リンが、次の名前を読み上げた。
「ノアさん。お願いします」
「はい」
静かな返事だった。
ノアは手元の資料を一度だけ見下ろし、それから顔を上げた。
会場に並ぶ視線を受けても、その表情は普段とほとんど変わらない。
審議が始まってから、ノアは一貫して事実を整理する側にいた。
誰かの言葉に感情的に反応することもなく、出された意見を整理し、事実と評価を切り分ける。
先生が過去に罪を犯したこと。
刑を終えていること。
キヴォトスへ来てから問題行動が確認されていないこと。
多くの生徒を助けてきたこと。
それでも不安を覚える生徒が存在すること。
どこまでが確認された事実で、どこからが人間による評価なのか。
その境界を曖昧にしないことが、ノアの役割だった。
そして、その整理を重ねた結果として。
ノアは一度、先生の留任に賛成する考えを示している。
だからこそ、リンもすぐには次の言葉を促さなかった。
ノア自身が、以前とは違う答えを出そうとしていることを理解していた。
「まず、結論から申し上げます」
ノアは言った。
「私は、先生を教育者として残すことに反対します」
会場がざわめいた。
大きなどよめきではない。
だが、確かな動揺だった。
一度は留任に賛成する考えを示していたノア。
しかも、先生の現在の行動について否定的な評価をしてきたわけではない。
むしろ彼女は、確認できる事実を一つずつ積み上げたうえで、過去だけを理由に現在の先生まで否定するべきではないと考えていた。
そのノアが。
最終回答では、反対を選んだ。
先生も、わずかに目を細めた。
驚きがなかったわけではない。
ただ、何も言わなかった。
モモカが端末へ視線を落とす。
リンも口を挟まない。
ノアは続けた。
「私はこれまで、この問題について、できる限り事実と感情を分けて考えようとしてきました」
声は変わらない。
「先生が過去に何をしたのか。その責任をどのように果たしたのか。そして、キヴォトスへ来てから何をしてきたのか」
「それぞれを混同せず、一つずつ確認すれば、少なくとも感情だけに左右されない判断ができると考えていました」
そこで、ノアはわずかに間を置いた。
「そして実際に、私はその考え方から、一度は留任に賛成しました」
先生は黙って聞いている。
「そのときの判断が、間違っていたとは思っていません」
ユウカがわずかに顔を上げた。
ノアは続ける。
「少なくとも、あの時点で確認できていた事実から、私が出した答えです。今になって、それを何も考えていなかったことにするつもりはありません」
以前の自分を否定して、今の自分を正しいことにする。
ノアは、そうしなかった。
「ですが、審議を続ける中で、一つ見落としていたことに気づきました」
リンが静かに問う。
「見落としていたこと、ですか」
「はい」
ノアは頷いた。
「私自身です」
短い言葉だった。
だが、それまで資料へ向いていた何人かの視線が上がった。
「私は先生を知っています」
ノアは先生を見た。
「先生が普段、どのように生徒へ接しているのか。困っている生徒がいればどうするのか。責任を求められたとき、どのように向き合うのか」
「私は、それを実際に見てきました」
否定する者はいない。
「だから私は、先生が現在どのような人物であるかについて、ある程度の判断ができると思っています」
「少なくとも私は、今ここにいる先生を、過去に罪を犯したという事実だけで判断してはいません」
ノアの視線が、再び正面へ戻った。
「ですが」
そこで言葉を区切る。
「それは、本当に客観的な評価なのでしょうか」
静寂が落ちる。
「私はこれまで、自分が先生を知っていることを、判断するための材料だと考えていました」
「実際、それ自体は間違っていないと思います。人を評価するとき、その人が現在どのように行動しているかを見ることは必要です」
「ですが同時に、私は先生と関わった経験を持つ当事者でもあります」
ノアは淡々と続けた。
「先生に助けられた人」
「先生と一緒に仕事をした人」
「先生が生徒のために行動する姿を見た人」
「そうした経験を積み重ねた結果として、私は先生を信頼しています」
そして。
「私は、その信頼まで事実と同じ場所に置きかけていました」
