──……✶……──
「三年経ったら、僕はたくさんの人間を殺す」
まだ幼い、澄んだ黒い瞳がこちらを見つめていた。
「残りの人生を、悪党として生きる。世界中の人間が恐れ慄くほどのね」
「…………」
「ノクトも、一緒にやってくれる?」
(…………それが、本当にあなたが望んでいること……?)
やがて少年の周囲には、一人、また一人と人が集まり始めた。
──お前が頭だ。
──ついていく。
──死ぬまで。
一つの決意が形作られていく。
ノクトは、その輪の外でただ立ち尽くしていた。
胸の奥で、言葉にできない違和感がじわじわと膨らんでいく。
…………違う
自分が欲しかったのは、こんなものじゃない。
これ以上、何かを失い続けながら生きていくなんて……自分にはできない。
今あるものを、大切にしたい。……守りたい。
もう二度と、何も失わないために。
ノクトは静かに背を向けた。
熱狂的な声が遠ざかっていく中、一歩、また一歩と歩き続ける。
やがて──すべてが暗闇の中へと消えていった。
──……✶……──
ノクトはゆっくりと目を開けた。
視界はまだ暗い。ノクトは木の幹に背を預けたまま、目が暗闇に慣れるまでしばらく動かずにいた。
あの夢を見るのは、ずいぶんと久しぶりだった。
もう何年も前のことだ。とうの昔に忘れると決め、思い返すことすらほとんどなくなっていた過去。
(……なぜ、今さら)
静まり返った森の中で顔を上げれば、少し離れた大木の根元に二つの人影が見える。
アズリルとレオンハルトが一枚の毛布にくるまり、寄り添うように眠っていた。
弟を抱き込むレオンハルトの腕は眠っていても緩まず、その胸元に顔を埋めたアズリルも、安心しきった様子で小さな寝息を立てている。
しばらく二人の寝息を聞いていたノクトは、やがて静かに息を吐いた。
……この二人には、自分たちのようになってほしくない。
何があっても、最後まで互いを手放さずにいてほしい。
そんなことを思いながら、夜明け前の空へ視線を移す。
薄闇の向こうで、夜がわずかに白み始めていた。
(クロロ……今頃、どうしているんだろうな)
[newpage]
──数時間前。
アズリルたちが戻った頃には、森はすっかり夜の闇に包まれていた。焚き火はほとんど消えかけ、残った熾火だけが赤い光をかすかに放っている。
アズリルはノクトの数歩前を、黙ったまま歩いていた。
先ほどの出来事を思い返すたび、どうにも後ろを振り向く勇気が出ない。
(兄上たち、どこに行ったんだろ……)
辺りを見回しながら、まずは大きな木の根元へ向かう。
太い根の間にできたくぼみには、『睡眠少女』が、変わらずすやすやと眠っていた。
(……やっぱり、もっとちゃんとした場所に隠したほうがいいよなぁ……)
葉と枝を重ねて隠しただけでは、さすがに心許ない。
ひとまず無事なのを確認して息をついたところで、離れた場所に毛布へくるまった人影があることに気づいた。
(……兄上?)
