先生はロリコンでした   作:風神ぷー

16 / 16
第十六話 石と花

 

 

「お願いします」

 

先生がそう答えると、リンは手元の資料を開いた。

 

先ほどまで九人の最終回答が記されていた机の上に、今度は別の書類が並べられる。

 

職務終了に伴う手続き。

 

担当案件の引き継ぎ。

 

シャーレに付与されている権限の返還。

 

各学園への通知。

 

どれも、投票結果のように大きな数字が表示されるものではなかった。

 

リンが最初の書類へ目を落とす。

 

「まず、職務終了までの期間について確認します」

 

先生は頷いた。

 

「はい」

 

「本審議会の決定を受け、先生には新規案件の受任を停止していただきます。現在担当している案件については、原則として引き継ぎのみを行ってください」

 

「分かりました」

 

「各学園との連絡についても同様です。新たな相談が届いた場合、先生個人で対応を開始せず、指定された引き継ぎ先へ回してください」

 

「はい」

 

リンが次の項目へ進む。

 

「シャーレが保有している各種権限については、引き継ぎ完了後に順次停止します。一括停止ではありません。現在進行中の業務に支障が出ないよう、必要な権限から段階的に返還していただきます」

 

「分かりました」

 

先生の返答は短かった。

 

先ほどまでとは違う。

 

もう、自分の考えを説明する必要はなかった。

 

留任を認めるべきか。

 

教育者として信頼できるのか。

 

更生した人間を社会がどこまで受け入れるのか。

 

そうした問いについて話す時間は終わっている。

 

今は、決まったことを実行するための確認だった。

 

リンが説明し、先生が確認する。

 

必要があればモモカが記録を補足する。

 

一つ終われば、次へ進む。

 

それだけだった。

 

先生は書類へ視線を落とした。

 

自分の名前。

 

その横に並ぶ、返還、移管、停止という文字。

 

つい先ほどまで、残れるかどうかを話していた。

 

今はもう、どうやって去るかを話している。

 

その切り替わりの早さに、気持ちが追いついていない部分はあった。

 

けれど、手続きは待ってくれない。

 

「次に、シャーレで保管されている資料についてです」

 

リンが続ける。

 

「先生個人で作成したものを含め、職務上作成された記録についてはシャーレに残していただきます。ただし、個人所有物については当然持ち出して構いません」

 

「はい」

 

「引き継ぎに必要な期間については、現状の案件数を確認した上で――」

 

説明は続いた。

 

議場に残っている生徒たちも、それを聞いている。

 

ミカは何も言わなかった。

 

先ほどまで先生の留任に賛成していた。

 

結果は反対五票。

 

納得したわけではない。

 

先生が残れないことを、良かったと思えるはずもない。

 

それでも、決定を覆すための言葉を探そうとはしなかった。

 

ホシノも椅子に座ったまま、いつになく静かだった。

 

ハナコは手元の資料を閉じている。

 

マコトも口を挟まない。

 

そして、反対票を投じた者たちも同じだった。

 

ユウカはリンの説明を聞きながら、時折書類へ目を落としている。

 

ヒナは先生を見ていた。

 

セリカは俯きがちだった。

 

ノアは記録内容を確認している。

 

ヒフミは、膝の上に置いた両手を握ったまま動かなかった。

 

誰も勝った顔をしていない。

 

誰も負けた者を慰めるような顔もしていない。

 

そのどちらも、今は違うように思えた。

 

やがてリンが最後の書類を閉じた。

 

「現時点での説明は以上です」

 

先生が顔を上げる。

 

「具体的な引き継ぎ先については、各学園と調整した上で通知します。それまでは、現在の案件を整理してください」

 

「分かりました」

 

「何か質問はありますか」

 

先生は少し考えた。

 

自分のことについて聞きたいことはいくつもあった。

 

いつまでここにいられるのか。

 

その後はどうなるのか。

 

誰に何を伝えればいいのか。

 

けれど、それらの多くは今後の手続きの中で確認されることだった。

 

今、一つだけ確認しておきたいことがあった。

 

「引き継ぎが終わるまでは、生徒と話してもいいんですよね」

 

リンは先生を見る。

 

「職務上必要な範囲であれば問題ありません」

 

少し間を置いてから、付け加える。

 

「もちろん、通常の会話まで禁止するものではありません」

 

「そうですか」

 

先生は小さく頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

その返事を聞いて、ヒフミがほんの少し顔を上げた。

 

先生は気づいたが、何も言わなかった。

 

リンが議場全体を見渡す。

 

長かった一日。

 

朝から始まった審議は、すでに終わりへ近づいている。

 

「それでは」

 

リンは姿勢を正した。

 

「本日のキヴォトス特別教育審議会を終了します」

 

誰もすぐには立たなかった。

 

討論が終わった。

 

投票も終わった。

 

決定も出た。

 

それでも、立ち上がって扉を開ければ、本当にすべてが次へ進んでしまう。

 

そんな躊躇が、わずかに残っていた。

 

最初に動いたのは先生だった。

 

椅子を引き、立ち上がる。

 

それをきっかけに、ほかの生徒たちも少しずつ席を立った。

 

先生は資料をまとめるリンへ頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

リンの手が止まる。

 

「私は議長として必要な進行を行っただけです」

 

「それでも」

 

先生は答えた。

 

「最後まで話す機会をもらえましたから」

 

リンはしばらく先生を見たあと、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

先生はそれ以上言わず、出口へ向かった。

 

扉の前まで来たところで、

 

「先生」

 

呼び止められる。

 

振り返る。

 

ユウカだった。

 

彼女の隣にはノアがいる。

 

「引き継ぎ資料」

 

ユウカはいつもの調子で言った。

 

「今のままじゃ絶対に整理しきれないでしょうから、明日確認します」

 

先生は少し目を瞬いた。

 

