董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
建安十三年の冬。
長江の南岸にある倉で、俺は翌日に配る粥の数を確かめていた。
粟の袋を、右の列からもう一度数え直した。一袋ずつ、口を指の甲で軽く叩いていく。
八、八、七。合わせて二十三袋。
昼に一袋だけ開け、明日使う竈と鍋で粥を炊いた。水の量も同じにしたから、一袋で何人分取れるかは確かめてある。
ただ、明日ここへ来る人数までは決まっていない。
川から上がってくる水夫もいれば、岸の陣から戻る兵もいる。怪我をした人は救護所へ運ばれる。火が上がった後、誰がどこへ来るかは、その時にならなければ分からない。
俺は木簡へ、最初に出す袋の数を書いた。
東の粥所に五袋。中央へ六袋。西へ四袋。残る八袋は、この倉に置く。
数字の横に、小さく丸を付ける。配る分と倉に残す分を足して二十三。合っている。
それでも筆を置けず、袋の列へまた目を向けた。
「今ので三度目じゃぞ。袋の数は、さっきから変わっておらぬ」
戸が開き、冷たい風と一緒に白が入ってきた。
濃紺の外套には、川霧が細かな水滴になって付いている。長い藍紫の髪は邪魔にならないよう後ろで束ねていた。前髪に交じる金の一房だけが、灯の下でよく目立った。
白は今年で二十九になった。小柄なのは昔から変わらない。それでも今の低い声と、報告を持つ手を見て、十三歳の少女と思う人はいない。
「外まで聞こえてたのか。声には出してないはずなんだけど……」
「柳誠、そなたが袋を叩く間まで、もう覚えた。二度とも同じなら、三度目も同じじゃ。先に、こちらを見よ」
白は俺の前に二枚の書付を置いた。一枚は救護所から、もう一枚は西の岸から来たものだった。
救護所へ怪我人を運ぶ車は五台。西の粥所へ粟を運ぶ車と、途中まで同じ細い道を使う。
「このまま四袋を西へ出せば、怪我人の車と道で詰まるな」
「うむ、柳誠。西へ出す最初の分を減らせ。粥を待つ者には悪いが、怪我人の車を先に通す」
俺は西の四を消し、二と書き直した。残り二袋は倉に置く。最初の五台が通ったという知らせが届いてから、次の車を出す。
それなら、運ぶ側も迷わない。
「西は二袋。残りは、怪我人の車が五台通ってから送る。これでいい?」
「よい。救護所へは薪を二束増やせ。粥より先に、湯を使うと書いてある」
救護所からの書付には、薬を煮る湯と、泥を落とす湯が要るとあった。俺は薪の控えを開き、明日の最初の便を二束増やす。別の書付に、どの薪置き場から出すかと、運ぶ人の名前も書いた。
白の決定は短い。そのままでは、明日初めて読む人には分からないところが残る。何をいくつ、誰が、いつ運ぶのか。そこまで書くのが俺の仕事だった。
十六年、ずっとそうしてきた。
白は中央の粥所の書付へ指を置いた。
「柳誠、岸の兵は火が上がれば先にここへ来る。中央は六袋のままでよい。東は船が着くまで開けても人がおらぬな」
「東の竈は火だけ入れておく。最初の船が岸に着いたら粥を出すように書くよ。水夫が来る前に煮詰まったら困る」
「それでよい。鍋の番へも同じ文を渡せ。口で伝えるだけでは、聞き違える者が出る」
俺は同じ内容を二枚に書いた。一枚は粥所の頭へ、もう一枚は竈の番へ渡す。両方に番号を振り、こちらの控えにも同じ番号を残した。
書き終えるまで、白は急かさなかった。俺の筆先を見ているのではない。積まれた袋と、戸の脇に置かれた薪、それから救護所へ続く道を順に見ていた。
明日、予定と違うことが起きた時、どこから回せるかを考えている顔だった。
「残りは十袋になった。そのうち二袋は西へ出す二便目。自由に動かせるのは八袋」
白は指を二本折り、少し考えた。
