董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「手伝いではない。わたしの仕事じゃ!」
朝の荷を送り出すなり、董白の声が宿の庭へ響いた。
言われた客は笑っている。布の袋を確かめたのも、運び手を呼んだのも董白だというのに、礼を言う時には俺の方を向く。最後に付け足したのが、お嬢ちゃんもよく手伝ったね、だった。
「そうかそうか。しっかりした姪御だねえ」
それも俺に言って、男は行ってしまった。
董白が口を開きかけたので、先に声をかける。
「俺からも言ったんだがな。白がやったって」
「聞いておらなんだ!」
「ああ。あれは聞いてなかった」
そこで笑うと俺まで怒られそうだった。
昨日の八袋は、これで全て宿からなくなった。夕方に渡した三袋と今朝の五袋。庭にはまだ水たまりが残っているが、荷車の覆いを外して出ていく客もいる。
雨は上がった。約束どおり、今日は町へ出られる。
女将から二人分の十枚を受け取り、買い物に行きたいと頼むと、昼までには戻るよう言われた。
「裏の薪も頼むよ。昨日は荷物で忙しかったから、そのままなんだ」
「分かりました。戻ったら運びます」
董白はもう仕事の袖紐を解いている。機嫌が悪くても出かける気はあるらしい。
「白、行くぞ」
「うむ」
門を出る足は、俺より少し速かった。
~
向かいの井戸に寄ると、阿慶が釣瓶の縄を巻いていた。
「今日は桶、持ってないの?」
「買い物じゃ。針を売っておる所を知らぬか?」
「それなら辻の先。布も置いてるおじさんの店だよ」
礼を言いかけた董白の横から、俺も訊いた。
「あと、菓子を売ってる所も」
「菓子? 朝から?」
悪いことをするわけでもないのに、少し気恥ずかしい。
阿慶はすぐに笑って、もう一軒教えてくれた。董白はそちらの道も確かめてから歩き出す。
針の店では、思っていたより長く待つことになった。
董白は女将に借りた針を見本にして、店の男が出す物を一本ずつ見ている。糸を通してみたかと思えば、首を傾げて返す。俺には違いが分からない。
「その針に近いのなら、こっちだな。糸を通してみるか?」
男が別の一本を差し出すと、董白は借り物と並べてから糸を通した。
「これがよい。糸も、この針に通る物が欲しい」
さっきの客とは違って、男はちゃんと董白の顔を見て答えていた。こちらへ判断を求めたりもしない。
包んでもらう頃には、寄っていた眉も元へ戻っている。
「待たせたのう」
「気にするな。俺が選んでも、どれがいいか分からないしな」
「そなたの上着も縫うのじゃぞ。少しは見ておれ」
そう言われて袖口を見る。ほつれた糸が垂れていた。
「それも頼んでいいのか?」
「放っておけば、もっとほどけるであろうが」
「助かる。じゃあ、後で頼む」
董白はうなずき、針を入れた小さな包みを懐へしまった。
次の店には、粟を飴で固めた菓子が並んでいた。
一つ買って割ってもらい、半分を董白へ渡す。齧るとぱきりと歯ごたえがあって、その後から甘さが広がる。
ああ、うまい。
元の世界なら袋いっぱいに入った菓子を、何も考えず食べていた。今は口の中に残った飴まで惜しくて、すぐには飲み込めない。
隣を見ると董白も黙って齧っている。
「どうだ?」
「小さいのう」
味の話をしたつもりだった。
「半分だからな」
「知っておる。うまいから言うておるのじゃ」
もう一つ買おうかと思ったが、針と糸を買ったばかりだ。今日もらった銭まで、ここで使い切るわけにはいかない。
「次は一つずつ買おう。今日はそれで勘弁してくれ」
「忘れるでないぞ」
董白の口元に粟の粒が付いていた。指摘すると自分で拭き、それから俺の顎を指す。
「そなたもじゃ」
拭った指に同じ粒が付いたので、二人で笑った。
針を選ぶのに待たされたことも、菓子が小さいと言われたことも、別に嫌ではなかった。飯を買うか寝場所に払うかで迷うのとは違う。こんなことで言い合えるくらいには、暮らしがましになったのだ。
董白は残りを食べ終えると包みを畳んだ。俺も最後の一口を惜しみながら宿へ戻った。
~
「ほら、当たり! 見てる奴はちゃんと見てるねえ」
広間に人の輪ができていた。
卓に伏せた椀が三つ。その前に座る細身の男が、向かいの若者へ銭を渡している。若者は隣の客と肩を叩き合って喜んだ。
「何をしてるんです?」
近くの男に訊くと、卓を指された。
「豆がどの椀に入ってるか当てるんだ。当たれば倍になる」
細身の男が黒い豆を卓へ置いた。
「豆はここだ。よく見てな!」
一つの椀をかぶせ、三つを滑らせて入れ替える。動きは速いが、目で追えないほどではない。
(これ、知ってるぞ)
元の世界で見たことがある。たいてい何か仕掛けがあって、簡単には勝たせてもらえない遊びだ。
それでも椀が動くと、つい目で追ってしまう。
右から真ん中。そこから左へ来て、もう一度真ん中。
止まった。
「さあ、どこだ?」
賭けていた客が真ん中を指す。俺も同じだと思った。
男が持ち上げると、椀の下は空だった。
「惜しかったね。こっちだ」
右から豆が出てくる。
(……いつ移った?)