足音を立てないよう近づき、そっと顔を覗き込む。
やはりレオンハルトだった。
穏やかな寝顔を見た途端、数時間前に自分がぶつけた言葉が蘇り、胸の奥が小さく痛んだ。
しばらくその場で迷った末、アズリルは毛布の端を持ち上げると、起こさないよう慎重に中へ潜り込んだ。
そして、兄の胸元へそっと身体を寄せる。
「……ごめんなさい、兄上」
そう呟いた直後──
身体に回されたレオンハルトの腕に、ぐっと力がこもった。
「……起こしちゃった?」
「これで起きなかったら、さすがにどうかしてるよ」
頭上から落ちてきたのは、掠れた眠たげな声だった。
おそるおそる顔を上げると、レオンハルトは眠そうに目を細めながらも、小さく笑っている。
先ほどまで浮かべていた傷ついたような表情はすでになく、そこにあるのはアズリルが昔から見慣れている、穏やかな兄の顔だった。
「あの……さっきは、……」
「いいよ。怒ってないから」
「でも……」
「大丈夫だよ、アズリル。もう気にしなくていい」
子供をあやすように髪を撫でられ、アズリルは言葉を飲み込んだ。
そのまま何度か優しく頭を撫でたあと、レオンハルトは耳元へ顔を寄せる。
「──さっきのことは、忘れろ」
ひどく穏やかな声だった。
「その代わり……今夜はここで、一緒に寝てくれるか?」
「…………うん」
少し間を置いて頷く。
満足したのか、レオンハルトは弟の額にそっと唇を落とし、再び目を閉じた。間もなく呼吸がゆっくりと規則正しくなっていく。
アズリルだけは起きたまま、しばらく兄の穏やかな寝顔を見つめていた。
[newpage]
「兄弟で朝からベタベタと……きしょく悪いぞ」
心底呆れたような声に、アズリルの意識が浮上した。
「……ん……?」
重たい瞼を開く。
頬が温かな布地に埋もれ、鼻先をふわりと上品な香りがくすぐった。
しばらくぼんやりしたあと、それがレオンハルトの胸元なのだと気づく。
顔を上げると、すでに目を覚ましていた兄が至近距離からこちらを見下ろしていた。腰にはしっかり腕が回り、毛布の中では、いつの間にそうなったのか互いの脚まで絡み合っている。
そして枕元には、腕を組んだジンが立っていた。
その顔には「朝っぱらから何を見せられているんだ」とでも言いたげな色がありありと浮かんでいる。
(……こういうのって、気色悪く見えるんだ……)
今まで考えたこともなかった。
アズリルが妙に納得している横で、レオンハルトは特に気にした様子もなく弟の頬に軽く口づけた。
「おはよう、アズリル」
胸焼けしそうなほど甘い声で囁かれ、普段なら何とも思わないはずなのに、今はなぜか少し居心地が悪い。
朝食は、拍子抜けするほど普通だった。
昨日あれだけ盛大に癇癪を起こしたというのに、誰一人としてそのことに触れようとしない。イルミも、ノクトも、ジンも。レオンハルトまで、何事もなかったような顔で食事をしている。
(……みんな大人だなぁ)
自分なら絶対、どこかで変な空気を出してしまいそうだ。
そう思いながら焼き魚を一口頬張ったところで、ふとノクトと目が合った。
反射的に手元へ視線を落とす。
(僕も昨日のことは考えないようにしないと……)
いつも通り。いつも通り。そう自分に言い聞かせながら黙々と魚をつついていたが、どうにも頭の片隅に引っかかるものがあった。
(…………何か、大事なことを忘れてるような……)
手が止まる。
昨日、城へ帰ると言われた。
ノクトには振られた。
それから──もう一つ、何かあったはずだ。
兄に何かを問い詰めようとしていたような気もするのだが、そこだけ妙に靄がかかっている。
(……なんだっけ?)
しばらく考えてみたものの、どうしても思い出せなかった。
食事を終えると、全員で池のそばへ移動した。
適当な場所へ輪になるように腰を下ろした途端、それまでの穏やかな空気が嘘だったように静まり返る。
嫌な予感がして、アズリルはそっと周囲を見回した。
「アズリル」
最初に口を開いたのはレオンハルトだった。
「昨日は、こちらの言い方が悪かった。何の説明もせず、いきなり国へ帰れと言われたところで納得できるはずがない。最初からきちんと話すべきだったんだ。……すまなかった」
そこで一度言葉を切り、ジンと視線を交わす。
ジンがわずかに頷くのを確認すると、レオンハルトは覚悟を決めるように息を吐いた。
