奉天会戦の一夜、月島の不可思議な体験の語り

1 / 1
ここでも詳しく記してはいませんが、尾形の語りは本編で第七師団内では語られていません。
また、月島基軍曹の過去が明らかになる前に書いたものなので、齟齬があります。
詳しくは原作を(是非)どうぞ。


第1話

凍み風の地雪を拐う夜半、一戸の居宅の一室に、眼力の尋常で無い男の幾足りも集って静かに語らっていた。

灰に埋まった炭の爆ぜるパキという音が、質素だが物の確かな調度のある小体な座敷に響いて四散する。

 

幾人かがぽつぽつ各々の去来を語る中、月島は黙々と火鉢の傍らで埋み火の世話をしていた。

 

敢えて語らって集った顔触れではない。睦まじく親しむ間柄でもない。

大日本帝国陸軍第七師団。帝国陸軍最強の呼び名高い別名北鎮部隊。

 

月島は自らの所属するこの第七師団が好きでも嫌いでもない。

月島には月島の理由があってこの場に連なっている。好悪の別は特に無い。何処に居てもそうであったように、注意深く耳を側立てて目を巡らし、状況に気を配りながら、よく言えば冷静、悪く言えばまるで人事の様な事も無さで、ただ黙って居る。与えられた勤めを果たし、その都度すべき事と思う事をする。

不条理に慣れるのが職務と心得て受け容れるのが余人より多少早いせいで、何かと極端な人材の多い第七師団に於ける世話役の如き立場にあるのは些か辟易するが仕様事無い。簡明直截に言えば真っ平御免被りたい事でも、勤めとあれば否応無いのが当然だ。

 

「月島軍曹」

 

不意に呼ばわれて、月島は顔を上げた。見れば鶴見中尉がこちらへにこやかな顔を向けている。

丁度団内でも屈指の狙撃手が己が出自を語り終えたばかり、座敷はしんとして考え耽る同朋達の物思いに沈んでいる。月島は内心眉を顰めた。接ぎ穂を求められるのだろうと推測して煩わしくなる。

 

俺には語る事などないが。

 

軍人になる前もなってからも、ただ勤勉実直に生きて来た。他にやり様を知らぬからそれ以外仕様がなくここ迄やって来た。何の面白みのある逸話のあろう筈も無い。自分は真面目だけが取り柄なのだから。

 

「君は戦地で隊から逸れた事があったな」

 

椅子の背に身を預けた鶴見が、寛いだ様子で膝の上で手を組んだ。

月島は真顔で鶴見を見返す。

 

「ほら、私にとっても非常に思い出深いあの奉天会戦の時の話だ。激戦の十八日間の内一夜、君は山を流離った後無事連隊に合流し、終戦まで果敢に戦い抜いた」

 

「恐れ入ります」

 

淡々と目を伏せた月島に鶴見は立ち上がって歩み寄った。ぎゅうぎゅうと座り込んだ師団兵らが身を引いて道を開ける。その隙を縫って火鉢の側に辿り着いた鶴見が屈み込み、顔色を変えない月島を覗き込んだ。

 

奉天会戦と言えば実質的に日露戦争の勝敗を決し、また、鶴見中尉の前頭葉が噴き飛んだ一戦でもある。

 

「敵兵のひしめき合うあの場所で君はどんな一夜を過ごしたのかな」

 

「……」

 

鶴見中尉の輝くような笑顔を見、月島は火箸を火鉢の灰に刺した。

 

第七師団の極端な人材、所謂奇人や変人の総本山がこの鶴見中尉である事は間違いない。しかしその鶴見を筆頭に第七師団は優れた人材に恵まれているのも否定しようがない事実だ。多少頭のネジが弛んでいようとも外れていようとも厄介な事に彼らは非常に優秀な軍人である。それが一層月島の苦労に拍車をかけるのだが、本人は既に諦観しているので如何程の事でもない。面倒を背負い込むのはいい。やむを得ず慣れている。しかしそういう連中の物笑いの種になるのはまた別の話だ。ここは口を噤んでやり過ごしたい。

 

「月島軍曹?是非話して聞かせてくれないかなあ。奉天会戦の一夜を」

 

近い。近い近い。覗き込んで来る鶴見中尉の顔が近過ぎる。月島は顔を顰めて背筋を反らした。

 

「面白い話などありません」

 

「んんー?そう言い渋るところを見ると相当面白いのだろう?面白くない話ならむしろすらすら吐いてしまうものだからな」

 

