先生はロリコンでした   作:風神ぷー

14 / 16
第十四話 それぞれの答え

 

もう、自分から言うべきことは残っていなかった。

 

先生は席に座ったまま、静かに彼女たちを見ていた。

 

リンが告げた「自分自身の答えを示してください」という言葉に、すぐ応じる者はいない。

 

議場には長い沈黙が残っていた。

 

これまでにも、発言が途切れることは何度もあった。相手の言葉を考え、反論を組み立て、自分の主張を確かめるために必要な時間だった。

 

けれど、今の沈黙はそれまでとは違う。

 

もう、相手を説得する必要はない。

 

新しい資料が示されることもなければ、別の論点が持ち込まれる予定もない。ここまで積み上げられた言葉を受け取ったうえで、それぞれが一つの答えを選ばなければならない。

 

リンは誰も急かさなかった。

 

机上の進行表へ視線を落とし、全員が顔を上げるまで待つ。

 

最初に動いたのはユウカだった。

 

資料を閉じ、机の上へ揃えて置く。

 

それにつられるようにヒナが姿勢を正し、ホシノも頬杖を外した。

 

ミカは先生を見ていた。

 

セリカは自分の指先へ目を落とし、ノアの端末は閉じられたままになっている。

 

ヒフミだけは、まだ顔を上げられずにいた。

 

やがてリンが口を開く。

 

「最終意思確認に入る前に、手順を説明します」

 

全員の視線が集まった。

 

「これ以降、相互質疑は行いません。また、ほかの代表者の回答に対する反論も認めません」

 

ミカがわずかに動いたが、何も言わない。

 

リンは続ける。

 

「各代表には、『先生を今後もキヴォトスの教育者として留任させることに賛成か、反対か』を明確に回答していただきます。そのうえで、必要であれば判断理由を述べてください」

 

「必要であれば?」

 

マコトが確認する。

 

「はい。理由の説明を義務にはしません」

 

リンは答えた。

 

「今日ここまで、十分な意見交換を行っています。すでに述べた内容を、最終回答のためだけに繰り返す必要はありません」

 

ハナコが小さく息を吐いた。

 

「なるほど。最後にもう一度、最初から全部お話しする必要はないということですね」

 

「その通りです」

 

リンは頷く。

 

「ただし、これまでの立場から回答を変更する場合、その理由については可能な範囲で説明をお願いします」

 

セリカの指が止まった。

 

ノアは何も動かさない。

 

二人とも、その言葉が自分に関係する可能性を理解していた。

 

リンはさらに続ける。

 

「ここから先は、誰かの回答を変えるための時間ではありません」

 

その言葉に、ミカがリンを見る。

 

「賛成する者は、反対する者を説得しないでください。反対する者も同様です。全員が同じ議論を聞き、同じ資料を確認しました。そのうえで異なる結論に至ることは、本審議会が想定しているものです」

 

「……分かった」

 

ミカが小さく答えた。

 

リンは彼女に何も付け足さない。

 

「また、先生からも先ほど、自分の希望によって回答を変えないでほしいという意思が示されています」

 

先生は黙って聞いていた。

 

自分の言葉が、もう一度別の形で返ってくる。

 

残りたい。

 

それでも、残してほしいとは言わない。

 

口にしたときよりも、その意味が重く感じられた。

 

これから目の前で、自分の処遇が一票ずつ決まっていく。

 

当然、怖くないわけではない。

 

それでも先生は、自分から何かを言うつもりはなかった。

 

リンが一度、全員を見渡す。

 

「回答後の変更は認めません」

 

議場の空気が、わずかに張り詰めた。

 

「一度示した意思は、そのまま最終的な票として記録します。よろしいですね」

 

今度は全員が、それぞれに頷いた。

 

リンは机上の端末を操作する。

 

壁面モニターの表示が切り替わり、これまで映されていた資料や世論調査の結果が消えた。

 

代わりに表示されたのは、簡素な文字だけだった。

 

『最終意思確認』

 

その下にはまだ、賛成も反対も表示されていない。

 

リンは手元の名簿へ目を落とした。

 

「では、始めます」

 

先生は無意識に両手を組んだ。

 

それに気づいて、一度ほどく。

 

平静でいようとしていること自体が、今は妙に意識された。

 

最初に名前を呼ばれたのは、ユウカだった。

 

「早瀬ユウカさん」

 

「はい」

 

ユウカはすぐに答えた。

 

迷いは見えない。

 

「先生を教育者として留任させることについて、最終的な意思を示してください」

 

ユウカは先生を見た。

 

先生もその視線を受け止める。

 

これまでユウカは、何度も先生に反対する意見を述べてきた。

 

そのたびに、先生個人を嫌っているわけではないと説明していた。

 

先生がキヴォトスで積み重ねてきたものも否定していない。

 

それでも、教育者としての留任には反対する。

 

先生は、彼女が何と答えるか分かっていた。

 

おそらくユウカ自身も、先生が分かっていることを知っている。

 

それでも、言葉にしなければ票にはならない。

 

「私は」

 

ユウカは一度だけ息を整えた。

 

「先生の留任に反対します」

 

壁面モニターへ、一票が記録された。

 

『反対 1』

 

誰もその数字を見て声を上げない。

 

先生もモニターを見なかった。

 

ユウカはまだ先生を見ていた。

 

リンが尋ねる。

 

「理由を述べますか」

 

「はい」

 

ユウカは頷いた。

 

