出来る限り毎日21時投稿予定ですがメインは別作品なのでご了承下さい。
報道から三日が過ぎた。
キヴォトスは、表面上はいつも通りだった。
授業の開始を告げるチャイムが鳴り、校舎の廊下には生徒たちの足音が響く。購買では昼食をめぐる小さな争奪戦が起こり、委員会の巡回は今日もどこかで誰かの問題行動を止めていた。
遠くでは爆発音が鳴った。
誰かが振り向き、すぐに前を向いた。
キヴォトスでは、それくらいのことは日常の範囲内だった。
だが、それでも。
空気は変わっていた。
笑い声の合間に、沈黙が混じる。
雑談の途中で、誰かが端末を見て言葉を止める。
廊下の隅で、声を潜めた会話が交わされる。
「先生、どうなるんだろう。」
「審議会、開かれるんでしょ。」
「誰が話すの?」
「先生のことを知ってる人?」
「でも、それだけで決めていいのかな。」
問いだけが増えていく。
答えは、まだどこにもなかった。
◇
連邦生徒会本部。
行政会議室には、朝から緊張した空気が張り詰めていた。
机の上には、各学園から提出された資料が積み上げられている。
学園規模。
自治組織の構成。
先生との関係。
過去の共同作戦。
生徒から寄せられた意見。
報道後の反応。
そのすべてが、分厚い束となってリンの前に置かれていた。
モモカは端末を操作しながら、次々と更新される情報を確認している。
「行政官。各学園から推薦候補が揃いました。」
「ありがとう。」
リンは短く答える。
その表情に疲れは見えない。
だが、資料をめくる指先は、いつもよりほんの少しだけ遅かった。
今回の審議会は、通常の行政手続きではない。
誰かの校則違反を処理するわけでもない。
自治区間の調整でもない。
予算配分でもない。
一人の教師を、教育者として留任させるべきか。
その問いを、キヴォトス全体へ向けて開く。
それは制度の問題であり、倫理の問題であり、感情の問題でもあった。
だから難しい。
そして、だからこそ慎重でなければならなかった。
リンは立ち上がり、会議室のホワイトボードへ向かった。
ペンを手に取り、四つの言葉を書く。
**制度**
**経験**
**安心**
**社会**
モモカが顔を上げる。
「それが、選考基準ですか。」
「はい。」
リンはペンを置いた。
「自治組織の長だけを集めれば、制度論に偏ります。」
「先生に救われた者だけを集めれば、恩義が判断を曇らせる可能性があります。」
「不安を抱く者だけを集めれば、恐怖だけが結論を押し流します。」
「社会的影響だけを考えれば、一人ひとりの経験が切り捨てられます。」
リンは資料の山へ視線を戻す。
「必要なのは、学園の代表ではありません。」
「価値観の代表です。」
モモカは少し黙った。
それから、慎重に言う。
「ですが、それは反発を招くかもしれません。」
「正式な肩書を持つ生徒だけではなく、一般生徒に近い立場の者も招集するわけですから。」
「承知しています。」
リンは迷わず答えた。
「ですが、今回の議題は通常の権限調整ではありません。」
「教育者への信頼を問う以上、その教育を受けた側の声を抜くことはできません。」
「怖いと思う生徒の声も、信じたいと思う生徒の声も、制度を守ろうとする声も、社会全体を見る声も、すべて必要です。」
モモカは端末を閉じた。
「……全員が納得する選考はできませんね。」
「できません。」
リンは即答した。
「だから、納得ではなく、説明責任を果たします。」
人類の会議は、たいていここで崩れる。
全員を満足させようとして、結局誰も満足しないものが完成する。
リンは、その愚かさを選ばなかった。
彼女が選ぶのは、公正さだった。
◇
最初に推薦書が届いたのは、ミレニアムサイエンススクールだった。
セミナー会議室。
ユウカは連邦生徒会から届いた依頼書を、もう三度読み返していた。
机の上には資料が広げられている。
先生の活動記録。
報道内容。
連邦生徒会の審議会要項。