「そんな事はありません」

 

面白いかどうか、そこはものの見方の違いだろう。

 

思っても口にはしない。しても喜ばれるだけだ。

 

「…赤い軍服」

 

肩に着く程首を傾げた鶴見中尉がぽろりと漏らした。刹那目をくっと見開いた月島が、今度はその目を眇めて口辺を下げる。

座敷に奇妙な緊張が走った。

 

パキと、また炭が爆ぜる。

 

月島は火箸を取って灰を均し、図らずも動揺した我を宥めた。

 

鶴見中尉はご存知なのか。あの、赤い軍服の……。いや、さもありなん。"アレ"は戦地で随分人口に膾炙した。赤い軍服、丸に喜の字。

 

気付けば灰の上にへのへのもへじを描いていた。

 

「…月島軍曹。灰に落書きなど愛宕の罰が当たりますよ…?」

 

妹夫婦と在所の虫養いに纏わる話を語った男が、東北訛の残る朴訥な言振りで月島を嗜める。マタギをしていたこの男は、生真面目過ぎて何処かズレたところもあるが屈強な兵士だ。鋭い眼光は人をたじろがせるが寡黙で一心、重ねて純、信用に足る。

 

「中尉のお尋ねに答えんのですか。月島軍曹らしくもない非礼ですなあ」

 

つい先程己が出自の、決して聞き易くは無い重い話を語った男が、髪を掻き上げながらにやにやと言う。月島が動揺したのが、いや、厭がっているのが楽しいのだろう。

そういう奴なのだ。

それ故に実力や父親の肩書きの高いにも拘らず、今ひとつ人望薄く好かれないのだが本人は一向に気にしない。気にしないところが面憎く、また人が離れて行く。だがこれもまた本人は全く気にしない。それで構わぬらしい。

 

「赤い軍服と言えば狸だよなあ、浩平」

 

ヒソヒソ声が鶴見中尉の肩越しに聞こえてきた。

 

「軍隊狸か。色々噂を聞いたけれど、ついに会えずに仕舞えたな。見てみたかったか、洋平」

 

潜めた声でも周りが静かな座敷なので丸聞こえだ。

 

「ふふ、赤い軍服の兵士なんてふざけたものを見かけたら、正体を確かめる前に撃つだろう。違うか、浩平」

 

何が楽しいのか馬鹿に愉快そうにやり取りを交わす二人の、聞き分けられない同じ声音。

 

「俺達が撃たんでも露助が撃つだろう。けれど連中は撃たれても斬られても倒れんと聞いたぞ、洋平」

 

静岡から来た双子の志願兵だ。傍目にも異様なこの二人の睦まじさは、鶴見中尉の癇に障り、また楽しませる。一人一人で見ても変わっているが、双子だけに倍々奇妙な彼らもまた優れた軍人だ。厄介な事に。

 

「本当にそんなものが居たものかな、浩平」

 

奇体な物が在るか無いか、自分で確かめなければ納得するものではない。死線を潜った者なら尚更だ。

 

「居たかも知れないぞ。第一師団にも似たようなのが居たじゃないか。ほら、203高地、それこそ奉天にも出兵した不死身の杉元とかいうのが…」

 

ああ、居たな。随分頑丈で勇猛な男らしいが…恐らく"アレ"とは全く毛色が違う。

 

「眉唾だ。本当に死なないなら俺が試しに殺してみよう」

 

杉元某とやらは人だ。並外れて頑丈とはいえ普通に死ぬだろう。これはその機に居合わせたらば止めねばなるまい。

 

「会う機会があればな。杉元とやらは終戦で故郷に帰ったと聞く。生半には会えないよ、洋平」

 

一方ならぬ疵を各所に遺して名目上の戦争は終わったが疵が癒えるまで本当の終戦はない。

だから月島は鶴見中尉の元に残った。中尉の描く疵を癒やす絵に一色加えられるのなら、それも悪くないと思ったのだ。

戦争の始末はこれから始まる。

 

鶴見中尉が満面の笑みでますます間近く顔を寄せて来た。

 

「奉天会戦の、あの一戦の、君の一夜の話を、是非にも聞いてみたいんだがねえ……。月島くぅーん?」

 

月島は体を心持ち斜めに反らして距離をとってから、横目で鶴見中尉を見やった。

 

この手に負えない変わり者の怪傑は月島が選んだ道行きの案内人だ。そう決めたからには彼のやらかす事は月島の責任ともなる。

 