リンの目が、ほんの少し細くなった。
ノアが何を言おうとしているのか。
おそらく理解したのだろう。
「先生がキヴォトスで問題を起こしていない。それは確認できる事実です」
「先生が多くの生徒を救ってきた。それも記録として確認できます」
「ですが」
「だから先生はこれからも信頼できる、と私が感じていることは、事実そのものではありません」
誰も遮らない。
「それは、先生と関わってきた私の経験から生まれた評価です」
「私はそのことを、審議の途中まで十分に区別できていませんでした」
ノアは自嘲するでもなく、ただ認めた。
「事実と評価を分けるべきだと言いながら、自分自身の評価だけは、かなり事実に近いものとして扱っていたのだと思います」
先生は黙って聞いていた。
表情を変えず。
反論もしない。
「だからといって」
ノアは言葉を続ける。
「私は、先生を信頼していた自分が間違っていたとは思いません」
先生の目が、わずかに動いた。
「今も先生を信頼しています」
はっきりと言った。
「先生が更生しているという私の評価も、変わっていません」
それでも、答えは反対だった。
「変わったのは、そこから先です」
ノアは続ける。
「私たちが今日決めるのは、私たちが先生を信頼できるかどうかではありません」
「先生を教育者として、キヴォトス全体に残すことができるかどうかです」
その言葉に、空気が少しだけ重くなる。
「私が先生を知っていることは、私にとって大切な判断材料です」
「ですが、それを持っていない生徒もいます」
「これから先生と出会う生徒もいます」
「その生徒たちは、私たちと同じ順番で先生を知ることはできません」
ノアは一度だけ息を吸った。
「私たちは、先に先生と出会いました」
「先生が何をしてきたのかを見て、その後で過去を知りました」
「ですが、これから先生と出会う生徒は違います」
「過去を知った上で、先生と出会うことになります」
誰かが小さく息を呑んだ。
「その違いを、私は軽く扱うべきではないと思います」
「私なら先生を信頼できる」
「私たちは先生に助けられた」
「私たちは今の先生を知っている」
「それらは、すべて本当です」
ノアは少しだけ視線を下げた。
「ですが、その『私たち』を理由に、まだ先生を知らない生徒にも同じ信頼を求めることはできません」
先生を見る。
「これは、先生が更生していないという意味ではありません」
「先生のこれまでの行動が無意味だったという意味でもありません」
「むしろ逆です」
ノアの声が、ほんのわずかに柔らかくなった。
「私は、先生がここで積み重ねてきたものを知っているからこそ、先生を過去だけで判断したくありませんでした」
「今も、その考えは変わっていません」
「それでも」
彼女は言う。
「一人の人間として先生を信頼することと、教育者としてすべての生徒の前に立つことを認めることは、同じ判断ではありません」
長い審議の中で、何度も現れた境界だった。
更生したか。
社会へ戻れるか。
人として信頼できるか。
教育者として任せられるか。
似ているようで。
同じではない。
ノアは以前、その境界を理解したうえで賛成した。
今も理解している。
ただ、その境界のどちら側に自分の票を置くのかが変わった。
「私は、自分が先生を知っているからこそ、その信頼を制度の根拠にしてはいけないと判断しました」
「ですので」
ノアは改めて、リンを見る。
「私の最終回答は、反対です」
「先生を教育者として残すことには、賛成できません」
言い終えた。
会場には拍手も、非難もなかった。
ただ、静けさだけが残った。
リンは数秒待ってから、記録を確認する。
「ノアさん」
リンは念のため確認する。
「これまで示していた賛成から、反対へ変更するということで間違いありませんね」
「はい」
ノアは迷わなかった。
「変更します」
「承知しました」
リンが記録を確定する。
「ノアさん。反対」
モモカの端末にも、一票が追加された。
賛成、二。
反対、四。
残る票は、三つ。
ハナコ。
マコト。
そして、ヒフミ。
先生はノアを見る。
ノアも視線を返した。
先生はしばらく何も言わなかった。
それから、小さく頷く。
