一方、オルドヴィアへ帰還したガレスは、皇帝ヴィクトルに真相を確かめるべく王宮へと急ぐ。
結局、折れたのはレオンハルトの方だった。
あれほどすぐに帰国すると言い張っていたにもかかわらず、最後には「ガレスから連絡が来るまで」という条件つきで、もうしばらくこの地に留まることを認めてしまったのだ。
少なくとも、今すぐ城へ連れ戻されることはないと分かり、アズリルはようやく胸を撫で下ろした。
それから数日──。
ガレスからはいまだ、これといった報告は届いていない。その間もアズリルは旅を続ける気満々で、今はイルミを相手に念の訓練に励んでいた。
少し離れた木の根元では、レオンハルトが幹に背を預け、半ば諦めたような目で二人の様子を眺めていた。
(……どうして私は、いつもこうなってしまうんだ)
我ながら情けない、と胸の内で吐き捨てる。
今度こそ、何を言われても譲るつもりはなかった。必要なら力ずくで連れ帰るとまで決めていたはずなのに、アズリルにまっすぐ見つめられ、どうしても旅を続けたいと頼み込まれた途端、あれほど固かった決意が呆気なく揺らいでしまった。
もちろん、嫌われたくないという情けない気持ちもある。だが、それだけで、あれほど固く決めていたことをこうも簡単に曲げてしまうものだろうか。
いや、考えてみれば、アズリルに押し切られてきたのは自分だけではない。
(……父上ですら、そうだったな)
あれほど頑固な父でさえ、あの子に本気で頼み込まれれば、結局は折れていた。そう考えると、自分ばかりが特別情けないわけでもないのかもしれない。
どれほど頑固な人間であろうと、あの子にあんな目で見つめられて、最後まで首を横に振り続けられる者など本当にいるのだろうか。
そこまで考えたところで、レオンハルトは諦めたように長く息を吐いた。
「よう、王子。ずいぶん景気の悪い顔してんな」
聞き慣れた野太い声に重い瞼を持ち上げると、そこにはジンが立っていた。
この状況でも相変わらず呑気そうな顔をしている。アズリルの体内に正体不明の“厄災”が潜んでいるかもしれないと分かったばかりだというのに、ジンからはまるで危機感が感じられなかった。
少なくとも今のレオンハルトにとって、その気楽な面はひどく癇に障る。
だがジンは向けられた鋭い視線など意にも介さず、そのまま隣へどさりと腰を下ろした。
「それにしても、あの坊主。相当な念の才能があるぜ。知ってたか?」
レオンハルトはアズリルの方へ視線を戻した。
少し離れた場所では、アズリルが真剣な表情で手元へ意識を集中させている。同じ操作系ということで指導を引き受けたイルミも、いかにも面倒そうな顔こそしているものの、なんだかんだ言いながら辛抱強く付き合っていた。
「あれ、もっとガキの頃からまともに鍛えてたら、今頃かなりの使い手になってただろうな」
「……必要がなかったんだ」
「何が?」
「あの子に、強くなる必要などなかった」
レオンハルトはしばらく無言で弟の姿を追っていたが、やがて静かな声で口を開いた。
「……私たちのような立場に生まれた人間にとって、力は必ずしも幸福をもたらすものではない。能力を認められれば、それだけ周囲から求められるものも増えていく。期待され、頼られ、時には利用されて、気づけば背負う責任ばかりが重くなっていく」
ジンは何も言わず、話に耳を傾けた。
「敵から見ても同じだ。有能であればあるほど利用価値が生まれ、同時に排除すべき理由にもなる」
金を求める者もいれば、権力を欲する者もいる。皇族という立場を利用しようと群がってくる人間など、レオンハルト自身これまで嫌というほど見てきた。
そこまでの立場に立てば、人の醜さを知らずにはいられない。人の好意さえ疑い、裏切りに備え、時には自らの手を汚さなければならない。
そして、一度知ってしまった毒は、二度と知らなかった頃には戻れない。