「単刀直入に言うよ。……アズリル。お前の中に、お前ではない何かがいる」
「………………え?」
「おそらく、何らかの寄生生物だ」
「…………」
「それがお前の意識や行動に干渉している可能性がある」
「…………」
「まだ正体も、どういう影響を与えているのかも分かっていない。だからガレスには一足先にオルドヴィアへ戻ってもらった。向こうに残っている資料も含めて、詳しく調べてもらうためだ」
そこまで話すと、レオンハルトは黙り込んだままの弟を心配そうに覗き込んだ。
「……驚くのも当然だよ。自分の中にそんなものがいると聞かされれば、不安にもなるだろう。だが、心配しなくていい」
肩に置かれた手に、わずかに力がこもる。
「何があっても私が守る。必ずどうにかするから、アズリルが一人で抱え込む必要はない。……約束する」
皆は黙ってアズリルの反応を待った。
レオンハルトも、取り乱すならすぐ抱きしめられるようにしているらしく、いつもよりずいぶん距離が近い。
だが、長いこと黙り込んだ末にアズリルの口から出た言葉は、誰も予想していなかったものだった。
「……それと、旅をやめることに何の関係があるの?」
「…………え?」
レオンハルトは固まった。
「いや、だって……城へ帰ったからって、僕の中にいるものが消えるわけじゃないんでしょ? だったら旅を続けながら、正体とか取り出す方法を探してもいいんじゃないの?」
自分の腹に手を当てながらそう言う弟に、レオンハルトはしばらく言葉を失っていた。
「アズリル…………お前…………、どうしてそんなに平然としていられるんだ?」
「え?」
「今、自分の中に正体不明の寄生生物がいるって聞かされたんだぞ!?」
「ああ……うん。まあ……」
アズリルの視線が気まずそうに泳ぐ。
その反応に、レオンハルトの眉間へゆっくりと皺が寄った。
「…………まさか」
「…………」
「まさか、気づいてたのか?」
アズリルの身体がぎくりと跳ねた。
「えっと……気づいてたっていうか……何かいるかもしれないなぁ、とは少し思ってたけど。でも、それが何なのかまでは全然分からなかったし……」
もじもじと指先を弄る弟を見て、レオンハルトは大きく息を吸った。
そして、「はぁぁぁぁぁぁぁ…………」と、肺の底から絞り出すような長い溜息をついた。
次の瞬間、乾いた音が響く。
──パコンッ!
「いった!? 兄上、何すんの!?」
頭を押さえて睨むアズリルを無視し、レオンハルトは疲れ切った顔でジンを見た。
「ほら見ろ、ジン。言っただろう。アズリルは、自分が危険でも平気な顔で黙って無茶をする子なんだ。やっぱり今すぐオルドヴィアへ連れ帰って、これ以上勝手なことができないよう部屋に閉じ込めるしかない」
「兄上!?」
「まあまあ。落ち着けって」
ジンが困ったように間に入ると、レオンハルトは完全に匙を投げた顔で、苦々しくそっぽを向いた。
「坊主。気づいてたなら、なんで黙ってた?」
「だって……言ったら絶対、城に連れ戻されると思ったから……」
レオンハルトが再び深々と息を吐き、ジンは「まあ、そうだろうな」と言いたげに頭を掻く。
「怖くないのか?」
「…………」
「そいつは、お前を殺そうとしてるかもしれないんだぞ」
「…………」
「旅なら、またいつでもできる。なのに、どうしてそこまで“今”行くことにこだわる?」
「……今行かなかったら……もう二度と行けなくなる気がする……。どうしてかは……自分でも分からないけど……」
レオンハルトの表情が一気に険しくなる。
「ほら、やはり危険じゃないか。その感覚自体が、寄生している何かに植え付けられたものかもしれないんだぞ。そんな状態のお前を一人で旅に出すなんて、自分たちで墓穴を掘って、その中へ突き落とすようなものだ」
「そこまで言わなくても……」
普段になく感情的な兄に、アズリルは居心地悪そうに身を縮めた。
ジンは二人を見比べ、やれやれといった表情を浮かべた。
「アズレイ。俺は最後までお前の味方でいるつもりだったんだぜ。お前がどれだけ旅に出たかったのかくらい、見てりゃ嫌でも分かるしな」
そう言って、親指で自分を指す。
「そういう意味じゃ俺も似たようなもんだから、行きたいって気持ち自体はよく分かる。けどな、こんな大事なことまで隠されてたら、さすがの俺でも庇いきれねぇよ。それくらいは分かるだろ?」