公開討論の予定。
ユウカは腕を組み、深く息を吐いた。
「やっぱり、避けられないわね。」
隣のノアが静かに微笑む。
「避ける方が不自然でしょう。」
「分かってるわ。」
ユウカは眉間に指を当てる。
「でも、こういう問題ほど感情が先に出る。」
「先生を信じたい人もいる。」
「不安に思う人もいる。」
「どちらも間違いとは言えない。」
ノアは資料を一枚手に取った。
「だから、事実を整理する人間が必要になります。」
「ええ。」
ユウカは頷く。
「私は制度面から話す。」
「先生個人への好悪ではなく、教育者として組織に残すことがどういう意味を持つのか。」
「一度例外を認めれば、それは前例になる。」
その声には迷いがなかった。
ただし、冷たさもなかった。
ユウカは先生に助けられたことを忘れていない。
先生がミレニアムにどれほど関わってきたかも知っている。
だからこそ、軽く言えなかった。
「先生を否定したいわけじゃない。」
「でも、制度は感情で曲げてはいけない。」
ノアはそっと資料を閉じる。
「私は記録と論点整理を担当します。」
「議論が感情的になった時、前提を確認できるように。」
「助かるわ。」
ユウカは小さく笑った。
「きっと荒れるわよ。」
「でしょうね。」
ノアは変わらぬ調子で答える。
「ですが、荒れるからこそ、記録が必要です。」
二人は推薦を受けることを決めた。
ミレニアムから提出された推薦書には、こう記されていた。
『ユウカ。教育制度、組織運営、リスク管理の観点から発言可能。』
『ノア。事実整理、記録、論点分析の観点から発言可能。』
無駄がない。
いかにもミレニアムらしい推薦書だった。
人間の感情を除けば、書類というものは案外よくできている。
問題は、会議に出るのが書類ではなく人間だという点である。
◇
ゲヘナ学園。
風紀委員会の執務室では、ヒナが一人、連邦生徒会から届いた依頼書を見つめていた。
窓の外では、いつも通りどこかで騒ぎが起きている。
報告書も山のようにある。
本来なら、それだけで一日が潰れる。
しかし、ヒナはそのどれよりも先に、審議会の依頼書へ目を通していた。
『議題。先生を教育者として留任させるべきか。』
その一文に、ヒナはしばらく視線を落としたままだった。
先生のことは知っている。
多くの生徒を助けてきたことも。
危険な状況で前に立ってきたことも。
誰かを見捨てるような人ではないことも。
知っている。
だからこそ、簡単には切り捨てられない。
けれど。
ヒナは静かに依頼書を閉じた。
「教育者は、生徒が安心して信頼できる存在でなければならない。」
それは、誰かを傷つけるための言葉ではなかった。
責任の言葉だった。
部下が控えめに尋ねる。
「委員長。出席されますか。」
「出席します。」
即答だった。
「先生個人を憎んでいるわけではありません。」
「ですが、この議題から逃げることはできません。」
ヒナは立ち上がる。
「ゲヘナからは、私が教育者への信頼について発言します。」
その頃。
万魔殿では、マコトも同じ依頼書を読んでいた。
「ふむ。」
芝居がかった声。
しかし、その目は笑っていなかった。
「更生を認める社会か。」
「教育現場の例外性か。」
「なかなか厄介な皿を回してくれるではないか、連邦生徒会も。」
側近が尋ねる。
「議長。出席なさるのですか?」
「当然だ。」
マコトは依頼書を机へ置く。
「これは風紀委員会だけの問題ではない。」
「ヒナは教育者への信頼を語るだろう。」
「ならば私は、社会全体の均衡を語る。」
「更生した人間を永遠に受け入れない社会は危うい。」
「だが教育という場を特別視したい者がいるのも理解できる。」
マコトは椅子にもたれる。
「つまり、どちらに転んでも燃える。」
「実に人間らしい。面倒くさいことこの上ないな。」
その言い方は軽い。
だが、内容は軽くなかった。
ゲヘナから提出された推薦書には、二つの名前が並んだ。