「手伝ってくれるの?」

 

「勘違いしないでください」

 

すぐに返ってくる。

 

「先生が中途半端な状態で仕事を残したら、困るのは引き継ぐ側なんです」

 

「なるほど」

 

「何ですか、その顔」

 

「いや、ユウカらしいなと思って」

 

「……余計なことを言う暇があるなら、今夜のうちに案件一覧くらい作っておいてください」

 

先生は思わず少し笑った。

 

「分かった」

 

ユウカも、それ以上は言わなかった。

 

反対票について謝らない。

 

先生も触れない。

 

明日やるべき仕事の話だけをする。

 

その隣でノアが微笑んだ。

 

「私もお手伝いします」

 

「ありがとう」

 

「ただし、先生」

 

「うん?」

 

「記録の抜けは困りますので、思い出せない案件がある場合は早めに申告してくださいね」

 

「努力します」

 

「努力ではなく、お願いします」

 

先生は苦笑した。

 

いつもと変わらない。

 

少なくとも、そのやり取りだけを切り取れば。

 

けれど。

 

明日行うのは、これから先生が仕事を続けるための整理ではない。

 

先生がいなくても仕事が続くようにするための整理だった。

 

その違いだけは、消えなかった。

 

先生は二人へもう一度礼を言い、廊下へ出た。

 

後ろから、ほかの生徒たちも出てくる。

 

ミカが先生の近くまで来た。

 

「先生」

 

「うん」

 

何かを言おうとする。

 

けれど、言葉が続かない。

 

先生は待った。

 

「……私」

 

ミカは唇を噛む。

 

「まだ、納得してないから」

 

先生は頷いた。

 

「うん」

 

「先生が残ったっていいと思ってる」

 

「うん」

 

「だから……」

 

そこで止まる。

 

先生は続きを急かさなかった。

 

やがてミカは視線を逸らした。

 

「でも、もう一回やれとは言わない」

 

小さな声だった。

 

「みんなが考えて出した答えだから」

 

先生は何も言わず、しばらくミカを見た。

 

「ありがとう」

 

「何でお礼言うの」

 

「分からない」

 

「変なの」

 

ミカはそう言ったが、少しだけ笑った。

 

泣きそうな笑い方だった。

 

先生はそのまま廊下を進んだ。

 

ヒフミとは話さなかった。

 

正確には、話す機会がなかったわけではない。

 

何度か目が合った。

 

そのたびにヒフミは何か言いたそうにした。

 

先生も足を止めようかと思った。

 

けれど、結局どちらからも声をかけなかった。

 

今すぐ言葉にしなければならないことばかりではない。

 

そう思った。

 

その日は、それで終わった。

 

翌日から、引き継ぎが始まった。

 

シャーレの執務室。

 

先生は机の上に積み上げた資料を見て、思わず息を吐いた。

 

「……多いな」

 

「だから言ったでしょう」

 

向かいからユウカの声が飛んでくる。

 

「先生、自分が抱えてる案件数をちゃんと把握してました?」

 

「大体は」

 

「大体じゃ駄目です」

 

「はい」

 

「これは?」

 

ユウカが一冊のファイルを持ち上げる。

 

先生は表紙を見る。

 

「ああ、それは――」

 

説明しようとすると、隣でノアが端末を操作した。

 

「その案件でしたら、関連記録はこちらにもありますね。最終更新は三日前です」

 

「助かる」

 

「先生が助かってどうするんですか」

 

ユウカが呆れた声を出す。

 

「これから引き継ぐ人が助かるようにするんです」

 

「そうだった」

 

先生はファイルを受け取る。

 

普段と同じような会話だった。

 

ユウカが注意して。

 

ノアが補足して。

 

先生が少し怒られる。

 

何度もあった時間。

 

ただ、机の端には段ボール箱が置かれていた。

 

中には先生の私物が入っている。

 

使いかけの筆記具。

 

個人的に持ち込んだ本。

 

生徒からもらった小物。

 

職務上の備品ではないものを、一つずつ分けていった。

 

午前中に一つ。

 

午後に一つ。

 

案件が引き継がれるたび、先生の担当欄から名前が消える。

 

代わりに別の名前が入る。

 

最初は、それを見るたびに手が止まった。

 

けれど、何度も繰り返すうちに止まらなくなった。

 

慣れたわけではない。

 

止まっていても終わらないから、続けただけだった。

 

数日が過ぎた。

 

机の上から資料が減っていく。

 

端末からアクセスできる範囲も少しずつ狭くなった。

 

昨日まで開けた項目が、今日は閲覧できなくなっている。

 

それを見るたび、決定が少しずつ形になっていった。

 

ある日の午後。

 

先生がいつものように端末を開くと、新しい相談が一件届いていた。

 

反射的に内容を確認しようとして、手が止まる。

 

新規案件。

 

自分では受けない。

 

先生は指定された引き継ぎ先へ転送した。

 

それだけで終わった。

 

少し前なら、まず状況を確認していた。

 

必要なら生徒へ連絡し、予定を調整した。

 

今は違う。

 

先生は転送済みの表示をしばらく見たあと、画面を閉じた。

 

窓の外から、生徒たちの声が聞こえてくる。

 

いつもと変わらないキヴォトスだった。

 

先生が仕事を一つ受けなくなっても。

 

担当から名前が一つ消えても。

 

街は動いている。

 

それは当然のことだった。

 

「先生」

 

声をかけられる。

 

振り返ると、ユウカが立っていた。

 

「最後の案件、引き継ぎ確認が終わりました」

 

先生は一瞬、返事を忘れた。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

ユウカは書類を机の上へ置く。

 

「これで、先生が直接担当している案件はありません」

 

先生はその書類を見る。

 

何度も確認した一覧表。

 

すべての項目に、引き継ぎ完了の記載がある。

 

「抜けは?」

 

「ありません」

 

