董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
朝、女将は昨日と同じように量りで三杯を器へ移した。
「今日も三杯。使わなかった分は夕方に戻しな」
「うむ」
董白は器を受け取ると、まず棚の端を見た。昨日の昼に残した粟が、小さな袋の底に入っている。今朝、その隣へもう一つまみ足したところで、まだ底が見える程度しかない。
「重くなったか」
「一日分だけな」
董白が指を二本立てた。
「昨日と今朝で二日じゃ」
「訂正します」
董白は満足そうに器を抱えて、軒下へ出ていった。
その日は朝から荷が続いた。荷車が一台着いて、話をしているうちに次が入る。俺が入口で荷主から話を聞いている間、董白は奥で置き場所を見ることになった。昨日までは二人で一つの荷を見ていたが、今日は分かれている。その方が早いからで、女将も何も言わなかった。
~
三台目の商人は、荷を三つ持ってきた。麻の包みが二つと、蓋のない籠が一つ。どれも横に二本線の印がある。
「包みは奥へ入れてくれ。籠は軒下でいい」
「軒下ですか」
「昼前に別の荷車が取りに来る。奥まで入れると、また出す手間になるだろう」
俺は荷札に、二本線、三つ、と書いた。その下へ、包み二つは奥、籠は軒下、昼前に引き取り、と書き足す。
商人が三つを軒下へ下ろしている間に、俺は次の客へ呼ばれた。入口の卓には別の荷札が積まれている。
董白へ伝えようと思った。思っただけで、手は次の荷札を取っていた。
~
四半刻ほどして、奥から董白が戻ってきた。
「柳誠。二本線の包みは壁際へ入れた。男を一人頼んで、一杯出した。荷主にも数えさせた」
「うん」
董白は器を卓へ置いて、両手を払った。
「ついでに籠も入れた」
荷札を持つ手が止まった。
「籠も?」
「軒下に転がしてあった。あれでは裏口が塞がるであろう」
董白は当たり前のような顔をしている。荷を奥へ入れるのは、この宿では正しいことだ。今朝の籠だけが違った。
「昼前に別の荷車が取りに来るって言われてる」
董白の顎が下がった。
「……聞いておらぬ」
「俺は聞いた」
「なら、なぜ言わぬ」
「言おうとしたら次の客が来たんだよ」
「言うてから行けばよかろう」
「白だって、動かす前に一言聞けばいいだろ」
「奥はわたしが見ると決めたであろう」
声が大きくなったところで、竈の方から女将が顔を出した。俺たちは同時に口を閉じる。
籠は戻さないといけない。俺が奥へ行くと、二本線の籠は壁際の包みの横に収まっていた。持ち上げてみたが、俺一人では抱えきれず、董白と二人でも無理だった。
董白が軒下から男を一人連れてきた。朝に一杯もらっていった男だ。
「すまぬ。もう一度、これを軒下まで戻してくれぬか」
男は籠と董白を交互に見た。
「さっき奥へ入れたやつだろ」
「そうじゃ」
「戻すのか」
董白は籠から目を逸らさずに答えた。
「戻す」
男は何も言わずに籠を担いだ。軒下へ置くと、董白の方へ手を出す。董白は器から一杯すくって、男の袋へ入れた。同じ籠を同じ道で戻しただけでも、一仕事は一仕事だ。
男が行ってから、董白は器の中を覗いた。朝は三杯あった。奥へ入れるのに一杯、軒下へ戻すのに一杯。同じ籠を同じ道で往復させただけで、二杯が消えている。
残りは一杯だった。今日の分は、それで終わりということになる。
~
昼前、本当に別の荷車が来て、籠を積んで行った。その荷車が見えなくなってから、女将が竈の前で口を開く。
「柳誠」
「はい」
女将は鍋から目を上げなかった。
「今朝、荷主から何を聞いた」
「包みは奥、籠は軒下、昼前に引き取りです」
「白は」
董白は器を持ったまま答えた。
「軒下の籠が邪魔だと思った」
女将は鍋を混ぜる手を止めない。
「柳誠が入口で聞いたことを、白が知らない。白が奥で動かしたことを、柳誠が知らない。それじゃ仕事が増えるだけだよ」
