董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第9話 雨の日

 

それから何日かして、夜明け前から冷たい雨が降った。

 

馬の鼻息で目が覚めた。

 

馬屋の脇、重ねた空の俵の上で体を起こす。屋根はあっても壁はない。風向きが悪いらしく、細かな雨が端まで吹き込んで、掛けていた上着の裾が少し湿っていた。

 

「寒っ」

 

「朝からうるさいぞ」

 

隣では、董白が膝を抱え、両手を袖の中へ引っ込めていた。

 

「白も寒いんじゃないか」

 

「見れば分かるであろう」

 

そこは認めるらしい。

 

いつもなら顎を上げるところだが、今日は袖から手さえ出さなかった。馬屋の馬まで、濡れた鼻を何度も鳴らしている。

 

俵から降りると、裸足で踏んだ板まで冷たかった。靴を履き、肩をすくめながら宿の庭へ出る。

 

土の道はもう黒く濡れていた。軒から落ちる雨粒が同じところを叩き続け、小さなくぼみを作っている。道の向こうでは、阿慶が縄の入った籠を軒の奥へ寄せていた。

 

宿の土間は、朝から人と荷物でいっぱいだった。

 

夜明けと一緒に出るつもりだった客が、雨脚が弱まるまで待つと言い出した。その一方で、街道からは、雨を避けようと荷車を引いた一行が早めに宿へ入ってくる。

 

濡れた外套を脱ぐ客。入口で草鞋の泥を落とす男。敷物を抱えて奥へ走る下働き。入口では、荷車を少しでも軒へ寄せようと御者が馬をなだめている。

 

人が増えれば、飯も湯も要る。

 

竈では、女将がいつもより大きな鍋を火にかけていた。蓋を少しずらして中を見たと思ったら、次の瞬間には入口へ怒鳴る。

 

「柳誠! 入口の荷車から先に荷札を書きな!」

 

「はい!」

 

俺が書具箱を開く間にも、女将の声は止まらなかった。

 

「白! 細い薪を竈へ持ってきな! 太いのはまだいらないよ!」

 

「分かっておる!」

 

返事だけは立派だった。

 

俺は土間の隅へ腰を下ろし、濡れた裾が木簡へ触れないよう膝を寄せた。持ち込まれた荷物の印を見て、袋の数を書いていく。

 

董白は細い薪を三本ずつ抱え、裏口と竈の間を何度も往復した。

 

前に腕を赤くしてから、四本目へ手を伸ばすことはなくなっている。

 

椀の借りを返し終えても、宿の仕事がなくなったわけじゃない。

 

ただ、今日の仕事は昨日までより明らかに多かった。

 

俺が一枚書き終える前に、次の客が荷物を抱えてくる。書いている間にも、その横を薪を持った董白が通り、奥からは敷物を取りに来た下働きが戻ってくる。

 

「柳誠、これはどこじゃ」

 

董白が足元の小さな包みを顎で示した。

 

「それは客のだ。勝手に動かすな」

 

「なら、こんなところへ置かせるでない」

 

「俺に言われても――」

 

「壁際へ寄せときな! いちいち呼ぶんじゃないよ!」

 

女将の怒鳴り声が竈の方から飛んできた。

 

董白は包みを蹴らないよう大股で跨ぎ、薪を置きに行く。

 

朝からずっと、こんな調子だった。

 

「次、八袋!」

 

入口にいた下働きの声が飛んだ。

 

顔を上げると、荷車の横に旅商人と連れの男が二人立っていた。荷台には、口をしっかり縛った大きな袋が並んでいる。上には雨避けの布が掛けてあったが、端からもう水が垂れていた。

 

旅商人が荷台を指した。

 

「八袋だ。丸印、全部うちのだ」

 

「中身は同じですか?」

 

「三つが布。残りは穀物と乾物だ」

 

俺は袋の横についた印を一つずつ見た。同じ丸印が八つ。数を間違えないよう、降ろされるたびに指で追ってから荷札へ書く。

 

「雨だ。軒下へ入れろ!」

 

旅商人に言われ、連れの男二人が袋を抱えてくる。

 

一つ、二つ、三つ。

 

四つ目が置かれたところで、宿の裏口から竈へ抜ける細い道が、袋一つ分しか残っていないことに気づいた。

 

五つ目を男が持ち上げた瞬間、女将の怒鳴り声が飛んだ。

 

「そこへ積むんじゃないよ!」

 

遅かった。

 

四袋が軒下へ横一列に並び、裏口から竈へ続く道を半分以上塞いでいる。奥から敷物を抱えてきた下働きが立ち止まり、その後ろでは湯を入れた小鍋を持った客まで詰まった。

 