「分かった」
ノアも頷いた。
「はい」
謝罪はなかった。
先生も求めなかった。
ノアは、自分が一度示した答えまで否定したわけではない。
賛成したときも、考えていた。
反対へ変えた今も、考えている。
その間にあったのは、気まぐれでも感情的な揺れでもなく、審議を通して自分の判断基準そのものを見直した時間だった。
リンが次の名前を確認する。
「では、続いて」
「ハナコさん。お願いします」
「はい」
ハナコは静かに返事をした。
いつものような微笑はない。
かといって、険しい表情でもなかった。
長い間、問いを投げ続けてきた彼女が。
今度は、自分自身の答えを出す番だった。
「最初に、一つだけ申し上げておきます」
ハナコはゆっくりと口を開いた。
「私は、この審議に唯一の正解があるとは、今でも思っていません」
リンは黙って聞いている。
「先生を残すことにも、危険はあります」
「先生を退けることにも、危険はあります」
「更生を認めることにも意味があり、生徒の不安を守ることにも意味があります」
「どちらか一方だけを正しいとすれば、とても簡単です」
ハナコは小さく息を吐いた。
「ですが、今日ここまで話してきた私たちは、もうそんなに簡単な問題ではないことを知っています」
先生も。
反対した者も。
賛成した者も。
まだ答えを出していない者も。
それぞれに理由がある。
「それでも」
ハナコは言う。
「投票では、一つを選ばなければなりません」
その言葉が、静かな会場へ落ちた。
「答えが一つではないと思っているから、選ばない」
「それでは、この審議に参加した意味がありませんから」
そしてハナコは、明確に結論を告げた。
「私は、賛成します」
わずかに空気が動く。
「先生を、教育者として残すことに賛成します」
リンはまだ記録しなかった。
理由を待っている。
ハナコも、それを分かっていた。
「理由は、先生が絶対に安全だと証明されたからではありません」
「そんな証明は、今日の審議ではできませんでした」
「おそらく、人間についてそのような証明をすること自体が難しいのでしょう」
一つ一つの言葉を選びながら続ける。
「だから私は、別のことを考えました」
「私たちが間違えたとき、どちらの判断の方が取り返しがつくのか」
リンの指が止まった。
「先生を残した結果、制度上の問題が見つかったのであれば、その時点で改めて資格や権限を見直すことはできます」
「監督方法を変えることもできます」
「新しい基準を作ることもできます」
「もちろん、それであらゆる危険を防げると言いたいわけではありません」
ハナコの視線が、まっすぐ前を向く。
「ですが」
「過去に罪を犯したという理由で、現在の行動まで確認した人間を教育の場から退けるという判断は、一度制度として肯定されれば、簡単には戻せません」
会場は静かだった。
「私は、答えが分からないからこそ」
「より後戻りのできない判断に対して、慎重でありたいと思います」
「怖いという感情を軽視するつもりはありません」
「その感情には理由があります」
「ですが、その感情を理由に、社会へ戻った人間が進める場所を一つずつ閉じていくことにも、私は怖さを感じます」
ハナコはそこで言葉を止めた。
そして。
「ですから、私は賛成します」
「先生が正しいからではありません」
「先生なら絶対に大丈夫だからでもありません」
「分からない部分が残っているからこそ、私は、今この時点でより後戻りの難しい選択をすることには賛成できません」
リンが静かに頷く。
「承知しました」
記録へ一票が加わる。
「ハナコさん。賛成」
賛成、三。
反対、四。
残る票は二つ。
マコト。
ヒフミ。
モモカが数字を確認する。
もう、誰も途中経過について口にしなかった。
必要がなかった。
全員が分かっている。
リンが顔を上げる。
「次に、マコトさん」
「最終回答をお願いします」
マコトは腕を組んだまま、しばらく動かなかった。
やがて。
「……まったく」
小さく息を吐く。
「最後まで、面倒な議題だな」
その言葉に笑う者はいなかった。
「最終回答をお願いします」
リンが改めて促す。
「分かっている」
マコトは腕を解き、椅子へ座り直した。
