董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「三十枚、貸してもらえないか」
筆を洗おうとしていた手が止まった。
布商人が銭を返しに来てから四日後の昼だった。朝の荷を送り出し、ようやく卓を片づけていたところへ知らない男が来た。挨拶もそこそこに出てきたのが、その頼みである。
「……三十枚ですか?」
「ああ。布を売ってる男に聞いたんだ。ここで足りない銭を貸してもらったってな。白というのは?」
「わたしじゃが」
洗った椀を運んできた董白が足を止めた。重ねずに一つずつ、両手に持っている。
男は少女と俺を見比べた。
「二人で話をつけてくれると聞いたんだが」
「まず椀を置かせて欲しい。そこを空けてもらえるか?」
入口を塞いでいた男が慌てて脇へ寄った。董白は奥へ椀を置き、戻ってくると俺の隣へ座った。
「三十枚と言うておったな。何に使うのじゃ?」
「薪を買う。甕を焼かせたいんだ」
俺は洗いかけの筆を置いた。男にも座ってもらい、もう少し詳しく話を聞くことにした。
水甕を仕入れて売っているという。六日後の市へ出す二十個を陶工に頼んだが、今朝になって薪代が足りないと言われたらしい。
「代金は百五十枚。五十枚は先に渡してある。残りは品物を受け取ってから払う約束だ。それを今になって、あと三十なければ焼けないと言い出してな」
男は膝の上で手を組んだ。
「こっちも困るんだよ。市へ持っていくと客に言ってあるし、車も頼んじまった」
「残りの百枚は、お持ちなんですか?」
「ああ。焼けたら払うつもりで取ってある」
それなら百枚のうちから出せないのか。口にしかけたところで男が続けた。
「でも、これ以上あいつに渡すのは嫌なんだ。五十枚を何に使ったのかも、ろくに説明しやしない。だから、あんたらから貸してやってほしい」
(……そっちへ貸すのか)
俺へ返ってくるのは、陶工が甕を売った後なのだろう。男が渡したくない銭を、代わりに俺たちが渡す話だった。
董白もこちらを見た。
「柳誠」
「ああ。少し失礼します」
二人で卓を離れた。男に話が聞こえない辺りまで行くと、董白が袖を引いた。
「貸すのはやめておこうと思う」
「俺もだ。五枚と同じつもりでは出せない」
「うむ。返せるかどうかも分からぬ者じゃしな」
それを聞いてほっとした。少しずつ貯めた銭を一度に出すのは怖い。先日の五枚だって、無事に返ってきたから笑っていられるのだ。
「ただ、三十枚をこちらが出さずに済むかもしれぬ」
董白が卓の方へ目をやった。
男は懐から書付を出して広げていた。角を押さえる手に力が入っている。
「何か考えがあるのか?」
「陶工の話を聞かねば、まだ分からぬ。じゃが、あの者は銭を持っておる。甕も欲しい。あとは、どうすれば出す気になるかじゃ」
なるほどとは思った。思ったが、今から二人の間へ入るとなれば時間がかかる。
「午後の荷が来たら、俺はそっちを見るぞ」
「分かっておる。女将にも卓を借りてよいか聞こう」
「それと、今回は手間賃を先に決めたい」
董白が顔を上げた。
「そなたから言うとは思わなんだ」
「前は、女将に布を見てもらうところまで付き合わせたからな。毎回お礼を待つわけにもいかないだろ」
「うむ。一枚でどうじゃ?」
「どこまでやって、一枚なんだ?」
訊くと董白は少し考えた。
「二人の話を聞いて、払い方を決めるところまでじゃな。甕が揃って商いが済んだら、もう一枚」
俺はうなずいた。それなら、そのまま男へ伝えればよかった。
~
「貸せないのか」
卓へ戻って断ると、男は書付を畳み始めた。
「悪かったな。あいつが、ここなら何とかなると言うもんだから」
「銭は貸せぬ。ただ、陶工と話をする手伝いならできると思う」
董白が言うと男の手が止まった。
「話なら、今朝から散々したんだ。薪代を出してくれとしか言わんぞ」
「わたしにも同じことを言うか、聞いてみたい。その者を連れてこられるか?」
男は少し迷ってから書付を卓へ戻した。
「連れてくるのは構わん。でも、こっちもただで頼めるとは思ってない。いくらだ?」
「払い方に二人が納得したら一枚。甕が二十届いたら、もう一枚欲しい」
「話がつかなければ?」
「その時は貰わぬ」
男は董白を見ていたが、やがて立ち上がった。
「分かった。呼んでくる」
その背を見送ってから女将へ事情を話した。昼の片づけが済んだ後なら卓は空いている。ただし荷が来たら手を止めず、客の邪魔にならないように。そう言われて戻ると董白が俺の顔を覗いた。
「よかったか?」