その時、遠くからアズリルの弾んだ声が響いた。何かが上手くいったらしく、嬉しそうにイルミへ話しかけている。
その姿を眺めるレオンハルトの表情が、ほんのわずかに和らいだ。
「だが、あの子は違う。アズリルは第二皇子だ。私が次の皇帝になる以上、あの子まで同じ泥を被る必要はない」
一拍置き、静かに続ける。
「力など持たなくていい。すべて私一人で引き受ければいい。あの子がこんな醜い世界を知らずに済むのなら、それで十分だ」
レオンハルトが思い描いてきたのは、自分が皇帝となり、誰にも脅かされない国を作る未来だった。その中でアズリルが何ひとつ恐れることなく、美しいものを見て、好きなものを好きなまま愛し、穏やかに暮らしていけるように。
そのためなら、自分がどれほど汚れようと構わなかった。
「……なるほどな。どうりで、あいつがあそこまで人を疑わねぇわけだ」
腑に落ちた様子でアズリルへ目を向ける。
「疑う必要がないように、お前がずっとそういう環境を作ってきたってことか」
ジンはレオンハルトを横目で見た。
「で、あいつの記憶をちょくちょくイジってんのも、大方その延長なんだろ」
レオンハルトの視線が、ゆっくりとジンへ向く。
「…………気づいていたのか」
「まあな」
ジンは悪びれるでもなく肩をすくめた。
「お前の能力、言葉で人を操る類だろ。ガキの頃からアズレイに使って、記憶を消したり、傷つかねぇよう色々と命令を仕込んだりしてきたんじゃねぇのか? あいつん中にお前の念があれだけこびりついてんのも納得だ」
レオンハルトの瞳に、かすかな警戒の光が走る。
「そんな顔すんなって。本人にバラす気はねぇよ」
ジンは片膝を立て、そこへ無造作に肘を乗せた。
「ただまあ、お前よりほんのちょっと長く生きてる男として、一つだけ言っとく」
先ほどまでの軽さが消え、声にわずかな重みが混じる。
「お前がそれで『守ってる』つもりでも、結局あいつのためにはなんねぇぞ」
「…………」
「嫌なものは見せない。傷ついた記憶は消す。お前の目の届く小さな檻の中なら、それでも上手くいくかもしれねぇ。だが、いつまでもそこに閉じ込めとけるわけじゃない」
何不自由なく守られて育ったはずなのに、あいつはそこから出たがっている。危険な目に遭っても、何度連れ戻されそうになっても、それでも自分の目で世界を見ようとしている。
兄や周囲の人間がアズリルのために作り上げた、安全で綺麗な世界ではなく、その外にある本当の世界を。
「他人の人生を全部思い通りにするなんて、不可能だ」
「できるさ」
あまりにも即答だった。ジンが驚いたように眉を上げる。
「お前──」
「私が、そうしてみせる」
レオンハルトは迷いなく言い切った。
虚勢でも強がりでもない。何があろうと自分ならやり遂げてみせると、心底信じ切っている声だった。
その尋常ではない確信を前に、ジンは数秒間、何も言わずレオンハルトの横顔を眺めていた。
「…………そうかい」
やがて、呆れたように肩をすくめる。
説得を諦めたというより、この男の中に根を張った歪な信念に対しては、今ここで何を言ったところで届かないと悟ったようだった。
[newpage]
アズリルが地面へ手をかざすと、その下にいた数匹の蟻が一斉に動きを変えた。
ばらばらに歩いていたはずの蟻たちは、見えない糸に引かれるように向きを揃え、土の上をくるくると円を描き始める。
「うーん……やっぱり、これくらい小さい生き物なら簡単なんだけどな」
ここ数日の訓練で、自分の能力の性質が少しずつ見えてきた。
どうやら操作できるのは、オーラを持ち、自律して動く生物に限られるらしい。蟻や蜘蛛なら難なく反応する一方、植物のように自由に動けないものには、いくら念を込めても作用しなかった。水見式で葉が動かなかったのも、そのためだろう。
