董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
昼の椀を洗い終えた頃には、女将もようやく腰を下ろしていた。
厨房の戸口で草鞋を脱ぎ、足の裏を揉んでいる。俺は洗った椀を棚へ戻してから、もう拭いたはずの手を布で拭いた。
「……そなたから話すのであろう?」
横から董白に言われた。
「分かってる。今、行くところだ」
「さっきもそこに立っておったぞ」
(見てたのかよ)
布を置いて女将の前へ行く。昼が済んだら相談しようと言い出したのは俺だ。これ以上待っても頼みやすくなる気はしなかった。
「女将、朝の仕事代のことで相談があるんですが」
「どうしたんだい?」
「一部を粟で貰うことはできませんか。銭を貰ってから買いに行くより、その方が助かるので」
女将の手が止まった。
「今朝の買い物で懲りたかい」
「……はい。あれだけあれば、と思って行ったんですが」
「うちも似たようなもんだよ。銭を数えて出したのに、まだ足りないって言われるんだからね」
女将は裸足の爪先を動かしてから厨房を振り返った。奥には宿で使う粟の袋が積んである。
「粟で渡すのは構わないよ。全部かい?」
「いえ。銭も少しは残したいんです」
ここまでは言えた。いくら頼もうかと迷ったところで、董白が俺の隣へ来た。
「あの椀で二杯と、銭を五枚ではどうじゃ?」
指した先には量り用の椀があった。女将はそれを見るなり首を振った。
「二杯も持っていくなら、銭は四枚だね」
「む……」
董白が口を閉じた。俺は棚の椀へ目を向ける。
今朝の店では十枚で三杯だった。ただ、あちらの椀はもう少し浅かったような気がする。昨日までなら杯数だけで比べていたところだ。
「その椀を見せてもらってもいいですか?」
「ああ、取っておくれ。そこの茶色いのだよ」
手に取ると見た目より深かった。董白も横から覗き、俺の持つ椀の縁を指でなぞった。
「毎回、これで量ってもらえるのか?」
「そうだよ。うちではそれを使ってるからね」
董白と目が合った。俺がうなずくと、少女も小さくうなずき返す。
「では、二杯と四枚でお願いしたい」
「明日の分からだよ。今日はもう渡したからね」
「はい。ありがとうございます」
思っていたよりあっさり話が決まった。もう少し何か言われる気がして立っていると、女将が俺たちを交互に見た。
「ほかにもあるのかい?」
「いえ、それだけです」
「なら、あたしは少し休むよ。白、明日は袋を持ってきておくれ」
「うむ」
女将は壁へ背を預けた。俺たちが戸口を空けると、ふう、と長い息が聞こえた。
庭へ出てから、俺も息をついた。
「もっと難しい顔をされるかと思った」
「そなたはしておったぞ」
「……そんなにか?」
董白は真似をするつもりなのか、眉を寄せて口を引き結んだ。
「そこまでじゃなかっただろ」
「似ておると思うがのう」
言い返す顔が緩んでいる。俺も笑ってしまった。
飯も寝床も世話になっているのに、仕事代にまで注文をつけるのはどうなのか。口に出すまでは気になっていた。女将にとっては、休む前に済ませる話の一つだったらしい。
入口の卓へ戻りながら董白に訊いた。
「五枚って言ったのは、四枚に減らされると思ってか?」
「五枚欲しかったからじゃ」
即答だった。
「……そうか」
「何じゃ。その顔は」
「何か考えがあるのかと思って」
「あるぞ。四枚より一枚多い」
「そりゃ、俺にも分かる」
董白は不満そうに鼻を鳴らしたが、すぐに厨房の方を見た。
「まあ、あの椀で二杯ならよい。明日は忘れずに貰うぞ」
「ああ。袋を持っていかないとな」
買ってきた粟の袋を荷物のそばへ寄せた。
明日ここへ二杯足せる。店に行ってから減らされる心配をせずに済むのが、今は何よりありがたかった。
~
翌朝、麦の袋を載せた荷車が宿の入口で止まった。
俺は荷主から預かった札を読み、荷台の袋と見比べた。六つ。数は合っている。控えにも書き終わったが、運び手がなかなか担ごうとしない。
「だから三枚だよ。奥へ入れるだけだろう?」
女将が差し出した銭を、男は受け取らなかった。
首に巻いた赤い手拭いで汗を拭い、掌の三枚を指す。
「枚数の話は聞いたよ。その薄さじゃ足りないって言ってるんだ」