「そんな顔をするくらいなら、見るのをやめればよかろう」
董白に言われて顔を戻した。
「今の、途中までは追えたんだがな」
「途中まで追えた者なら、周りにいくらでもおるぞ」
皆、似たようなことを言っていた。分かっていたのに、最後だけ見失った、と。
俺もその一人だと思うと少し悔しい。
「あと少し見てから、薪を運ぼう」
「見るだけじゃぞ」
「分かってる。菓子を半分にしたばかりだろ」
董白は鼻で笑い、隣へ並んだ。
一枚賭けて当てる者もいれば、外す者もいる。洗ったばかりの椀らしく、卓には薄く水の跡が残っていた。
三枚を賭ける客が出た時、男は椀を並べ終えてから濡れた指を服の裾で拭った。その勝負も外れだった。客は大きく息を吐いて席を立つ。
次に座ったのは見覚えのある荷運び人だった。昨日の雨の中、俺が引き受けてしまった大きな袋を運んでくれた男だ。
「八枚。これで頼む」
思わず懐の銭を意識した。半日働いて、俺たちは二人で十枚なのだ。
「八枚も? やめといた方がよくないですか」
「当たれば十六だぞ。さっきから見てたんだ、今度こそ分かる」
俺と同じことを言っている。
もう一度止めようとした時には、男が豆へ椀をかぶせていた。
董白は笑っていた。
いつからそんな顔をしていたのか分からない。俺が荷運び人を見ている間も、細身の男から目を離さない。
何がおかしいのか訊こうとして、やめた。
菓子を齧っていた時とは違う、意地の悪い笑い方だ。何を見つけたのか知らないが、隣の娘も「見るだけ」では済まなさそうだった。
~
荷運び人は左の椀を選んだ。
「左だな? じゃあ開けるぞ」
「待ってほしい。その椀は、この者が開けてもよいか?」
董白が卓へ寄ると、細身の男は手を止めた。
「誰が開けたって同じだろ?」
「ならば構わぬであろう」
董白は荷運び人へ顔を向けた。
「せっかく八枚も出したのじゃ。自分で確かめたいと思わぬか?」
荷運び人が笑って椀に手をかけた。
「それもそうだな」
男は一瞬黙り、それから肩をすくめる。
「いいとも。外れてたって文句なしだぞ」
持ち上がった椀の下には何もない。
荷運び人が呻いた。董白は空の場所を覗き、細身の男へ顔を向ける。
「どちらが当たりじゃ?」
「こっちだよ。惜しかったな」
男の右手が動いた。
「その椀も、この者に開けさせてほしい」
指が止まる。
「勝負は済んだだろう。もういいじゃないか」
「当たりを見るのは駄目なのか?」
「見せてやるから手を出すな」
「先ほどは触らせたではないか。当たりの椀だけは駄目なのか?」
董白の声は明るい。分からないことを教えてほしいという顔までしている。
しかし男は笑わなかった。
俺も残った二つを見た。どちらにも豆が入っていないなら、男が触らせたくない理由になる。
さっきまで自分の目を疑っていたのに、急に卓の上が怪しく見え始めた。
「いいから退け。子どもが口を挟む遊びじゃねえ」
「では、そなたが開ければよい。ただし先に両手を見せてほしい」
「何だと?」
「何も持っておらぬのであろう? ならば、すぐ済むではないか」
荷運び人が卓へ身を寄せた。ほかの客も黙り、男の手元を見ている。
男は左手を開いた。
「これでいいかよ」
「右もじゃ」
「しつこいな!」
「開けば済むのに、なぜ怒る?」
閉じたままの右手が服の裾へ動いた。その手首を荷運び人が掴む。
「今ここで開けろよ。八枚も出したんだ、見せてもらっていいだろ」
「離せ!」
椅子が鳴った。
俺は董白の腕を引いて下がらせた。何じゃ、と振り返られたが、手を離す気にはならない。あの男が腕を振り回したら、この距離では当たる。
荷運び人は掴んだ手首を離さなかった。周りからも声が飛ぶ。
「持ってないなら見せりゃいいだろ!」
「残りも見せろ。上げるぞ!」
客が二つの椀を持ち上げた。