ノアが答えた。

 

「私も確認しました」

 

「じゃあ、本当に終わりか」

 

先生は椅子の背にもたれた。

 

仕事がなくなった。

 

やるべきことを全部終えたのだから、本来なら達成感があってもいい。

 

けれど、机の上に残ったものの少なさばかりが目についた。

 

ユウカは何も言わない。

 

先生も、しばらく黙っていた。

 

やがて端末に通知が届く。

 

権限返還の最終確認。

 

先生は画面を開いた。

 

内容を読む。

 

間違いはない。

 

確認欄へ入力する。

 

ほんの数秒で終わる操作だった。

 

実行。

 

画面が切り替わる。

 

これまで表示されていた項目の多くが消えた。

 

先生は端末を閉じた。

 

「終わったよ」

 

ユウカが頷く。

 

「確認しました」

 

ノアも端末を見る。

 

「こちらでも反映されています」

 

先生は椅子から立ち上がった。

 

机を見る。

 

もう片付けるものは、ほとんど残っていない。

 

最後に引き出しを開ける。

 

奥に、小さなメモ帳が一冊残っていた。

 

先生はそれを取り出し、段ボール箱へ入れた。

 

引き出しを閉じる。

 

それで全部だった。

 

「じゃあ」

 

先生は箱を持ち上げる。

 

思っていたより軽かった。

 

「行こうかな」

 

ユウカの表情が、一瞬だけ崩れた。

 

けれど、すぐに戻る。

 

「……はい」

 

ノアも静かに頷いた。

 

先生は執務室を見渡した。

 

ここで仕事をした。

 

生徒が飛び込んできたこともあった。

 

相談を受けた。

 

怒られた。

 

無茶をした。

 

笑った。

 

けれど、何か特別な言葉を残そうとは思わなかった。

 

部屋は部屋だ。

 

これからも誰かが使う。

 

先生は照明を確認し、箱を抱えて扉へ向かった。

 

扉の前で一度だけ立ち止まる。

 

振り返る。

 

机。

 

椅子。

 

窓。

 

何度も見た景色。

 

「先生」

 

ユウカが呼ぶ。

 

「うん」

 

「忘れ物、ありませんね?」

 

先生は少し考えた。

 

それから笑う。

 

「たぶん」

 

「確認してください」

 

「最後まで厳しいなあ」

 

「最後だからです」

 

先生はもう一度だけ室内を確認した。

 

今度はきちんと。

 

「大丈夫」

 

「では、行きましょう」

 

ユウカが扉を開ける。

 

先生は箱を抱えたまま、廊下へ出た。

 

ノアも続く。

 

扉が閉まる。

 

先生は、その音を聞いた。

 

もう一度開けようと思えば、まだ開けられる。

 

けれど。

 

その必要は、もうなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外には。

 

先生が思っていたより、ずっと多くの生徒が集まっていた。

 

シャーレの正面から、その先の通りまで。

 

道を塞ぐほどではない。

 

けれど、偶然そこに居合わせただけとは思えない数だった。

 

先生は足を止めた。

 

「……こんなにいるとは思わなかったな」

 

隣でユウカが小さく息を吐く。

 

「今日が先生の最終日だということは、すでに広まっていますから」

 

「モモカ?」

 

「私に聞かないでください」

 

「違いますよ、先生」

 

ノアが端末を確認しながら答える。

 

「職務終了の日程は正式に公表されています。隠しておける情報でもありませんから」

 

「そっか」

 

先生は改めて前を見る。

 

集まった生徒たちの表情は、一様ではなかった。

 

先生と目が合い、今にも駆け寄ってきそうな生徒がいる。

 

遠くから黙って見つめている生徒もいる。

 

友人同士で何かを話しながら、こちらを窺っている者もいた。

 

そして。

 

先生と目が合った瞬間、露骨に顔を強張らせる生徒もいた。

 

先生は、その顔を知らなかった。

 

一人だけではない。

 

見覚えのない制服も多い。

 

これまで仕事で関わる機会の少なかった学園の生徒もいるのだろう。

 

報道で名前を知っただけの者。

 

審議会の中継を見ただけの者。

 

あるいは、周囲から話を聞いただけの者。

 

先生にとって知らない生徒であるように、彼女たちにとっても先生は知らない大人だった。

 

ただし。

 

何も知らないわけではない。

 

先生が過去に罪を犯したことを知っている。

 

有罪判決を受けたことも。

 

刑を終えたことも。

 

キヴォトスで先生をしていたことも。

 

そして、審議会によって教育者としての留任を認められなかったことも。

 

先生という人間を知らないまま。

 

先生についての情報だけは知っている。

 

「先生!」

 

人垣の中から声が飛んだ。

 

先生がそちらを見る。

 

知っている顔だった。

 

別の場所からも、

 

「先生!」

 

と呼ぶ声が続く。

 

手を振る生徒がいる。

 

先生も箱を片腕で支え直し、空いた手を少し上げた。

 

それだけで、何人かが泣きそうな顔になる。

 

先生は困ったように笑った。

 

そのときだった。

 

「……何で」

 

別の声が混じった。

 

先生を呼ぶ声とは違う。

 

小さかった。

 

それでも、周囲が少し静かになったことで耳に届いた。

 

「何で普通に出てくるの……」

 

先生が声の方を見る。

 

見覚えのない生徒だった。

 

人垣の少し後ろに立っている。

 

隣には友人らしい生徒が二人いた。

 

「ちょっと……」

 

友人の一人が袖を引く。

 

だが、その生徒は先生から目を逸らさなかった。

 

「もう先生じゃないんでしょ」

 

震えた声だった。

 

先生は答えない。

 

「駄目だって決まったんでしょ」

 

誰かが彼女を止めようとする。

 

それより先に、生徒の声が大きくなった。

 

「だったら、早く出ていってよ!」

 