「私の答えは賛成だ」
迷いのない声だった。
「先生を教育者として残すことに賛成する」
リンはすぐには記録せず、続きを待った。
マコトもそれを察している。
「理由は、これまで話したものと大きく変わらん」
一度、先生へ視線を向ける。
「私は、社会が更生を認めるという言葉を、都合のいい飾りにするべきではないと考えている」
先生は黙って聞いていた。
「刑を終えた。必要な手続きも終えた。その後の行動にも問題は確認されていない。ならば、社会はその人間が戻ってくることまで引き受けなければならない」
マコトはそこで少しだけ間を置く。
「もちろん、今日の話を聞いて、どんな職業でも同じだと言うつもりはなくなった」
ヒナが静かにマコトを見る。
「教育者には、教育者にしかない責任がある。生徒との信頼が仕事そのものに関わるという意見にも、一理ある」
「一理、ですか」
ヒナがわずかに眉を寄せる。
「今は言葉尻を拾うな」
「拾っていません」
「ならその顔をやめろ」
「いつも通りです」
マコトは何か言い返しかけたが、やめた。
今はそこへ時間を使う場面ではない。
「……ともかくだ」
声を戻す。
「教育者が特別だという考えは理解した。それでも私は、その特別さを理由に、過去の罪をいつまでも資格判断の決定打として残すことには賛成できん」
マコトは正面を見る。
「教師は駄目だ」
「では、生徒と関わる仕事も駄目か」
「大きな責任を負う仕事も駄目か」
「人から信用されなければ成り立たない仕事も駄目なのか」
一つずつ言葉を置く。
「そうして例外を増やしていけば、最後に残るのは何だ」
誰も答えない。
マコト自身も、答えを求めてはいなかった。
「社会へ戻っていいと言いながら、戻った先の扉を順番に閉めていく。それでは、更生を認めるという言葉そのものが空になる」
マコトは先生を見る。
「だから私は、今回の先生について確認された事実を見る」
過去に罪を犯した。
刑を終えた。
その後、再犯は確認されていない。
キヴォトスで教育者として活動し、多くの生徒と関わってきた。
そして現在まで、教育者として新たな問題を起こした事実も確認されていない。
「それでもなお、過去を理由に教育者として認めないという判断を、私は選ばん」
マコトはそこで話を終えた。
「以上だ」
リンが確認する。
「最終回答は、賛成で間違いありませんね」
「ああ」
「承知しました」
リンが記録を確定する。
「マコトさん。賛成」
壁面モニターの数字が変わった。
賛成、四。
反対、四。
誰も声を上げなかった。
けれど、空気は明らかに変わった。
先生もモニターを見ていた。
四対四。
残る空白は、一つだけ。
その数字を見た瞬間、誰が最後に残っているのかを確認する必要はなかった。
ミカがゆっくりとヒフミを見る。
ユウカも。
ノアも。
セリカも。
それぞれの視線が、少しずつ同じ場所へ集まっていく。
ヒフミは俯いていた。
両手を膝の上で重ねている。
指先には、わずかに力が入っていた。
先生だけは、すぐにはヒフミを見なかった。
壁面モニターに並んだ数字を見つめている。
賛成四。
反対四。
自分が残れるかどうか。
その答えが、これから一人の生徒の言葉で決まる。
そう理解した途端、胸の奥に重いものが落ちた。
残りたい。
その気持ちは変わっていない。
だから、期待してしまう。
ヒフミが賛成してくれれば。
その考えが浮かんだ。
先生は静かに息を吐く。
期待すること自体は止められない。
けれど、その期待をヒフミへ背負わせてはいけない。
先生はようやく顔を上げた。
ヒフミを見る。
同じ頃。
リンも名簿へ目を落としていた。
最後の名前が残っている。
リンは、すぐには呼ばなかった。
これまでと同じように、回答者が顔を上げるまで待つ。
ヒフミはそのことに気づいていた。
自分を待っている。
議場にいる全員が。
そして、この審議を見ている多くの生徒たちが。
そう思うと、呼吸が浅くなった。
賛成すれば、先生は残る。
反対すれば、先生は残れない。
もう「保留」はない。
どちらかを選ばなければならない。
ヒフミは膝の上の手を強く握った。
ずっと、決められなかった。
先生を信じている。
