董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
翌朝、雨は上がっていた。
昨日の騒ぎが嘘みたいに、宿の土間は静かだった。
泊まっていた客の半分は夜明けと一緒に出ていき、竈の前に並ぶ椀も、昨日よりずっと少ない。
俺は朝の粥を食べ終えると、書具箱を抱えて入口へ座った。
董白も隣に立つ。
女将は鍋の蓋をずらしながら、俺たちを見た。
「昨日言った通りだよ。朝の荷物は二人で見な」
「うむ」
「置き場所は勝手に決めない。最後に持ち主と数える。忘れるんじゃないよ」
「分かっておる」
董白の返事は早かった。
昨日、女将から一つの仕事を最初から最後まで任されたのが、よほど嬉しかったらしい。
口には出さないけれど、朝からずっと背筋が伸びている。
とはいえ、仕事が来なければ始まらない。
しばらく待っていると、馬屋の方から車輪の音がした。
昨日みたいな大荷物ではない。
荷車を引いてきた男が一人と、後ろから歩いてきた連れが一人。荷台には布を掛けた木箱と、口を縛った袋がいくつか載っている。
男が入口で足を止めた。
「今夜まで預かってくれ。四つだ」
俺が荷札を取る。
「印は?」
「箱も袋も、横に三本線がある」
荷台を見ると、確かに木箱の横と袋の口近くに、墨で三本線が引いてあった。
一、二、三。
「三つしかないですけど」
「あ?」
男が振り返る。
連れの男も荷台を覗き込んだ。
「ああ、馬屋に一つ下ろした」
「先に言えよ」
「馬が暴れそうだったんだよ」
二人で言い合いながら、馬屋の方を見る。
董白が口を挟んだ。
「その一つも宿へ預けるのか」
「そうだ」
「なら、その一つも持ってきてくれぬか。四つ揃ってから数える」
命令する相手でもないので少しひやりとしたが、男は特に気にした様子もなく、連れへ顎をしゃくった。
「取ってこい」
連れが馬屋へ戻る。
その間に董白は荷台の木箱を見る。
「この箱は濡らして困るか」
「いや。中は鉄の道具だ。袋の一つだけ乾物だから、そっちは雨に当てたくない」
董白は女将へ顔を向けた。
「乾物の袋は軒下でよいか」
「いいよ。ほかは奥の壁際。通路は空けときな」
「分かった」
今度は荷主へ向き直る。
「乾物だけ軒下。残りは奥の壁際だそうじゃ」
「それでいい」
ほどなく、馬屋から四つ目の袋が運ばれてきた。
俺は三本線の印を見てから、四つと書く。
荷物を動かすのは男たち自身だ。
俺と董白は、その後ろについて置き場所を見る。
乾物の袋が軒下へ一つ。
木箱と残り二袋が壁際。
「一つ、二つ、三つ」
董白が壁際を指で数える。
俺も荷札を見る。
「軒下に一つ。合わせて四つ」
荷主にも見てもらう。
男はそれぞれの荷物へ目をやり、最後に頷いた。
「四つある」
それで終わりだった。
昨日みたいに道は塞がらない。
誰も怒鳴らない。
女将も竈から離れなかった。
荷主が馬屋の方へ戻っていくのを見て、董白が小さく息を吐く。
「……これでよいのか」
「よいんじゃないか?」
「昨日より、あっけないぞ」
「毎回揉めたら困るだろ」
「それはそうじゃが」
どうやら少し物足りないらしい。
でも、仕事なんて本当はそのくらいでいい。
問題が起きないなら、それに越したことはない。
次に来たのは、背負い籠を二つ預ける旅人だった。
今度は董白が最初に数を聞く。
俺が印を書く。
女将に置き場所を聞く。
旅人と一緒に二つを見て、置き終わってからまた数える。
それもすぐ終わった。
二件目の旅人は、荷物を預けるとすぐ馬屋へ向かった。
「もう行ってよいのか?」
董白が背中へ声を掛ける。
男が振り返った。
「数は合ったんだろ?」
「合っておる」
「なら、あとは任せる」
それだけ言って、本当に行ってしまった。
董白は少し意外そうに、その背中を見送った。