月島はそういう男だ。

 

鶴見中尉が言うのならば物笑いの種になるのも仕方ない。彼の下で何度も繰り返した、またこの流れだ。

 

諦める。そして気を取り直す。それが筋合いだ。自ら臨んだ道に是非は無い。

 

月島はそういう男だ。

 

諦観した不遇の軍人が、溜め息を吐いて語り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

満州の東北地方に位置する奉天で戦闘が繰り広げられたのは、明治三十八年、雪風舞うニ月二十二日から三月十日迄の十八日間。

 

厳寒の最中での激戦だった。

 

日露戦争の雌雄を決したこの会戦で、俺は図らずも連隊から独り逸れて山中に嵌った。

 

どれが誰とも知れぬ血泥と怒声、火器の大音声に混みれた奉天で、敵兵と追いつ追われつしているうち、気が付くと辺りが随分と静まり返っていた。

あれだけ耳を劈いていた火器の音も鉄鍋で爆ぜる豆か熾で破れた木の皮の様な、まるで他人事の絵空事かと思われる程、遠く聞こえて深山に紛れる。

 

間もなく日暮れる頃だ。汗で濡れた体がいっぺんに凍え始めた。満州のこの時節、夜間から明けまでは氷点を割る。単独で山中に居るこの状況を打開するにこれは深刻な障壁となる。何としても迅速に連隊に合流すべきだが、その為にどう動くか。

 

今はまだ火薬の火花が見える。あれを頼りに先ず下山する。周囲に敵兵のある可能性は排除出来ない。

極力音を立てぬように、辺りへ目を配りながらの道行きは寒さや疲れも手伝って、一向に捗らなかった。思うより高所まで彷徨いこんだか。

 

火花を目視しつつ定法に逆らい沢伝いに麓を目指すも、現状を鑑みて足を止めざるを得なくなった。右脹脛に痛み、見下ろせばひどい出血がある。

沢から離れ、ゲートルの上から傷を確認する。穴が空いている。どうやら撃ち抜かれたらしい。

ひとつ息を吐いてから足の付根を縛り、ゲートルをきつく巻き直して止血し、背なの樺の木に寄り掛かる。麓の火花も消えた。辺りはしんとして真暗い。野宿の支度をしなければならない。

 

右足への加重を加減しながら立ち上がろうとしたとき空っぽの腹が鳴った。痛みに気付かなかったように、空腹にも気付いていなかった。思えば一昼夜ものを口にしていない。兎に角水だけでもと、再び沢へ歩み寄ろうとしてよろける。

 

その体を、不意に誰かに支えられた。

 

「…ッ」

 

咄嗟に肩に掛けた三十年式歩兵銃を掴む。

 

「止しなされ。儂は味方」

 

耳元で聞こえた声に目を上げれば、人の良さそうな丸顔が目に入った。人は良さそうだが轟々とした眉の下の目光が尋常ではない。あまりの目力に正気の者なのかと疑った。

 

「ふ?儂がきょといか?おとっちゃまじゃの」

 

俺の内心を読んだように、丸顔の男が笑った。笑うと目色が和んで、子供のような顔になる。

 

「…きょとい?」

 

言われた意味がわからず、男から離れて立ち直しながら呟くと、男はポンと手を打って頭を掻いた。

 

「ほい。これは失敬。地の言葉の出てしまい申した」

 

若いかと思えば、笑い皺が馬鹿に深い。よくよく見ると、壮年か、いやいっそ老年の年寄りにも思われる。しかし、正面きって目を合わせれば、矢張り若者に見える。格好を見れば歩兵の様だが、赤い軍服が異様だ。見覚えが無い。

 

「何処の部隊の者か」

 

眉根を寄せて尋ねると、笑顔が返って来た。

 

「後方支援部隊の者であります」

 

「所属を聞いている」

 

「はあ、まあ、なら第三軍という事にしましょうかなぁ。大将のお膝元ですわ」

 

「後方支援?第三軍所属のか。第三軍は全隊出兵している筈だが」

 

「ですから元々後方支援なんですわ。話のわからぬ人ですなあ」

 

妙な奴だ。警戒して思わず一歩下がった足が右で、不覚にもまたふらつく。

 

「今が今山を下りようたって、そりゃ無理ってモンでありましょうや。先ずは座ってお休みなされ」

 

男が、トンと肩を突いて来た。何をする、と言う間もなく、すとんと腰が落ちた。

軽く突かれただけで何だ、このザマは。

しかし情けなくなるより疑問が湧いた。たかだかこんな事でされるがままに腰が落ちる俺ではない。この兵は何か奇体な体術の心得でもあるのだろうか。

 

「妙な顔をしなさんな。何も悪さはしとりません」

 

男は気安げに隣に腰掛けて雑嚢から竹筒を取り出した。

 

「儂ゃタマキ一等卒と申しまするが、アンタさんは何処のどなたさんでおらっしゃられる?」

 

成る程、栓を抜いて突き出された竹筒に玉木の字が彫り付けられている。しかしその竹筒が妙に匂う。

酒だ。

何故一介の歩兵がこんなものを持っている?