『ヒナ。教育者への信頼、安全、責任の観点から発言可能。』
『マコト。社会復帰、政治的影響、組織間均衡の観点から発言可能。』
ゲヘナらしい。
同じ学園でありながら、視点はまるで違う。
だからこそ、二人とも必要だった。
◇
トリニティ総合学園。
ティーパーティーの部屋には、いつもより重い沈黙が落ちていた。
白いテーブル。
整えられた茶器。
香り高い紅茶。
普段なら優雅さを演出するそれらが、この日は妙に遠く感じられた。
机の中央には、連邦生徒会からの依頼書。
『特別教育審議会への参加者推薦について』
ナギサはその文面を読み終えると、ゆっくりと目を閉じた。
「……難しい依頼ですね。」
誰も否定しなかった。
トリニティには、公的な代表にふさわしい者がいる。
組織を語れる者もいる。
理念を語れる者もいる。
だが、今回必要なのは、それだけではなかった。
「この問題は、単なる学園間調整ではありません。」
ナギサは静かに言う。
「先生を実際に知る者の声が必要です。」
「しかし、先生への感情だけで語るわけにもいきません。」
別の声が続く。
「では、誰を推薦すべきでしょうか。」
最初に名前が挙がったのは、ミカだった。
空気がわずかに揺れる。
「ミカさんを?」
「彼女は先生への感情が強すぎるのでは。」
「だからこそ、必要なのかもしれません。」
ナギサは紅茶には手をつけなかった。
「ミカさんは、先生を無条件に正当化するために呼ぶのではありません。」
「信じたいという感情が、この議題から完全に排除されるべきではないからです。」
「先生に救われ、先生を慕う者がいる。」
「それは事実です。」
「ただし、その感情が正論になるわけではない。」
「その危うさも含めて、彼女はこの場に必要です。」
続いて、ヒフミの名前が挙がった。
「ヒフミさんは?」
「彼女は一般生徒に近い視点を持っています。」
「先生に感謝している。」
「けれど、不安を抱く者の気持ちも否定できない。」
「その葛藤を語れる人物です。」
ナギサは頷く。
「彼女は、読者ではなく、生徒たちに近い位置にいます。」
「信じたい。」
「でも怖い人の気持ちも分かる。」
「その迷いは、この審議会に必要です。」
最後に、ハナコ。
この名前が出た時、場の空気はまた少し変わった。
「ハナコさんは、議論の前提を見抜くでしょう。」
「ええ。」
ナギサは静かに答える。
「彼女はどちらかの側に簡単には立たない。」
「それどころか、双方の矛盾を指摘するはずです。」
「時に不快な問いになるかもしれません。」
「ですが、討論にはそれが必要です。」
三人。
ミカ。
ヒフミ。
ハナコ。
トリニティからの推薦としては、肩書だけを見れば不思議に映るかもしれない。
しかし、価値観の代表として見れば、これ以上に分かりやすい三人はいなかった。
推薦書が作成される。
その後、三人はそれぞれ呼び出された。
ミカは、依頼書を受け取ると、しばらく黙っていた。
いつもの明るさはない。
「私が行っていいのかな。」
その問いは、誰かへの確認ではなかった。
自分自身への問いだった。
「私、先生を信じたいって思ってる。」
「でも、それって正しいからじゃない。」
「私が、そうしたいだけ。」
ナギサは静かに答える。
「だからこそ、あなたの言葉には意味があります。」
「正論ではない感情も、この問題の一部です。」
ミカは苦しげに笑う。
「……それ、結構ひどいこと言ってるよね。」
「ええ。」
ナギサは否定しなかった。
「けれど、必要なことです。」
ヒフミは依頼書を両手で受け取った。
「私に、務まるでしょうか。」
「分かりません。」
ナギサは正直に答えた。
「ですが、あなたの迷いは軽いものではありません。」
「先生への感謝も、不安になる人への理解も、どちらも本物です。」
ヒフミは目を伏せる。
「私は、先生を信じたいです。」
「でも……。」
そこから先は、言葉にならなかった。