さらに、対象が大きくなればなるほど支配の難易度は跳ね上がり、自在に動かせるのはせいぜいネズミほどのサイズが限界だった。
けれど、それ以上に厄介なのが……
アズリルは試しに手を少し上へ持ち上げた。
十センチほど離れた瞬間、くるくる回っていた蟻たちの動きがぴたりと止まり、途端に四方八方へ散り散りになって逃げていく。
「……ほら」
がっくり肩を落とし、アズリルは自分の手を恨めしそうに見つめる。
能力を機能させるには、自分のオーラが対象に直接触れていなければならない。ところが肝心のオーラを、アズリルは身体からほんの数センチしか伸ばせないのだ。
「……こんな力、何かの役に立つのかな。小さな生き物しか動かせないのはまだしも、オーラを身体から離せないんじゃ、手の届く範囲にいる生き物しか操れないじゃないか」
「決めつけるのはまだ早いよ。まだ能力について分かってないことも多いんだから。今は操作そのものを鍛えることに集中した方がいい」
イルミの言葉を聞きながら、アズリルはもう一度手をかざした。
今度は十匹ほどの蟻が集まり、互いに衝突することなく完璧な距離を保ちながら綺麗な円を描き始める。
イルミはその様子を眺めながら、いつもの淡々とした声で続けた。
「本来、操作系なら放出系もかなり扱いやすいはずなんだけどね。修得率で言えば八十パーセントくらいまでは引き出せるはずだ」
「八十パーセント?」
「自分の系統に近いほど、他の系統も修得しやすくなる。操作系と放出系は隣り合っているからね」
アズリルは己の手を見下ろした。
「……じゃあ僕、放出系が極端に苦手ってこと?」
「かなりね。操作系なのに、ここまでオーラを身体から離せないのは珍しい。まるで操作系にだけ適性が偏ってるみたいだ」
(……よりによって、一番使ってみたかった放出系が苦手だなんて……)
「……イルミって、針を使って人を操るんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ僕も、何かにオーラを込めて動物につけておけば、離れた場所から操れたりしないかな」
イルミは少し思考を巡らせた後、首を横へ振った。
「難しいと思うよ。それも放出系が必要になる。手を離した後も、その物体の中にオーラを留め続けなきゃいけないからね。今の君じゃ、まともな距離を維持するのは不可能だよ」
「そっかぁ……」
ますます落ち込んだアズリルは、しょんぼりと地面へ視線を落とす。
「今は余計なことを考えずに、操作そのものに集中しな。動かす力と、あとは操作の精度。……まあ、精度に関しては、あんまり心配いらなそうだけど」
そう言いながら地面へ目を向けたイルミは、思わず目を見張っていた。
「え?」
自分の手元を見ると、いつの間にか百匹近い蟻が集まっていた。
蟻たちはそれぞれ異なる軌道を描いていた。円を描くもの、蛇行するもの、その隙間を縫うように進むもの──無数の小さな動きが重なり合い、地面に複雑な模様を描き出している。
アズリルはそのすべてを同時に、寸分の狂いもなく操っていた。しかも、よく見ると蟻たちは大きさや色ごとにまで分類されている。
「……器用だね」
「そう?」
本人は大したことだと思っていないらしく、不思議そうに首を傾げた。
「でも、こんな手元でしか動かせないなら、やっぱりあんまり意味ないと思うんだけど……」
そこで突然、何かを思い出したようにハッと顔を上げた。
「あ! そうだ!」
手を退けた途端、支配から解放された蟻たちが一斉に散らばり、土の上を慌ただしく逃げていった。
「前に一度、ジンのオーラを操ったことがあるんだ」
「…………」
「その時、操ったオーラをそのまま自分の中に取り込めたんだよね」
イルミの表情に変化はなかったが、黒い瞳の奥がスッと鋭さを増した。