 

「毒など入っとりゃしませんわい。薬と思って呑みなされ」

 

押し付けられた竹筒から酒精が漂う。

 

「いや、悪いが要らん。傷に障る」

 

即座に断ると、玉木と名乗った妙な男は首を振ってにこりとした。

 

「こりゃ障りゃしませんわ。何せ天宮の神酒でありますから」

 

何を不逞な。こいつ、酔っているのか。

 

「まあまあ、儂らは悪さと嘘をこの戦の終わるまで封じられておりましてな。アンタさんみたようなしょーらしいお人にちょいとわるすしとうなっても、じょんならんのですわ。つまらんこってすな。ははは」

 

いよいよ酔っているようだ。何を言っているのかさっぱり解らない。

 

「ま、でありますから、安心して呑みなされ。体の楽になる事請け合いですわ」

 

こちらを安心させる為か、先ずは自分で口をつけて見せる。が、ごくごくと旨そうに喉を鳴らす様子に呆れた。

こいつ、自分が呑みたいだけなのではないか。

 

「いやいや、アンタさんらはよく同じ釜の飯と言うが、同じ筒の酒も悪いモンじゃありませんぜ?試してみなされ」

 

「…アンタさんら?」

 

「おん?ははは。儂ら、であります。儂ら、儂ら。さ、呑んだ呑んだ」

 

調子良く言う玉木某に頬を抉りそうな勢いで再び竹筒を押し付けられ、渋々受け取る。これが知れたら懲罰ものだ。一体俺はこの大事の最中に何をしているのか。仕方なく印程度に口をつけると、芳ばしい匂いと甘い味が味蕾を開いた。

何となく腹立たしい事に、旨い。

甘口で涼やかな良い酒だ。搾りたてかと思う程癖のないさらさらした呑み口に、ついもうひと口分、筒を呷る。

 

「そうそう。たんと呑みなされ。呑んで食えばすぼの穴も塞がりますわいな」

 

玉木某がにこにこしながら、今度はワッパを引っ張り出す。

 

「すぼ?」

 

「あたた、またやった。どうも国の訛の抜けませんでなぁ。気付くと訛ってしまいますわ。いかんいかん。すぼとは、脹脛、ここンとこの事であります」

 

己の脹脛をトントンと突いて、玉木某はワッパを開いた。中には味噌が詰まっている。それを指先でちょいと掬ってぺろりと嘗め、うんうんと小刻みに頷いてこっちを見る。

 

「難儀な事でありましたな。すぼ…、あ、やや、脹脛に穴が空くなど以ての外。儂らが国にお仕え申す軍人殿に何たる仕儀、とんでもない露助どもであります。さて、…あー…。何と申されましたかな、アンタさん?」

 

「第七師団の月島…」

 

「月島!何と名前に月の有る!そりゃむちゃんこ良げな名前ですな!いや、恐れ入り申した」

 

矢鱈に感心しながら玉木某は雑嚢から鉄鍋を取り出し…雑嚢から鉄鍋?どうなっているのだ、こいつの雑嚢の中身は。

 

「いやいやいやいや、実に良き巡り合わせ。月島殿、アンタさんは験の良い御仁ですわいな」

 

「……」

 

何を言いたいのか、さっぱり判らない。そもそもこの歩兵が現れてからずっとよく判らない事ばかりだ。

 

「うん、験の良い。この合戦も間もなく勝ち戦で終わりましょう」

 

「合戦?」

 

「あ、いや、戦争。戦争でありますな。ははは。はぁ、気遣って話す事の煩わしい…」

 

ぶつぶつ言いながら玉木某は沢に下って鉄鍋に水を汲み上げた。

 

「兎にも角にも食わねば力が出ませんでな。地力は呑んで食って湧くモノでありますわ」

 

厭な予感がした。

 