それなのに、不安を訴える人の言葉も分かってしまう。
先生に助けられた。
だから、先生を追い出したくない。
けれど、自分が助けられたからという理由だけで、ほかの生徒にも同じように信じてほしいとは言えない。
どちらも嘘ではなかった。
だから、選べなかった。
片方を選んだ瞬間。
もう片方を、自分で否定することになるような気がしていた。
先生に賛成すれば、不安を抱えている生徒の気持ちを切り捨てることになる。
反対すれば、先生を信じてきた自分を切り捨てることになる。
先生に救われた時間まで、自分で否定することになる。
それが怖かった。
だから、考え続けた。
答えが出ないのではなく。
どちらも捨てたくなかった。
ヒフミはゆっくりと顔を上げる。
最初に見えたのは、壁面モニターだった。
四対四。
そこから視線を移す。
ユウカがいる。
反対票を投じた。
けれど先生を嫌ってはいない。
ヒナもそうだった。
ノアも、先生への信頼は変わっていないと言った。
そして。
セリカ。
ヒフミの視線が止まる。
セリカも反対した。
先生を信じていると言いながら。
それでも、反対を選んだ。
そのあと。
何も壊れなかった。
先生はセリカを責めなかった。
セリカも先生を嫌いになったわけではない。
二人が積み重ねてきたものが、一票ですべて消えたわけでもない。
ヒフミは、その光景を思い出していた。
反対すること。
先生を否定すること。
それは、同じではない。
自分はずっと、その二つを同じものだと思っていた。
先生を信じるなら、賛成しなければならない。
先生に助けられたなら、先生を残す側に立たなければならない。
そうでなければ、自分は恩を仇で返すことになる。
どこかで、そんなふうに考えていた。
でも。
本当にそうなのだろうか。
先生に救われたことは。
自分がどちらへ投票するかで、変わるのだろうか。
あの日、先生が自分へ向けてくれた言葉。
一緒に過ごした時間。
困ったときに助けてもらったこと。
笑ったこと。
安心したこと。
先生を信じようと思ったこと。
それらはもう、起きたことだ。
自分が反対したからといって、なかったことにはならない。
逆に。
先生を信じているからといって。
教育者として残すことにも賛成しなければならないわけではない。
ヒフミは、ようやくその二つを別々に見ることができた。
胸の奥にあったものが、少しだけほどける。
楽にはならなかった。
むしろ、今までより苦しくなった。
もう「選べない」という場所へ逃げることができなくなったからだ。
どちらを選んでも。
自分の気持ちの一部は残る。
なら。
そのまま選ばなければならない。
リンがヒフミを見る。
今度は、ヒフミも視線を返した。
その目を見て。
リンは、待つのをやめた。
「阿慈谷ヒフミさん」
名前が呼ばれる。
ヒフミは小さく息を吸った。
「……はい」
返事をした。
リンはいつもと同じ声で問いかける。
特別扱いはしなかった。
最後の一票だからといって、言葉を飾ることもしない。
「先生を教育者として留任させることについて、最終的な意思を示してください」
ヒフミはすぐには答えなかった。
先生を見る。
先生もヒフミを見ていた。
何も言わない。
頷きもしない。
笑いもしない。
ただ、待っている。
ヒフミはその顔を見つめた。
「先生」
「うん」
先生が答える。
それだけで、胸が痛んだ。
それでも。
ヒフミは目を逸らさなかった。
「私……」
一度、言葉が止まる。
「先生に、伝えておきたいことがあります」
リンは静かに頷いた。
「どうぞ」
ヒフミは先生を見る。
今度は、はっきりと言った。
「私は、先生を信じています」
先生の表情が、わずかに動いた。
「今もです」
ヒフミは続ける。
「先生の過去を知った今も、私は先生を信じています」
先生は何も言わなかった。
ヒフミの言葉を、ただ聞いていた。
「先生に助けてもらったことも、今まで一緒に過ごした時間も、私は忘れません」
声はまだ少し震えていたが、言葉そのものは止まらなかった。
「報道を見たあと、一度は全部分からなくなりました。先生に助けてもらったことまで、信じてよかったのか分からなくなって」
ヒフミは一度、視線を落とした。