「いつも三枚で頼んでるんだけどねえ」
「俺も昨日までは三枚でやったさ。帰りに粟を買ったら、まるで足りなかったんだぞ」
俺は筆を置いた。
昨日の店先を思い出す。買えるつもりでいた物が買えない腹立たしさは、よく分かった。
「あと一枚。そしたらやるよ」
女将は返事をせずに銭を握った。
その一枚くらい、と思いかけて口をつぐむ。出すのは俺ではない。荷物が来るたびに同じ話になれば、女将だって困るだろう。
荷主が荷台の縄を緩めながら、まだかい、とこちらを見た。通りを来た別の車も宿の前で速度を落とす。
置く場所も運ぶ人もいるのに、麦が入口を通らない。
「決まらないなら船着き場へ行くよ。向こうも人が足りないそうだしな」
男が踵を返しかけた時、厨房から董白が顔を出した。
「粟ならどうじゃ?」
男が振り向く。
「ここで貰えるのか?」
「女将、わたしたちのように粟で渡してはどうじゃ。買うつもりであれば、その方がよかろう」
董白に言われ、女将は握っていた銭を懐へ戻した。
「粟でいいなら待っとくれ」
厨房へ戻り、昨日の椀を持って出てくる。
「これで一杯。六つとも中へ入れてもらうよ」
男は椀を受け取ると、しばらく内側を眺めた。それから荷台へ目を戻す。
「奥って、どこまでだい?」
「こちらです。板を敷いてある所へ」
俺が案内すると男もついてきた。入口からそう離れてはいない。脇に置かれていた空の籠を寄せる間に、男は荷車まで振り返った。
「運び終えたら、その場で貰えるんだな?」
「ああ。待たせないよ」
「なら、それでいい」
男が袖をまくった。荷主もようやく手を止め、荷車の横を空ける。
一つ目が肩へ担ぎ上げられた。俺は戸を押さえ、袋が引っかからないよう外へ大きく開いた。
「白、数を見てておくれ。終わったら呼ぶんだよ」
「分かった」
女将が厨房へ戻ると、董白は板のそばへ立った。どさりと麦が置かれる。男はすぐに二つ目を取りに行った。
「昨日のうちに相談しといてよかったな」
戸を押さえたまま言うと、董白がこちらを見た。
「女将も、あれならよいと分かっておるからの」
次の袋が来て、董白が一歩下がった。男はそれを最初の袋に並べて置く。
男が三つ目を担いで戻ってきた。袋の端が戸へ触れそうになり、俺はもう少し外へ押し広げる。ゆうべ直してもらった袖口は、手を上げてもどこにも引っかからなかった。
六袋目が置かれると、董白が女将を呼びに行った。
男は肩を回しながら腰の袋を外した。女将が椀へ粟をすくい、開かれた袋へ注ぐ。
「こぼすんじゃないよ」
「そこまで手は疲れてないって」
男が笑った。さっきまであれほど機嫌の悪かった口から、冗談が出た。
受け取った粟を確かめると袋の口を結び、腰へ戻す。
「これなら帰りに店へ寄らずに済む。じゃあ、またな」
「ああ、助かったよ」
女将は椀を持って戻っていった。荷主へ札を返すと、空になった車を押して出ていった。
男がその後に続こうとしたところで、董白が呼び止めた。
「次も粟で頼めるか?」
「今日くらい貰えるならな。ただ、先に仕事が入ってたら来られないぞ」
「それは構わぬ。これから船着き場へ行くのじゃな?」
「ああ。昼までは麦を積んでるよ」
男は赤い手拭いを首へ掛け直して出ていった。
俺は卓へ戻り、控えの空いた所へ書き足した。赤い手拭い、船着き場。
そこで筆が止まる。
「……名前を聞いてなかった」
董白も通りを見たが、男はもう角を曲がった後だった。
「次に訊けばよい。顔は覚えた」
「俺も覚えたつもりだが、手拭いを替えられたら自信がないな」
「妾がおるであろう」
隣から控えを覗き込む顔が得意げだった。
「じゃあ、その時は頼む」
「うむ」
俺は名前を書こうとしていた場所を空けておいた。
~
朝の荷物を片づけてから、俺たちも袋を持って厨房へ行った。
女将はそれを見ると、何を言うより先に棚の椀を取ってくれた。
一杯、二杯。
昨日買った三杯の上へ粟が落ちる。袋を持つ手に重みが加わり、思わず持ち直した。
「持てるかい?」
「はい。大丈夫です」
「そっちは白が受け取っておくれ。四枚だったね」
董白が銭を受け取ってうなずいた。
俺は袋の口を結びながら中を見た。これだけあればどれくらい食えるだろう。二人分を炊いて、残りを取っておいて――。