ざわめきが広がった。

 

先生を知る生徒たちの表情が変わる。

 

ユウカも眉を寄せた。

 

けれど、先生はその場を動かなかった。

 

「もう終わったんでしょ!」

 

生徒は続ける。

 

「先生じゃなくなったんでしょ!」

 

隣の友人が腕を掴む。

 

「もういいって……」

 

「よくない!」

 

振り払う。

 

「ずっとここにいたんだよ!?」

 

その声は怒鳴っているのに、どこか細かった。

 

「私たち、何も知らなかったのに……!」

 

先生は生徒を見る。

 

そこで気づいた。

 

怒っている。

 

確かにそう見える。

 

けれど。

 

握られた手が震えていた。

 

「早く……」

 

生徒が一歩下がる。

 

先生は近づいていない。

 

それでも距離を取る。

 

「早くキヴォトスから消えてよ!」

 

声が裏返った。

 

次の瞬間。

 

生徒が足元へ手を伸ばした。

 

小さな石を拾う。

 

「やめて!」

 

隣の友人が止めようとした。

 

間に合わなかった。

 

腕が振られる。

 

石が飛ぶ。

 

先生は避けなかった。

 

というより、避けるより先に石が届いた。

 

鈍い音。

 

右肩に当たり、抱えていた箱が揺れる。

 

中の荷物がかすかに音を立てた。

 

石は地面へ落ちた。

 

「先生!」

 

いくつもの声が重なった。

 

ユウカが反射的に先生の前へ出る。

 

ノアも表情を変えた。

 

人垣の中から、先生を知る生徒たちが一斉に動こうとする。

 

「何してるの!」

 

「先生に石を――」

 

「やめなよ!」

 

怒声が飛ぶ。

 

石を投げた生徒の肩が跳ねた。

 

一歩。

 

また一歩。

 

後ろへ下がる。

 

その顔を見た瞬間。

 

前へ出ようとしていた生徒たちの足が止まった。

 

石を投げた本人が、一番驚いているような顔をしていた。

 

自分の手を見る。

 

次に地面へ落ちた石を見る。

 

それから先生を見る。

 

顔から血の気が引いていた。

 

「……だって」

 

唇が震える。

 

「怖いんだよ……」

 

怒鳴っていた声は、もう残っていなかった。

 

「怖いんだもん……」

 

先生を知る生徒たちは、何も言えなくなった。

 

「ニュースで見て……審議会も見て……」

 

生徒は自分の腕を抱く。

 

「刑が終わったとか、更生したとか……みんな言ってたけど……」

 

目には涙が浮かんでいた。

 

「そんなの……私、知らないよ」

 

先生を見る。

 

怯えた目だった。

 

「この人のこと、知らないもん……」

 

その言葉が落ちる。

 

先生を知る生徒たちは動けなかった。

 

先生を守りたい。

 

石を投げることが正しいはずはない。

 

そんなことは分かっている。

 

けれど。

 

目の前の生徒が抱いている恐怖まで、間違いだとは言えなかった。

 

先生と過ごしたことがあるから。

 

助けられたことがあるから。

 

話したことがあるから。

 

自分たちは先生を知っている。

 

だから、信じられる。

 

けれど、その経験を持たない生徒へ。

 

どうして分からないのかと責めることはできなかった。

 

先生は肩へ手をやった。

 

少し痛む。

 

けれど、大したものではない。

 

「先生、大丈夫ですか」

 

ユウカが振り返る。

 

「うん。大丈夫」

 

「でも――」

 

ユウカは言葉を切った。

 

先生が石を投げた生徒を見ていることに気づいたからだ。

 

先生は何も言わなかった。

 

許すとも。

 

許さないとも。

 

まして、石を投げられて当然だとも思わない。

 

恐怖があるからといって、石を投げていいわけではない。

 

けれど。

 

その恐怖そのものを、先生が否定することもできなかった。

 

生徒の友人が彼女の肩を抱く。

 

「もう行こう」

 

「でも……」

 

「行こう」

 

生徒は動かなかった。

 

先生から目を逸らせずにいる。

 

そのとき。

 

「でもさ」

 

別の声がした。

 

先生が見る。

 

知らない生徒だった。

 

石を投げた生徒とも違う。

 

人垣の中から、一人の生徒が出てくる。

 

その生徒は先生へ近づくと、少し離れた場所で足を止めた。

 

先生を見上げる。

 

一瞬だけ目が合う。

 

すぐに視線を外した。

 

そして、石を投げた生徒へ向き直る。

 

「私も、この人のこと知らないよ」

 

石を投げた生徒が顔を上げる。

 

「話したこともないし」

 

知らない生徒は続ける。

 

「ニュースで知っただけ」

 

先生は黙って聞いていた。

 

「審議会も見てた」

 

少し言いづらそうに口を結ぶ。

 

「正直……私も怖い」

 

ユウカがその生徒を見る。

 

先生を知る生徒たちも。

 

「更生したって言われても、私には分からないし。本当に大丈夫なのかって聞かれても、分かんない」

 

その生徒は先生を庇うような言葉を一つも使わなかった。

 

先生は良い人だとも。

 

信じるべきだとも。

 

審議会の決定が間違っているとも言わない。

 

ただ。

 

地面に落ちた石を見る。

 

「でも」

 

石を投げた生徒へ視線を戻す。

 

「怖いからって、石を投げていいわけじゃないでしょ」

 

静かな声だった。

 

責め立てるような強さはない。

 

「それは別だよ」

 

石を投げた生徒が俯いた。

 

何も返せない。

 

すると。

 

別の場所から、一人の生徒が出てきた。

 

先生には、その顔にも見覚えがなかった。

 

最初の生徒の隣に立つ。

 

「私も先生のこと知らない」

 

その一言だけだった。

 

さらに一人。

 

「私も」

 

