董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
宿へ戻るまで、董白は粟の袋をずっと自分で持っていた。同じ十枚を渡したのに、さっきの男が受け取った量より少ない。宿の土間へ入ると、女将が袋を見ただけで眉を寄せた。
「少ないね」
「同じ十枚じゃった」
董白が袋を卓へ置く。
「じゃが、薄い銭が混じっておるから、この量だと言われた」
女将は驚かなかった。
「そんなもんだよ」
「知っておったのか」
「商売してりゃ嫌でもね」
女将が竈へ戻ろうとした時、入口から男が一人入ってきた。朝、女将に頼まれて、客の荷物を馬屋まで運んでいた男だ。
「女将、さっきの分」
「ああ」
女将が銭箱から小銭を何枚か出し、卓へ置いた。男は一枚ずつ並べ直した。一枚を指で弾く。
次の一枚を横から見る。
「また薄いのか」
「今あるのはそれだよ」
男は薄い銭を二枚、卓の端へ押し分けた。
「これじゃ、枚数が同じでも買える粟は減る」
「嫌なら明日の分は頼まないよ」
女将もあっさりしている。男はしばらく銭を見ていたが、結局拾った。
「今日はもらう。明日はほかの荷運びがあれば、そっちへ行く」
「分かったよ」
男はそれだけ言って出ていった。董白がその背中を見る。
「……わたしたちだけではなかったのじゃな」
「そりゃそうだろうね」
女将は鍋の蓋を持ち上げた。
「薄い銭でもらって困るのは、あんたらだけじゃないよ」
董白は、卓の少ない粟と銭箱を見比べた。俺は、明日から厚い銭だけで払ってもらえないかと考えた。けれど、それでは女将の手元から厚い銭ばかりなくなる。
董白が先に口を開いた。
「なら、仕事代を銭にせねばよい」
女将の手が止まった。
「何で払うんだい」
「粟じゃ」
董白は、持ち帰った小さな袋を指した。
「仕事一回で、宿の量り一杯。これを一回分にする」
「でも、客は薄い銭でも払ってくるよ」
董白は、卓の小さな粟袋を見た。
「その時は、薄い分だけ宿が出すものを減らせばよい」
「例えば?」
「飯なら、同じ十枚でも少し減らす。さっき粟売りがしたのと同じじゃ」
女将は少し考えた。
「宿が受け取る時に、薄い銭を厚い銭と同じには扱わないってことかい」
「うむ」
董白は頷いた。
「そうすれば、宿だけが損を引き受けずに済む。働いた者へ渡す一回分は、毎回同じにできる」
女将の口元が少し上がった。
「そこまで考えてたのかい」
「今、考えた」
「大したもんだね」
董白は当然のような顔をした。俺は二人の話を聞きながら、まだ少し引っかかっていた。
「でも、仕事が終わるたびに粟を量るんですか?」
「それじゃ、あたしの仕事が止まるね」
女将は鍋から目を離さなかった。董白も頷いた。
「先に、今日の仕事代にする分を別にしておけばよい」
女将は棚の下から小さな袋を一つ出した。宿でいつも使っている木の量りを取り、大きな粟袋から三回すくって小袋へ移す。
「まず三回分。なくなったら、次を出すかはあたしが決めるよ」
「それでよい」
女将は小袋の口を縛り、厨房の大きな粟袋から離して卓の下へ置いた。
「こっちは仕事代の分。厨房の粟袋へ勝手に手を出したら、この試しはそこで終わりだからね」
そこへ、縄仕事を終えた阿慶が入ってきた。卓の下の小袋を見つけ、すぐに覗き込む。
「それ、何の粟?」
董白が小袋を指した。
「仕事をした者へ払う分じゃ」
「銭じゃないの?」
董白は卓の薄い銭を指した。
「阿慶。そなたが仕事をして、十枚もらったとする」
「うん」
阿慶は指を折り、十まで数えた。
「その十枚に薄い銭が多ければ、同じ十枚でも買える粟は少なくなる」
「うん……?」
まだ分かっていない顔だ。女将が銭箱から厚い銭と薄い銭を一枚ずつ出し、卓へ置いた。董白はその横へ、木の量りを置く。
「では、仕事一回で、いつもこの量り一杯をもらえるなら?」
阿慶は量りを見る。
「いつも同じだけ?」
「そうじゃ。銭を間に挟まぬから、薄い銭が何枚混じるかは関係ない」
阿慶は今度は女将を見た。
「でも、女将さんは薄い銭をもらうんでしょ?」
「客から受け取る時に合わせる」
董白は薄い銭を指で弾いた。
「薄い銭なら、客へ出す飯を少し減らす。厚い銭なら、いつもの量を出す。そうすれば、働いた者へ渡す一回分は減らさずに済む」