「…………うん」
しばらく黙ったあと、アズリルの肩がわずかに落ちた。
「……ごめんなさい。誰かには、ちゃんと言うべきだった」
「おう」
「でも……」
「ん?」
アズリルは少し迷ってから、ゆっくり顔を上げた。
「それでも僕の中にいるものが、僕を殺そうとしてるとは思わないんだ……なんとなく、としか言えないけど」
「だったら、その“なんとなく”だけで安心するわけにはいかない」
そう口にしたのはレオンハルトだった。
「私たちがここまで深刻に考えているのには、理由があるんだ。……アズリル、母上の最期について、どれくらい知ってる?」
「……母上?」
話の繋がりが見えず、アズリルは首を傾げた。
「僕を産んでしばらくしてから病気になって、それで亡くなったって……それくらいだけど」
「そう教えられていたんだな」
「……違うの?」
問い返すと、レオンハルトはしばらく答えなかった。
どこか遠くを見るようにしばらく黙り込んだあと、ようやく重い口を開いた。
「母上が亡くなったのは、病気が原因じゃない。おそらく……今、お前の中にいるものと同じような何かに殺されたんだ」
アズリルの顔から、すっと表情が消えた。
「母上がお前を身籠っていた頃に、異変が出始めた。出産まではどうにか正気を保っていたんだが……お前を産んでからは、あっという間だったよ」
レオンハルトは目を伏せた。
「日に日に弱っていった。食事をしても身体は痩せ細るばかりで、頬はこけ、手足も骨ばっていった。最後には身体そのものが縮んだように干からびて……とても、人間とは思えない姿になっていた」
「…………」
「……結局、誰にも助けることはできなかった」
アズリルは何も言えなかった。
まさか母上が、そんな悲惨な最期を迎えていたとは思ってもみなかった。
幼い頃、どうして自分にだけ母親がいないのかと、周囲の大人たちへ何度も尋ねたことがある。
けれど誰に聞いても、決まって困ったような顔をした。
──病気で亡くなられたのです。
返ってくるのはいつもそれだけだった。
もっと聞きたかった。母がどんな人だったのか。どんな声で笑って、自分をどう抱いたのか。
だが、その話をするたび大人たちは悲しそうな顔をする。
そのうち、幼いアズリルも尋ねるのをやめた。
「……その寄生生物って、何なの?」
しばらくして、ようやく声が出た。
「何か治療する方法はなかったの? 父上なら色んな伝手があるのに……それでも駄目だったの?」
「ああ……。発症してすぐに、世界中から医者や研究者、除念師が集められた。だが、誰にも手の施しようがなかったんだ」
(……除念……?)
その単語に、わずかな違和感を覚える。
「そんな寄生生物、聞いたことない……。僕が今まで読んだ本の中にも、そんなものは──」
「載っていなくて当然なんだよ」
レオンハルトの答えに、アズリルは顔を上げた。
「お前がこれまで読んできた書物に載っているのは、基本的に“この世界”のものだからな」
「……この世界?」
今度はジンが地面から小枝を拾った。
「お前が学校や本で習ってきた世界のことだよ。世界地図くらい見たことあるだろ?」
「もちろん」
地面に描かれた小さな円を見ながら頷く。
「けど実際は──俺たちが暮らしてる世界なんて、全体から見りゃほんの一部だ」
ジンはその小さな円を囲むように、さらに大きな円を描いた。はるかに巨大な円を。
「…………へ?」
アズリルは二つの円を見比べた。
「俺たちの世界は、とてつもなく巨大な湖の中にある。その湖の外には、今まで俺たちが知ってきたものなんてちっぽけに思えるくらい、途方もなく広い外の世界が広がってる」
「…………」
「お前の母親を襲ったものも、今お前の中にいるものも、おそらくはそこから来た。簡単に言えば、俺たちの世界にとっての外来種だな」
「外の世界……外来種……」
腕を組み、しばらく唸る。
「…………う──ん」
「何だ、その反応」
「いや……急にそんなこと言われても、なんか現実味がないっていうか……」
世界だと思っていた場所が実は巨大な湖の中のほんの一部で、その外にはさらに広い世界がある。
信じろと言われても、頭の中で想像するだけで精一杯だった。
とうとう頭を抱え始めた弟を見て、レオンハルトの表情がわずかに和らぐ。
「無理もないよ。ただ、オルドヴィアで育った人間なら、実は子供の頃からその存在に触れている」