ナギサはそれ以上問わなかった。
ハナコは依頼書を見て、小さく微笑んだ。
「随分と難しい役をいただきましたね。」
「あなたなら、議論が一方向に流れた時に問いを投げられます。」
「褒められているのか、厄介事を押しつけられているのか、悩ましいところですね。」
「両方です。」
ハナコは楽しげに目を細めた。
「では、せめて場を壊さないように努めます。」
「壊すのではなく、歪みを見つけてください。」
「承知しました。」
そうして、トリニティの三人が決まった。
◇
最後に残ったのが、アビドス高等学校だった。
連邦生徒会本部。
モモカはアビドスの資料を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「行政官。」
「アビドスを招集することに、外部から疑問が出る可能性があります。」
リンは顔を上げる。
「理由は。」
「学園規模です。」
モモカは端末を操作し、比較資料を表示した。
「トリニティ、ミレニアム、ゲヘナに比べ、アビドスは小規模校です。」
「自治組織としての影響力も大きくありません。」
「なぜこの審議会に参加するのか、説明が必要です。」
「当然です。」
リンは静かに資料を取った。
そこには、先生とアビドスの関わりが時系列でまとめられていた。
アビドスの存続危機。
対策委員会への支援。
自治区で起きた問題。
先生が同行した数々の出来事。
書類上は簡潔な記録にすぎない。
だが、その一行一行の裏には、生徒たちの時間があった。
リンはその資料を机へ置く。
「アビドスは、規模で選ぶなら対象外でしょう。」
「ですが、今回は規模で選びません。」
「本審議会では、先生の過去だけではなく、教育者として積み重ねてきた実績も判断材料にします。」
「その実績を最も近くで見続けた学園の一つが、アビドスです。」
モモカは黙って聞いている。
「先生が何をしたのか。」
「どう生徒と向き合ったのか。」
「どれほど近い距離で教育に関わったのか。」
「それを語れる者が必要です。」
リンは資料の一部を指で示す。
「ホシノさん。」
「彼女はアビドスの危機を通じて、先生を長く見てきました。」
「軽い口調の奥に、先生の行動を冷静に見ている視点があります。」
「そして、セリカさん。」
「彼女は一般生徒に近い率直な不安を語れる。」
「先生への感謝がありながら、それでも怖いと感じるかもしれない。」
「その声を抜いては、公正ではありません。」
モモカは小さく息を吐いた。
「つまり、アビドスは弱小校だからではなく、先生との関わりが深いから選ばれる。」
「はい。」
リンは頷く。
「むしろ、規模の小ささは理由になりません。」
「先生という教育者を最も近くで見続けた証人として、必要なのです。」
モモカは納得したように頷いた。
「説明資料に明記します。」
「お願いします。」
リンは短く答えた。
公平な会議とは、全員が納得する会議ではない。
なぜその手続きを選んだのか、説明できる会議のことだ。
人類はしばしばそこを取り違える。
そして炎上する。
実に伝統芸能である。
◇
アビドス高等学校。
対策委員会の部室では、連邦生徒会から届いた封筒が机の中央に置かれていた。
誰もすぐには開けなかった。
砂の混じった風が窓を揺らす。
いつもの部室。
いつもの机。
いつもの空気。
けれど、この封筒だけが異物だった。
ホシノが椅子にもたれながら、ぼんやりと封筒を見つめていた。
「連邦生徒会から直々に、かぁ。」
セリカは落ち着かない様子で腕を組んでいる。
「早く開けなさいよ。」
「セリカちゃんが開けてもいいんだよ?」
「なんで私なのよ!」
「だって、おじさん、こういうの苦手でさ。」
「そういう問題じゃないでしょ!」
いつものやり取り。
だが、声にいつもの軽さは少なかった。
ホシノは封筒を手に取り、ゆっくりと開けた。
中には依頼書が入っていた。
『キヴォトス特別教育審議会への出席依頼』