ちょうど薪を抱えて戻ってきた董白も、袋の前で止まる。

 

「邪魔じゃ」

 

「濡れたら困る荷物なんだよ」

 

旅商人が言い返した。

 

「こっちは商い物だ。雨の下へ置けるか」

 

「全部ここへ置いたら、薪が通らないよ! 奥へ敷物も出せない!」

 

女将も負けていない。

 

「だからって、布を雨に出せるか。染みになったら売り物にならん」

 

旅商人も引かなかった。

 

どちらも困る理由は分かる。だから余計に、声だけ大きくなっていく。

 

鍋の中から、粥が煮える音がした。女将は一度だけ竈を振り返り、それでもその場を離れられない。

 

董白は抱えた薪を下ろさず、袋の列を見る。

 

旅商人を見る。

 

そのあと、軒下の先にある壁際へ目を向けた。

 

董白の口が開きかけ、閉じた。

 

抱えた薪を持ち直して、旅商人へ向き直る。

 

「そなたの荷物で、濡れて特に困るのはどれじゃ」

 

「布が三つだ。けど、ほかも濡らしたくはない」

 

「穀物と乾物は、地面へ直接置かなければよいのか」

 

旅商人は少し黙った。

 

「……袋まで濡れっぱなしにならなきゃな」

 

董白が今度は女将を見る。

 

「では、布の三つだけここへ置いて、残りはあの庇の下では駄目か」

 

指した先には、雨除けの庇が少し張り出していた。ただし、地面は軒下ほど乾いていない。

 

女将はそこを見て、すぐ壁際を指す。

 

「そこならいいよ。壁際に立ててある板を下に敷きな。泥に直接置かなきゃ濡れない」

 

旅商人はまだ渋い顔をしていた。

 

外の雨を見て、袋を見る。

 

その横で、下働きが敷物を抱えたまま待っている。俺の方には次の客が荷札を持って立っていた。竈の火も止められない。

 

旅商人は舌打ちした。

 

「仕方ねえ。おい、板を敷け。五つは壁際だ」

 

連れの男二人が壁際に立ててあった板を下ろし、その上へ袋を運び始めた。

 

俺はさっきの荷札を見直す。

 

丸印、八袋。

 

そのうち布三つは軒下。残り五つは壁際。

 

置き場所が二つになったからといって、荷物そのものが増えたわけじゃない。俺は荷札の端へ場所だけ書き足した。

 

「壁際は五つで合ってる?」

 

「五つだ!」

 

壁際から男が返す。

 

もう一度、目で数える。

 

一、二、三、四、五。

 

軒下には三つ。

 

合計八つ。

 

「八つ、あります」

 

それを聞いて、旅商人もようやく荷物から離れた。

 

五袋が壁際へ移ると、塞がっていた通路が一気に開いた。

 

まず敷物を抱えた下働きが奥へ抜けた。湯の小鍋を持った客がその後ろを通る。董白も、抱えていた薪をようやく竈まで運べた。

 

女将が受け取った薪を火へ差し込む。

 

弱くなっていた火がすぐに赤くなり、鍋の底からまた大きな泡が上がった。

 

「次の敷物、奥の二人分!」

 

「はい!」

 

下働きが空いた道を戻っていく。

 

俺も次の荷札へ筆を移した。

 

そこからは、朝が急に動き出した。

 

空いた通路を通って敷物が奥へ運ばれ、旅商人の連れは荷車の残りを片づける。女将は鍋の前へ戻り、火の勢いと粥の具合を見ながら椀を並べ始めた。

 

俺も次の荷札を書き、持ち主と数を合わせて、置き場所を書き足していく。

 

皆が自分の仕事へ戻っただけで、詰まっていた宿が少しずつほどけていった。

 

さっきまで袋の前で立ち止まっていた下働きが、敷物を抱えて二度目の往復をする。湯を待っていた客も小鍋を竈脇へ置けた。旅商人は壁際の五袋へ手を当て、雨が染みていないことを確かめると、ようやく外套の水を払った。

 

道の向こうから、水場番の声が一度飛んだ。

 

すぐに阿慶が短く答えた。

 

それきりだった。

 

董白は入口まで顔を出しかけたが、ちょうど女将が「白、次の薪!」と呼ぶ。

 

董白は道の向こうをもう一度見てから、踵を返した。

 

「今行く!」

 

俺も筆を止めなかった。

 

最初に水場を手伝った朝なら、声が大きくなっただけで、二人とも何が起きたのか気にしていただろう。

 