「ほい、月島殿よ。手近にある木っ端や枯れ枝を集めて下さいまし。儂ゃちくと太げな薪の探して参ります」

 

何気なく言う玉木某に、俺は頭を抱えたくなった。味噌と鉄鍋、水に薪。案の定、火を起す気でいるらしい。

 

「正気か。こんな場所で火など焚いたら敵兵を呼び寄せる事になるぞ」

 

「何の、食うとる間は人も獣も神さんの傘の下。余計な事なぞ気にせずに、木っ端を集めらっしゃられ」

 

「おい!」

 

のんびり後ろ手を振って玉木某が木立ちに分け入った。その赤い軍服の背中に、丸と喜印。

 

…あれは…。いや、無い。

 

「無い」

 

と、思う。思いたがる自分がでんと居る。思えぬ自分がふらふらとある。

 

気を落ち着けようと我知らず手近な木っ端を拾い集める。雪のこびり着いて凍った木肌がかじかんだ手に刺すように冷たい。

思案しいしい黙々と木っ端の小山を築いた辺りで、陽気な声がして玉木某が戻って来た。

 

「ほい、よくお集め申した。骨折りおかたじけであります」

 

足音にもてんで頓着なくギシギシパキパキと歩を進め、よっこらと抱え込んだ薪を下ろした玉木某は、腰を擦って伸びをした。

 

「やれ、腹が減りましたのう。儂が支度しますから、月島殿は焚き火に焙れて温まれると良い。毛のない体は実に不便なものでありますからなぁ」

 

「毛?」

 

「おん?…あ、いやいや、傷の負ったお体では寒さも難儀でありましょうと、そういう話でありますわ、はい」

 

「毛…」

 

「いやいやいやいや、難儀。毛はあり申せん。全くすぼの穴を空っ風の通るなぞ、難儀、難儀で御座いますな。ははは。…はあ、やれ、この気遣いとやらの何ともどうにも厄介な…」

 

「……」

 

判った。この男はこういう性なのだ。合点した。ならば話は早い。

 

諦観。

 

気を取り直す。

 

「火を焚くのは駄目だ。味噌は水に溶いて呑む」

 

ワッパを取り上げて言うと、玉木某は目を真ん丸に、正に真円に開いた。

 

「ごじゃゆうたらいけまへん。冷え汁なんどとなまはんじゃくなモンを食ろうてお腹ンおきる道理がありますかいな」

 

…冷たい味噌汁など誰か呑むかと、恐らくそういう事を言っているのだろうと思われる。

 

「敵兵が現れたとして二人では心許ない」

 

味噌汁の冷たい温かいで犬死にする気はない。雑嚢に残っている乾麪包を沢の水で流し込む気でいた俺にしてみれば、生味噌が出て来た事が既にして大した僥倖だ。

 

「まーたそいな事を抜かされますか。安心なされ。儂がぼた餅程の太鼓判を捺しますわ」

 

こいつが鏡餅程の太鼓判を捺そうとも、てんで安心出来る気がしない。

俺は黙々とワッパの味噌を木片で掬い上げた。

 

「ちょちょちょ!待ちなされ!待ちなされ!ほれ、月島殿、先ずはこれを御覧じろ!」

 

玉木某が雑嚢の中からあたふたと油紙の包みを二つ掴み出した。潮臭い匂いが鼻孔をつく。

 

「これを見てもまだぼっこげな事ォ言わっしゃりますかいな!」

 

ガサガサと開かれた油紙の中身は、鰈か平目の様な魚の小さな干物と、切り昆布とひじきの間の子みたような乾物だった。潮臭いのも当然だ。それにしてもこいつは一体何をしに大陸まで来たのだ。酒に生味噌、干物に乾物。そんなものを携えて、物見遊山でもするつもりか。大体大雑把に見てもこいつの雑嚢は許容量が可笑しい。明らかに物が入り過ぎている。何処か違う次元に繋がってでもいるのか、あれは。

 

「…玉木一等卒。何を見ても何があっても焚き火から上がる煙が目立つ事に変わりはな…」

 

「あーーーー!!!こげにうまげなモンを見てもそいなぼっこをおっしゃられる!?こら煙で集まらんでも儂の雄叫びで露助の集まりましょうやな!あーあー、あーーーーーー!!!!」

 

「……。玉木一等卒。話を聞…」

 

「あーーーーー!!!!!」

 