「先生。先ほどの話を聞いて、私が今まで先生について考えていたことの中で、変わった部分があります」

 

先生は黙って聞く。

 

「先生がこの問題を、どこまで理解しているのかについてです」

 

ユウカは言葉を選びながら続けた。

 

「私は最初、先生がこれまで問題なく仕事をしてきたことや、多くの生徒から信頼されていることを理由に、このまま教師を続けることを当然だと思っている可能性も考えていました」

 

責めるような言い方ではなかった。

 

「でも、違いました」

 

先生の表情は変わらない。

 

「先生自身が、個人として信用されることと、制度として教育者の立場を認められることを分けて考えている。それは、先ほどの話で分かりました」

 

ユウカはそこで一度、目を伏せる。

 

「だからこそ」

 

再び先生を見る。

 

「私も、分けて判断します」

 

先生の指がわずかに動いた。

 

「先生が反省しているかどうか。更生しているかどうか。今の先生が信用できる人なのか。そういうことと、キヴォトスが制度として先生を教育者の立場に置き続けることは、同じではありません」

 

先生は何も言わない。

 

ユウカは続ける。

 

「先生個人を信用していないから反対するわけではありません」

 

その言葉は、これまでにも近い形で語られてきた。

 

けれど今は、最後の回答として口にされている。

 

「先生がこれまでしてきたことを、全部否定するつもりもありません。助けられた生徒がいることも、私自身、先生に助けてもらったことがあることも変わりません」

 

一瞬だけ、ユウカの声が弱くなった。

 

それでも言葉を止めない。

 

「そのうえで、教育制度として考えたとき、私は先生を残すべきだとは判断できませんでした」

 

先生はユウカを見たままだった。

 

「……そうか」

 

小さく答える。

 

リンは止めなかった。

 

反論ではない。

 

ただ、受け取ったことを示すための言葉だった。

 

ユウカは少しだけ眉を寄せる。

 

「すみません」

 

先生は首を横に振った。

 

「謝らなくていいよ」

 

その返事は早かった。

 

ユウカが目を見開く。

 

先生はそれ以上、何も言わなかった。

 

自分で決めてほしいと言ったのは自分だ。

 

その結果が望んだものではなかったからといって、謝罪まで求めるつもりはない。

 

ユウカはしばらく先生を見ていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……はい」

 

席へ深く座り直す。

 

リンは記録を確認した。

 

「早瀬ユウカさん。反対。最終回答として記録します」

 

「はい」

 

これで一票が確定した。

 

それだけだった。

 

誰かが勝ったわけではない。

 

何かが決着したわけでもない。

 

それでも、もう戻せない一票が置かれた。

 

先生はそこで初めてモニターを見る。

 

『賛成 0』

 

『反対 1』

 

たった一票。

 

だが、その数字が自分の未来に直接繋がっていると思うと、これまで見てきたどの集計とも違って見えた。

 

リンは次の名前へ移る。

 

「空崎ヒナさん」

 

「はい」

 

ヒナの返事は静かだった。

 

先生はモニターから視線を戻す。

 

ヒナと目が合った。

 

彼女もまた、これまで一貫して反対の立場にいる。

 

教育者という役割には、一般的な社会復帰とは別の責任がある。

 

先生個人が現在危険な人物であるかどうかだけでは判断できない。

 

何度も聞いてきた。

 

だから先生は、ヒナの答えにも驚かないだろうと思っていた。

 

「最終的な意思を示してください」

 

リンが告げる。

 

ヒナはわずかな間も置かなかった。

 

「反対します」

 

二票目が記録される。

 

『賛成 0』

 

『反対 2』

 

ミカが一瞬だけモニターへ目を向けた。

 

すぐに先生を見る。

 

先生はヒナから視線を逸らしていなかった。

 

リンが確認する。

 

「理由を述べますか」

 

「少しだけ」

 

ヒナは答えた。

 

ユウカのときよりも短くなることを、最初から決めているようだった。

 

「先生」

 

「うん」

 

「あなたの話を聞いて、あなた個人に対する私の評価は変わりました」

 

先生が少しだけ目を見開いた。

 

ヒナは続ける。

 

「私は、過去に罪を犯したという一点だけで、現在のあなたまで同じ人間だと判断するべきではないと思っています」

 

ヒナの声は平坦だった。

 

それでも、これまでより明確な言葉だった。

 

「刑を終えたことも、更生のために必要な手続きを終えたことも、その後再犯していないことも事実です。そして、キヴォトスであなたが生徒たちのために行動してきたことも、否定するつもりはありません」

 

ミカがヒナを見る。

 

ヒナは気づいていても、そちらを向かなかった。

 

「だから、今のあなたを過去の罪だけで評価するなら、私はそれに反対します」

 

先生は静かに聞いている。

 

そこまでなら、留任賛成にも聞こえる。

 

けれど、ヒナの答えはすでに示されている。

 

「でも、私たちが決めなければならないのは、あなたが社会の一員として生きることを認めるかどうかではありません」

 

ヒナは先生から目を逸らさない。

 

「あなたを教育者として残すかどうかです」

 

議場の誰も動かなかった。

 

「教育者は、生徒から信頼されることを前提に仕事をします。もちろん、すべての生徒から好かれる必要はありません。すべての生徒に無条件で信じてもらうことも不可能です」

 

ヒナはそこでわずかに間を置く。

 

「それでも、教育者という立場そのものが、生徒に一定の安心を与えられるものでなければならないと、私は考えています」

 