昨日までなら、女将が手を空けて荷物を見に来るまで、預ける側も運ぶ側も入口で待つことがあった。
今日は誰も待っていない。
数が合って、置き場所が決まっていれば、それで次へ行ける。
三件目は、昼前だった。
小さな包みが三つ。
一つだけ別の客の荷物の横へ置かれかけたが、董白が印の違いに気づいて止めた。
「そちらではない。三本線はさっきの客じゃ。これは丸印であろう」
「ああ、悪い」
運んでいた男が置き直す。
それだけだ。
俺は丸印を三つ書き、持ち主と一緒に数えた。
昨日みたいな騒ぎは一度もなかった。
それでも、気づけば昼になっていた。
俺たちは朝から、女将に「次は何をすればいい」と一度も聞いていない。
女将の方も、途中で一度も竈から出てこなかった。
それでも、預かった荷物は持ち主ごとにまとまり、通路にもはみ出していない。
荷物が来れば数える。
誰のものか聞く。
どこへ置くか、荷主と女将に聞く。
置き終えたら、もう一度数える。
荷主にも見てもらう。
やったのは、それだけだった。
女将が昼の鍋を火から下ろした頃、董白が入口から戻ってきた。
「今の三つで最後じゃ」
「全部見た?」
「持ち主にも数えさせた。三つじゃ」
俺は荷札の束を見る。
朝から三件。
四つ、二つ、三つ。
どれも持ち主と数が合っている。
女将は手を布で拭くと、俺の荷札を上から順に見た。
「置き場所も?」
「一件目の乾物だけ軒下。残りは壁際。二件目は奥。三件目は入口右の棚の下です」
「よし」
女将はそれ以上、荷物を見に行かなかった。
それが少し意外だった。
昨日までなら、最後には自分で見に行っていたはずだ。
董白も同じことに気づいたらしい。
「見に行かぬのか」
「二人で見て、持ち主にも見せたんだろ」
「そうじゃ」
「なら、今日はそれでいい」
董白の口元が、ほんの少しだけ上がった。
昨日は「明日も任せるかもしれない」という話だった。
今日は、実際に任された仕事を最後までやり切った。
女将は銭箱を引き寄せた。
中をかき回し、小銭を何枚か拾う。
一枚ずつ卓へ置いた。
十枚。
「今日の荷受けの分」
董白が卓の上を見る。
「これを、わたしたちに?」
人前なので、一人称だけはきちんと直していた。
「朝と夜の飯、寝床は今まで通りだよ。これは荷受けを最後までやった分」
女将は十枚を俺の方へ押した。
「明日からも、荷が来たら同じようにやりな。数が合わなきゃ、その場で持ち主に言うこと。隠したら終わり」
「隠さぬ」
董白がすぐに答える。
女将は鼻で笑った。
「白はそう言うと思ったよ」
俺は十枚を手に取った。
銭は全部同じ大きさではなかった。
厚いものもあれば、妙に薄いものもある。
縁が少し欠けたものもあった。
でも、十枚は十枚だ。
昨日まで俺たちは、女将に言われた仕事をその都度やっていた。
今日は違う。
荷物が来たところから、持ち主へ全部あると返すところまで。
朝の荷受けは、これから俺たちの仕事になる。
しかも、その分の銭まで出た。
董白が卓の上から十枚を一枚ずつ拾う。
「柳誠」
「ん?」
「昼の飯を買うぞ」
「早いな」
「働いたのじゃ。腹が減った」
朝と夜の飯は宿で出る。
昼は別だ。
十枚全部を使う必要はないだろうけれど、初めてもらった仕事代で何が買えるのかは、俺も知りたかった。
書具箱を置き、女将へ声を掛けてから、二人で宿を出た。
道は昨日の雨でまだぬかるんでいた。
水場の前を通る。
阿慶は水場番の近くで縄を巻いていたが、俺たちを見ると手だけ上げた。
董白も軽く手を上げる。
それだけで通り過ぎた。
宿場の端に、粟や豆を売る店が並んでいる。
大きな店ではない。
布を張っただけの軒先に袋が積まれ、前には木の量りが置かれていた。
俺たちの前に、荷運びらしい男が一人いた。
男は腰の袋から銭を出す。
店の主人が卓の上で数えた。
「十枚だな」