「そうなの?」
「ああ。我が国で古くから信仰されている神がいるだろう。授業でも何度も習っているはずだ」
「……ヴォロス神?」
「そうだ」
アズリルの頭に、学校で嫌というほど暗記させられた教義が浮かんだ。
「家畜を司る神とか、人々の苦しみを食べて幸福を与える神とか……時代によって色んな説があるよね。それが外の世界と何の関係があるの?」
「あれは、単なる昔話の中の神じゃない。ヴォロスは実在する。外の世界のどこかにな」
今度こそ、アズリルは大きく目を見開いた。
「……本当に?」
「ああ。そしてヴォロスとの繋がりを維持するため、数世代に一度、オルロフ家の人間があちら側へ渡っている」
しばらく言葉の意味を咀嚼し、「……僕、それ初めて聞いたんだけど」と、やや非難するように言った。
「お前に教えるにはまだ早いと父上が判断していたんだろう」
「十六歳って、そんなに早い……?」
「話を戻すぞ」
不満そうな弟を流し、レオンハルトは続けた。
「前回向こうへ渡ったのは、私たちの曾祖父だ。ネテロと、ゾルディック家の人間も同行していた」
さすがにその名前には反応した。
「ネテロとゾルディックまで行ったの!?」
「ああ。そして、ここからが重要なんだ」
身を乗り出した弟を制するようにそう言って、レオンハルトはジンへ視線を向けた。
話を引き継いだジンが、手にしていた枝で地面を軽く叩いた。
「その遠征で、一行は向こうから、とんでもないものを持ち帰った。今では『五大厄災』の一つに数えられてるものだ」
「……五大……厄災?」
「外へ渡った人間は、何度か向こうのものを持ち帰ってる。今確認されてるのは五つ。どれも人類が滅びかねないほど危険な災厄だ。今まで大事にならずに済んでるのは、運が良かっただけだ」
「人類が滅びるって……急に話が大きくなりすぎてない?」
アズリルは半信半疑の顔をした。
「残念ながら、大袈裟じゃねぇよ。何せ、その五つのうちの一つが、お前の母親を死なせた可能性が高いからな」
「…………」
「『人飼いの獣・パプ』。命を対価に、快楽を与える厄災だ」
「……命と、快楽?」
「詳しい仕組みはほとんど分かってない。ただ、確認されている被害者はみんな、生命を一滴残らず吸い取られたみたいに酷く萎れた姿になってる」
──干からびて、人間とは思えない姿。
先ほど聞いた母の最期と重なり、アズリルの顔から徐々に血の気が引いた。
「……じゃあ……」
無意識に胸元へ手を置く。
「僕の中にも……そのパプっていうものがいるの?」
「可能性はある」
レオンハルトが答えた。
「少なくとも、母上を襲ったものと、お前の中にいるものがまったく無関係だとは考えにくい。それに、母上に最初に見られた異変の中には、今のお前とよく似たものもあった」
「僕と?」
レオンハルトは、アズリルに指先を向けた。
「時々、妙にぼんやりすることがあるだろう」
「……そうかな?」
「する」
間髪入れずジンに断言され、アズリルは不満そうにそちらを見る。
それまで話を聞いていたイルミも、当然のように口を挟んだ。
「ハンター試験のときは特に目立ってたよ。一次試験の頃から、時々急に上の空になってた」
「イルミまで……」
「ノクトも気づいてたよね?」
話を振られたノクトが、一瞬ためらったあと静かに頷いた。
「はい。最初のうちは、私が声をかければ普通に応じておりました。ですが試験が進むにつれ、ぼんやりして呼びかけにも気づかないことが増えていき……後半には、何度声をかけてもほとんど返事がない時もありました。意識だけがどこかへ抜け落ちたような状態で、身体だけ動き続けているように見えたこともございます」
「……二人ともさぁ。人の試験を勝手に覗き見して……」
思わず呆れた声が出た。
だが、試験中のことを思い返し──表情が曇る。
一次試験は、途中から記憶がひどく曖昧だった。二次試験に至っては、何をしていたのかほとんど思い出せない。
三次試験こそヒソカと一緒だったため気を抜く暇はなかったが、四次試験も、最終試験も、ところどころ記憶が繋がらない。
(……あれ?)
記憶が曖昧だったこと自体は自覚していた。
試験で疲れていたせいだと思って、それ以上深く考えなかっただけだ。
だが、一つずつ思い返してみると。
(僕……思ってたより、かなり覚えてない……?)