どちらも空だった。
細身の男の指が緩むと、黒い豆が卓へ落ちた。
ころりと転がる。誰も拾わない。
(……そりゃ、当たらないわけだ)
荷運び人が低い声で訊いた。
「俺は何を選ばされてたんだ?」
董白が俺の隣から口を挟む。
「次は右手も選ばせてやれ。それなら一つは当たりじゃ」
笑い声が上がった。
男が睨むほど笑う者が増える。董白はその顔を眺め、いかにも満足そうに目を細めた。
~
「こいつ、俺からも取ったぞ!」
笑い声はすぐ怒鳴り声に変わった。若者が男の襟を掴んだところへ、女将が駆けつける。
「手を離しな! 銭を返させたいなら、まず座らせるんだよ!」
厨房の女も後ろにいた。椀が空だと騒ぎ始めた時、呼びに行ってくれたらしい。
男は椅子へ押し戻されても、まだ董白を睨んでいた。
「あのガキが余計なことを――」
「豆を隠してたのはあんただろ!」
自分の声に俺が驚いた。
男の目がこちらを向く。怖かったが、もう言ってしまった。董白の腕から手を離し、続ける。
「白のせいにするな。椀の下には何もなかったじゃないか」
「そうだよ。うちの椀を貸したら、とんでもないことをしてくれたね」
女将が男の前へ立ったので、ようやく息がつけた。
男は何か言いかけ、結局、卓の銭を押し出した。
「返しゃいいんだろ。ほらよ」
何人もの手が伸びる。その中で董白の声が通った。
「懐に入れた五枚も出せ。先ほど仕舞うのを見ておったぞ」
「俺の元手だ!」
「ならば、皆に返してから残りを持っていけばよい」
男は舌打ちし、懐からも銭を出した。
「俺は三枚だ!」
「こっちは六枚!」
声が重なり、男もそんなに取っていないと怒鳴り返す。誰かが銭を掴んだら、今度は客同士で揉めそうだった。
「待ってください。一人ずつ確かめましょう!」
入口の卓へ筆を取りに戻ると、手が震えているのが分かった。怒鳴った勢いはもう残っていない。俺は木片も抱えて戻り、女将が押さえている銭の横へ置いた。
まず八枚を置いた荷運び人に自分の分を取ってもらい、次に若者の話を聞く。
「六枚というのは、何度やった分ですか?」
「三度だよ。二枚ずつ」
「お前は一度当てたろうが!」
細身の男が噛みついた。
若者が言い返すより先に、俺は訊いた。
「その時は何枚受け取りました?」
「……四枚」
「それなら、なくなったのは二枚ですね。そこを返してもらいましょう」
若者は口を開きかけたが、卓を見てうなずいた。
「ああ。そうか。二枚だな」
董白が俺の横で木片を覗いている。
「腹が立つのは分かるが、元より増やして帰ろうとするでないぞ」
「分かってるよ。頭に血が上ってたんだ」
一人が受け取って下がると、次の客は自分から出した分と当てた分を話した。俺は書き留め、女将が銭を渡す。記憶の食い違う所では周りの客にも訊いた。
細身の男まで口を出した。自分の銭が減るとなると、いくらでも覚えているらしい。
最後の客が受け取る頃には、俺の手の震えも止まっていた。
女将が残った銭を男へ寄せる。
「持って出ていきな。もううちでは遊ばせないよ」
男は銭を懐へ入れ、董白の前で足を止めた。
「覚えてろよ」
「皆、よう覚えたであろうな。その顔も、椀の遊びも」
董白が周りを見回した。
「ほかの宿でも教えてやるとよい。次は椀を並べただけで笑ってもらえるぞ」
乱暴に戸が閉まった。
俺はすぐには目を離せなかった。董白はまだ笑っている。
「白。あそこまで言わなくてもいいだろ」
「外した者を笑うのは好きなくせに、自分が笑われるのは嫌と見える」
「面白がってる場合か。戻ってきたらどうする」
「その時はあたしを呼びな」
女将が椀を集めながら言った。
「白も、次は先に知らせとくれ。ああいうのは、すぐ手が出るんだから」
董白は少しだけ唇を尖らせた。
「……分かった」