『アビドス高等学校代表として、以下の者の出席を要請します。』
名前が二つ。
ホシノ。
セリカ。
セリカは目を見開いた。
「私も?」
ホシノは依頼書の続きを読む。
そこには、アビドスが選ばれた理由が記されていた。
『貴校は、先生が教育者として長期間かつ継続的に関わってきた学園の一つです。』
『本審議会では、先生の教育活動を実際に見てきた生徒の証言を重要な判断材料とします。』
『また、先生への感謝と不安の双方を語れる視点が必要であると判断しました。』
セリカは、その文章を何度も読み返した。
「……先生を、見てきたから。」
「うん。」
ホシノは静かに頷く。
「おじさんたちは、先生にたくさん世話になったからね。」
「でも、それだけじゃない。」
セリカは依頼書を握りしめる。
「私、先生には感謝してる。」
「本当に、感謝してる。」
「でも……。」
言葉が止まる。
言いたくない。
言ってはいけない気がする。
けれど、言わなければこの依頼書の意味がない。
セリカは顔を上げた。
「怖いって思う気持ちも、ある。」
部室に沈黙が落ちた。
ホシノは茶化さなかった。
いつものように眠そうな声で流すこともしなかった。
ただ、ゆっくりと言う。
「それでいいんだと思うよ。」
「よくないでしょ。」
セリカの声が震える。
「先生に助けてもらったのに。」
「信じたいのに。」
「なのに、怖いって思うなんて。」
「裏切ってるみたいじゃない。」
ホシノはしばらく黙っていた。
窓の外を砂が流れていく。
「セリカちゃん。」
「怖いって思うことは、裏切りじゃないよ。」
セリカは何も言えない。
「先生に感謝してることと。」
「怖いと思う気持ちは。」
「たぶん、同時にあっていいんだよ。」
ホシノは依頼書を畳む。
「おじさんたちは、先生を助けるために行くんじゃない。」
「追い出すために行くんでもない。」
「見てきたことを話すために行く。」
「感謝も。」
「不安も。」
「どっちも。」
セリカは唇を噛んだ。
アビドスにとって先生は恩人だ。
その事実は変わらない。
だが、恩人だから何も言えないのだとしたら、それは本当に正しいのか。
答えは出ない。
出ないからこそ、行くしかない。
セリカは小さく頷いた。
「行く。」
「ちゃんと話す。」
ホシノは少しだけ笑った。
「うん。」
「じゃあ、おじさんも頑張ろうかな。」
◇
その夜。
連邦生徒会本部では、リンがすべての推薦書に目を通していた。
机の上には、最終参加者一覧。
先生。
リン。
モモカ。
ミカ。
ヒフミ。
ハナコ。
ユウカ。
ノア。
ホシノ。
セリカ。
ヒナ。
マコト。
リンは一人ひとりの名前を確認する。
ミカ。
感情による信頼。
ヒフミ。
恩と不安の葛藤。
ハナコ。
議論の本質を問う視点。
ユウカ。
制度と責任。
ノア。
記録と事実整理。
ホシノ。
積み重ねを見てきた証言。
セリカ。
一般生徒に近い不安。
ヒナ。
教育者への信頼。
マコト。
社会全体の均衡。
モモカ。
世論と情報拡散。
そして、先生。
当事者。
リンは一覧表を閉じた。
「これで、十分でしょうか。」
誰に言うでもない問いだった。
十分な会議など存在しない。
どんな人選にも偏りはある。
どんな手続きにも限界はある。
それでも、できる限り公正であろうとすること。
それが、今のリンにできる唯一の仕事だった。
モモカが隣で端末を見る。
「公開配信の事前登録数、さらに増えています。」
「各学園の生徒会、委員会、一般生徒からも視聴予定が出ています。」
「当日はかなりの同時接続数になります。」
リンは目を閉じる。
「分かりました。」
「記録体制を強化してください。」
「発言内容が切り取られる可能性もあります。」
「文脈を残すため、議事録と映像記録を同時公開します。」
モモカは少し驚いた顔をした。
「そこまでしますか。」
「します。」
リンは静かに答える。