阿慶は薄い銭、量り、小袋の順に見る。
「客に出す飯を変えて、仕事する人には同じだけ?」
「そうじゃ」
阿慶は小袋へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「じゃあ、仕事したら、すぐ粟をもらうの?」
「仕事のたびに粟を量れば、女将の手が止まる」
女将は鍋の蓋をずらし、湯気を逃がした。
「じゃあ、どうするの?」
「後で粟と換えられる木片を持たせる」
董白が俺の書具箱を見る。
「柳誠」
「はいはい」
「その木片を作れ」
俺も、そこでようやく話に追いついた。書具箱を開き、使い終えた荷札の中から、裏が空いた木片を三枚選ぶ。
名前。仕事。粟一回分。日付。番号。
そこまで書いて、一枚目を董白へ見せた。
「こんな感じ?」
董白が受け取る。目を細める。
「小さい」
「書くことが多いんだよ」
董白は木片を目元へ寄せた。
「だから小さく書くのか」
「そう」
董白が阿慶へ木片を差し出した。
「阿慶。これで何の仕事か分かるか」
阿慶は表を見る。裏返す。また表を見る。
「分かんない」
即答だった。
「一文字も?」
「うん」
俺は三枚を表へ返し、卓の上へ並べた。
「じゃあ、水の仕事って書いたのはどれ?」
阿慶は三枚を順に見て、一枚を指した。
「これ?」
「それ、薪って書いたやつ」
「分かんないよ。どれも同じに見えるもん」
董白が横で吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
「笑うなよ」
「笑っておらぬ」
「そうだよな……」
分かってはいた。阿慶は字を読めない。細かく書いても、使えるのは俺だけだ。
董白が三枚を手元へ寄せた。
「そなたには違って見えるか」
「木が違う」
董白の眉が寄る。
「そこではない」
「こっちは角が欠けてる。これは白い筋がある」
董白が俺を見る。
「字ではなく、木の傷を見ておるぞ」
「いや、それじゃ何の仕事か分からないだろ」
ちょうど、さっきの男とは別の荷運び人が宿へ入ってきた。肩には濡れた縄を掛けている。女将が呼び止めた。
「ちょっと手ぇ貸しな。試したいことがある」
男は嫌そうな顔をした。
「長いならやらんぞ」
「長くないよ」
俺が書いた木片を一枚渡す。
「仕事が終わったら、この木片を渡します。あとで宿へ持ってくれば、粟一回分と換えるつもりです」
男は木片をつまんだ。
「これが何の分か、俺には分からんぞ」
「名前と仕事が書いてあります」
男は木片を目の前へ寄せた。
「読めん」
「あ」
阿慶だけじゃなかった。男は木片を裏返した。
「それに、こんなの濡れた手で持ったら消えるぞ」
そう言って、試しに指先で墨の端をこすった。まだ乾ききっていなかった線が、薄く伸びる。俺は木片を取り返した。
自分では、かなり分かりやすく作ったつもりだった。必要だと思ったことは、全部書いた。でも、持つ人が読めない。
濡れた手なら字まで消える。董白が、墨の伸びた木片を覗き込む。
「駄目じゃな」
「そんなきっぱり言わなくても」
董白は墨の滲みを指先で示した。
「駄目なものは駄目じゃ」
「俺も今分かったよ」
「なら、直せ」
簡単に言ってくれる。俺は三枚の木片を見る。
「字を減らす?」
「読めぬなら、減らしても同じであろう」
阿慶が横から木片を取った。
「水の桶なら、丸とかじゃ駄目?」
「丸?」
「桶は丸い」
阿慶が指で空中へ丸を描く。
「薪なら、こう」
今度は縦に三本指を立てる。荷運び人も覗き込んだ。
「荷物なら四角でいいんじゃないか」
「でも、同じ仕事が何人かいたら?」
「端を切れば?」
男は木片の縁を爪でなぞった。
「一つ切るとか、二つ切るとか。字よりは触れば分かる」
董白が木片を俺から取る。
「柳誠。大きく書け」
「何を?」
董白は三枚の木片を、俺の前へ押し戻した。
「仕事だけじゃ。水なら丸。薪なら三本。荷物なら四角」
「番号は?」
「裏に小さく残せ。そなたが読む分じゃろう」
それなら分かる。全部を木片一枚で説明しようとしていた。でも、持っていく人に必要なのは、自分の木片だと分かることだけだ。
番号は、宿の控えと合わせるために小さく残せばいい。俺は最初の三枚を脇へ置いた。新しい木片を三枚出す。