「何じゃ。もう食うつもりか?」
「取っておくって。ちょっと考えてただけだ」
「ずっと覗いておるから、腹が減ったのかと思うたぞ」
女将にまで笑われた。俺は苦笑して結び目を締める。
「嬉しいんですよ。昨日は袋に入る前に減りましたから」
「ああ、三杯になったんだったね。こっちは約束どおりだよ」
「はい。ありがとうございます」
去りかけると、女将が董白を呼び止めた。
「白、さっきの男はまた来てくれるんだね?」
「ほかの仕事が決まっておらねばな。粟で構わぬとは言うておった」
「そうかい。ああやって揉めてると、あたしも手が止まるんだよ。ほかにも粟でいいって者がいれば助かるんだけどね」
「会うた時に訊いておこう。銭の方がよい者もおろうから」
「頼むよ。ただ、いくら渡すかは先にあたしへ訊くんだよ。どの荷物も一杯ってわけにはいかないからね」
「うむ。勝手には決めぬ」
女将はうなずき、洗い場へ戻っていった。
俺たちも厨房を離れる。董白は手の中の銭を一度数え直してから、俺へ差し出した。
「ちょっと待ってくれ。先に袋を置く」
荷物のそばへ戻り、粟を置いてから銭を受け取った。四枚とも昨日の残りと一緒にしまう。
董白は袋を両手で挟み、中の粟を寄せていた。
「ずいぶん増えたな」
「これで明日、仕事がなくても食える分はある」
「明日もある方がよいぞ」
「そりゃな。なくなってほしいわけじゃない」
二人で笑った。
明日の仕事も明後日の仕事も、必ずあるとは言ってもらえない。それでも袋の底に少ししかなかった粟が、今日はここまで増えた。昨日買っておいてよかったし、女将に頼んでよかった。
董白が結び目から手を離した。
「だが、そろそろ袋は返さねばな」
女将に借りた物だった。中身を出さなければ返せないが、出した粟をしまう物がない。
「自分たちのを買うか。また出費だな」
銭をしまったばかりの箱を見てしまう。董白は俺の視線を追ってから首を傾げた。
「袋くらいなら縫えるぞ。布があればの話じゃが」
「作れるのか?」
「これより難しい物は、ゆうべ縫うた」
俺の袖口を指した。
見下ろすと、ほつれていた所が細かい縫い目で閉じられている。朝は礼を言ってすぐ着たが、明るい所で改めて見ると随分きれいだった。
「これ、今日は一度も引っかからなかった。助かったよ」
「当たり前じゃ。引っかからぬように縫うたのだからな」
そう言う声が少し弾んだ。董白も縫い目を見てから満足そうにうなずく。
俺は袖へ指を添えた。
「袋を縫う時、俺にも教えてくれないか」
「そなたが?」
「自分でも直せた方がいいだろ。ほつれるたびにお前を待つのも悪いし」
「妾がやれば早いぞ」
「最初はそうだろうな。でも、やらなきゃずっとできないままだ」
董白は俺を見た。断られるかと思ったが、もう一度袋へ目をやる。
「……では、今夜やってみるか?」
「ああ。頼む」
「袖から始めるよりはよかろう。袋なら真っ直ぐ縫えば済む」
それを聞くと俺にもできそうな気がしてきた。学校で縫った時は、真っ直ぐのつもりでも少しずつ曲がっていたが。
(まあ、服よりはごまかせるだろ)
「ただし、目を粗くするでないぞ。粟がこぼれる」
「……そこはごまかせないか」
「何をする気じゃ」
「まだ何もしてないって」
董白が呆れた顔で俺を見た。笑いながら袖を下ろし、今度は袋の大きさを確かめる。
せっかく作るなら今の物より少し大きくしたい。明日の二杯も入るし、その次の分も貯めていける。
「布はどこで買うんだ?」
「買う前に女将へ訊いてみよう。古い布が残っておるかもしれぬ。破れた所を避ければ使える」
「そうか。じゃあ俺から頼んでみる」
「うむ。針を買った時の糸もまだある」
董白は書具箱のそばの小さな包みへ手を伸ばしかけ、厨房から呼ぶ声に顔を上げた。
「あとは夜じゃな」
「ああ。仕事を片づけてからだ」
「針は一本しかないでな。なくさぬようにせよ」
「分かってる。なくしたら、お前も縫えなくなるもんな」
「妾の隣で縫えばよい。落としてもすぐ拾える」
「落とす前提かよ」
董白は笑って厨房へ戻っていった。
俺は袋を棚の奥へ寄せ、広間へ向かった。今夜の仕事が一つ増えたのに、少し楽しみだった。