度はミカが声を上げた。
リンが彼女を見る。
先生もミカへ向き直る。
「もし」
ミカは一度だけ言葉を飲み込んだ。
「もし、残れないって決まったら」
声は思っていたより静かだった。
「先生は、本当にそれでいいの?」
その問いに、先生はすぐ答えなかった。
いいわけがない。
残りたいと言ったばかりなのだから。
ミカ自身もそれは分かっていた。
それでも聞かずにはいられなかった。
先生は少しだけ困ったように目を伏せる。
「よくはないよ」
やがて答える。
ミカの瞳が揺れた。
「たぶん、すごく残念だと思う」
先生は続けた。
「もっとできたことがあったんじゃないかとか、もっと早く何かできなかったのかとか、そういうことは考えると思う」
それは、これまでの先生があまり見せてこなかった弱さだった。
「悔しいとも思うかもしれない」
ミカは何も言わない。
「でも」
先生はミカを見る。
「決まったあとで、誰かを責めるつもりはない」
ミカの唇が震えた。
「反対した人を恨むつもりもないし、最後まで迷った人に謝ってほしいとも思わない」
ヒフミの指先がわずかに動く。
先生はそれに気づいた様子を見せなかった。
「ここまで話して、それでも残すべきではないという結論になるなら」
先生は息を整える。
「私は、それを受け入れます」
ミカは視線を落とした。
「……そっか」
それ以上は言わなかった。
先生も、無理に何かを返さない。
リンはしばらく待ってから、先生へ視線を戻した。
「続けますか」
「はい」
先生は再び前を向いた。
「あと少しだけ」
先生は言った。
「今日、この場に来て」
一度、議場を見渡す。
「正直、怖かったです」
何人かの表情が変わった。
先生が自分からその言葉を使ったのは、これが初めてだった。
「何を言われるかが怖かったわけではありません」
先生はすぐに続ける。
「自分が知らなかったことを、知るのが怖かった」
ノアが顔を上げる。
「自分では先生としてちゃんとやっているつもりだった。生徒にも向き合ってきたつもりだった」
先生はその「つもり」を強調しなかった。
ただ、今まで自分がそう考えていたことを認める。
「でも今日、話を聞いて」
先生は一度だけ息を吐いた。
「自分が見ていたものが、ずいぶん狭かったんだと思いました」
セリカが先生を見る。
「私を知っている生徒に信じてもらうことばかり考えていた」
先生は言う。
「その外側に、まだ私と会ったことのない生徒がいることも分かっていたはずなのに、ちゃんと考えていませんでした」
先ほどまでセリカと交わしていた会話が、そのまま先生の中にも残っている。
自分を知っている生徒には、過去と現在を比べる材料がある。
しかし、これから初めて会う生徒にはそれがない。
「そういう生徒にどう見られるかまで含めて、先生という仕事なのかもしれない」
断定はしなかった。
「今日、初めてそう思いました」
ヒナは黙ったままだった。
その言葉は、彼女が午前から語ってきた教育者への責任に近い。
しかし、先生自身の口から出てきたことで、それを勝敗のようには感じなかった。
自分の主張が認められたわけではない。
先生が自分で一つのことに気づいただけだった。
「それでも」
先生は続ける。
「私はここに残りたいです」
さきほどと同じ言葉だった。
今度は少し違って聞こえた。
自分の問題を理解していないから残りたいのではない。
不安を抱く生徒の存在を知らないからでもない。
分かったうえで、それでも残りたい。
「残って、できることがあるならやりたい」
先生は言った。
「信じてもらえないなら、信じてもらえるまで行動したいと思う」
そこで一度止まる。
「でも」
先生は小さく首を振った。
「それを試す機会を、必ず私に与えるべきだとは言えません」
ノアの目がわずかに動いた。
「それを決めるのは、私ではありません」
先生はリンを見る。
「だから」
今度は、議場にいる全員へ向き直った。
「私の気持ちは、今話した通りです」
残りたい。
先生でいたい。
できるなら、これからも生徒たちと関わりたい。
それを隠さない。
「そのうえで」
先生の声が少しだけ低くなる。
「皆さんには、私がどうしてほしいかではなく、自分がどう考えるかで決めてほしいです」