アズリルはそれに気づかず、ひらめいたアイデアを嬉しそうに口にする。
「オーラって、多ければ多いほど強い技が使えるんでしょ? だったら動物とか人からオーラを借りて、それを自分で使うっていうのはどうかな」
「……アズレイ」
「ちょっと試してみてもいい?」
返事を待たず、アズリルはイルミの腕を掴んだ。
ところが、触れた瞬間、そこにあるはずのオーラがふっと消えた。
「あれ?」
イルミが即座に『絶』へ切り替えたのだ。
アズリルは掴んだ腕を見下ろし、不思議そうに瞬きをした。
「……なんで引っ込めるの?」
「アホか、お前は」
背後から呆れ返った声が飛んできた。
振り返ると、ジンがこちらへ歩いてくるところだった。
「俺にやったのと同じことを、またやるつもりか?」
イルミはアズリルに掴まれていた腕を軽く振り払った。
「レオから聞いてるよ。ジンのオーラを吸い始めたはいいけど、途中で自分でも止められなくなって、全部奪いかけたんだって?」
「…………」
「悪いけど、ジンと違って俺には君と心中する気はないからね。また暴走したら、君に殺される前に腕を切り落とすよ」
「イル」
低い声が割って入った。
ジンの後ろから現れたレオンハルトが、弟に向かって何ということを言うのかと咎めるように、イルミを睨んでいる。
一方、アズリルはイルミの言葉で以前ジンに触れた時のことを思い出し、今さらながら背筋が冷たくなった。
あの時、自分は途中からオーラの制御が効かなくなった。もし今、同じことがイルミ相手に起きていたら——。
「今のお前に、そんな暴走する力を使わせるわけにはいかねぇよ」
ジンに言われ、アズリルは俯いた。
確かにその通りだった。最近は念を使うことが楽しくて、つい気軽に試してしまっていたが、その危険性をすっかり忘れていた。
「そうだよね……ごめん……」
「ただし、それは人間相手ならって話だ」
「え?」
顔を上げると、ジンがニヤリと不敵に笑っていた。
「他人のオーラを奪って自分のものとして使うって発想自体は悪くねぇ。試してみる価値はある」
そう言って、地面を指差す。
「イルミじゃなくて、そこにいる蟻に触ってみろ」
「蟻?」
アズリルは言われるまま、逃げ回っていた一匹の進行方向へ指を伸ばした。蟻は即座に向きを変えて逃げようとする。
「あ、待って」
後を追いかけ、ようやく指先で軽く触れた。
「蟻のオーラ、分かるか?」
「うーん……なんとなく。小さすぎて、すごく分かりにくいけど」
「それで十分だ。そのまま、指先から自分の方へ引き込んでみろ」
アズリルはもう一度蟻に触れ、意識を極限まで研ぎ澄ませた。
確かに、そこには“何か”が存在する。
砂粒よりも小さく、消えてしまいそうなほど微かな気配。
ほんの僅かな生命の揺らぎを捉えるように集中し、それを指先から腕へ、さらに己の体内へと手繰り寄せていく。
すると、それまで忙しなく動いていた蟻が、ピタリと硬直した。
「……あれ?」
指を離しても、ピクリとも動かない。
「どうだ。そいつのオーラが自分の中に入ったの、分かるか?」
「えっと……うん。なんとなく」
体内へ意識を向けてみると、確かに自分のものではない、微小なオーラが混ざり込んでいる。
しかし、それを詳しく調べようとした次の瞬間には、感触がスッと霧散してしまった。
「あれ? なくなった」
「まあ、そうだろうな。蟻一匹が持ってる量なんてたかが知れてる。そんなもん、生きてるだけで一瞬で使い切るさ」
「なるほど……」
深く頷いたアズリルは、そこで地面に転がっている蟻へ目を落とした。
「蟻さんも、オーラを取られて疲れちゃったんだね」
「ん?」
ジンも視線を落とす。
「いや、それ死んでるよ」
「えっ!?」
「ただでさえ微量しか持ってねぇんだぞ。お前、死なない程度にオーラを残すなんて器用な真似したのか?」
「えっ!? ええ!?」