また一人。

 

「直接会ったことない」

 

誰かに呼びかけられたわけではない。

 

先生を守ろうと号令がかかったわけでもない。

 

一人が動いたから。

 

それを見た別の誰かが、自分も動いただけだった。

 

先生の進む道の左側に、一人。

 

右側にも一人。

 

少し先に、また一人。

 

生徒たちが立ち始める。

 

その多くを、先生は知らなかった。

 

向こうも先生を知らない。

 

中には先生と目が合うと、わずかに身を固くする者さえいた。

 

それでも、そこから退かなかった。

 

先生を知る生徒たちは、その光景を見ている。

 

最初に先生を守ろうとした彼女たちは、もう前へ出なかった。

 

代わりに。

 

知らない生徒たちが、先生の進む道の両側へ並び始めていた。

 

「何なの……」

 

石を投げた生徒が呟く。

 

最初に前へ出た生徒が答える。

 

「分かんない」

 

「じゃあ、何で……」

 

「分かんないけど」

 

少し考える。

 

「出ていけって言うなら、それでいいと思う」

 

先生がわずかに目を見開く。

 

「私も、残ってほしいとは思ってないから」

 

その言葉に、先生を知る何人かの生徒が複雑な表情を浮かべる。

 

けれど、誰も反論しなかった。

 

「でも」

 

生徒は続けた。

 

「出ていく人に石を投げながら追い出すのは、違うと思う」

 

石を投げた生徒は何も言わなかった。

 

先生も。

 

しばらくして、先生は地面に置いた箱を持ち直した。

 

ユウカが心配そうに見る。

 

「先生」

 

「行くよ」

 

「肩は?」

 

「平気」

 

先生は一歩踏み出した。

 

道の両側に立つ生徒たち。

 

最初は、ただ並んでいるだけだった。

 

先生が近づくと、一人の生徒が周囲を警戒するように振り返った。

 

また石が飛んでくるかもしれない。

 

そう思ったのだろう。

 

腕を上げた。

 

頭を守るように。

 

先生の方ではなく。

 

外側へ向けて。

 

それを見た隣の生徒も、同じように腕を上げる。

 

反対側でも一人が動いた。

 

また一人。

 

誰かが決めたわけではなかった。

 

けれど。

 

先生が歩く道の上に、左右から伸ばされた腕が重なっていく。

 

完全に手を繋ぐわけではない。

 

高さも揃っていない。

 

綺麗な形でもない。

 

それでも。

 

一本の道ができた。

 

先生はその前で足を止めた。

 

どこかで見たことがある形だった。

 

卒業する生徒を送り出すとき。

 

門出を祝うために作られる、人のアーチ。

 

けれど、これは祝福のために作られたものではない。

 

ここにいる生徒たちは、先生をほとんど知らない。

 

先生を信じているわけでもない。

 

残ってほしいと願っているわけでもない。

 

中には、今でも先生が怖いと思っている生徒がいる。

 

それでも。

 

石が飛んでこないように。

 

ただ、そのためだけに腕を上げている。

 

「……先生」

 

後ろからユウカの声がした。

 

先生は振り返らなかった。

 

目の前の生徒たちを見る。

 

最初に前へ出た生徒とも目が合った。

 

彼女は少し気まずそうに視線を逸らす。

 

先生は箱を抱え直した。

 

「ありがとう」

 

それだけ言った。

 

返事はなかった。

 

少なくとも、すぐには。

 

先生は歩き始める。

 

一歩。

 

また一歩。

 

知らない生徒たちが作った道を進む。

 

頭上には、不揃いな腕が続いていた。

 

誰も先生へ笑いかけない。

 

「頑張って」とも。

 

「またね」とも言わない。

 

先生も立ち止まって話しかけたりはしなかった。

 

ただ歩く。

 

アーチの途中で、一人の生徒と目が合った。

 

その生徒は少し怯えたように目を逸らした。

 

それでも腕は下ろさなかった。

 

先生も何も言わず、その下を通り過ぎる。

 

また一人。

 

また一人。

 

先生の知らない生徒たち。

 

先生を知らない生徒たち。

 

彼女たちは先生を許したわけではない。

 

信じたわけでもない。

 

ただ。

 

石を投げられながら去る必要はないと判断した。

 

それだけだった。

 

先生は歩き続けた。

 

やがて。

 

不揃いだった腕の列が終わる。

 

最後の生徒の下を通り抜ける。

 

頭上が開けた。

 

先生はそこで足を止めた。

 

少し先に。

 

今度は、よく知っている顔が並んでいた。

 

その中心で。

 

一人の生徒が、花束を抱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒフミだった。

 

先生は足を止めた。

 

ヒフミも先生を見る。

 

昨日まで何度も顔を合わせてきたはずなのに、今はその距離が妙に遠く感じられた。

 

ヒフミの両腕には、色とりどりの花が抱えられている。

 

豪華なものではない。

 

大きさも揃っていない。

 

一本一本を見れば、どこにでもありそうな花だった。

 

けれど、それらが一つに束ねられている。

 

ヒフミの後ろには、ミカがいた。

 

ホシノ。

 

セリカ。

 

ユウカとノアも、先生の後ろから歩いてきて、いつの間にか列へ加わっていた。

 

ヒナ。

 

ハナコ。

 

マコト。

 

そしてリン。

 

審議会で同じ答えを出した者たちではない。

 

最後まで先生を残すべきだと考えた者。

 

教育者として残すべきではないと判断した者。

 

途中で考えを変えた者。

 

最後まで迷い続けた者。

 

それぞれが、自分の答えを持ったままそこにいた。

 

その周囲にも、先生の知っている生徒たちがいた。

 

先生が仕事を通じて関わった者。

 

相談を受けた者。

 

助けに行った者。

 

逆に、先生が助けられた者。

 

一緒にくだらない話をした者。

 