「周瑜軍の船から火の合図が上がったら、三袋を救護所の近くへ移せ。今夜のうちに出せば、曹操の物見に荷の行き先を教えることになる」
「火の合図を見てから運ぶ。荷車は一台。護衛は付けない。粥所へ向かう車に見せる」
「うむ。柳誠、残り五袋は、妾の許しがあるまでここじゃ。勝手に気を利かせて配る者が出ぬよう、袋にも札を付けよ」
俺は新しい木札を五枚取り出した。『予備。命令があるまで開けない』と書き、紐を通す。
白はそのうち一枚を取り、字を確かめた。
「柳誠、開けた者の名も残させよ。罰するためではない。足りなくなった時、どこへ出したか分からぬのが一番困る」
「下に一行足す。粥所の名前と、開けた人の名前を書く欄を作る」
白は書き足す場所を確かめ、短くうなずいた。
「頼む。そこまで書いたら一度筆を置け。続きは飯のあとじゃ」
白はそう言うと、もう次の書付を読んでいる。
俺は五枚すべてへ同じ欄を書き足した。最後の一枚を袋へ結び、ようやく筆を置く。
倉の中には、粟と乾いた薪の匂いがこもっていた。油皿の火が揺れるたび、積んだ袋の影が壁の上で動く。外からは、水を叩く櫂の音と、船同士で交わす短い声が聞こえてくる。
戸の隙間から川を見ると、周瑜軍の船が暗い水の上に並んでいた。灯を隠した船も多く、黒い船腹だけが岸の火に浮かんでいる。
長江の向こうには、曹操軍の灯が続いていた。
端がどこにあるのか、ここからでは分からない。北を平らげ、宛を奪い、そのまま南まで来た軍だ。俺たちは七年かけて持った城を失い、川のこちら側まで下がった。
ただ、逃がせたものは多い。
倉に積まれた粟は、宛から運び出したものだった。壁際の木箱には、持ち出せた帳簿が入っている。
川沿いには、先に渡った職人たちが作った竈が並んでいた。粥所で働く人の中には、宛を出た家族もいる。
城壁は曹操に渡した。そこにいた人まで、置いてきたわけではない。
「柳誠、腹はどうじゃ。昼から、まともに何か食べたか?」
書付から目を上げないまま、白が聞いた。
「昼に試し炊きの粥を食べた。一杯分はちゃんとあったぞ」
白は読んでいた書付を一枚、机の端へ置いた。
「味見を昼飯に数えるでない。で、夜はどうした?」
「夜はまだだ。白は軍議の席で食べたと思ってたけど」
白の指が、書付の上で止まった。
「あれは乾餅一枚じゃ。あの大きさを飯に数えろと言うのか?」
「じゃあ、俺も白も、まだ飯を食べてないことになるのか」
白は何を当たり前のことを、とでも言いたげに顎を上げた。
「妾が数えぬと言ったものは数えぬ。残りの粥は?」
鍋の底に、三杯分ほど残っている。明日の量を測るために炊いたものだから、白もそれを知っていた。
「温め直せば食べられる。鍋の底に、まだ三杯分ほど」
「なら、二杯は妾じゃ。一杯はそなた。話は決まったな」
「最初から、自分が二杯食べるつもりで聞いたんだろ」
白は書付を重ね、さっさと脇へ寄せた。
「働いた。腹も減った。妾が二杯食うのに、それ以外の理由が要るか?」
俺は竈の炭を起こし、鍋を掛け直した。少し水を足して底から混ぜる。湯気が上がり始めると、白は粟袋を机代わりにして、残りの報告を読み始めた。
白は報告を一枚読み終えるたび、鍋を見た。腹が減った時だけは、隠す気がない。
「柳誠、まだか? さっきから食える匂いがしておるぞ」
「今、温め始めたところだ。鍋を見ても早くはならないぞ」
「柳誠、もう湯気が出ておる。あれでまだ食えぬと言うのか?」
俺は鍋の底へ匙を入れ、焦げつかないようゆっくり混ぜた。
「上だけ温かくても、底が冷たいままじゃ駄目なんだよ。あと少し」
「むう。明日は兵に同じことを言うな。腹を減らした者は、湯気を見れば待てぬぞ」
白はそう言いながらも椀には手を出さず、鍋から視線を外した。