…何故隊を離れて山で迷ってまでこういう輩の世話をしなければならないのだ。どうして何処に行ってもこういう手合いに振り回されるのか。

目を真ん丸にして大音声で叫び続ける玉木某をじっと見ながら、俺はまた諦めた。

 

「玉木一等卒」

 

「あーー、あーーー、あーーーーー!!!!」

 

「玉木一等卒」

 

「あーーーーあーああーーーーー!!!!!」

 

「煩い」

 

ごつんと頭に拳骨を食らわせたらば、やっと叫び声が止んだ。殴られたところを擦りながらきょとんとこっちを見る面妖な男に、出かかった溜め息を噛み殺す。

 

「わかった。好きにしろ。但し、警戒を怠らな…」

 

ガツンと鈍い音がして目をやれば、玉木某が干物を石で叩いている。

 

「…今度は何をしている」

 

「おん?デベラはこいして叩いて炙りますのや。ご存知ない?」

 

そう言われてもそもそもデベラが何だか判らない。

 

「骨の砕いて軽く炙ってバリバリッと。ひゃあ、堪りませんわ」

 

魚を炙るのか…。それはさぞ臭うだろう。敵兵に加えて野生の獣の心配もした方がよさそうだ。

 

「ほいであつぅいアラメの味噌汁にこれ!」

 

また雑嚢に手を突っ込んだ玉木某が、もうひとつ竹皮包みを出す。判った。もういい。何でも出すといい。この上蒲団と枕が出たとしてももう驚く気にもならない。

 

「こりゃ五年ものの酢いぃ梅干し入り。儂が漬けたんですわ」

 

言いながら鼻先に突き付けられたのは馬鹿に大きな握り飯だった。

 

「デカイな…」

 

海苔と白米の甘い匂いが凄い。何が凄いと言って、食わずにすます訳にはいかない気にさせるところが凄い。白米に海苔の握り飯など、一体何時振りか。

 

「デカければデカい程いいのであります」

 

敬礼しかねない様な生真面目な顔で玉木某が力強く言った。

 

そうかも知れない。

 

何時の間にか集めた木っ端に火が着いて、薪が幾本か組まれた上に鉄鍋が湯気を上げている。玉木某は散々叩いて砕いたデベラとかいう干物を、ちりちりと火に翳して炙り始めた。

 

まあいいか。

何処に居ようが敵兵が現れたらばやる事に変わりはない。

 

辺りの気配に気を配りながらふと負傷した右脹脛に手をやったら、何も無かった。

馬鹿な。

 

「……」

 

穴が無い。傷が無い。痛みが無い。

流石に驚いて顔を上げると、玉木某が心得顔でこっちを見ていた。にこりと笑って雑嚢を叩く。

 

「神酒は薬と言いましたでしょう。アンタさんはもうちっとよいしょがらにゃならんお人だよって、すぼに風穴の空けとる場合じゃありゃしません」

 

握り飯を俺に持たせて、玉木某はふんふんと鼻を鳴らした。

 

「後で軟膏を塗って進ぜましょう。弥太郎河童の軟膏ときたら鎌鼬の逸品程ではありゃせんが人にゃあんじょうごつ効きますよって、傷痕まですべっと消えてさっぱりしましょうよ」

 

「……」

 

そうか。いよいよこいつはそういう性なのだな。

 

握り飯も食った事の無い海藻の入った熱い味噌汁も、叩いて焼かねばならんデベラとかいう面倒な干物も、皆旨かった。大陸に出征中とは俄かに信じられない、嘘のような晩飯だ。これが夢でも驚かない。むしろ夢だという方がしっくり来る。

 

食後、足の傷痕に得体の知れぬ軟膏を擦り込まれ、竹筒の酒をちびちびと回し呑みしているとき敵兵が通りすがった。

あまり向こうが無防備に現れたので、呆気にとられた。殺気なく疲れ切った人間の気配、生気の薄さを改めて知った。命がけて張った糸を切り、死線を離れた者の無力感、脱力感。

 

これは虚無だ。

 

連中は俺達の真ん前をこちらへ目もくれず行き過ぎた。何度か立ち止まり鼻を鳴らして何やら言い交わしていたところを見ると、薪や食い物の匂いには気付いているようだったが、一向、俺達には気付かない。

 

「露助も大概しんどそうでありますな。どれ」

 

玉木某は声を潜めるでもなく楽しげに言うと傍らから小石を拾い上げ、ひょいと連中に投げ付けた。ぎょっとして腰を浮かしかけた俺を抑えて、幾度となく敵兵に小石や雪礫を投げ付ける。