何度も叱られた相手もいる。

 

先生は一人ずつ顔を見る。

 

全員と話す時間はない。

 

それでも、顔を見れば思い出せることがあった。

 

「先生」

 

ヒフミがもう一度呼んだ。

 

「うん」

 

先生は答える。

 

ヒフミは花束を抱えたまま、一歩前へ出た。

 

それから。

 

少し困ったように笑った。

 

「こういうとき、何て言えばいいんでしょう」

 

「俺に聞かれても困るな」

 

「そうですよね」

 

ヒフミも小さく笑う。

 

その笑顔はすぐに消えた。

 

花束へ目を落とす。

 

「昨日から、ずっと考えてました」

 

先生は何も言わずに待った。

 

「何を言えばいいのかなって」

 

ヒフミの指が、花束を包む紙を少しだけ握る。

 

「でも、考えれば考えるほど、難しくなっちゃって」

 

「無理に言わなくてもいいよ」

 

「いいえ」

 

ヒフミは顔を上げた。

 

「これは、言いたいです」

 

先生を見る。

 

昨日。

 

同じ目で先生を見ていた。

 

先生を信じていると告げて。

 

それでも、教育者として残すことには反対すると答えた。

 

その選択は、今も変わっていない。

 

ヒフミはそれを取り消すために、ここへ来たわけではなかった。

 

「先生」

 

「うん」

 

「あのとき、助けてくれてありがとうございました」

 

先生の目が、わずかに動いた。

 

「私が困ってたとき、一緒にいてくれて」

 

ヒフミは続ける。

 

「話を聞いてくれて」

 

少しだけ声が震えた。

 

「先生がいてくれて、助かったことがたくさんありました」

 

先生は黙って聞いていた。

 

「だから」

 

ヒフミは花束を差し出した。

 

「ありがとうございました」

 

昨日とは違う。

 

謝罪ではなかった。

 

反対票への言い訳でもない。

 

決定を覆してほしいという願いでもない。

 

ただ、自分が受け取ったものに対する感謝だった。

 

先生は花束を見る。

 

それからヒフミを見る。

 

片腕には、シャーレから持ち出した自分の荷物がある。

 

先生は箱を地面へ置いた。

 

両手を空ける。

 

そして、差し出された花束を受け取った。

 

「ありがとう」

 

ヒフミの目から、一筋だけ涙が落ちた。

 

慌てて拭う。

 

「……泣かないつもりだったんですけど」

 

「そういうの、予定通りにはいかないから」

 

「先生が言います?」

 

「俺も今、結構危ない」

 

「じゃあ、おあいこですね」

 

ヒフミは泣きながら笑った。

 

先生も少し笑う。

 

それ以上は言わなかった。

 

ヒフミが一歩下がる。

 

代わるように、セリカが前へ出た。

 

「……先生」

 

「うん」

 

「その」

 

セリカは視線をあちこちへ動かした。

 

「何よ」

 

「まだ何も言ってないけど」

 

「顔が何か言ってる!」

 

「ごめん」

 

「謝らないでよ!」

 

反射的に声を上げてから、セリカは口を閉じた。

 

少しの沈黙。

 

「……私も」

 

セリカは花束を見る。

 

「反対したから」

 

先生は頷いた。

 

「うん」

 

「でも、それは……」

 

言葉が続かない。

 

先生は待った。

 

セリカはしばらく俯いたあと、諦めたように息を吐く。

 

「……もう、分かってるわよね」

 

「たぶん」

 

「何よ、たぶんって」

 

「セリカが言いたいこと全部分かるって言ったら、それは嘘になるから」

 

セリカは一瞬黙った。

 

「……そういうところ」

 

「え?」

 

「何でもない!」

 

セリカは顔を背ける。

 

耳が少し赤かった。

 

「とにかく」

 

もう一度先生を見る。

 

「今まで、ありがと」

 

先生は頷いた。

 

「こちらこそ」

 

セリカはすぐに後ろへ戻った。

 

その隣でホシノが苦笑する。

 

「いやぁ、最後までセリカちゃんはセリカちゃんだねぇ」

 

「うるさい!」

 

「はいはい」

 

ホシノはゆっくり先生の前へ出る。

 

いつもの眠たげな目。

 

いつもの気の抜けた話し方。

 

それでも。

 

今日は少しだけ、声が静かだった。

 

「先生」

 

「うん」

 

「お疲れさま」

 

短かった。

 

先生も短く返す。

 

「ありがとう」

 

「ん」

 

ホシノはそれだけで戻った。

 

ミカは、なかなか前へ出なかった。

 

先生と目が合う。

 

逸らす。

 

また見る。

 

最後には諦めたように歩いてきた。

 

「先生」

 

「うん」

 

「やっぱり、私は納得してないよ」

 

「知ってる」

 

「残ってほしかった」

 

「うん」

 

「今だってそう思ってる」

 

「ありがとう」

 

ミカは眉を寄せた。

 

「……何でそんな普通なの」

 

先生は少し考える。

 

「普通じゃないよ」

 

「嘘」

 

「本当」

 

先生は花束を見る。

 

「残りたかったし」

 

ミカの表情が止まった。

 

「悔しいし」

 

先生は続ける。

 

「できれば、明日も普通にシャーレへ来たかった」

 

ミカは先生を見る。

 

「だったら……」

 

言いかける。

 

けれど、その先を飲み込んだ。

 

結果を覆そうとはしない。

 

昨日、自分でそう決めた。

 

「……そっか」

 

「うん」

 

ミカは俯いた。

 

「先生」

 

「うん」

 

「私、先生のこと好きだからね」

 

先生は一瞬だけ困ったような顔をした。

 

それを見て、ミカが少し笑う。

 

「最後くらい言わせてよ」

 

「そうだね」

 

先生は頷いた。

 

「ありがとう、ミカ」

 