今日は違った。

 

少しして入口から道向こうを見ると、列は少しずつ短くなっていた。

 

昼が近づく頃には、朝からいた客の何人かが宿を出ていた。

 

雨も少し弱くなっている。

 

土間にはまだ濡れた足跡が残っていたが、朝のような詰まり方はしていない。

 

竈の前には空になった鍋。

 

土間の端には、持ち主ごとにまとまった荷物。

 

裏口への道も空いている。

 

壁際の五袋は板の上に並び、袋の底に泥はついていなかった。旅商人は一つずつ見てから、何も言わずに頷いた。

 

道向こうの水場でも朝の列は消え、阿慶は軒の下で巻き終えた縄を籠へ入れていた。

 

女将は最後に残った客へ椀を渡すと、腰へ手を当てた。

 

「やっと一息つけるよ」

 

その声を聞いた途端、俺も急に腹が減った。

 

董白はもっと分かりやすかった。空になった鍋へ一度目をやってから、何も見ていない顔をする。

 

女将が俺たちを見る。

 

「今日は、あんたら二人がいて助かった」

 

董白がぴたりと止まった。

 

一拍遅れて、胸を張る。

 

「当然じゃ」

 

女将は鼻で笑った。

 

「今日は、ね」

 

董白も言い返さなかった。

 

朝に袋が積まれていた軒下は、もう空になっている。

 

俺はそこを見てから、土間を見回した。

 

今日みたいな朝なら、俺にも董白にも仕事はいくらでもあった。

 

荷札を書く。薪を運ぶ。通路を空ける。置き場所を確かめる。

 

けれど、毎日こんなに荷車が来るわけじゃない。

 

客が少ない日なら、薪を運び終えれば、俺たちは女将に次を言われるのを待つことになる。

 

董白も同じことを考えたらしい。

 

「客が少ない日にも、荷物は来る」

 

「来るね。泊まりが一人でも、荷車が一台でも、預かる物はある」

 

女将が答えた。

 

「朝は竈も見なきゃならない。持ち主と数を見て、どこへ置くかまで毎回あたしが付いて回るのは面倒なんだよ」

 

董白は軒下と、俺の荷札を交互に見た。

 

朝の八袋だけじゃない。今も土間の端には、俺が書いた荷札のついた包みがいくつか残っている。

 

「なら、明日の荷物は、荷札を書いて置き終わるまで、柳誠と二人でやらせてくれぬか」

 

女将はすぐには答えなかった。

 

鍋を洗い場へ運びかけたまま、俺たちを見比べる。

 

「置き場は勝手に決めない。荷主とあたしに聞きな」

 

董白が頷く。

 

女将はさらに指を一本立てた。

 

「最後に、二人でもう一度数えな。荷主にも一緒に数えてもらいな。そこまでできたら、次も任せるよ」

 

「荷物を濡らしたり、数を間違えたりしたら?」

 

俺が聞く。

 

「その時は、まず持ち主に頭を下げるんだね。あたしに隠したら、そこで終わりだ」

 

董白が横から俺を見る。

 

「最初から失敗する話をするでない」

 

「いや、そこ大事だろ」

 

「失敗せねばよい」

 

「そう簡単なら助かるんだけどな」

 

女将が呆れたように肩をすくめた。

 

董白は一度、空になった軒下を見た。

 

今朝は、詰まってから置き場所を直しただけだ。

 

明日は、荷物が宿へ着いてから、決めた場所へ置き、持ち主へ「全部ある」と返すところまで。

 

女将が切り分けた仕事の途中ではなく、一つの仕事を最初から最後まで任される。

 

董白の指が、濡れた軒柱を一度だけ叩いた。

 

「うむ。そこまでやる」

 

今度は、間を置かなかった。

 

声は平静だったが、背筋が少しだけ伸びていた。

 

女将はそれ以上何も言わず、空になった鍋を持ち上げた。

 

「明日の話は明日だ。今日は洗い物」

 

董白の顔が露骨に嫌そうになる。

 

「今度は一つずつ持てよ」

 

「分かっておる! そなたまで女将の真似をするな」

 

「割ったら、また仕事増えるぞ」

 

董白は俺を睨んだあと、椀を一つだけ持って洗い場へ向かった。

 

朝の騒ぎが嘘みたいに、宿はもう静かだった。

 

忙しい朝なら、二人で役に立てる。

 

明日は、届いた荷物を数え、決めた場所へ置き、荷主へ全部あると返すところまで受け持つ。

 

それをやり切れば、その次の日にも仕事がある。

 

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