「だから、鍋を見えないところに置くよう書いてある」
白は少しだけ顎を上げた。自分が決めたことを忘れていた顔ではない。俺がちゃんと書いたか確かめただけ、という顔だ。
十六年見てきたので、そのくらいは分かる。
粥が温まるまでの間に、俺は書具箱の底へ手を入れた。
帳簿ではない。
何度も綴じ直し、角が丸くなった一冊を取り出す。俺はそれを、ずっとノートと呼んでいる。
白の前で隠す必要は、もうなかった。
俺がノートを開いても、白は驚かない。鍋を気にしながら、こちらを一度見ただけだった。
最初の頃は、確かな話と怪しい話を分けて書いていた。
董卓は呂布に殺される。長安はもう一度荒れる。曹操は宛で大敗する。呂布は下邳で終わる。袁紹は官渡で敗れる。
日付も順番も分からない、ひどく頼りない知識だった。それでも、何も知らずにいるよりはずっと良かった。
長安がもう一度荒れると知っていたから、俺たちは南へ急いだ。宛で曹操が負けると知っていたから、夜襲の後に張繡軍が退ける道を先に確かめた。下邳という名前を知っていたから、呂布を追い、張遼へたどり着けた。
このノートは、何度も俺たちを助けた。
そのたびに、後ろの頁は少しずつ現実と合わなくなった。
顔良が死ぬはずだった行には、横線を引いた。顔良は今も生きている。
呂布も、曹操に捕らえられたわけではない。俺たちが下邳を囲み、白が自分の名で命じて討った。
書いた通りに戻したいと思ったことはない。顔良が生きているなら、それでいい。呂布を曹操へ任せず、白が自分で終わらせたことも、間違いではなかった。
俺たちが何かを変えれば、その後も変わる。当然のことだ。
官渡が終わった頃には、確かな話として残ったものは一つしかなかった。
曹操は赤壁で敗れる。
短い一行だ。
どう負けるかについて、俺が知っていた話には当てにならないところが多かった。連なった船、黄蓋の偽りの降伏、諸葛亮が呼ぶ東南の風。どこまでが本当に起きたことで、どこからが講談や遊びで覚えたものか、俺には分からない。
だから、ここまで来るのに必要だったのは、ノートの一行だけではない。
諸葛亮は東南の風を呼ぶと言った。周瑜と黄蓋は、その風を使って火を放つ時を決めた。甘寧は曹操の船がどこから物を受け取っているかを調べた。張遼と馬超は、岸の道を自分の足で確かめた。
白は届いた報告を読み、川と岸と陸営を攻め始める時刻を決めた。火が回った後、逃げてくる兵と怪我人へ出す粥の数まで決めている。
俺の仕事は、その数字を誰でも読める書付にすることだ。
それでも、赤壁で曹操が敗れると知らなければ、宛を失った夜に、ここまで下がってなお戦えるとは言い切れなかった。あの一行があったから、俺たちは川の南まで人と粟を運び、周瑜たちと同じ岸に立っている。
ノートは、最後まで役に立った。
そして明日、その最後の一行が現実になる。
俺が知っていた先の話は、そこで終わる。
不思議な気分だった。
長安の路地で白の手を掴んだ時は、次の門を抜けられるかどうかも分からなかった。あの少女が十六年後、曹操の大軍を迎え撃つ側で、何千人分もの飯と怪我人の手配を決めているなど、考えたこともない。
鍋が小さく鳴った。
俺はノートを開いたまま、粥を底から混ぜた。白は待ちきれずに椀を二つ並べ、そのうち大きい方を自分の前へ置いている。
昔なら、誰かが食事を用意するのを当然だと思っていた。今は、出す粟を減らすなら、その理由を確認する。減らされた側がいつ受け取れるかも、自分で決める。
豪華な紫の衣を着た十三歳の董白と、濃紺の外套で倉に立つ二十九歳の白が、頭の中で重なった。
気づけば、俺はノートと白を何度も見比べていた。
白は大きい椀を手に取る前に、俺の顔を見た。
「そなた、何を考えておる」
「拾った日のことを」