「この審議会は、結論だけを示して終わるものではありません。」
「そこに至る過程を残す必要があります。」
「そうでなければ、誰も納得しません。」
モモカは端末へ入力する。
「了解しました。」
リンは窓の外を見る。
夜のキヴォトスは、いつも通り明るかった。
しかし、その灯りの下で、数え切れない生徒たちが同じ問いを抱えている。
先生は教育者でいていいのか。
誰もまだ答えを知らない。
リンにも分からない。
だから、会議を開く。
分からないまま決めないために。
◇
審議会当日の朝。
トリニティでは、ミカが鏡の前に立っていた。
制服は整っている。
髪も乱れていない。
それでも、表情は落ち着かなかった。
「正しいことを言える自信なんてない。」
小さな声。
誰に聞かせるためでもない。
「でも、黙ってることもできない。」
彼女は目を閉じる。
先生を信じたい。
それは変わらない。
だが、その気持ちを正義として振りかざしてはいけない。
それも分かっている。
ミカは深く息を吸った。
「行こう。」
ヒフミは鞄に資料を入れながら、何度も中身を確認していた。
必要なものは多くない。
それでも、落ち着かない。
「私は、何を言えばいいんでしょう。」
答えはない。
信じたい気持ち。
怖いと思う人への理解。
その両方を持っている自分が、どちらの側にも立ち切れないことが苦しかった。
ハナコは、そんな二人を静かに見ていた。
「きっと、無理に答えを出さなくてもよいのだと思います。」
ヒフミが顔を上げる。
「答えを出さなくても、ですか?」
「ええ。」
ハナコは微笑む。
「迷っていること自体が、ひとつの大切な証言ですから。」
ミカは少しだけ笑う。
「ハナコって、たまにまともなこと言うよね。」
「たまに、ですか。」
「たまに。」
「厳しいですね。」
三人は部屋を出た。
◇
ミレニアム。
ユウカは資料をきっちり揃え、鞄にしまった。
ノアは議事用の端末を確認している。
「準備は?」
「問題ありません。」
ノアは答える。
「関連する記録、連邦生徒会の通達、報道の時系列、すべて整理済みです。」
「ありがとう。」
ユウカは少しだけ肩の力を抜く。
「私は、嫌われるかもしれないわね。」
ノアは首を傾げる。
「反対意見を述べるからですか?」
「ええ。」
「先生に救われた生徒は多い。」
「その人たちから見れば、私は冷たいことを言うように見えるかもしれない。」
ノアは静かに言った。
「冷たいかどうかではなく、必要な視点かどうかです。」
ユウカは苦笑する。
「あなたらしいわ。」
「事実ですから。」
二人はセミナー室を後にした。
◇
ゲヘナ。
ヒナはいつも通りの制服で、いつも通りの姿勢で立っていた。
ただ、その表情は少しだけ硬い。
「委員長。」
部下が声をかける。
「お気をつけて。」
「ええ。」
ヒナは短く答える。
「これは戦いではありません。」
「ですが、逃げていい問題でもありません。」
彼女は歩き出す。
その背中に迷いはなかった。
万魔殿では、マコトが出発前に派手な外套を整えていた。
「議長、今回はあまり余計なことを言わない方が……。」
側近の忠告に、マコトは片眉を上げる。
「余計なこととは失礼だな。」
「私は常に必要なことを言っている。」
「必要以上に大きな声で。」
「そこが問題なのでは?」
マコトは笑った。
「心配するな。」
「今回は、茶番にしてよい議題ではない。」
その一言で、側近は黙った。
マコトは依頼書を懐へしまう。
「行くぞ。」
◇
アビドス。
朝の部室には、砂の匂いがあった。
ホシノはいつもより少し早く来ていた。
机の上には、連邦生徒会への出席依頼書。
セリカは窓際に立ち、外を見ている。
「眠れた?」
ホシノが尋ねる。
「少しだけ。」
セリカは振り向かない。
「おじさんは?」
「おじさんはいつでも眠れるよ。」
「嘘。」
「ばれた?」
短いやり取り。
少しだけ空気が軽くなる。
だが、すぐに沈黙が戻った。
