董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
序章 対岸の灯
明日、俺の知っている未来のストックが尽きる。
そう思うと落ち着かなくて、さっきから粟の袋を数え直していた。
八と八と七。合わせて二十三袋。
長江の南岸に借りた倉には、夜になっても人の声が届く。荷車を寄せる者と、船を岸につなぐ者が、声を掛け合っている。その向こうから時折、風に乗って太鼓が聞こえた。手を止めると、次の音がするまで待ってしまう。
倉の隙間から、川向こうの灯が見えた。
曹操の軍だった。
岸に沿って、どこまでも続いている。あちらにも飯を炊く者がいて、食い終われば眠る者がいるのだろう。ここからでは、誰の顔も見えない。ただ灯の数だけが多かった。
俺は袋へ手を戻した。
「まーた数えておるのか?」
戸が開き、冷たい風と一緒に白が入ってきた。濃紺の外套には川霧が付いている。束ねた藍紫の髪が、肩の上で揺れた。
「これで二十三。やっぱり気になっちゃってな」
「それなら、こちらを手伝え。軍議で決まったことを、書き直しておかねばならぬのじゃ」
白は卓に書付を広げ、俺を手招きした。
川を見ていたことには触れなかった。
「西の粥所へは、二袋ずつ運ばせよ。救護所の車も同じ道を通るでな。荷下ろしで道を塞いでは、怪我人を待たせてしまう」
俺は卓へ戻って、配り先を書いた木簡を取った。
明日は岸の三か所で粥を出す。船から戻る水夫も、岸で戦う兵も、腹を減らして来るはずだった。ただ、何人が、どこへ来るのかまではわからない。それでも、今夜のうちに飯を分けておかなければならなかった。
「残りは、救護所の車が通ってからでいいな?」
「うむ。通り終えたらすぐ出せるよう、こちらで積んでおけ」
配り先の横に、車を出す順を書き添えた。
白は俺が書くのを待ちながら、外套の留め紐をほどいた。肩から落ちかけた端を受け取ると、布が冷たかった。
「ずっと外にいたのか?」
「船着き場を見てきた。東の粥は、最初の船が着く頃に炊き上がるようにせよ。早くから炊いておけば、食う頃には煮詰まってしまうでな」
「じゃあ、船着き場からも知らせを寄越してもらおう。鍋の番にも伝えておくよ」
白はうなずき、次の書付を開いた。
救護所へ届ける薪の手配も済ませる頃には、川の音も気にならなくなっていた。
白の指示は速い。だが、それを聞いていない者にもわかる形に書くには、もう少し手間がかかる。
訊けば、白は答える。俺が書き終えるまでは、次の用を口にしない。待つ間にも別の書付を読んでいて、こちらが筆を止めると、すぐに次の話が始まった。
十六年、こうして隣で筆を持ってきた。
初めは、二人が食う粥の銭を書くだけで済んでいたのに。
「救護所の近くへも、三袋回しておきたい。周瑜の船から火の合図が上がったら、運ばせよ」
白が最後の書付を置いた。
「今、動かしたらマズいのか?」
「対岸にも物見はおる。今夜から車を寄せて、こちらがどこへ人を集めるか教えてやることもなかろう」
「わかった。合図が上がったら、すぐ出せるようにしておくよ」
それも控えに書き足し、予備に残す五袋には、命令があるまで開けないと札を付けた。白がその字を見て、口を挟む。
「開けた者の名前と、どこへ出したかも書けるようにしておけ」
「開けるなと書いた下に?」
「妾の返事を待てぬ時もあろう。その時は使ってよい。じゃが、誰に渡したかまで分からなくなっては、次の分を届けられぬ」
札に二行足した。
明日、白を呼ぶ暇もないほど飯が足りなくなるかもしれない。そう思うと、空けたばかりの欄が気になった。五袋あれば足りるのか、俺には判断がつかなかった。
最後の札を結んで卓へ戻ると、白は書付を束ねていた。
「ひとまず、ここまでじゃ。飯にするぞ!」
「まだ読んでないのがあるんじゃないのか?」
「ある。食うてから読むでな」
言い終える前に、鍋の蓋を持ち上げている。
俺は筆を置いた。
~
粥を温め直す間、戸口に立った。
こちらの岸には、周瑜の船が並んでいる。灯を隠した船は、水面と区別がつかない。岸の火が届く所だけ、舷側の黒い輪郭が見えた。
火を放つのは、あの船の人たちだ。
俺たちは、戻ってくる者の飯と、怪我人を運ぶ道を用意している。戦の行方が気になるからと川を眺めていても、俺にできることは増えなかった。
倉へ戻ると、壁際の木箱が目に入った。宛から持ち出した帳簿が詰まっている。積んだ粟も、宛から運んできたものだ。川沿いの竈を据えた職人も、粥を作る者の家族も、先にこちらへ渡らせていた。
九年近く暮らした城を、明け渡した。
城壁は曹操の手にある。ここにあるのは、持ち出せた荷物と、ついてきてくれた人たちだった。