無論露西亜兵たちは混乱した。銃を構えてきょろきょろと辺りを見回し、口早にやり取りを交わす。それでもこっちには気付かないようだ。

 

「おい」

 

見かねて玉木某の腕を掴む。

赤い軍服の袖は少しも草臥れた様でなく、同じ戦地に居る者とも思われない。何故かゾッとしたが、そのまま玉木某の、相変わらず何処か尋常でない目を凝視する。

 

「止めろ」

 

「おん?連中は敵兵でありましょうや。何なら撃ち殺しましょうか」

 

玉木某がきょとんとして投げかけた小石を掌の上でころころと揺さぶった。

 

「止しておけ」

 

動揺する露西亜兵らが不憫に見えた。それにどうやらこっちは居ないものになっている。そういう状況で撃つ気にならない。

 

「何じゃ、詰まらん」

 

最後にもうひとつ、小石を放ってやって玉木某が呟いた。石は後備えの露西亜兵の銃に当たって跳ね返り、沢の方へ消えて行った。

 

「アレらは敵兵ですからな。へなぶったげても構わんのです。何せ儂らァほたえンのが好き好きで」

 

露西亜の者ならふざけていたぶっていいと言うか。

 

俺がまだじっと見ているのに気付いた玉木某は、奇妙な目をギラつかせて口端をぐうっと吊り上げた。

 

「勿論アンタさんらにはてんごはしません。大将にそう封じられておりますからな」

 

この大将というのは乃木陸軍大将ではないだろう。何故だかはっきりそうわかった。

 

「見て御覧なさいや、月島殿」

 

玉木某はまだきょろきょろしている露西亜兵を見、げらげらと笑い出した。

 

「ほほ、きょとっとる、きょとっとる。ほんにヒトは他愛ないモンでありますなあ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「朝起きたらば、玉木一等卒の姿はありませんでした。自分は山中の沢沿いではなく、野営地近くの木の根本におりました」

 

背筋を伸ばして火鉢の熾火を見ながら、月島は恬淡と言った。

 

「野営地では自分が死んだものと思われていた。だから皆自分の帰還を大層喜んでくれたし、自分も隊に戻れてほっとしました。これでまた勤めを果たす事が出来るのだと」

 

火鉢にかかった鉄瓶から上がる湯気が、誰かの吐息でゆらゆらと揺れた。

 

「私は第三軍の玉木一等卒と名乗る男に助けられました。彼が居なければ私は今ここに居たかどうかわかりません。あの男から返し切れない大恩を受けたのは間違いない」

 

座敷はしんとして月島の言葉に耳をそばだてている。月島は火箸を掴んでまた灰を均し、誰の目も見ずにこう続けた。

 

「それでも自分は次に玉木一等卒に会った時、自分が彼に礼を言うのか、または撃つなり斬るなりして殺してしまうのか、見当がつきません」

 

月島の傍らで鶴見中尉が、胡座をかいた膝に肘をついて顎を撫でる。

 

「あの男が解せなかった。解せぬ事には慣れている筈なのに、どうしてかあの男に対してはそれが引っかかってならんのです」

 

最後に見せた露西亜兵をいたぶって喜ぶあの姿。

大将に封じられていなければ、玉木某は月島をどう処遇したか。あそこで止めなければ、あの男は露西亜兵を何処までいたぶるつもりだったか。

 

「…解せない。アレは一体何だったのでしょう」

 

そう呟いて月島は口を噤んだ。

 

「成る程、随分と面白い目に遭ったのだな」

 

コキンと首を鳴らして、鶴見中尉が微笑んだ。

 

「タマキと名乗ったか。確か和名類聚抄に狸をタマキと記してあったように思ったが、ふふ、そこから名乗ったのだとすればなかなか頓知の効いた古狸だ」

 

「和名…?」

 

「昔の辞典だ、そう、昔の辞典」

 

こくこくと盛んに頷いて、何故か鶴見中尉は嬉しそうな顔をした。

 

「その胡乱な男はきっと軍隊狸だな。だから判らなくていいのだ。何せ相手は獣なのだから、獣の気紛れなど理解出来よう筈が無い」

 

鶴見中尉の、すっかり見慣れた尋常でない目が、一時玉木一等卒のそれと重なる。月島は瞬きして鶴見中尉を見直した。

鶴見中尉は顎を撫でていた手で頬杖をついて月島を見返した。

 