ミカは目を伏せた。
ユウカは静かに先生を見る。
ヒナも。
ホシノも。
セリカも。
ノアも。
ヒフミも。
「賛成してほしいとは言いません」
先生は続ける。
「反対しないでほしいとも言いません」
そこには諦めではなく、覚悟があった。
「ここまで考えてくれた皆さんが出す答えなら」
先生は一度だけ息を吸う。
「私は受け入れます」
それで、先生の言葉は終わった。
深く頭を下げるわけでもなかった。
劇的な言葉を最後に置くこともしない。
先生はただ、小さく一礼して椅子へ戻った。
椅子が床を擦る音が、静かな議場へ響く。
それからしばらく、誰も口を開かなかった。
その沈黙は、先生の言葉に圧倒されたからではない。
誰かの考えが一つの方向へ揃ったわけでもなかった。
むしろ逆だった。
先生本人が何を望んでいるのかを知ったことで、これまでより判断は難しくなっていた。
残りたいと願っている。
それでも、自分を残すべきだとは言わない。
自分の善行を過去の罪への免罪符にもせず、反対する者を責めることもしなかった。
だからこそ、簡単な反応ができなかった。
ミカは先生を残したいという気持ちを失っていない。
むしろ、本人が残りたいと知ったことで、その気持ちは以前より強くなっていた。
ただ、今までのように「先生を信じたい」という言葉だけで全員を納得させられるとは、もう思っていない。
ユウカは先生の発言を聞いても、制度上の懸念が消えたとは感じなかった。
それでも、先生が問題そのものを理解せずに留任を求めているわけではないことは分かった。
ヒナも同じだった。
先生の言葉は、教育者としての信頼という問いへの答えにはなっていない。
けれど、少なくともその問いから逃げる人間ではない。
マコトは腕を組んだまま、静かに先生を見ていた。
更生した人間が社会へ戻ること。
その人間が特定の職務を任されること。
二つを切り分ける議論は、いつの間にか制度だけの問題ではなくなっている。
ホシノは椅子へ深く腰掛けたまま、何も言わない。
彼女が知っている先生は、今の言葉を口にした先生と大きく違わなかった。
だからこそ、自分が見てきたものをどう扱うかを、改めて決めなければならない。
セリカは膝の上で指を組み直した。
先生を信じる気持ちは消えていない。
けれど、それを持っていない誰かに同じ判断を求められないことも、もう分かってしまった。
ノアは閉じた端末へ手を置いたまま、考えていた。
事実は何一つ変わっていない。
先生の過去も、刑期満了も、更生プログラムの修了も、再犯が確認されていないことも、キヴォトスでの実績も変わらない。
変わったのは、それらを見るための自分の基準だった。
ヒフミは先生を見ていた。
先生は、残りたいと言った。
その言葉は嬉しかった。
けれど同時に、自分のために賛成してほしいとは言わなかった。
それが、苦しかった。
先生が「残してほしい」と言ってくれたなら、もっと簡単だったのかもしれない。
先生の願いを叶えるためだと言い訳できる。
けれど先生は、その逃げ道を作らなかった。
自分で考えてほしいと言った。
ヒフミは膝の上の手を見つめる。
答えは、まだ出なかった。
リンは議場全体を見渡した。
十分な時間を置いたあと、机上の進行表を閉じる。
「先生」
先生が顔を上げる。
「発言ありがとうございました」
「はい」
リンはそれだけ告げると、今度は代表者全員へ視線を移した。
「これまで本審議会では、各代表の意見、相互質疑、社会状況の報告、そして当事者本人の意見を確認しました」
誰も資料をめくらない。
もはや新しい資料を読む段階ではなかった。
「残るのは」
リンは静かに続ける。
「それぞれが、どのような結論を出すかです」
議場の空気が引き締まった。
ノアが顔を上げる。
セリカも。
ヒフミはまだ自分の手を見つめている。
「次の審議では、最終的な判断へ移ります」
リンは木槌には触れなかった。
その必要はなかった。
「各自、これまでの議論を踏まえたうえで、自分自身の答えを示してください」
誰も返事をしなかった。
しかし、逃げる者もいなかった。
先生は席に座ったまま、静かに彼女たちを見ていた。
もう、自分から言うべきことは残っていなかった。