先生は少しだけ目を伏せた。

 

ヒナは言葉を続ける。

 

「あなたが先ほど、自分を知らない生徒が怖いと感じても責められないと言いました」

 

「うん」

 

「あの言葉を聞いて、私は考えを変えませんでした」

 

ヒナの声に迷いはない。

 

「むしろ、あなた自身がそれを理解しているなら、なおさら私は自分の判断を変えるべきではないと思いました」

 

先生が顔を上げる。

 

「あなたが誠実だから、残すべきだとは考えません。あなたが自分の問題を理解しているから、教育者としての不安がなくなるとも考えません」

 

厳しい言葉だった。

 

けれど、そこに先生を突き放そうとする感情はない。

 

「人として信用できることと、特定の役割を任せられることは別です」

 

先生はしばらくヒナを見たあと、小さく頷いた。

 

「分かった」

 

ヒナの表情が、ごくわずかに揺れた。

 

「……先生」

 

「なに?」

 

ヒナは一瞬、何かを言いかけた。

 

だが、それを口にする前に止める。

 

謝る必要はない。

 

先生自身が、先ほどユウカへそう言ったばかりだった。

 

「いいえ」

 

ヒナは小さく首を横に振った。

 

「以上です」

 

リンが記録を確認する。

 

「空崎ヒナさん。反対。最終回答として記録します」

 

「はい」

 

二票目が確定した。

 

先生は自分の手元へ視線を落とした。

 

覚悟していた答えだった。

 

それでも、何も感じないわけではない。

 

自分を知っている生徒から、教育者としては残せないと言われる。

 

先ほど自分で口にした通り、やはりつらかった。

 

けれど、不思議と腹は立たなかった。

 

ユウカもヒナも、自分を罰するために反対したわけではない。

 

過去を知った瞬間に、それまでの自分をすべて否定したわけでもない。

 

むしろ、今の自分を見たうえで、それでも違う答えを出した。

 

そのことが分かるからこそ、簡単に恨むこともできなかった。

 

先生は顔を上げる。

 

ユウカと目が合った。

 

彼女はすぐには逸らさなかった。

 

少し離れたところではヒナも、いつも通りの姿勢で座っている。

 

勝った者の顔ではなかった。

 

まだ、何も決まっていないからだけではない。

 

二人とも、自分が今置いた票の重さを理解している。

 

リンが次の名前を確認する。

 

そのわずかな時間に、ミカが小さく息を吐いた。

 

先生はその音に気づいた。

 

ミカは前を向いている。

 

膝の上では、両手が強く握られていた。

 

反対が二票続いた。

 

それでも彼女の表情に迷いはなかった。

 

むしろ先生が先ほど「残りたい」と言ったことを聞いてから、彼女の中では何かが決まっているように見えた。

 

リンもそれを知っているわけではない。

 

ただ名簿の順番に従って、次の名前を呼ぶ。

 

「聖園ミカさん」

 

「はい」

 

返事はすぐだった。

 

ミカは先生を見る。

 

先生も彼女を見る。

 

少し前までなら、ミカが何を言うのか先生にも分かっていた。

 

今も、おそらく答えそのものは変わらない。

 

けれど、今日ここまで聞いてきたものを経て、それでも同じ答えを選ぶのなら。

 

最初に口にした「賛成」と、今から口にする「賛成」は、きっと同じものではない。

 

リンが問いかける。

 

「先生を教育者として留任させることについて、最終的な意思を示してください」

 

ミカは先生を見たまま、ゆっくりと息を吸った。

 

そして、迷わず口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「賛成します」

 

ミカの声は、思っていたよりも静かだった。

 

壁面モニターの数字が変わる。

 

『賛成 1』

 

『反対 2』

 

初めて賛成側に数字が入った。

 

けれどミカは、モニターを見ようともしなかった。

 

視線はずっと先生に向けられている。

 

先生もまた、何も言わずにミカを見ていた。

 

リンが確認する。

 

「理由を述べますか」

 

「うん」

 

ミカは頷いた。

 

いつもの彼女なら、もう少し勢いよく話し始めていたかもしれない。先生が好きだから、先生を信じているから、残ってほしいから。そうした言葉を隠す必要などないと、真っ先に言ったはずだった。

 

今も、その気持ちは変わっていない。

 

けれど、それだけを言って終わりにはしたくなかった。

 

「私ね」

 

ミカは一度、先生から視線を外した。

 

向かい側にはユウカとヒナがいる。

 

二人とも、すでに反対票を投じている。

 

以前なら、その二票を見ただけで腹が立っていたかもしれない。先生の何を知っているのかと言いたくなったかもしれないし、どうして信じてあげられないのかと責めたくなったかもしれない。

 

けれど今は、そう思わなかった。

 

「最初は、反対って言う人のことが、あんまり分からなかったんだ」

 

ユウカがミカを見る。

 

ヒナも黙って聞いている。

 

「先生が今まで何をしてくれたのか知ってるのに、どうしてそんなこと言えるのかなって思ってた。過去のことだけ見て、今の先生を見てないんじゃないかって」

 

ミカはそこで少しだけ笑った。

 

楽しそうな笑いではない。

 

「でも、違ったね」

 

ユウカの表情がわずかに動く。

 

「ユウカちゃんも、ヒナちゃんも、ちゃんと今の先生を見てた。そのうえで反対してた」

 

ミカは一度、唇を結んだ。

 