一枚目に、大きな丸。二枚目に、縦線を三本。三枚目に、大きな四角。
縁には一つ、二つ、三つと切り込みを入れた。裏には小さく番号だけを書く。
「これなら?」
阿慶が三枚を見比べる。
「分かる」
「本当に?」
「うん」
もう一度、俺が三枚を混ぜる。阿慶は今度は迷わず一つを取った。
「丸。一つ切れてる」
次に三本線を取り、最後に四角を取った。字は一つも読んでいない。それでも、さっきよりずっと早かった。
荷運び人も一枚取り、指で切り込みをなぞった。
「これなら濡れても、切ったところは消えんな」
女将の声が竈の向こうから飛んだ。
「で、終わったって決めるのは誰だい」
俺の手が止まった。また一つ抜けていた。木片を作っただけでは、仕事が終わったかどうかは決まらない。
「俺が確かめに行く?」
言った瞬間、自分で違うと思った。俺が全部を確かめに回ったら、荷札を書く手が止まる。また朝じゅう水場に張りつくことになる。
水場番は道の向こうで、杖を膝へ置いて座っていた。阿慶が道の向こうへ顔を向けた。
「ばあちゃん。桶を担いで水場を出るとこ、見てるよね?」
水場番が杖を持ち上げる。
「見てるよ。宿へ着いたかは知らないけどね」
董白が宿の大甕を指した。
「宿へ着いた桶は、わたしが確かめる。大甕へ空けるところまでじゃ」
女将が首を振った。
「あんたが全部確かめに回っちゃ駄目だよ。荷受けがあるだろ」
董白がむっとする。
「なら、宿へ届いた荷物や薪は?」
「その時に入口にいる者でいい。あたしか、下働きか、白か。誰も確かめていない仕事には、木片を渡さない」
董白は入口と竈へ目をやった。
「誰でもよいのか」
「誰でもじゃないよ。終わったところを、その場で確かめた者だ」
女将は木片を指した。
「今は顔の分かる連中だけ。別にした粟の分を超えて、木片を出すんじゃないよ」
董白は反論しなかった。あとは、誰へどの番号を渡したかを、控えへ書けばいい。俺は控えの上へ今日の日付を書き、その下へ三枚の番号を書いた。
丸、一。三本、二。四角、三。
木片を渡す時に、その横へ受け取る相手の名を書き足す。
~
昼を少し過ぎた頃、最初の一枚が出た。さっき試しに付き合ってくれた荷運び人が、女将に頼まれて宿の裏へ薪束を運んだ。女将が薪束の置き場所を確かめて頷く。
俺は男に名を聞き、控えの番号二へ書き足してから、木片を渡した。男はすぐに懐へ入れた。
「今もらっていかないのか?」
「このあと別の荷運びがある。帰りに寄る」
男は木片を懐の奥へ押し込み、空いた両手で担ぎ棒を持ち直した。董白の目が、男の懐へ向いた。
「失くしたら?」
「その時は俺が損する」
董白は口を結んだままだった。
「ほかの者へ渡すでないぞ」
「誰がこんな一回分を売るんだ」
男は笑い、そのまま行ってしまう。董白は呼び止めなかった。木片を渡した以上、粟を受け取るまで宿へ引き留める理由はない。
二枚目は、女将に頼まれて、水場から宿の桶を運んだ男だった。水場番は、男が満ちた桶を担いで水場を出るところまで見届けた。宿では、男が大甕へ水を空けるところを董白が確かめた。
俺は男の名を聞き、控えの番号一へ書いてから、丸印の木片を渡した。
「明日の朝でもいいのか?」
女将が指を一本立てた。
「明日まで。ほかの奴に渡しても出さないよ」
「分かった」
男も木片を持って去った。三枚目の木片は、まだ宿に残っている。卓の下には、今日の仕事代として別にした粟がある。
そのうち二回分は、もう木片を持って出ていった二人へ約束した分だ。二人はもうここにはいない。それでも、誰へ何を約束したかは宿に残っていた。
俺の控え。女将が分けた粟。阿慶でも見分けられる大きな印。
最初に俺が細かく書いた三枚は、使われないまま書具箱の脇に置かれている。董白がそれを一枚つまんだ。
「捨てぬのか」
「失敗したのも残しとく」
董白は木片の細かな字を見た。
「何のためじゃ」
「次にまた細かく書きたくなった時に見返す」
董白が笑った。
「そなたなら、またやりそうじゃな」
「否定できない」
董白は使われなかった木片を戻した。その横には、まだ渡していない三番の木片。あとは、二人が戻ってきた時、それぞれが持つ木片を、本当に約束した一回分の粟へ換えられるかどうかだった。