それでよかったのかは、まだわからない。
ただ、明日あの灯の下から兵が来れば、また逃げるだけでは済まない。
「戸を閉めよ。冷たい風が入るぞ」
白に言われ、俺は戸を引いた。
小さな鍋の中で粥が音を立てている。白はその脇へ椀を二つ並べ、俺の座る所にあった書付を自分の方へ寄せた。
俺は書具箱を開けた。
底に、何度も綴じ直した一冊がある。角は丸くなり、古い頁は端から擦り切れかけていた。俺がノートと呼んでいるものだ。
元の世界で覚えていた、三国志の出来事を書いてある。
白に隠す必要は、もうなかった。別の世界から来たことも、ここに書いた話の出所も、今は話してある。
元の世界の話をしている途中で、慌てて言い直すこともなくなった。長いこと隠していたせいか、そのまま話せることに、まだ少しほっとする。
開くと、横線を引いた行が続いた。
顔良の死。呂布の最期。宛で起きる戦。
顔良は、まだ生きている。宛では、あの夜に逃げられた者がいる。退く道を、先に確かめておいたからだ。
記憶と違っているからといって、元に戻したいとは思わなかった。
生きている者に、死んでくれなどと言えるわけがない。
呂布は、覚えていたとおり下邳で死んだ。
だが、白は会えなかった。会わせると約束した曹操が、俺たちを呼ばずに処刑を済ませてしまった。訊きたかったことは、何一つ訊けず、最期に立ち会うことさえできなかった。
あの時、俺も白と一緒に喜んだ。会わせてもらえると信じていた。
白は今も曹操を許していない。俺も、あの約束を思い出すと腹が立つ。
最後に残った一行へ、指を置く。
曹操は赤壁で敗れる。
日付を知っていたわけではない。白が持ち帰った軍議の話を聞いて、明日なのだとわかった。あの大軍が敗れるという、俺でも覚えていたほど有名な戦が、今、目の前で始まろうとしている。
その先のことは、もう頼れるほど覚えていなかった。
この一行だって、そのまま起きる保証はない。これだけ変わったのだから、赤壁だけが変わらないと思う方がおかしい。
それでも、何度も読んだ。
どうか、ここだけは。
鍋の蓋が鳴って、俺は顔を上げた。
「煮えておるぞー」
白が椀を手に立っていた。俺の肩越しに、開いた頁へ目を落とす。
「そこを見ておったのか」
「うん。今さら読んでも、変わらないんだけどな」
俺は最後の一行から指を離した。白もしばらくその行を見てから、空の椀を俺の前へ置いた。
「明日のことは、妾も気になる。じゃが、今夜はそなたとゆっくり飯を食いたい」
俺の顔を覗き込みながら、当たり前のように言う。
以前なら、腹が減ったのだなと思っただろう。今は、そなたと、というところが妙に耳へ残る。
「……うん。俺も、腹が減った」
白は俺を見て、少し笑った。それ以上は何も言わず、卓にある書付を片づけ始める。
俺も冊子を閉じた。素性を明かした夜、白は、この先も俺と暮らしたいと言った。嬉しくて、俺も同じだと答えた。
ただ、その後、どんな顔で隣へ座ればいいかまでは、考えていなかった。
~
粥は三杯分あった。
一杯ずつよそい、残りを鍋に置く。白は椀を受け取ると、俺のすぐ隣へ腰を下ろした。
肩が触れた。白は気にした様子もなく、椀の湯気へ顔を寄せている。俺は少し身じろぎしてから、そのまま座っていることにした。
十六年も隣にいたのに、今になってこの近さが気になる。自分でも面倒なことになったと思う。
「軍議では、何も出なかったのか?」
「乾餅を一枚。食うておる間にも話が進むので、味もよう覚えておらぬ」
「そりゃ、腹も減るな」
「そなたは?」
「昼に試し炊きした時、少し貰った」
白は俺の椀を覗き、鍋の方も見た。
「では、残りも半分ずつじゃな」
「わかった。温めておくよ」
二人とも、なんだかんだで自分の分を後回しにしていた。鍋を火のそばへ戻すと、白は足を少し伸ばした。
「疲れたか?」
「座ったら、足が痛うなってきた」
椀を持ったまま、足首をゆっくり動かしている。船着き場を歩き回っていたのだから、無理もない。
「軍議も長かったからのう。周瑜が、なかなか兵を出すと言わぬのでな」
白は椀を膝へ下ろした。
「こちらは、逃げた敵が岸で集まり直す前に動きたい。ところが、向こうは船の戦が済むまでは兵を離せぬと言う。いつまで待てば出せるのかと訊いても、火の回り次第じゃと。こちらも、それでは人を置く場所が決まらぬ」
「船の方が手薄になっても困るだろうしな」
「それは分かっておる。ゆえに、どこまでを船で追い、どこからをこちらで受け持つか、地図を挟んで言い合っておったのじゃ」
白は匙を置き、卓の上に指で道をなぞった。地図はなくても、曲がり角の位置まで覚えているらしい。