みるみる顔色を悪くするアズリルを見て、ジンは何か思い当たる節があるらしいと察した。
「まあ、そういうことだ。ここまで明確に異変が出てる以上、一度きちんと調べる必要がある。だから城へ戻れって言ってる」
「でも……」
「でもじゃねぇよ。もし本当に五大厄災が関わってるんなら、そんなもん抱えて好き勝手歩き回られるのは危なすぎる。オルドヴィアは昔から外の世界と関わりがあるんだろ? 調べるなら、お前の国が一番可能性が高い」
アズリルはしばらく黙ったまま、膝元に目を落としていた。
やがて、小さく口を開く。
「……嫌だ」
「アズリル」
「アズレイ」
兄とジンの声が重なる。
「僕はやっぱり、母上みたいにはならないと思う」
「いい加減──」
「ちゃんと聞いて、兄上」
口を挟もうとしたレオンハルトを制し、そのまま言葉を続ける。
「母上が、そのパプっていうものに生命を吸われて亡くなったんだとしても……僕の中にいるものが、まったく同じものだとは思えないんだ」
「根拠は?」
ジンが聞いた。
「僕が母上のお腹にいた頃に移ったんだとしたら、生まれた時からずっと中にいることになるでしょ?」
自分の胸元へ手を添える。
「だったら、もう十六年だよ。それなのに今になって急に母上と同じような症状が出るっていうのは、なんか変じゃない? それにパプって命と引き換えに快楽を与えるんでしょ? 僕は今までそんなものを感じたことなんて一度もないし、生命を吸われてるような感じだってない」
ジンは返事をせず、アズリルを見た。
(……まあ、言ってることは分かる)
少なくとも、目の前の少年に起きていることは、これまで確認されてきたパプの被害とはかなり違う。
そもそも、パプが人間の体内に入り込んで寄生した例など聞いたことがない。
今まで見つかった被害者の多くは、頭部に管のようなものを繋がれ、外から生命を吸われているような状態だった。
アズリルのように、身体の内側へ何かが潜んでいる例とはまるで違う。
だからといって、これだけで別物だと断言できるほど、パプについて分かっているわけでもなかった。
どういう条件で人間を襲うのか。どうやって繁殖するのか。そもそも“快楽と命の交換”がどういう仕組みなのか。
分かっていること自体が、あまりにも少ない。
それに──
ジンは目を細めた。
自分は確かに見ている。
アズリルの内側に存在する、本人とは明らかに異質なもの。
まるで巨大な生き物が身体の奥で蠢いているかのように、不気味な脈動を繰り返す膨大な念の塊を。
最初は、レオンハルトが念で何かを仕込んでいる可能性を疑った。だが、あの三日間、あいつと何度も話した結果、そうじゃないことははっきりした。
なら、少なくともこいつの中には“何か”がいる。
そして今のところ、その正体に繋がりそうな手がかりは一つしかない。
母親がアズリルを身ごもっていた時、パプに寄生されていたこと。
それ以外に、思い当たるものはなかった。
「……これは、本当に僕自身の感覚でしかないんだけど」
考え込んでいたジンへ、アズリルが声を落として言った。
「僕の中にいるものが望んでるのは……ただ、帰ることなんだと思う」
「帰る?」
アズリルは地面へ視線を落とした。
ジンが描いた二つの円。
その大きい方を指先で示す。
「もし本当に外の世界から来たものなら……そこへ帰りたくて仕方ないんじゃないかな」
「…………」
「僕が感じるのは、それだけだよ。人類を滅ぼしたいとか、僕を傷つけたいとか……そういうものは何も感じない」
妙に確信のこもった声だった。
ジンはしばらく黙っていたが、やがて低い声で返した。
「アズレイ。それが厄介なんだよ」
「……え?」
「これを当人の勘だけで判断するわけにはいかない。お前自身が危険じゃないと感じてたとしても、その感覚自体をそいつに作られてる可能性だってあるだろ」
アズリルの表情が曇った。
「それに、“帰りたい”ってのが本当だったとしても、その先で何が起きるか分からない。今は何一つ判断できねぇんだ」
膝の上に置かれたアズリルの手が、ぎゅっと握られる。
「……だったら、ここで調べてよ」
「アズリル」
「僕は、帰りたくない」
今度は逸らさず、レオンハルトとジンをまっすぐ見た。
「ここで調べて、本当に僕の中にいるものが人類を滅ぼせるくらい危険だって分かったら、その時は、ちゃんと城へ帰る。もう嫌だって言わない」
「…………」
「でも、まだ何も分かってないんでしょ? だったら分かるまでは、旅を続けたい」