アズリルは慌てて地面へ這いつくばるように蟻に顔を近づけた。
じっと凝視し、指先でつつくも、蟻は完全に沈黙している。
「そ、そんな……」
「前にも言ったろ。オーラは生命力そのものだ。全部根こそぎ持っていけば、当然こうなる」
愕然としたまま蟻を見つめていたアズリルは、やがて恐る恐る顔を上げた。
少し離れた場所に、イルミが立っている。
長い黒髪に白い肌。相変わらず何を考えているのか分からない無表情で、こちらをじっと見返していた。
——さっき、自分はこの人のオーラを吸おうとした。
もしまた制御不能になっていたら、イルミのオーラまで全部奪い尽くしていたかもしれない。
そう思い至った途端、額から冷や汗が吹き出した。
「…………」
けれど、改めてイルミを眺めていると、別の考えも浮かんでくる。
(……でも、なんかこの人、何されても絶対に死ななさそうなんだよな……)
「何?」
「な、何でもない!」
視線に気づかれ、アズリルは慌てて顔を逸らした。
ジンはそんな二人を気にも留めず、話を続ける。
「とにかく、まず覚えるべきなのは奪う量を自分で正確にコントロールすることだ。今みたいに触れた相手から根こそぎ持っていくんじゃなく、狙ったところで止められるようになれ」
「うん……」
「しばらくは虫か小動物で訓練だ。どれくらいなら奪っても死なないのか、どこまでなら自分で制御できるのか、身体に叩き込め」
アズリルはもう一度、動かなくなった蟻へ目を落とした。
「……今度は殺さないようにする」
「ああ。そいつができるようにならねぇ限り、人間相手は禁止だ」
神妙な面持ちで頷きながら、アズリルは自分の掌をじっと見つめた。
これまで念というものを、どこか不思議で面白い魔法のような力だと思っていた。
けれど足元に転がる小さな死骸を見つめていると、ほんの少し扱いを誤るだけで、容易く誰かの命を奪う凶器になり得るのだと、遅まきながら痛感し始めていた。
[newpage]
オルドヴィア国境。
吹雪く街道の向こうから一人の男が歩いてくるのに気づき、警備兵は不審そうに眉をひそめた。
遠目からでも分かるほどの巨体で、熊のようにがっしりとした体格。髭は伸び放題で、服は泥と埃にまみれ、外套もところどころ破れている。お世辞にもまともな旅人とは思えなかった。
(……また流民か)
周辺国から流れてくる生活困窮者は、決して珍しくなかった。
オルドヴィアでは、身分や貧富にかかわらず、すべての国民が平等に扱われ、最低限の衣食住が国家によって保障されている。その噂を聞きつけ、故郷で暮らしていけなくなった者たちが、亡命を求めて国境まで押し寄せてくるのだ。
もっとも、オルドヴィアが彼らを受け入れたことなど一度もない。それでも亡命希望者は後を絶たず、目の前の大男もその一人なのだろう。
(まったく、困ったもんだ)
何度警告しても引き下がらない者は、最悪の場合、射殺して構わないことになっている。だが、後始末をさせられるのは現場の兵士なのだ。
(……ああ、王宮に戻りてえなぁ)
つい数か月前まで、この兵士はアズレイ第二皇子の銃の訓練を担当していた。ところが、ある日突然その任を解かれ、理由も告げられないまま、再び国境警備へ戻されてしまったのだ。
あの頃はよかった。アズレイ殿下はいつも熱心に話を聞いてくださったし、少し褒めれば嬉しそうに笑ってくださる。あの可愛らしい王子との訓練は、毎日の楽しみだったというのに。
(……殿下、お元気でいらっしゃるかなぁ)
懐かしい日々を思い返しながら、警備兵は肩に掛けていた銃を構え、目の前の男へ銃口を向けた。
「止まれ! オルドヴィアは亡命を受け入れていない。蜂の巣になりたくなければ引き返せ!」
銃口を突きつけられているというのに男は怯える様子すら見せず、悠然とした足取りで門へ接近してくる。