「ようやく折り合ったところへ、今度は
「そこから、また考え直すのか?」
「うむ。終わると思うたのに、また地図を広げることになった。あれが黙って聞いておる時は、安心せぬ方がよい。最後に面倒なことを言い出すのじゃ」
言いながら、白は少し笑った。
文句ばかりなのに、嫌そうではなかった。どう言い返し、どこを譲らせたか話すうちに、言葉が速くなる。俺は相槌を打ちながら、指の動きを追っていた。
俺なら、そこまで考えて言い合うことはできない。決まった話を聞いて、ようやく分かることも多い。その場で白の考えに追いつき、別の案まで出せる男が、あちらには二人もいる。
「あの美周郎も、もっともだなどとうなずきおって。妾の手間が増える時だけ、話が早いのじゃ」
皮肉で呼んでいるのは分かった。それでも、白の口から出た美周郎という呼び名が、妙に引っかかった。
「……話が合うんだな、その美周郎とは」
白の手が止まった。
「揉めてきたと言うておろう」
「うん。でも、そうやって言い合えるんだろ。俺には、なかなかできないからさ」
そこまで言うつもりではなかった。椀へ目を戻し、粥をひと口食べる。
白があの二人と渡り合っているのは、誇らしくもあった。こんなことを言って、話しにくくさせたいわけではない。俺は口をつぐんだ。
白がこちらを覗き込んでくる。
「そなた、妬いておるのか?」
腹が立つくらいに声が弾んでいた。
言われて、ようやく自分がどんな顔をしていたか気づく。白は軍議の愚痴をこぼしていただけなのに、何を張り合っているんだ。さすがに、みっともない。
「いや、話が合うならいいことだろ。俺じゃ相手にならない話もあるしさ」
「ほ~うほうほう。それで、あのように拗ねた声が出たのか?」
「拗ねてないって。……ほら、粥が冷めるぞ!」
「妾はまだ、そなたの話を聞いておるのじゃが~?」
白はわざわざ椀を卓へ置いた。口元が緩んでいて、まるで隠す気がない。
「別に、大した話じゃないよ」
「美周郎と呼んだのが気に入らぬか? では、周瑜と呼べばよいのかのう」
「呼び方まで変えろなんて言ってないだろ!」
「おお、そこまでは言わぬか。寛大じゃなあ」
自分の口から出た言葉を思い返して、余計に顔が熱くなった。黙って飯を食えばよかった。取り繕おうとするたびに、白が喜ぶことばかり言っている。
「……わかった、わかったから……。もう勘弁してくれ」
「ふふ。そなたにも、そういうところがあったのじゃな」
得意げな顔を見ていられず、椀へ目を落とした。十六年も一緒にいて、今さらこんなことでからかわれるとは思わなかった。
白はひとしきり笑うと、俺の肩へ軽く身を寄せた。
「……まー、安心せよ」
声が近くなって、顔を上げる。白はもう笑っていなかった。
「あの二人と話しておってもな。早う戻って、そなたと飯を食いたいとばかり思うておったぞ」
俺は匙を止めた。
「妾に必要なのは誰でもない、そなたじゃからの」
今度は、からかう声ではなかった。近くで目が合い、逸らせなくなる。
「……うん。分かってる」
「ならばよい」
白は満足そうに椀を持ち直し、置いていた匙を取った。
ほっとしているのも、顔に出ているのだろう。白はまだ笑っていたが、もうからかってはこなかった。
「……まあ、それだけ揉めてたら、帰りも遅くなるよな」
気恥ずかしくなって、誤魔化すように話を戻す。
「うむ。その帰り際に、ヒゲが、よい軍議になりましたな、と言うてきたのじゃ」
「お前は、何て返したんだ?」
「そうじゃな、明日は働いてもらうぞ、と言うておいた。笑うておったわ」
白はまだ少し不服そうだった。俺も笑って、ぬるくなりかけた粥を食べた。
話が途切れると、二人とも粥を食べる方に忙しくなった。途中で太鼓が鳴ったが、今度は手を止めなかった。
外では荷車の音がしている。対岸の灯も、戸を閉めただけで消えたわけではない。明日が怖いのも変わらなかった。
それでも、今は白の隣に座って、飯を食べていたかった。
鍋に残った粥も半分ずつ分けた。食べ終えれば、また明日の支度がある。何時になれば眠れるのか、まだ分からない。
先に椀を空け、白を待つ間、つい隣へ目が向いた。少しずつ粥をすくっている横顔は、軍議から戻った時より、ずっと寛いでいる。
十六年が過ぎた。濃紺の外套を着て軍議へ出るこの女と、紫の衣を泥で汚していた十三の娘が、時々うまく重ならなくなる。
だが、こうして二人で飯を食っていると、思い出す。
あの日、俺が拾ったのは、董卓の孫娘だった。
こんな夜を一緒に過ごすようになるとは、思ってもいなかった。つい笑うと、白が顔を上げた。
「何を笑うておる?」
「拾った日のことを、ちょっと」