「先生を信じたいと思うことが、悪いことなのかもしれないと思いました」
その言葉に、ミカの表情がわずかに曇る。
ヒフミは続ける。
「でも、先生が言ってくれました」
先生が少しだけ目を細めた。
「あのとき助かったと思ったなら、その気持ちまで過去に合わせて変える必要はないって」
ヒフミは顔を上げた。
「私は、その言葉に救われました」
先生は視線を落としかけたが、最後までヒフミを見ていた。
「だから、もう分かっています」
ヒフミは両手を膝の上で握り直した。
「先生に助けてもらったことは、本当です」
「先生を信じていることも、本当です」
「それは、私がどんな票を入れても変わりません」
その言葉が議場へ静かに広がった。
ユウカが少しだけ目を伏せる。
セリカはヒフミを見つめたまま動かなかった。
自分も、少し前に似た場所へ立っていた。
先生を信じている。
それでも反対した。
その選択が、今度は別の誰かの中で形になろうとしている。
ヒフミはゆっくり息を吸った。
「私はずっと、どちらかを選んだら、もう片方を否定することになると思っていました」
先生が黙って聞く。
「先生に賛成したら、怖いと思っている人の気持ちを切り捨てることになる」
「反対したら、先生を信じてきた自分を切り捨てることになる」
「だから、選べませんでした」
その声には、自分自身へ向けた苦さがあった。
「でも、違ったんですね」
ヒフミはセリカを見る。
ほんの一瞬だけ。
セリカもその視線を受け止める。
「反対しても、先生を嫌いになるわけじゃない」
「先生に救われたことが消えるわけでもない」
「先生を信じていた自分が、間違いになるわけでもない」
そこまで言って、ヒフミは少しだけ目を伏せた。
「それなら」
次の言葉を探すように、わずかな間を置く。
「私は、先生への気持ちとは別に、考えなきゃいけないんだと思いました」
リンは静かに見守っている。
ヒフミは続けた。
「私には、先生を信じられる理由があります」
「先生がどんな人なのか、少しは知っています」
「助けてもらいましたし、話も聞いてもらいました。先生が誰かのために動く人だって、私は知っています」
その一つ一つが、ヒフミ自身の経験だった。
誰かから聞いた話ではない。
記録に書かれた評価でもない。
自分が先生と過ごす中で得たものだった。
「でも、それを持っていない人もいます」
ここでヒフミは、誰かの言葉を借りるようには話さなかった。
ユウカの制度論でもない。
ヒナの責任論でもない。
ノアが語った客観性の問題でもない。
自分が最後まで考えて、それでも残ったものを言葉にしていく。
「先生に初めて会う人が、最初から先生の過去を知っていて」
ヒフミは少しだけ言いよどんだ。
「その人が怖いと思ったとき、私はその人に『私が大丈夫だったから、あなたも大丈夫です』とは言えません」
先生は何も言わない。
「それでも信じてください、とも言えません」
ヒフミは一度息を整えた。
「教育者って、そういう人に最初から信頼を試してもらわなきゃいけない存在でいいのかなって」
誰も口を挟まなかった。
それは誰かに答えを求めるための問いではない。
ヒフミ自身が最後の答えを選ぶために、考え続けた末に残った疑問だった。
「私は、そのことに『大丈夫です』って言えませんでした」
少しだけ間を置く。
「先生が今、危ない人だと思っているわけじゃありません。更生していないとも思っていませんし、先生を信用できないわけでもありません」
それでも。
そこまで言えば、もう結論は見えていた。
ヒフミ自身も分かっていた。
けれど、最後まで自分の口で言わなければならない。
先生を見る。
先生も目を逸らさない。
ヒフミは唇を結んだ。
胸の奥が痛い。
できることなら、この答えだけは言いたくなかった。
けれど、言いたくないから選ばないということも、もうできなかった。
「先生」
「うん」
「私は、先生を信じています」
もう一度言う。
「今も」
先生の表情が少しだけ柔らかくなる。
ヒフミは、その顔を見たまま続けた。
「でも」
声がわずかに震えた。
「先生を教育者として残すことには」
一度、息を吸う。
「反対します」
ヒフミが言い終えても、すぐには何も起こらなかった。