主人は銭を脇へ寄せると、木の量りへ粟を入れた。
縁近くまで入れ、表面を指でならす。
それを男の袋へ落とした。
男は受け取ると、そのまま行ってしまう。
董白が俺を見る。
「今のくらいあれば、昼には足りるであろう」
「たぶん」
俺たちの番になる。
十枚を卓へ置いた。
「粟をください」
主人は返事をしながら銭を数え始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
途中で手が止まる。
一枚をつまみ上げ、横から見る。
次の一枚も持ち上げる。
主人の眉が寄った。
「これ、どこでもらった」
「宿の仕事代ですけど」
「宿か」
主人は十枚を二つに分けた。
六枚と四枚。
四枚の方は、さっきの男が出した銭より明らかに薄い。
主人は、そのうち一枚と、さっき受け取った厚い銭を一枚ずつ摘まんだ。
二枚を重ねる。
横から見れば、違いは俺にも分かった。
同じ一枚なのに、薄い方は頼りないくらい細い。
「十枚なら、さっきと同じではないのか」
董白が聞く。
主人は首を振った。
「数はな」
「数は?」
「こっちはまだいい。こっちの薄いのは、そのまま一枚じゃ取れねえよ」
董白の目が細くなる。
「銭であろう」
「銭だよ。だから受け取りはする」
主人は薄い一枚を卓へ置いた。
「けど、俺がこれを次の商人へ持っていっても、重い銭と同じには取ってくれねえ。俺だけ同じ量の粟を出したら、次で俺が損する」
言いながら、主人は木の量りへ粟を入れた。
さっきの男より、明らかに少ない。
縁まで届かない。
董白が量りと、卓の十枚を見比べる。
「待て」
主人の手が止まる。
「さっきの男も十枚であった」
「だから、あっちは厚い銭だったんだよ」
主人は面倒そうに言った。
「こっちの薄いのは長安から流れてきたやつだ。董太師が出させた銭だよ。字まで潰れてるだろ」
董白の指が止まった。
俺も銭を見る。
確かに、何が書いてあるのかほとんど分からないものがある。
董卓がどんな銭を出したかなんて、俺のうろ覚え三国志には入っていない。
ゲームじゃ、こんなところまで教えてくれなかった。
主人は董白の顔色には気づかず、量りを指した。
「嫌なら銭は返す。これで買うなら、この量だ」
董白はしばらく何も言わなかった。
「……それでよい」
低い声だった。
主人が粟を小さな袋へ移す。
受け取ると、思っていたより軽かった。
店を離れてからも、董白は何も言わない。
宿場の人通りが少なくなったところで、ようやく口を開いた。
「柳誠」
「うん」
「先ほどの男は、祖父様が出させた銭だと申したな」
「そう言ってた」
「妾は知らぬ」
董白は手に持った粟の袋を見る。
「祖父様が銭を出したことも、その銭で飯が減ることも」
「俺も知らなかったよ」
「そなたもか」
「ああ。そんなところまで知らなかった」
董白は少しだけ黙った。
祖父を悪く言われれば、少し前までならすぐ怒っていた。
今も腹は立っているのだと思う。
でも、粟売りへ戻って怒鳴ろうとはしなかった。
あの男も、自分が次で損をするから量を減らしただけだ。
董白は袋を両手で持ち直した。
袋の底に溜まった粟が、歩くたびに小さく鳴る。
朝、十枚を卓へ並べてもらった時には、董白はあんなに嬉しそうだった。
今は、その十枚を全部渡した後の袋だけを見ている。
「仕事はした」
「ああ」
「女将も払った」
「払ったな」
「じゃが、飯は減るのじゃな」
「……そうなる」
「気に入らぬ」
それだけ言って、董白は歩き出した。
俺も横に並ぶ。
朝にもらった十枚は、もう一枚も残っていない。
代わりに持っている粟は、さっき同じ十枚を出した男より少なかった。
仕事は残った。
明日も、荷物が来れば俺たちの仕事になる。
でも、同じ十枚で同じだけ食べられないなら、仕事をもらっただけでは冬まで安心できない。