そして、警備兵など視界に入っていないかのように横を通り過ぎ、そのまま検問所へ踏み込もうとした。
「おい! 止まれと言っているだろ!」
別の兵士が慌てて前へ回り込み、進路を遮断する。
「本当にぶち抜くぞ!」
「あぁ? じゃあ撃ってみろよ。このアホたれが」
兵士の動きがピタリと止まった。
その声に、強烈な既視感がある。
大男は鬱陶しそうに頭を掻き、目の前の兵士を睨みつけた。
「俺だ」
「は?」
兵士は怪訝そうに顔を覗き込み、ボサボサの髭の奥をまじまじと見つめた。
数秒後、その両目が限界まで見開かれる。
「…………ガ、ガレス隊長!?」
周囲の兵士たちが一斉に跳ね起きるように振り向いた。
「ガレス隊長!?」
「嘘だろ!?」
「し、失礼いたしました! 直ちに開門しろ!」
つい先ほどまで浮浪者を見るような視線を向けていた兵士たちが、途端に血相を変えて慌ただしく動き始める。
ガレスは深い溜息をつき、毒突きながら開かれた門を潜った。
「ったく……そこまでひでえ格好か?」
門を抜けた先には、一台の馬車が控えていた。
その傍らに立っていた若い青年がガレスの姿を認め、パッと表情を明るくする。
「ガレス隊長! お久しぶりです!」
マルクは駆け寄ろうとして——途中でピタリと足を止めた。
頭のてっぺんから足先まで、ゆっくりとガレスを観察する。
「……大丈夫ですか?」
「ああ。見た目ほど悲惨ではない」
「その格好でよく検問を通れましたね」
ガレスは聞こえなかったフリをしたが、馬車へ乗り込む直前、ふと顎へ手を伸ばした。伸びきった髭を摘まんで軽く引っ張り、何事もなかったかのように座席へ深く腰を下ろす。
すると、それまで張りつめていた緊張の糸が切れ、凄まじい疲労感が全身を襲った。
ここ数週間の出来事を思い返せば、実に散々だった。
アズリルを二度も連れ去られ、自分までまんまと挑発に乗って、何週間も山小屋に籠城してしまったのだ。
(……まったく、食えん男だ)
脳裏に浮かんだジンの不敵な顔に、ガレスは舌打ちを漏らす。
だが、今はそんなことに構っている場合ではない。アズリルの身に重大な問題が発覚した以上、一刻も早く王宮へ戻り、皇帝ヴィクトル本人に確かめなければならないことがあった。
馬車がゆっくりと軋んだ音を立てて走り出した。
しばらく窓の外を眺めていたガレスだったが、一向に変化のない雪景色に、次第に眉間の皺が深くなっていく。
「……遅いな」
「何がです?」
「この馬車だ」
「馬車なんですから、こんなものでしょ」
ガレスは窓枠に肘をつき、不機嫌そうに頬杖をついた。
「やはり車だの飛行船だの、そういうものを我が国にも本格的に導入した方がいいな。城まであと何日かかる」
マルクが呆れた顔を向ける。
「前に私が同じ提案をした時、隊長は『外の文明かぶれが使うような玩具を、わざわざオルドヴィアが真似する必要はない』とおっしゃいましたよね?」
「昔の話だ」
「たった三か月前ですよ」
「細かいことをいちいち覚えているな、お前は」
ガレスは耳の穴をほじる仕草で会話を打ち切る。
マルクは何か言いたげだったが、諦めて溜息を吐いた。
しばらく沈黙が続いた後、ガレスは窓の外を見つめたまま、低い声で問いかけた。
「……それで、陛下の御様子はどうだ」
マルクの表情が途端に陰った。
「陛下、ですか」
「あの件は、ちゃんと伝えたんだろうな」
「はい。隊長に言われた通り、直接お伝えしました」
その言葉に、ガレスはようやく外から視線を離した。
「それで?」
「……それが」
ガレスから一報を受けた後、マルクは直ちに皇帝への謁見を申し出た。
しかし、末端の兵士に過ぎない彼が、おいそれと皇帝へ謁見できるはずもない。しかも今回は、側近も護衛も排し、ヴィクトル本人だけに伝えろという極秘厳命付きだった。