歓声もない。
反対票を投じた者からの安堵の声もない。
ただ、その答えが確かに口にされたという事実だけが、議場に残った。
モモカが端末を操作する。
最後まで空欄だった一つの欄に、ヒフミの回答が記録された。
壁面モニターの表示が更新される。
賛成、四。
反対、五。
ヒフミはその数字を見なかった。
先生だけを見ていた。
「……ごめんなさい」
口から漏れた言葉は、ほとんど反射だった。
先生はすぐに首を横に振った。
「謝らなくていい」
ヒフミの目が揺れる。
先生はそれ以上、何も足さなかった。
正しいとも言わない。
間違っているとも言わない。
自分が望んでいた答えではないことも、無理に隠そうとはしなかった。
残りたい。
先生自身が、そう望んでいたのだから。
ヒフミの反対票がつらくないはずはない。
それでも、その痛みを理由に、ヒフミが自分で考えて出した答えまで否定することはできなかった。
少しの沈黙のあと、先生は小さく頷いた。
「分かった」
ヒフミは泣きそうな顔のまま、頭を下げた。
やがて席へ戻る。
椅子に腰を下ろしても、膝の上に置いた手はわずかに震えていた。
ミカが横からヒフミを見る。
何か言いたそうに唇を動かしたが、結局、声にはしなかった。
ミカは賛成した。
ヒフミは反対した。
けれど、今この瞬間にヒフミへ何かを言えば、それがどんな言葉であっても彼女の選択を評価するものになってしまうような気がした。
だから、黙っていた。
セリカも目を伏せる。
ユウカも、ヒナも、ノアも、反対票が五票になったからといって勝ったような顔はしていなかった。
反対派が賛成派を言い負かしたわけではない。
賛成派の考えが誤りだと証明されたわけでもない。
それぞれが自分の答えを出した結果、数字がそこへ辿り着いただけだった。
ハナコは壁面モニターを一度だけ見てから、ヒフミへ視線を移した。
マコトは腕を組んだまま黙っている。
ホシノも、いつもの気の抜けた表情を浮かべてはいなかった。
リンだけが、まだ結果を告げなかった。
全員の回答が終わったからこそ、議長として確認しなければならないことがある。
リンは手元の記録へ視線を落とした。
九名。
それぞれの名前の横に、すでに回答が記されている。
賛成。
ミカ。
ホシノ。
ハナコ。
マコト。
反対。
ユウカ。
ヒナ。
セリカ。
ノア。
ヒフミ。
リンは一票ずつ確認していく。
その間、議場では誰も口を開かなかった。
モモカも自分の端末に記録された内容と照合する。
やがて、リンが記録担当の生徒へ視線を向けた。
担当の生徒も確認を終え、静かに頷く。
集計に誤りはなかった。
そこで初めて、リンが顔を上げた。
「最終確認を行います」
議場の空気が、改めて引き締まる。
「先生を教育者として留任させることについて」
リンは、確定した記録を読み上げた。
「賛成、四票」
一拍置く。
「反対、五票」
先生は黙って聞いていた。
「以上の結果を、各代表の最終回答として確定します」
リンの声に迷いはなかった。
誰かに問いかけることもない。
ここまでに示された九人の答えは、それぞれが自分の責任で選び、すでに口にしたものだった。
リンは記録へ確定処理を行う。
その操作が終わる。
「以上をもって、最終意思確認を終了します」
静かな声だった。
けれど、その言葉を境に、九人の選択はもう途中経過ではなくなった。
賛成四票。
反対五票。
審議会としての結論を出すための、最終結果だった。
先生は壁面モニターを見た。
数字は変わらない。
当然だった。
もう誰かの答えを待っているわけではない。
最後まで空いていた欄も埋まった。
先生はゆっくりと息を吐いた。
残りたい。
その気持ちは、今も変わっていなかった。
審議が始まる前よりも、むしろはっきりしている。
ここで続けたいことがある。
まだ関わりたい生徒がいる。
これから先も、生徒たちが困ったときに力になりたいと思っている。
だから、四対五という数字を見て何も感じないわけがなかった。
悔しい。
そう思った。
悲しいとも思った。
もし一票だけ違っていたら、と考えなかったわけでもない。
けれど、その一票を誰かに求めることはできない。
ミカの賛成も。
ホシノの賛成も。