「しかし獣は獣でも特別な獣だ。共に戦ったからには彼らも同胞だろう。傷付けるのはよろしくない」

 

にっこり笑ってぐるりと真顔へ転じ、鶴見中尉は端座した月島の膝を手を置いた。

 

「もし今度その玉木一等卒とやらに会う事があったらば、必ず私に紹介しろ。獣の同胞とは実に興味深い」

 

本気とも冗談ともつかないこの発言を聞いた途端に、もやもやしていた月島の腹が決まった。

 

次に玉木某に会ったらば、礼を言うより襲うより、鶴見中尉に見つかる前に逃してやる事だ。これ以上の恩返しは無いだろう。鶴見中尉の手に落ちた玉木がどんな目に遭うか、想像に難くない。

 

「それにしても月島は真面目過ぎるな。露西亜の連中に軍人の誼でも感じたか?敵兵がからかわれたと言って恩人に腹を立てる事はないだろう」

 

やれやれと肩を竦めて言った鶴見中尉の陰から含み笑いが聞こえた。

 

「そもそも玉木一等卒などという男は本当に居たのか?夢でもみたか、さもなくば錯乱したか」

 

…こういう事を言うからこいつは嫌われる。

身を屈めて鶴見中尉越しににやにやと覗き込んで来た狙撃の名手を見て、月島は口をへの字に曲げた。

だから話したくなかったのだ。

 

「俺は信じる」

 

ふとマタギだった男が馬鹿に真面目な顔で呟いた。

 

「獣は獣だがそれだけとは思わない。人と同じでそれぞれの性もある。月島軍曹はたまたま尾形のような性のモノと会ったのだろう」

 

「どういう意味だ」

 

名指しされた狙撃手がにやりと笑う。名指した当人は何の悪気もなかったのだろう。驚いた顔をしてちょっと間を空けると、得心したように謝った。

 

「すまん。悪く言うつもりはなかった。ただ、そういう事もあるだろうと、そう思っただけだ」

 

「証拠でも無ければ信じられる話じゃない。そう思わんか、浩平?」

 

「しかし錯乱するような月島軍曹ではないぞ、洋平」

 

「……」

 

双子が煩い。

 

月島は語る間正座していた足を崩して、脚衣の裾に手をかけた。

 

「ならば証拠を見せる」

 

座敷がしんとなる。皆の意識が月島に集中した。前のめりに月島の足を凝視する。

 

「撃ち抜かれた足だが」

 

ぐいと脹脛を露わにして、月島は周りを見回した。

 

「この通り何の傷も無い」

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

座敷が無音状態になった。熾すら爆ぜない。

月島の骨太でむさ苦しいが傷ひとつ無い脹脛に、皆黙って見入るばかり。

 

「…汚い足だな」

 

「…これは…流石に証拠とは言えないのではないだろうか…」

 

「…ぷ…。いや…ちょっとは傷が残っていた方がまだ証拠らしかったのではないですか」

 

「おい、笑うな洋平。失敬だぞ。…しかし月島軍曹…。傷が無いのが証拠と言っても、元の傷がわかりませんから何とも言えませんよ。…ぷ…。これじゃあなぁ…」

 

…どうも何か間違ったようだ。

月島はそっと脚衣の裾を下ろして、居住まいを正した。

 

不覚だ。

 

「はははははは。いいじゃないか、月島。ははははははははは!私はお前のそういうところが大好きだ」

 

鶴見中尉が膝を打ちながら弾ける様に笑い出した。

 

「いい、いいよ。実にいい。それでこそ月島だ。うん、素晴らしく月島だ」

 

釣られて周りから笑いが起こる。肩の力の抜けた呑気な笑いだ。居心地の悪いものではない。

しかし、矢張り不覚だ。

 

「……」

 

月島は無言で鉄瓶を火鉢から下ろした。頗る愉快そうな鶴見中尉にお茶を煎れる為に。

 

玉木某は確かに浮世離れした妙な男だった。明らかに尋常ではなかった。

赤い軍服、丸に喜の字。大日本帝国を後方支援した面妖な物の怪。

有り難いものなのかも知れない。人知を超えた怖ろしいものなのかも知れない。しかしそれが何だと言うのだ。

 

軍隊狸より第七師団の方がよっぽど得体が知れない。

 

縒りの細い茶葉にじゃっと熱い湯を注ぎながら、月島は顔の隅で笑った。

 

 

何しろここでは、大将に見込まれた化け狸の心配をしなければならない程なのだからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。