まるで怖がっていない。その横で、俺ばかりが戸の音を気にしていた。
~
昼飯を済ませてから、裏の薪を運んだ。
董白は自分の分を抱えてさっさと歩く。俺も後を追い、ようやく訊きたかったことを口にした。
「いつ気づいたんだ? 豆を手に隠してるって」
「銭が増えると、椀を動かした後で手を拭いておった。それから右手を開かぬのでな」
「椀が濡れてたから拭いてたんじゃないのか?」
「それなら、一枚で遊ぶ時も同じであろう。八枚の時も握ったままじゃったゆえ、怪しいと思うた」
厨房へ薪を下ろすと董白が振り返った。
「客が外した後は、必ず自分で当たりの椀を上げる。あの時に豆を戻しておったのであろうな」
「……俺は、椀ばかり見てた」
「見ておれと言われたからのう」
何でもないように返され、少し黙った。
仕掛けがあるかもしれないとは思っていた。それなのに男が見ていろと言った物を、素直に追っていたのだ。
「銭を出さなくてよかった」
「出すつもりじゃったのか?」
「いや。ただ、今度なら当てられるとは思ってた。あの人と同じだな」
董白は俺を見てから、ふっと笑った。
「思うたところで、銭を出さねば取られぬ。違っておるではないか」
そんなふうに言われるとは思わなかった。
「……そうか」
「それに、銭を返す時も助かった。そなたが話を聞き始めたら、皆ようやく黙ったであろう」
薪を取りに戻る途中で、当たり前のように言う。褒めたつもりなのか確かめたくなったが、やめておいた。
(そこは素直に喜んでおこう)
俺は薪を抱え、隣へ並んだ。
「手を開けって言ってた時は、楽しそうだったな」
「うむ」
「否定しないのか」
「子どもには分からぬ遊びだそうじゃ。どれほど難しいのか、最後まで教えてもらわねばな」
口元がまた緩んでいる。
銭を取り戻してもらった者たちは助かった。だが、それだけであんなに楽しそうな顔をする娘でもない。
「朝の客にも、あれくらい言い返したかったんだろ」
「あの者は、話を聞かずに行ってしまったからのう」
朝の不機嫌はもうすっかり消えていた。
~
夕方、荷運び人が俺たちの卓へ五枚の銭を置いた。
「みんなからだ。取っといてくれ」
「わたしたちにか?」
「ああ。そっちの兄ちゃんにも分けてくれな。銭までちゃんと返させてくれて、助かった」
俺も顔を上げた。礼を言うと、男は照れたように鼻を擦る。
「ただ、できれば八枚出す前に止めてほしかったけどな」
「柳誠が止めたであろう」
「……ああ。止めたな」
男が俺を見たので、困って笑った。
「次は聞くよ。悪かったな」
男は俺たち二人に礼を言って広間へ戻った。董白もその礼には素直にうなずいていた。
董白は残った銭を見ていたが、やがて俺の方へ寄せた。
「しまっておいてほしい。二人の分じゃ」
「ああ。なくしたら大変だ」
書具箱を開ける。ほかの銭に五枚を足したところで、董白が身を寄せて声を落とした。
「……妾が、あの男に言い返せぬと思うたか?」
「思ってない。むしろ言いすぎる方が心配だ」
「では、なぜそなたが怒った?」
手を止めて顔を向ける。
「お前のせいにしたからだろ。聞いてて腹が立ったんだ」
董白は黙った。
自分で言い返せるかどうかは関係なかった。悪いことをしたのは向こうなのに、董白が余計なことをしたからなどと言われたくなかった。
やがて董白が、畳んだ菓子の包みを卓へ置く。
「ついでに、これも頼む」
「捨てないのか?」
「次に買う時に使える。そなた、一つずつ買うと言うたであろう」
「覚えてる。今度は半分にしなくていいな」
「うむ」
包みを受け取ろうとすると、董白は重なった所を丁寧に伸ばしてから渡した。
頬が少し緩んでいる。菓子の約束だけで、そういう顔になったのではない気がした。
俺もそれ以上は訊かず、銭のそばへ包みをしまった。