「それが分かったからって、私も反対にするわけじゃないけど」

 

そこは迷わなかった。

 

「怖いと思う子がいることも、前よりは分かるよ。先生を知らない子に、私が『大丈夫だから信じて』って言ったって、その子には分からないよね」

 

先生が静かに聞いている。

 

ミカは、その視線をもう一度受け止めた。

 

「でもね、先生」

 

「うん」

 

「それでも私は、先生に残ってほしい」

 

声は震えなかった。

 

「先生が残りたいって言ったからじゃないよ」

 

先生がわずかに目を見開く。

 

「もちろん、それを聞けたのは嬉しかったけど」

 

ほんの少しだけ、いつものミカらしい表情が戻った。

 

「すっごく嬉しかった。そこは嘘つかない」

 

先生の口元が、ごくわずかに緩む。

 

けれどミカはすぐ真剣な表情へ戻った。

 

「でも、先生が『残りたい』って言わなかったとしても、私は賛成してたと思う」

 

「……そうか」

 

「うん」

 

ミカは頷く。

 

「私は先生に助けてもらったから」

 

それは、これまでにも何度も口にしたことだった。

 

しかし、今回はその先があった。

 

「でも、それだけじゃない」

 

ミカはゆっくりと言葉を探す。

 

「先生に助けてもらったから、先生が何をしても許すってことじゃないし、先生が昔したことまで大丈夫だって言うつもりもない」

 

少しだけ言いづらそうに、それでも止まらずに続けた。

 

「先生がしたことは悪かった。それで傷ついた人がいるなら、そのことは私が先生を好きだからって消えたりしない」

 

先生は目を逸らさなかった。

 

ミカも逸らさない。

 

「それでも、今の先生が誰かを傷つけるために生徒のそばにいる人だとは、私は思ってない」

 

議場が静まっている。

 

「先生は私たちのことをちゃんと見てくれた。間違えることもあったし、無茶することもあったし、たまに何考えてるのか分かんないときもあるけど」

 

「たまに?」

 

先生が思わず聞き返した。

 

ミカは一瞬だけ止まり、それから少し頬を膨らませる。

 

「今そこ気にする?」

 

議場の空気がほんの少し緩んだ。

 

ホシノの口元に薄い笑みが浮かび、セリカも一瞬だけ呆れたような顔をする。

 

先生は小さく首を振った。

 

「ごめん」

 

「もう」

 

ミカは小さく息を吐く。

 

その短いやり取りのあと、表情を戻した。

 

「そういうところも含めて、私は先生を見てきた」

 

今度は、はっきりと言う。

 

「だから私は、自分が見てきた先生を信じる」

 

ミカはそこで、ユウカとヒナへ視線を向けた。

 

「二人が間違ってるって言いたいんじゃないよ」

 

ユウカが少し驚いたように瞬きをする。

 

「怖いと思う子が間違ってるとも、もう言わない」

 

ミカは一度息を吸う。

 

「それでも、私の答えは賛成」

 

そして先生を見る。

 

「先生に残ってほしい」

 

先生は少しだけ目を伏せた。

 

「ありがとう」

 

ミカの表情が揺れる。

 

それ以上の言葉はなかった。

 

けれど、今のミカにはそれで十分だった。

 

リンが記録を確認する。

 

「聖園ミカさん。賛成。最終回答として記録します」

 

「うん」

 

ミカは席へ座り直した。

 

反対二票。

 

賛成一票。

 

数字だけを見れば、先生を残さない側が一つ多い。

 

それでも議場の空気は、ユウカとヒナの回答が続いたときとは少し変わっていた。

 

ミカが賛成したからではない。

 

彼女が、反対する者を否定せずに賛成したからだった。

 

同じ議論を聞いた。

 

同じ先生の言葉を聞いた。

 

そのうえで違う答えを出した。

 

それでも、どちらかが相手を理解していないとは限らない。

 

リンは次の名前へ視線を移した。

 

「小鳥遊ホシノさん」

 

「はいよ」

 

ホシノはいつもの調子で答えた。

 

緊張感のある議場では、少しだけ場違いに聞こえる。

 

けれど、それが彼女なりに平静を保っているだけだと知っている者も多かった。

 

ホシノは椅子へ深く腰掛けたまま、先生を見る。

 

「最終的な意思を示してください」

 

「賛成」

 

返答は短かった。

 

壁面モニターが更新される。

 

『賛成 2』

 

『反対 2』

 

数字が並んだ。

 

ミカがモニターへ目を向ける。

 

今度は何も言わなかった。

 

リンはホシノへ尋ねる。

 

「理由を述べますか」

 

「んー……」

 

ホシノは少し考えた。

 

「長くはいいかな」

 

「構いません」

 

「じゃあ、ちょっとだけ」

 

頬杖をつきそうになって、途中でやめる。

 

「おじさんはさ」

 

ホシノは先生を見る。

 

「結局、先生の昔を知らないんだよね」

 

先生は黙っている。

 

「記録で読んだことは知ってるよ。有罪になったことも、刑を終えたことも、そのあとのことも。でも、それっておじさんが見たわけじゃない」

 

ホシノは淡々と話した。

 

「だから昔の先生がどういう人だったのか、本当のところは分からない」

 

誰も口を挟まない。

 

「分からないものを、分かったふりして話す気もないかな」

 

その言葉は、先生が先ほど口にしたものと少し似ていた。

 