セリカは静かに言う。
「先生に会ったら、普通に話せるかな。」
ホシノは少し考えた。
「分からないね。」
「でも、普通に話せなくてもいいんじゃないかな。」
「今は普通じゃないから。」
セリカは小さく頷く。
「……うん。」
ホシノは依頼書を鞄へ入れる。
「行こうか。」
「うん。」
二人は部室を出る。
廊下を歩きながら、セリカは何度も思い返していた。
先生が差し伸べてくれた手。
先生が笑っていた顔。
そして、画面に表示された報道の一文。
どちらも消えない。
どちらも本当。
だから、苦しい。
◇
連邦生徒会本部へ向かう道中、各学園の代表たちは同じ空の下を移動していた。
誰も派手な会話はしない。
端末には、審議会の開始時刻が表示されている。
街の大型ビジョンには、公開配信の案内が流れていた。
『キヴォトス特別教育審議会』
『本日開催』
『議題 先生を教育者として留任させるべきか』
その文字を見た通行中の生徒たちが足を止める。
「今日なんだ。」
「誰が出るの?」
「アビドスも?」
「先生と一番関わってたからじゃない?」
「ヒナ委員長も出るって。」
「ミカさんも?」
「どうなるんだろう。」
答えはない。
ただ、注目だけが集まっていた。
人は答えを求める。
そして、答えが出る前から誰かを責める準備を始める。
本当に面倒な生き物だ。
それでも。
この日は、誰もが待っていた。
誰かが考えてくれることを。
誰かが言葉にしてくれることを。
自分ではまだ形にできない不安や感謝を、誰かが代わりに語ってくれることを。
◇
連邦生徒会本部。
大会議場の前には、すでに係の生徒たちが立っていた。
受付。
記録確認。
配信設備。
警備。
すべてが整えられている。
最初に到着したのは、ミレニアムのユウカとノアだった。
ユウカは会場の配置を見るなり、すぐに資料へ目を落とした。
「円形席か。」
「対立構造を強調しすぎない配置ですね。」
ノアが言う。
「連邦生徒会らしい配慮です。」
「配慮で議論が穏やかになれば苦労しないけどね。」
ユウカは小さく息を吐く。
続いて、ゲヘナのヒナが到着した。
ユウカと視線が合う。
互いに軽く会釈する。
言葉は少ない。
だが、二人とも、この場に来た理由は理解していた。
しばらくしてマコトが現れる。
「ほう、重々しい空気だな。」
「議題が議題ですから。」
ユウカが淡々と答える。
マコトは肩をすくめた。
「その通りだ。」
「今日は、軽口で済ませられる日ではない。」
その言葉に、ユウカは少し意外そうな顔をした。
マコトは気づいたように笑う。
「なんだ、その顔は。」
「いえ。」
「珍しくまともなことを仰るので。」
「失礼だぞ、ミレニアム。」
「事実です。」
ノアが静かに補足した。
人類は緊張した場でもこういう小競り合いをする。
ある意味、健康ではある。
◇
トリニティの三人が到着した時、会場前の空気はさらに張り詰めた。
ミカは一瞬だけ足を止める。
その視線の先には、まだ誰もいない当事者席があった。
先生は、後から来る。
それが分かっていても、胸が苦しくなる。
ヒフミはそっとミカの隣に立った。
「ミカさん。」
「大丈夫。」
ミカは小さく笑う。
「全然大丈夫じゃないけど、大丈夫ってことにする。」
ハナコは会場を見渡していた。
「なるほど。」
「何がなるほどなの?」
ミカが尋ねる。
「この配置です。」
ハナコは円形席を見る。
「誰かを正面から責める形ではなく、全員が互いを見る形になっています。」
「裁判ではなく、審議会。」
「連邦生徒会は、その印象をかなり意識していますね。」
ヒフミは少し緊張した声で言う。
「ここで、話すんですね。」
「ええ。」
ハナコは穏やかに答える。
「自分の言葉で。」
◇
最後に近い時間に、アビドスの二人が到着した。
ホシノはいつもの調子で手をひらひらさせる。
「いやあ、大きい建物だねぇ。」
セリカは小声で言う。
「今それ言う?」