「……うん」

 

ミカは戻っていった。

 

その後も、何人かが先生へ声をかけた。

 

長い言葉を用意していたのに、先生を前にした途端に忘れてしまった者。

 

泣いて何も言えなくなった者。

 

逆に、普段と変わらない調子で「元気で」と言った者。

 

先生は一人ずつ応えた。

 

全部を覚えておこうとは思わなかった。

 

覚えようとしなくても、残るものは残る。

 

やがて。

 

ユウカが先生の前に立った。

 

「先生」

 

「はい」

 

「どうして急にかしこまるんですか」

 

「いや、怒られるのかなと思って」

 

「最後まで私を何だと思ってるんですか」

 

先生は少し笑った。

 

ユウカは呆れたように息を吐く。

 

それから、先生が地面へ置いた箱を見る。

 

「それ、持ちます」

 

「大丈夫だよ」

 

「花束を持ってるでしょう」

 

「片手で持てる」

 

「落とします」

 

「信用ないな」

 

「あります」

 

即答だった。

 

先生が少し驚く。

 

ユウカも自分で言ってから気づいたのか、わずかに目を逸らした。

 

「……先生個人に対する信用と、昨日の判断は別です」

 

先生は何も言わなかった。

 

ユウカもそれ以上説明しない。

 

先生は箱を持ち上げ、ユウカへ渡した。

 

「じゃあ、お願い」

 

「はい」

 

受け取る。

 

その横からノアが先生を見る。

 

「先生」

 

「うん」

 

「忘れ物は、本当にありませんね?」

 

先生は思わず笑った。

 

「ユウカと同じこと聞くんだ」

 

「大事なことですから」

 

「大丈夫」

 

「でしたら、安心しました」

 

ノアは微笑む。

 

昨日。

 

一度は賛成した自分の判断を見直し、最後には反対を選んだ。

 

そのことについて、ここでは何も言わない。

 

先生も聞かない。

 

「今までありがとう、ノア」

 

「こちらこそ」

 

ノアは静かに頭を下げた。

 

ヒナは少し離れたところに立っていた。

 

先生が見ると、ヒナも視線を返す。

 

「ヒナ」

 

「何?」

 

「ありがとう」

 

「……私は、何もしていないわ」

 

「審議のことだけじゃないよ」

 

ヒナは黙った。

 

先生は続けない。

 

しばらくして。

 

ヒナが小さく息を吐く。

 

「先生」

 

「うん」

 

「私は、昨日の判断を変えるつもりはない」

 

「分かってる」

 

「でも」

 

ヒナは先生を見る。

 

「あなたがここでしてきたことまで、否定したつもりもない」

 

先生は静かに頷いた。

 

「ありがとう」

 

ヒナはそれ以上何も言わなかった。

 

ハナコは先生へ微笑みかける。

 

いつものような、何かを見透かした笑みではない。

 

「結局、最後まで簡単な答えにはなりませんでしたね」

 

先生は少し考えた。

 

「そうだね」

 

「先生は、答えが欲しかったですか?」

 

先生は花束へ目を落とす。

 

「欲しかったのかもしれない」

 

「そうですか」

 

「でも、今はいいかな」

 

ハナコはそれ以上尋ねなかった。

 

「では、お元気で」

 

「ハナコも」

 

マコトは腕を組んだまま先生を見る。

 

「まったく。最後まで騒がしい奴だ」

 

「俺のせい?」

 

「少なくとも、議題の中心は貴様だ」

 

「それはそうか」

 

「私は賛成したのだからな。忘れるなよ」

 

「忘れないよ」

 

「ならいい」

 

それだけ言って、マコトは顔を逸らした。

 

リンは最後まで少し離れたところにいた。

 

先生が彼女を見る。

 

「リン」

 

「はい」

 

「お世話になりました」

 

「こちらこそ」

 

リンは静かに頭を下げた。

 

議長としてではなく。

 

ただ、一人の生徒として。

 

それ以上の言葉はなかった。

 

先生は花束を抱え直した。

 

全員を見る。

 

言いたいことはいくらでもあるような気がした。

 

ありがとう。

 

ごめん。

 

楽しかった。

 

もっとここにいたかった。

 

これからも元気でいてほしい。

 

困ったときには誰かを頼ってほしい。

 

無茶はしないでほしい。

 

言葉にしようと思えば、いくらでも続けられる。

 

けれど。

 

先生は、そのどれも長い演説にはしなかった。

 

ここで最後の授業をする必要はない。

 

答えを残す必要もない。

 

先生はただ。

 

自分の前にいる生徒たちを見た。

 

「みんな」

 

何人もの顔が上がる。

 

「今まで、ありがとう」

 

それだけだった。

 

ミカが泣いた。

 

ヒフミもまた目元を拭った。

 

セリカは必死に顔を背けている。

 

ユウカは箱を抱えたまま唇を結ぶ。

 

ホシノは目を細めた。

 

ほかの生徒たちからも、いくつもの声が返ってきた。

 

先生は一つ一つに答えようとはしなかった。

 

代わりに、深く頭を下げた。

 

長い時間。

 

そして顔を上げる。

 

「じゃあ」

 

少しだけ笑う。

 

「行くよ」

 

誰も止めなかった。

 

それが今は、一番つらくて。

 

一番必要なことだった。

 

先生は歩き出した。

 

ユウカが数歩ついてくる。

 

先生が振り返る。

 

「箱」

 

「……あ」

 

ユウカは足を止める。

 

先生は笑った。

 

「持っていかないと」

 

「分かっています」

 

少し不機嫌そうに答え、箱を差し出す。

 

先生は花束を片腕へ寄せ、もう片方の腕で箱を受け取った。

 

「ありがとう」

 

「落とさないでくださいね」

 

「気をつける」

 

「本当に」

 

「分かったって」

 