いつもなら兄に強く言われれば、どこかで怯んだり、言葉を濁したりする。
だが今のアズリルには、それがなかった。ジンが今までほとんど見たことのないほど、まっすぐな意志が青の瞳に宿っている。
「それに、もし本当に何か起きて……僕のせいで他の人まで危険に巻き込むようなことになったら」
アズリルは膝の上で組んでいた指を、ぎゅっと握り直した。
「そうなる前に、僕が自分で死ねばいい」
「アズリル!!」
レオンハルトが勢いよく立ち上がった。
その表情に浮かんでいたのは、怒りではなく、明らかな恐怖だった。
ノクトも言葉を失い、ジンもさすがに眉を寄せる。
イルミですら、わずかに目を細めてアズリルを見ていた。
「い、いや、もちろん本当にそうなったらって話だよ!」
予想以上の反応にアズリルは慌てて両手を振る。
「僕だって死にたいわけじゃないし、できるならそんなことしたくないよ!?」
四方から向けられる視線が痛い。
アズリルは次第に居心地が悪くなり、縮こまるように肩を落とした。
[newpage]
ジンは額に手を当て、小さく息を吐く。
(……本当に、とんでもねぇガキだな)
アズリルが城を出る前に何をしたのかは、すでにレオンハルトから聞いている。
旅に出たいという、その一心で部屋に立て籠もり、七日近く食事も水も拒み続け、実際に死にかけたらしい。
そこまでやった少年が、今さら大人しく旅を諦めるはずがない。
それに──もし自分がアズリルと同じ年頃で、同じ立場だったら。おそらく忠告など無視して、そのまま行っていただろう。
止められれば止められるほど、余計に行きたくなっただろう。
いや。
(……今の俺だって、大して変わらねぇか)
自分が何年も追い続けてきたものを「危険だから」で諦められるかと言われたら、まず無理だ。
だからこそ、アズリルの言い分を頭ごなしに否定する気にはなれなかった。
ただ──今回ばかりは事情が悪すぎる。
もしこいつの中にいるものが本当に五大厄災の一つなのだとしたら、今の人類には、それを安全に取り除く方法も、確実に封じ込める手段もない。
最悪の場合、できるのは隔離だけだ。
何も起こらないことを祈りながら、外へ出さず、一生どこかに閉じ込める。
そんな結論になる可能性だって十分にある。
ジンは、そんな未来をこの少年に歩ませたいとは思わなかった。
レオンハルトだって同じだろう。
あれほど束縛しているレオンハルトでさえ、アズリルを不幸にしてまで閉じ込めておきたいとは思わない。本気でそうしたいのなら、とっくに城から出さずにいたはずだ。
それにしても──
(……やっぱり、おかしい)
先ほどから、どうにも引っかかる。
話を聞けば聞くほど、噛み合わないところが増えていく。
レオンハルトの話では、オルロフ家は、アズリルの母親が彼を身籠っている最中にパプと思われるものに侵されていたことを知っていたらしい。
世界中から医者や研究者、除念師まで集めたというのだから、その異常性を軽く見ていたわけでもない。
なら当然、生まれてくる子供への影響だって考えたはずだ。
母体をあれほど変貌させた何かが、胎児へ移る可能性を。
それなのに──
十六年だ。
十六年もの間、本当に誰一人、アズリルの中にこれほど巨大な“異物”が存在することに気づかなかったのか?
周囲には念能力者だって何人もいたはずだ。
オルドヴィアほどの国なら、幼い皇子の健康状態だって相当細かく調べていたはず。
それで、誰も?
(……そんなことあるか?)
そして、もう一つ。
これまで確認されているパプの被害者は、確かに異様なほど痩せ細り、干からびたような姿に変えられている。
だが──死んではいない。
あの状態のまま、生かされ続けている。
まるで、名の通りパプに“飼われる”家畜のように。
なら。
なぜ、アズリルの母親は死んだ?
そして──母親が死んだあと。
彼女を侵していたはずのパプは、どこへ行った?
ジンは黙ったまま、レオンハルトへ視線を移した。
先ほどアズリルが口にした「自分で死ぬ」という言葉がよほど堪えたのか、今も険しい顔で弟を見つめている。
レオンハルト自身も…………知らないことがあるのかもしれない。
母親の死。
アズリルの中にある異物。
オルロフ家と暗黒大陸との、あまりにも古く深い繋がり。
そして、十六年間誰にも気づかれなかったという不可解さ。
妙なことが重なりすぎている。
その時、ジンの中に、これまで考えもしなかった一つの疑問が浮かんだ。
──本当に。
アズリルをオルドヴィアへ帰すことが、一番安全なのだろうか?