「緊張してるから、どうでもいいこと言ってるんだよ。」
「自覚あったのね。」
二人が受付を済ませると、いくつかの視線が向けられた。
アビドス。
小規模校。
だが、先生と最も深く関わってきた学園の一つ。
その事実を、ここにいる者たちは知っている。
ホシノはその視線を受け止め、いつもの眠そうな顔で会釈した。
セリカは少し身を固くした。
ユウカが静かに声をかける。
「アビドスからは、お二人なんですね。」
「うん。」
ホシノが答える。
「おじさんたち、先生には色々世話になったからね。」
セリカは少し迷い、それから言った。
「でも、それだけを話しに来たわけじゃありません。」
ユウカは頷く。
「分かっています。」
短いやり取りだった。
だが、セリカの緊張は少しだけ解けた。
◇
やがて、先生が到着した。
会場前の空気が、明らかに変わった。
誰も声を上げない。
誰も駆け寄らない。
誰も責めない。
だが、全員が先生を見た。
ミカの指が震える。
ヒフミは息を呑む。
ユウカは資料を握り直す。
ヒナは表情を変えない。
ホシノは目を細める。
セリカは目を逸らしそうになり、それでも逸らさなかった。
先生は全員へ静かに一礼した。
「今日は、来てくれてありがとう。」
それだけだった。
言い訳はない。
説明もない。
助けを求める言葉もない。
ミカが何かを言いかける。
しかし、声にはならなかった。
先生はそれ以上何も言わず、当事者席へ向かった。
その背中を、全員が見送る。
この場に集められた理由を、誰もが改めて理解していた。
先生を守るためではない。
先生を追い詰めるためでもない。
それぞれが見てきた先生と、報道された過去。
その両方に向き合うために、ここへ来た。
◇
開会五分前。
リンは議長席の裏で、最後の資料確認をしていた。
モモカが隣に立つ。
「配信準備、完了しています。」
「同時視聴数は予測値を大きく超えています。」
「各学園の回線も安定しています。」
「分かりました。」
リンは資料を閉じる。
「代表者選定理由の説明を、冒頭に入れます。」
「予定通りですね。」
「はい。」
リンは短く息を吐いた。
「この人選に疑問を持つ者はいるでしょう。」
「なぜアビドスなのか。」
「なぜヒフミさんやホシノさんのような、通常の学園間会議に出席しない者がいるのか。」
「なぜミカさんなのか。」
「その疑問を放置したまま討論に入れば、議論の土台が崩れます。」
モモカは頷く。
「最初に説明することで、審議会の性質を明確にする。」
「そうです。」
リンは議場へ続く扉を見る。
「これは権力者の会議ではありません。」
「価値観の会議です。」
「それを最初に示します。」
モモカは少しだけ表情を和らげた。
「行政官らしいです。」
「褒め言葉として受け取ります。」
「もちろんです。」
二人は議場へ向かった。
◇
大会議場。
全員が席についていた。
中央の議長席へ、リンが歩み出る。
隣にはモモカ。
議場全体が静まり返る。
外の喧騒は聞こえない。
配信のカメラが静かに作動する。
キヴォトス全土が、この場を見ている。
リンは席につき、資料を開いた。
そして、顔を上げる。
「定刻となりました。」
その声は、澄んでいた。
冷静で、揺らがない。
「これより、キヴォトス特別教育審議会を開会します。」
誰も動かない。
誰も言葉を挟まない。
リンは続ける。
「本審議会の議題は一つです。」
「先生を、教育者として留任させるべきか。」
その一文が、議場の中央に落ちた。
誰もが、その重さを受け止めた。
リンは資料を一枚めくる。
「討論に入る前に、本審議会の代表者選定基準について説明します。」
そこで、第二話は静かに幕を閉じる。
この場にいる全員は、選ばれた。
偉いからではない。
正しいからでもない。
それぞれ違うものを守ろうとしているからだ。
次に語られるのは、その理由。
そして、その先に待つのは、誰も簡単には答えられない討論だった。