「おじさんが知ってるのは、アビドスに来てからの先生だけ」

 

ホシノの声から、普段の眠たげな調子が少し薄れる。

 

「頼んでもないのに首突っ込んできて、危ないことにも付き合って、こっちがもういいって言ってもなかなか諦めなくて」

 

セリカがホシノを見る。

 

「まあ、正直めんどくさい大人だよね」

 

「ホシノ先輩?」

 

思わずセリカが口を挟んだ。

 

ホシノは肩をすくめる。

 

「褒めてるんだけどなぁ」

 

「どこがよ」

 

「そのへん」

 

「分かんないわよ」

 

一瞬だけ交わされたやり取りに、先生は何も言わなかった。

 

ただ、少し懐かしそうに二人を見る。

 

ホシノは再び先生へ視線を戻した。

 

「でも、そんな先生がいなかったら、今とは違ってたと思う」

 

声が静かになる。

 

「だから、おじさんは自分が見たものをなかったことにはできない」

 

先生がわずかに目を細める。

 

「先生を知らない子が怖がるかもしれない。それも分かったよ」

 

ホシノは続けた。

 

「もし最初から知ってたら、自分も同じように先生を見られたかって聞かれたら……まあ、分かんないね」

 

セリカの表情が少しだけ変わる。

 

「たぶん警戒したと思うし、今より距離を取ったかもしれない」

 

ホシノはそれを隠さなかった。

 

「でも、それは会う前の話だから」

 

「……会う前?」

 

先生が聞く。

 

「うん」

 

ホシノは頷いた。

 

「会う前だったら警戒したかもしれない。でも、おじさんはもう会っちゃったからね」

 

先生は何も言えなかった。

 

「先生と一緒に色々やって、どういう大人なのか自分なりに見てきた。それなのに、会う前だったらどうだったかって想像だけで、今の判断まで変えるのは違う気がする」

 

ホシノは少しだけ目を細める。

 

「まだ先生を知らない子の代わりに、おじさんが反対する必要もないと思ってる」

 

ヒナが静かにホシノを見る。

 

意見は違う。

 

けれど反論はしない。

 

「その子が怖いなら、その子が怖いって言えばいい。先生を信用できないなら、信用できないって言っていいと思う」

 

ホシノはそこで一度止まった。

 

「でも、おじさんの票は、おじさんが決めるものだから」

 

先生がホシノを見つめる。

 

「おじさんは、自分が知ってる先生に入れるよ」

 

ホシノはわずかに笑った。

 

「だから賛成」

 

それで話を終えた。

 

リンは記録を確認する。

 

「小鳥遊ホシノさん。賛成。最終回答として記録します」

 

「はーい」

 

いつもの気の抜けた返事だった。

 

それでも、先生にはその一票が軽いものには聞こえなかった。

 

賛成二票。

 

反対二票。

 

数字だけなら同数になった。

 

しかし、ユウカとヒナが示した反対と、ミカとホシノが示した賛成は、単純に打ち消し合うものではなかった。

 

ユウカは、先生個人への信頼と制度上の判断を分けた。

 

ヒナは、現在の先生を過去だけで否定しないまま、教育者として求められる安心を優先した。

 

ミカは、反対する者の不安を理解したうえで、それでも自分が見てきた先生を信じた。

 

ホシノは、自分が持っていない誰かの経験を想像して票を変えるのではなく、自分自身が知っている先生を判断材料にした。

 

同じ事実から、違う答えが出ている。

 

それは今日ここまで繰り返されてきたことだった。

 

ただ今は、その違いが議論ではなく、取り消すことのできない一票として並んでいる。

 

先生は壁面モニターを見る。

 

二対二。

 

その数字を見ても、安心はできなかった。

 

あと何票あるかを数えそうになり、やめる。

 

誰がどちらへ入れるのかを予想することも、できるだけ考えないようにした。

 

自分で決めてほしいと言った。

 

ならば、答えが出る前から心の中で誰かに賛成を期待することさえ、少し卑怯な気がした。

 

もちろん、期待しないことなどできない。

 

残りたいのだから。

 

賛成が増えれば嬉しい。

 

反対が増えれば苦しい。

 

そこまで消してしまえば、先ほど自分が語った「残りたい」という言葉まで嘘になる。

 

だから先生は、期待する自分まで否定しようとはしなかった。

 

ただ、その期待を相手に背負わせない。

 

それだけを決めていた。

 

リンが次の名前へ視線を落とす。

 

先生はその動きを見た。

 

次に誰が呼ばれるのか。

 

名簿を見なくても分かった。

 

セリカの身体が、さきほどからわずかに強張っている。

 

ホシノが話している間も、彼女は何度か顔を上げ、そのたびにまた視線を落としていた。

 

ホシノの答えは、セリカにとっても理解できるものだった。

 

自分が知っている先生を基準にする。

 

まだ先生を知らない誰かの代わりに、自分が判断する必要はない。

 

そう考えるなら、セリカも賛成のままでいられる。

 

実際、少し前までそうするつもりだった。

 

先生は信用できる。

 

アビドスで何をしてくれたか知っている。

 

危険な人だと思ったこともない。

 

過去が明らかになったあとでさえ、その部分は変わっていない。

 

なら、賛成でいい。

 

そう考えていた。

 

けれど、胸の中に引っかかったまま消えないものがあった。

 

――信じる理由を持っていないから。

 

先生に、初めて会う生徒のことを尋ねたとき。

 