それだけだった。長く叱られる方がまだ楽だったと思う。女将は器の残りを見て、一言足した。
「昼からの荷は一杯しか頼めないね」
董白の指が器の縁を掴んだ。
「……足さぬのか」
「今日の分は三杯だよ。往復に二杯使ったのはあんたらだ」
董白は何も言い返さなかった。器を抱えたまま、しばらく軒下の方を見ている。
~
土間の端で、董白が座り込んだ。俺も横へ座る。
「柳誠」
「うん」
董白は膝の上で指を組んでいる。
「今日のは、わたしが悪い」
「半分な」
董白が顔を上げた。
「半分か」
俺は膝を伸ばして、入口の方へ足を投げ出した。
「聞いたのを言わなかったのは俺だ。動かす前に聞かなかったのは白だ。半分ずつだろ」
董白は少し考えてから頷いて、立ち上がった。
「では、決める」
指を一本立てる。
「入口はそなた。奥はわたし」
もう一本。
「そなたが荷主から聞いたことは、わたしへ言う」
三本目。
「わたしが置き場所を変えたい時は、先にそなたへ言う」
「それだけ?」
「それだけじゃ」
新しい道具はない。書き付けも増えない。聞いたことを相手へ渡すだけだ。今朝、俺がやらなかったのはそれだけで、そのために粟が二杯消えた。
「一つ足していい?」
「何じゃ」
「言うのは、その場でな。あとでって思うと忘れる」
「そなたが忘れるのか」
俺は入口の卓に積んだままの荷札を指した。
「今朝忘れた」
「そうじゃな」
董白は妙に嬉しそうに頷いた。人の失敗を数えるのだけは早い子だった。
~
昼過ぎ、荷車が二台続けて入ってきた。
一台目の荷主は、麻袋を四つ置いていった。俺は話を聞き終えてすぐ、奥へ向かって声を張った。
「白。丸印が四つ。全部奥の壁際。引き取りは明日の朝」
「聞いた」
それだけだ。董白は奥で四つを受けて、荷主に数えさせた。俺は入口から動いていない。
二台目は小さな包みが二つで、片方が入口の脇に置かれた。董白が奥から出てきて、それを見る。手が伸びかけて、途中で止まった。
「柳誠。これは奥でよいか」
「そっちは今日の夕方に引き取りだから、そのままでいい」
「分かった」
董白は手を引いて、奥へ戻っていった。
それだけで終わりだった。朝の籠と同じことが、今度は往復にならずに済んでいる。二台目の包みは、その日の夕方に言われた通り引き取られていった。誰も往復しなかったし、粟も減らなかった。
日が傾く頃、董白が空になった入口の脇を見ていた。
「……終わったな」
「終わったな」
「簡単じゃ」
董白が胸を張るので、俺は空の脇をもう一度見た。
「朝もそうすればよかったな」
「半分ずつじゃと言ったであろう!」
竈の向こうで女将が笑った。
~
日が落ちる前に、董白は器に残った一杯を女将へ返した。
昼からの荷は、結局その一杯を使わずに済んだ。荷主が自分の男を連れてきたからで、運がよかっただけだ。
「明日も三杯だよ」
「うむ」
女将は器の底を指で払った。
「往復させるんじゃないよ」
「させぬ」
女将は器を棚へ戻して、竈へ向き直った。
俺たちの荷受け代は、今日も粟で出た。二人で使う分を取ると、昨日と同じくらい残る。董白は残りを小袋へ入れて棚の端へ置き、持ち上げて軽く振った。
「三日目じゃ」
「重くなった?」
「まだ軽い。じゃが、こちらは減っておらぬ」
董白は袋を戻すと、少しだけ黙った。
「柳誠」
「うん」
「妾は、あの籠を邪魔だと思った。それは間違っておらぬ」
「うん」
「じゃが、邪魔だと思ったことを、そなたへ言わなかった」
董白は棚の端を見たままで、こちらを向かない。
「聞いたことは言う。動かす前にも言う。それだけで、粟は二杯減らずに済んだ」
「そうだな」
明日も荷は来る。俺は入口にいて、董白は奥にいる。二人が同じ場所に立っていられないなら、聞いたことを相手へ渡すしかない。今日はそれだけを覚えた。