ハナコの賛成も。
マコトの賛成も。
ユウカの反対も。
ヒナの反対も。
セリカの反対も。
ノアの反対も。
そして、ヒフミの反対も。
すべて、ここまで考えた末に出された答えだった。
先生は視線をリンへ戻した。
リンも先生を見ていた。
議長として。
これから、当事者へ決定を告げなければならない。
リンは一度だけ手元の記録を確認し、口を開いた。
「それでは、最終結果に基づき、本審議会の決定を告知します」
誰も動かなかった。
先生もリンから目を逸らさない。
「キヴォトス特別教育審議会は」
わずかな間が置かれる。
「先生を、今後も教育者として留任させることを認めません」
議場が静まり返った。
決定した。
先生は、教育者として残れない。
その言葉を聞いた瞬間。
先生は何も返せなかった。
覚悟はしていた。
反対票が五票になった時点で、結果も分かっていた。
それでも。
数字として理解することと、自分へ正式な決定として告げられることは違った。
先生は目を閉じた。
ほんの短い間だけ。
これまでの時間が、一度に蘇るようなことはなかった。
誰かとの思い出が走馬灯のように流れることもない。
ただ。
ここで先生として働けなくなる。
その事実だけが、胸の中へゆっくり沈んでいった。
悔しかった。
できることなら、違う答えがほしかった。
残りたかった。
まだ先生でいたかった。
その気持ちを、無理に綺麗なものへ変える必要はない。
先生はそう思った。
審議会の結論を受け入れることと。
その結論を望んでいたことは、同じではない。
やがて先生は目を開ける。
リンを見る。
「分かりました」
声は静かだった。
リンは先生の表情を見たあと、確認する。
「本審議会の決定を受諾する、ということでよろしいですか」
先生は一度だけ議場を見渡した。
ミカがいた。
先生と目が合うと、唇を強く結んだ。
ホシノは黙ったまま先生を見ている。
ハナコの表情から、いつもの余裕は消えていた。
マコトも何も言わない。
そして反対した五人。
ユウカ。
ヒナ。
セリカ。
ノア。
ヒフミ。
誰一人、先生から視線を逸らして逃げようとはしなかった。
ヒフミだけは今にも泣きそうだった。
それでも、自分が出した答えを取り消そうとはしない。
先生はその姿を見てから、リンへ視線を戻した。
ここまで考えてくれた者たちが出した結論なら受け入れる。
そう決めていた。
結果が出た今だけ、その言葉を変えるつもりはなかった。
「はい」
先生は答えた。
「受け入れます」
リンが静かに頷く。
「承知しました」
それだけだった。
先生はもう何も言わなかった。
自分が残りたいことは、すでに伝えてある。
過去についても。
更生についても。
生徒たちとの時間についても。
この審議の中で、自分が話すべきことは話した。
ここでさらに何かを語れば、九人が出した答えに自分から意味を付け加えることになる。
だから、黙って受け止めた。
リンもすぐには次へ進まなかった。
ほんの少しだけ時間を置き、それから議事進行表へ視線を落とす。
決定が出ても、現実はそこで止まらない。
先生を教育者として残さないのであれば、その決定を実行するための手続きが必要になる。
現在先生が担当している案件。
シャーレが持つ権限。
各学園との連絡。
引き継ぎ。
職務終了の時期。
そして、その後。
感情が追いつくまで待ってから始められるものではなかった。
リンは声を整える。
「これより、本決定に伴う事務手続きについて説明します」
何人かが顔を上げた。
先生もリンを見る。
「先生の教育者としての職務終了時期、現在担当している案件の引き継ぎ、ならびにシャーレが保有する権限の返還について、順に確認します」
先生が教育者として残れるかどうか。
その問いは、もう終わった。
これから話されるのは。
先生が、いつまで先生でいられるのか。
その話だった。
ミカが膝の上で手を握る。
ヒフミも顔を上げた。
先生は一度だけ息を吐き、リンの前に置かれた資料へ目を向ける。
逃げる理由はなかった。
最後まで、自分に必要な手続きだった。
「お願いします」
先生はそう答えた。
リンは資料を開く。
誰もまだ、席を立たなかった。
次回最終話です。