なぜ信じるように求められないのかと聞いた自分へ、先生はそう答えた。

 

信じてもらえたら嬉しい。

 

怖がられれば傷つく。

 

それでも、自分が傷つくからという理由で怖がるなとは言えない。

 

あのときの先生の声が、まだ耳に残っている。

 

セリカは膝の上で手を握った。

 

先生を知らない子の代わりに反対する必要はない。

 

ホシノの言葉は分かる。

 

むしろ、そう考えたい。

 

それなら自分は先生を裏切らなくて済む。

 

その考えが浮かんだ瞬間、セリカは自分で嫌になった。

 

裏切る。

 

なぜ、そんな言葉が出てくるのか。

 

反対することは、先生を裏切ることなのか。

 

なら、ユウカは先生を裏切ったのか。

 

ヒナは。

 

違う。

 

二人の言葉を聞いて、そんなふうには思わなかった。

 

先生自身も、二人に謝らなくていいと言った。

 

なのに自分の番になると、急に怖くなる。

 

先生にどう思われるか。

 

ホシノにどう思われるか。

 

アビドスのみんなにどう思われるか。

 

そこまで考えて、セリカは小さく息を吐いた。

 

それでは駄目だ。

 

これは、自分が先生に好かれるための票ではない。

 

リンが名簿から顔を上げる。

 

「黒見セリカさん」

 

呼ばれた。

 

セリカの肩が小さく跳ねた。

 

「……はい」

 

返事が少し遅れた。

 

先生がセリカを見る。

 

その視線に気づいた瞬間、胸の奥が強く縮む。

 

いつもの先生だった。

 

アビドスで何度も見た顔。

 

困ったときに話を聞いてくれた。

 

危ないときには一緒に来た。

 

余計なことまで抱え込んで、こっちに心配をかけることもあった。

 

その先生に向かって、自分は何を言おうとしているのか。

 

「最終的な意思を示してください」

 

リンの声は変わらない。

 

セリカは口を開いた。

 

「私は……」

 

そこで止まった。

 

誰も急かさない。

 

先生も待っている。

 

「……ちょっと待って」

 

セリカが言った。

 

リンはすぐに頷く。

 

「構いません」

 

セリカは目を閉じた。

 

賛成と言えば終わる。

 

それは嘘ではない。

 

先生に残ってほしい気持ちは本物だ。

 

先生を信じていることも本物。

 

なら、それでいいはずだった。

 

けれど、もう一つの問いが消えない。

 

自分が先生を知る前だったら。

 

アビドスで一緒に過ごす前だったら。

 

最初に先生の過去を知っていたら。

 

その人を「先生」と呼んで、何も知らない今までと同じように相談できただろうか。

 

セリカは答えを探した。

 

大丈夫だった。

 

そう言いたかった。

 

自分なら偏見なんて持たなかったと。

 

先生の現在を見て判断できたと。

 

けれど。

 

どうしても、その答えだけは出てこなかった。

 

分からない。

 

それが、今の自分に言える一番正確なことだった。

 

セリカはゆっくりと目を開ける。

 

先生と目が合った。

 

先生は何も言わない。

 

励ましもしない。

 

賛成してほしいとも言わない。

 

ただ待っている。

 

それが、余計につらかった。

 

「先生」

 

セリカが呼んだ。

 

「うん」

 

「一個だけ、聞いてもいい?」

 

リンがわずかに眉を動かした。

 

最終意思確認に入ったあとは相互質疑を行わない。

 

セリカ自身も、それを理解している。

 

「あ……」

 

気づいて、言葉を止める。

 

リンは少し考えた。

 

「回答を決めるための新たな質疑は認められません」

 

「……そうよね」

 

「ただし」

 

リンが続ける。

 

「ご自身の考えを整理するため、すでに先生から示された意思について確認するだけであれば、内容を聞いたうえで判断します」

 

セリカは少し迷ってから、先生を見る。

 

「先生がさっき言ったこと、変わってない?」

 

先生は問い返さなかった。

 

何を指しているのか分かった。

 

「変わってないよ」

 

「私たちに、自分で決めてほしいって」

 

「うん」

 

「先生が残りたいかどうかとは別に?」

 

先生は少しだけ息を吸った。

 

「別に考えてほしい」

 

セリカの顔が歪みそうになる。

 

それでも堪えた。

 

「……そっか」

 

リンはそれ以上のやり取りを認めなかった。

 

認める必要もなかった。

 

セリカはもう、聞きたいことを聞いている。

 

先生の答えも、最初から変わっていない。

 

セリカは一度だけ深く息を吸った。

 

それから先生をまっすぐ見た。

 

「私、先生のこと信じてる」

 

先生の表情がわずかに動く。

 

「今も」

 

セリカは続ける。

 

「過去のこと知ったからって、今まで先生がやってくれたことが嘘だったなんて思ってない。先生が私たちを騙すために助けたとも思ってない」

 

声が少しだけ震えた。

 

それでも、言葉は止めなかった。

 

「先生が今、危ない人だとも思ってない」

 

先生は黙って聞いている。

 

「だから……最初は、賛成でいいって思ってた」

 

リンが静かにセリカを見る。

 

これまでの立場から回答が変わる可能性がある。

 

そのことを、セリカ自身の言葉が示していた。

 

「先生を知ってる私が、先生を信じなくてどうするのよって思ってた」

 

セリカは少しだけ俯く。

 

「でも、それって……違うのかなって」

 