幾度となく追い返され、正式な手続きを踏めと突っぱねられたが、マルクは諦めなかった。ガレス隊長から託された国家の存亡に関わる緊急報告であり、陛下本人の耳に直訴せねばならないと食い下がり続け、ついに一対一での謁見を勝ち取ったのだ。
そしてそこで、アズレイ殿下の体内に正体不明の異物が潜伏している可能性を、包み隠さず報告した。
「陛下は、何と?」
「……『そうか』と」
「それから?」
「『もういい。下がれ』と。……それだけでした」
あれほど苦労してようやく許された謁見が、一分も経たずに終わってしまったのだ。
馬車内に冷ややかな沈黙が降り積もる。
ガレスは再び窓の外へ視線をやり、流れていく針葉樹林を眺めながら硬い拳を握りしめた。
「……それだけ、か」
「はい」
しばらく逡巡した後、マルクが恐る恐る口を開く。
「ガレス隊長……電話でも伺いましたが、本当に若様の中に危険な寄生生物がいるんですか?」
「……ああ。その可能性が極めて高い」
「でも、一体どうしてそんなものが……」
ガレスは暗い陰を落とした瞳を低く据えた。
「王妃様の命を奪ったものと、同種かもしれん」
マルクの息が止まる。
「レイカ様が襲われたのは、アズレイ様を身籠っておられた時期だ。その際、何らかの形で胎児であった王子へ移ったのだろう」
「そんな……ですが、あの件は解決したと……」
「ああ。俺もそう聞いていた」
ガレスの脳裏に、当時の光景が蘇る。
アズレイ様が誕生した直後、レイカ様はまるで何かに取り憑かれたように我が子を抱きしめ、誰にもその身に触れさせようとしなかった。近づく者には悲鳴のような怒声を浴びせ、臍の緒すら切らせぬまま、腕の中から決して離そうとしない。
そして、それから数日と経たぬうちに、レイカ様の身体は目に見えて衰弱していった。
頬はこけ、四肢は骨と皮ばかりになり、まるで得体の知れない何かに喰い荒らされているかのように痩せ衰えていた。それでも最期までアズレイ様を手放そうとはせず、力尽きた隙を突いて赤子を引き離した時には、かつての美しさは見る影もなく、もはや人とは思えないほど変わり果てていた。
その間も、世界中から高名な医師や研究者、強力な除念師たちが次々と城へ召集されていた。
ガレス自身もその場に居合わせていたが、誰一人として原因すら突き止められず、やがてレイカ様を救うことよりも、彼女を蝕んでいる“何か”を取り除くことへ方針が移っていった。
それでも、どれだけ手を尽くしても状況は悪化する一方だった。
そんな時だった。
ゾルディック家の者たちが城へ現れたのは。
何が行われたのか、ガレスは知らない。途中で部屋から退出させられ、それ以降、中へ入ることを許されなかったからだ。
やがて扉が開き、告げられたのはレイカ王妃の崩御だった。
ただ、彼女を蝕んでいた元凶はすでに処理され、二度と脅威になることはないと説明された。生まれたばかりのアズレイ様にも、何の異常も見られない、と。
「……二度と問題になることはないと、そう太鼓判を押された。だから俺も、それ以上疑うことをしなかった」
ガレスの拳が、軋んだ音を立てて強く握り締められる。
「それが、今になってアズレイ様の中に潜んでいたことが発覚した。それも、よりによって城を離れているこの時にだ」
ガレスは悔恨を押し殺すように、握りしめた拳を馬車の壁にこつりと当てた。
「……くそがっ」
マルクが息を呑む。
「レイカ様を死に追いやっておいて、今度はアズレイ様まで奪おうというのか……!」
ガレスの声には、抑えきれない憤怒と焦燥が渦巻いていた。
「許さん。たとえ相手が神であろうと、我々から二人も奪わせてたまるものか」
「……神?」
思わず聞き返したマルクに、ガレスはゆっくりと顔を向けた。
その目には、先ほどまでの苛立ちとはまるで違う、重いものが宿っている。
「ヴォロス神の祟りだ」