ユウカはまだ何か言いたそうだった。

 

けれど。

 

最後には一歩下がった。

 

先生も前を向く。

 

少し先には。

 

先ほどの生徒たちが、まだいた。

 

先生を知らない生徒たち。

 

不揃いなアーチは、もうなくなっていた。

 

腕を下ろし、それぞれ道の脇に立っている。

 

先生が近づくと、何人かがこちらを見る。

 

やはり笑わない。

 

手も振らない。

 

その中には、最初に前へ出た生徒もいた。

 

先生と目が合う。

 

今度は逸らさなかった。

 

先生は軽く頭を下げた。

 

生徒も少し迷ったあと、小さく頭を下げる。

 

それだけだった。

 

石を投げた生徒の姿もあった。

 

友人の隣にいる。

 

先生を見る。

 

身体が少し強張る。

 

先生は足を止めなかった。

 

声もかけない。

 

謝罪を求めない。

 

許したと伝えることもしない。

 

生徒も何も言わなかった。

 

先生が横を通り過ぎる。

 

距離が開いていく。

 

それでよかった。

 

先生は歩く。

 

腕の中の花が、歩くたびに小さく揺れる。

 

少し重い。

 

けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

背後から、いくつもの声が聞こえる。

 

名前を呼ぶ声。

 

泣き声。

 

誰かを慰める声。

 

それらも少しずつ遠くなる。

 

先生は一度だけ立ち止まった。

 

振り返る。

 

シャーレが見える。

 

その前に生徒たちがいる。

 

先生を知る生徒。

 

先生を知らない生徒。

 

残ってほしいと願った生徒。

 

残すべきではないと考えた生徒。

 

怖がっている生徒。

 

感謝している生徒。

 

そのすべてが同じ場所にいた。

 

先生はしばらくその光景を見ていた。

 

何か言おうとは思わなかった。

 

もう十分だった。

 

先生は前を向く。

 

再び歩き出す。

 

道の端に、小さな石が落ちていた。

 

先生はそれを通り過ぎる。

 

手の中には花がある。

 

花束を持ち直す。

 

それから。

 

先生はもう、振り返らなかった。

 

 

 




ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

これにて、本作は完結となります。

最後のタイトルは『石と花』。

先生を知らないからこそ、怖いと思う生徒がいる。

先生を知っているからこそ、信じたいと思う生徒がいる。

そして、先生を知らなくても「石を投げるのは違う」と考える生徒もいる。

誰か一人の考えが完全に正しく、別の誰かが完全に間違っている。

そんな綺麗な答えにはしませんでした。

先生はキヴォトスに残ることができませんでした。

それでも、先生がここで過ごした時間や、生徒たちへ渡したものまで消えてしまったわけではありません。

だから最後に先生が持っていたのは、石ではなく花でした。

この結末をどう受け取るかは、読んでくださった皆様にお任せしたいと思います。

最後まで先生たちの物語を見届けてくださり、本当にありがとうございました。







まあ本音は生徒に石を投げられる先生が書きたくてこの作品描いたんですけどね!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

何かがおかしいブルーアーカイブ(作者:千ノ宮チノ)(原作:ブルーアーカイブ)

『ブルーアーカイブ』の世界の先生に憑依した。▼ただし、原作知識として知っているキヴォトスとは何かがおかしい。▼生徒達と交流していく中で気が付く、登場人物の所属が入れ替わった、少しおかしなキヴォトス。▼これは、知っているようで知らない生徒達と共に歩む、少しおかしな青春の物語。▼※所属表はネタバレ注意です。▼


総合評価:746/評価:8.58/連載:52話/更新日時:2026年09月02日(水) 18:20 小説情報

すべてがどうでもよくなった先生(作者:雨風 時雨)(原作:ブルーアーカイブ)

キヴォトスを襲った数々の危機は去り、生徒たちには平和な日常が訪れた。▼しかし、彼女たちを導き、すべてを救い終えた「先生」は――完全に燃え尽きていた。▼執務室の書類は放置され、ふらふらとシャーレを抜け出しては当てもなく放浪する日々。▼呆れて怒っても、涙ながらに心配しても、返ってくるのは感情のない「ほっとけよ」という冷たい言葉だけ。▼嫌われたわけでも、怒っている…


総合評価:39/評価:-.--/連載:4話/更新日時:2026年08月07日(金) 12:11 小説情報

先生はモームリ(作者:風神ぷー)(原作:ブルーアーカイブ)

先生が辞めた。▼キヴォトスでは誰も想像したことのない最悪の事態。▼終わらない業務。▼積み重なる責任。▼生徒を守り続けた果てに、一人の先生は限界を迎え、シャーレへ辞表を提出する。▼その時、極秘部署『モームリ』が起動する。▼呼び出されたのは、戦闘の専門家でも、英雄でもない。▼十八もの組織を立て直してきた、一人の経営コンサルタント。▼彼の武器は銃ではない。▼組織図…


総合評価:590/評価:7.71/未完:56話/更新日時:2026年09月15日(火) 00:42 小説情報

先生は汚い大人です(作者:こうすけ増田劇場版)(原作:ブルーアーカイブ)

大人だ先生だ言って笑顔で愛想よく振り向く?無理に決まってんだろ。▼最低な大人?ありがとう、最高の褒め言葉だ。


総合評価:1076/評価:7.24/連載:14話/更新日時:2026年08月03日(月) 23:09 小説情報

『ミレニアム治安維持局局長』、空崎ヒナ(作者:無名のカヤ推し)(原作:ブルーアーカイブ)

 ゲヘナでの日々の業務や重責で限界が来てしまった空崎ヒナ。▼ そんな彼女がある出来事がキッカケで、ミレニアム(超ホワイト)へと転校するお話。▼


総合評価:2420/評価:8.41/連載:32話/更新日時:2026年09月24日(木) 00:03 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>