「セリカ」

 

先生が名前を呼ぶ。

 

セリカはすぐに顔を上げた。

 

先生は続きを言わなかった。

 

止めるためではない。

 

ただ、聞いていることを伝えるような呼び方だった。

 

セリカは唇を噛みそうになり、やめる。

 

「私が先生を信じることと、先生をみんなの先生として残すことって、同じじゃないのよね」

 

先生は答えなかった。

 

それを決めるのはセリカだからだ。

 

「私には、信じられる理由がある」

 

アビドスで過ごした時間。

 

助けられたこと。

 

一緒に問題へ向き合ったこと。

 

何度も話したこと。

 

その全部がある。

 

「でも、何にも知らない子にはない」

 

セリカはゆっくりと言葉を続けた。

 

「その子に『私が大丈夫だったから、あなたも大丈夫』って言うのは……なんか違う」

 

声が小さくなる。

 

「もし私が逆だったらって考えたの」

 

先生が静かにセリカを見る。

 

「先生に会う前に、最初に過去のことを知ってたら」

 

セリカは一度、目を伏せた。

 

「今と同じようにできたか、分かんない」

 

議場に沈黙が落ちる。

 

「怖がらなかったって言い切れない。普通に相談できたって言い切れない」

 

その言葉を口にするのは、セリカにとって苦しかった。

 

自分まで先生を偏見で見る人間だったかもしれないと認めることになるからだ。

 

「でも、分かんないのに『私は大丈夫だった』ってことにして賛成するのも、違うと思う」

 

先生は何も言わなかった。

 

セリカは、先生の顔を見た。

 

残ってほしい。

 

その気持ちは、まだ消えていない。

 

だからこそ、次の言葉が重かった。

 

「私……」

 

一度、息を止める。

 

「反対します」

 

壁面モニターの数字が変わった。

 

『賛成 2』

 

『反対 3』

 

セリカはモニターを見なかった。

 

先生だけを見ていた。

 

「先生を信じてないわけじゃないから」

 

ほとんど反射的に出た言葉だった。

 

言った直後、セリカ自身が顔を歪める。

 

言い訳のように聞こえたかもしれない。

 

けれど先生は、少しも迷わなかった。

 

「分かってる」

 

セリカの瞳が揺れた。

 

「……本当に?」

 

「うん」

 

先生は頷いた。

 

「分かってるよ」

 

それだけだった。

 

先生は「気にしなくていい」とは言わなかった。

 

「正しい判断だ」とも言わなかった。

 

セリカが何を考えて、その答えを出したのか。

 

ただ、それを受け取った。

 

セリカはしばらく先生を見ていたが、やがて視線を落とした。

 

「……ごめん」

 

小さく漏れた。

 

先生は一瞬だけ何かを言おうとした。

 

けれど、ユウカへ言ったのと同じように「謝らなくていい」と返すことが、今のセリカにはかえって重い気がした。

 

だから、別の言葉を選んだ。

 

「ありがとう」

 

セリカが顔を上げる。

 

「なんで……」

 

「ちゃんと考えてくれたから」

 

セリカは何も言えなかった。

 

泣きはしなかった。

 

ただ、悔しそうに眉を寄せたまま、小さく頷いた。

 

リンが記録を確認する。

 

「黒見セリカさん。反対。最終回答として記録します」

 

「……はい」

 

セリカの一票が確定した。

 

賛成二票。

 

反対三票。

 

これまでに五人が答えを示した。

 

残っている者たちは、まだ何も言わない。

 

ノアは閉じた端末の上に手を置き、壁面モニターではなく先生を見ている。

 

ハナコは静かにセリカの横顔を見つめていた。

 

マコトは腕を組んだまま、何かを考えている。

 

そしてヒフミは、セリカの「反対します」という言葉が告げられてから、一度も顔を上げていなかった。

 

リンは次の名前へ進まなかった。

 

セリカが席へ戻り、自分の呼吸を整えるまで待つ。

 

その間、先生は壁面モニターへ目を向けた。

 

『賛成 2』

 

『反対 3』

 

初めて、反対側が一票上回った。

 

数字そのものよりも、そこへ至るまでの言葉の方が重かった。

 

ユウカも。

 

ヒナも。

 

そしてセリカも。

 

誰一人、自分を憎んで反対したわけではない。

 

そのことは、もう疑えなかった。

 

先生はゆっくりと息を吐いた。

 

残りたいという気持ちは、まだ変わらない。

 

だから、この数字を見れば苦しい。

 

それでも。

 

セリカが最後に見せた顔を思えば、自分だけが苦しいのだとは、とても言えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セリカの一票が記録されても、リンはすぐに次の名前を呼ばなかった。

 

壁面モニターには、賛成二票、反対三票という途中経過が表示されている。

 

けれど、議場にいる者たちの視線はほとんど数字へ向いていなかった。

 

ユウカも、ヒナも、セリカも。

 

三人とも先生を嫌って反対したわけではない。

 

先生が更生していないと断じたわけでもない。

 

それぞれ違う理由で、自分の答えとして反対を選んだ。

 

先生は、そのことを分かっていた。

 

だからこそ、苦しかった。

 

反対されたことそのものは、やはりつらい。

 

それでも、誰かを責める気にはなれなかった。

 

セリカは席へ戻ってから、しばらく顔を上げなかった。

 

先生も声をかけない。

 

やがてセリカが小さく息を吐き、ようやく前を向いた。

 

そのとき、一瞬だけ先生と目が合った。

 

セリカは気まずそうに眉を寄せたものの、今度は逸らさなかった。

 

先生も何も言わない。

 

それだけで十分だった。

 

リンはその様子を確認してから、残る者へ視線を移した。

 

ノア。

 

ハナコ。

 

マコト。

 

ヒフミ。

 

まだ四人が答えを示していない。

 

「ここで確認します」

 

リンが口を開く。

 

「現時点で、回答にもう少し時間が必要な方はいますか」

 

すぐに手を上げる者はいなかった。

 

マコトは腕を組んだまま、ハナコは静かに前を見ている。

 

ノアは閉じた端末へ視線を落とし、ヒフミは膝の上で両手を重ねていた。

 

「回答を拒否するという意味ではありません」

 

リンは続ける。

 

「判断を整理するために時間が必要かどうかを確認しています」

 

「……はい」

 

最初に返事をしたのはヒフミだった。

 

声は小さかった。

 

「少しだけ、考えたいです」

 

「分かりました」

 

リンはすぐに頷いた。

 

ヒフミが迷っていることは、もう誰も不思議には思わない。

 

先生を信じている。

 

救われたことも忘れていない。

 

それでも、留任に賛成することと、先生を信じることが本当に同じなのか。

 

その答えを、まだ出せずにいる。

 

続いてハナコが手を上げた。

 

「私も少しだけお願いします」

 

「理由を伺っても?」

 

「答えそのものより、何を意味する票なのかを整理したいんです」

 

ハナコは穏やかに答えた。

 

「賛成したからといって、先生に何の問題もないと宣言するわけではありません。反対したからといって、更生していないと断定するわけでもない」

 

ユウカとヒナが静かに聞いている。

 

「ですから、自分の一票が何を肯定して、何を残すのか。それだけは考えておきたいです」

 

リンは頷いた。

 

「承知しました」

 

「私は決まっているぞ」

 

マコトが言った。

 

「では、今回答しますか」

 

「いや」

 

マコトは少しだけ笑う。

 

「ここまで来たのだ。全員が腹を括るまで待つくらいの余裕はある」

 

「ご配慮ありがとうございます」

 

「もっと感心してもいいのだぞ?」

 

「進行を続けます」

 

「相変わらずだな」

 

短いやり取りのあと、マコトも黙った。

 

残るはノアだった。

 

リンが視線を向ける。

 

「ノアさん」

 

「はい」

 

ノアは顔を上げた。

 

「私も、少しだけ時間をいただけますか」

 

ユウカがわずかに反応する。

 

ノアはこれまで、誰よりも事実を整理してきた。

 

有罪判決。

 

刑期満了。

 

更生プログラム修了。

 

再犯歴なし。

 

キヴォトスでの活動実績。

 

それらを一つずつ切り分け、感情と評価を混同しないようにしてきた。

 

だからこそ、自分自身の答えも同じように整理できると思っていた。

 

少し前までは。

 

しかし今は、事実そのものが変わったわけではないのに、自分の見方だけが変わっている。

 

先生を知っている自分。

 

先生をまだ知らない生徒。

 

その差を、どう扱うべきなのか。

 

ノアはまだ、その答えを言葉にできていなかった。

 

「分かりました」

 

リンが答える。

 

「では、一度ここで最終意思確認を止めます。議場はそのまま使用します。各自、回答の準備が整った時点で申し出てください」

 

誰も席を立たなかった。

 

休憩ではない。

 

ただ、考えるための時間が置かれただけだった。

 

先生は壁面モニターを見る。

 

賛成二票。

 

反対三票。

 

その下に、まだ四つの空白がある。

 

自分の未来を決める空白。

 

そう考えかけて、先生はすぐにやめた。

 

あの四人は、自分を救うために票を持っているわけではない。

 

自分を追い出すためでもない。

 

それぞれ、自分の責任で答えを出そうとしている。

 

なら、自分にできるのは待つことだけだった。

 

少し離れたところで、ヒフミが顔を上げた。

 

セリカを見る。

 

反対票を入れたあとも、セリカは先生を嫌っているようには見えなかった。

 

先生も、セリカを拒絶しなかった。

 

その事実が、ヒフミの中に残る。

 

反対することは、先生を否定することと同じではない。

 

先生に救われた自分を否定することとも、同じではない。

 

そう考えた瞬間、胸の中にあったものが、ほんの少しだけほどけた。

 

答えはまだ出ない。

 

けれど、今までよりは一歩だけ近づいた気がした。

 

その隣で、ノアがゆっくりと端末を開いた。

 

もう一度、記録を確認する。

 

新しい情報を探すためではない。

 

自分が何を基準に判断するのかを確かめるためだった。

 

しばらくして。

 

ノアは端末を閉じた。

 

小さな音が議場に響く。

 

ユウカが顔を上げる。

 

先生も気づいた。

 

ノアは両手を机の上へ置き、リンを見る。

 

「リン行政官」

 

「はい」

 

「お待たせしました」

 

ノアの声には、先ほどまでの迷いが残っていなかった。

 

「私は、回答できます」

 

議場の空気が再び引き締まる。

 

リンは名簿を開いた。

 

先生もノアを見る。

 

壁面モニターには、まだ賛成二票、反対三票という数字が残っている。

 

そして、その下には四つの空白がある。

 

リンはノアの名前へ指を置いた。

 

次の答えが、そこへ加わろうとしていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。