「ああ。大声で喧嘩を始めたら、お前が止めてくれ」
「そなたも手伝え」
「もちろん。俺だけ逃げる気はない」
董白はそれならよいと座り直した。
まだ一枚も貰っていないのに、こちらまで落ち着かなくなってくる。何を書けばいいかも分からないまま、俺は木簡を出した。
~
戻ってきた男の後ろには、袖に白い土の付いた陶工がいた。
「こんな所で何を話すんだ。俺は忙しいんだぞ」
「薪がなくて焼けないと言ってたじゃないか」
「ほかの仕事だってあるんだよ」
座る前から言い合っている。俺は二人の前へ水の椀を置き、董白は陶工の方を向いた。
「わざわざすまぬな。まあ、座って水でも飲むがよい」
陶工は董白を見た。それから商人を見て、眉を寄せる。
「この子に話すのか?」
「俺も初めはそう思ったよ。いいから座れ」
陶工は不服そうだったが腰を下ろした。水を半分ほど飲むと、椀を膝に置いた。
「薪を買う銭が三十枚足りぬと聞いたのじゃが、甕はもうできておるのか?」
「ああ。乾かしてある。今から土をこね始めるわけじゃねえよ」
「それは俺も見た。二十、ちゃんと並んでいた」
商人が口を挟んだ。そこは二人とも同じことを言っている。俺は甕の数だけ書き留めた。
「先に貰うた五十枚は、何に使うた?」
「土を運ばせて、手伝いにも払った。作ってる間は食わなきゃならんしな。それで薪を買う段になったら、前に聞いた値じゃ売れないと言われたんだ」
「だから、そこで俺に言えばよかったんだ」
「別の所なら安く買えると思ったんだよ!」
陶工が椀を置いた。水が縁まで揺れ、俺は思わず手を出しかけた。
(始まった……)
「探したが、買えなんだのじゃな?」
董白が訊くと陶工は黙った。
しばらくして「ああ」とだけ答える。
「では、今買うなら三十枚。それで足りるのか?」
「西の木場で聞いてある。窯まで運んでもらって、その値だ」
「三十枚を、百五十枚とは別に貰いたいのではないな?」
「違う。残りから先に出してくれりゃいい」
そこまで聞くと董白は商人へ顔を向けた。
「その三十枚、木場へ直接払うのでは駄目か?」
商人の口が少し開いた。
「……俺が薪を買うのか?」
「うむ。窯へ運ばれるところまで見ておけば、何に使われたか心配せずに済む。陶工へ渡す残りは七十枚になるが」
「それでいい」
陶工の返事は早かった。商人の方はまだ考えている。
「でも、薪を買った後でまた足りないと言われたら?」
「もう足りるって言ってるだろう」
「さっきも、初めの五十枚で足りると思ってたって話じゃないか」
陶工が言い返しかけ、口をつぐんだ。
俺にも商人の気持ちは分かった。一度約束が変わっている。言われた通りに三十枚出せば安心だとは、もう思えないのだ。
「薪以外で、焼くまでに払う物はありますか?」
俺が訊くと陶工はこちらを見た。
「火を見る者への払いだ。だが、それは甕を引き渡した後でいいと話してある。残りの七十から出す」
「市までには受け取れるんでしょうか」
「明日、薪が来れば。火を落としてから冷ます時間も要るから、四日後の朝に取りに来てくれ」
商人が指を折った。
「市の二日前か。それなら積み替えても間に合うな」
ようやく二人が同じ話をし始めた。俺は日を書き、薪が届くのは明日でいいか確かめる。
「木場には、まだ運ぶ日までは頼んでねえ」
陶工がそう答えたので筆を止めた。
「では、そこを先に確かめてもらえますか。明後日になるなら、受け取る日も変わりますよね」
「ああ……そうだな。これから行くよ」
「俺も行く。三十枚で済むか、そこで聞く」
商人が言った。陶工も嫌だとは言わなかった。
ただ、立ち上がる前に商人はもう一度董白を見た。
「それでも焼けなかったら、八十枚は出したままだな」
「そうじゃな」
董白はすぐに答えた。
「そこまで必ず大丈夫とは言えぬ。どうしても嫌なら、甕を頼むのをやめて五十枚を返してもらう話になるが……」
「今すぐ五十は返せねえぞ」
陶工が困った顔をした。
商人は椀に残っていた水を飲み干した。しばらく空の椀を見ていたが、やがて卓へ置いた。
「焼いてくれ。売れなきゃ、俺も困る」
「だから、焼くつもりだって」
「今度は、間に合わないと思ったらすぐ言えよ。市の朝に聞かされるのだけは勘弁してくれ」
「ああ。分かった」
俺は途中まで書いた木簡を二人に見せた。
「木場で決まったら、ここへ戻ってください。受け取る日と残りの払いを書きます」
「頼む」
商人が答え、陶工も小さく頭を下げた。
二人が連れ立って出ていく。入口でどちらへ曲がるか言い合ったが、今度はただの道順の話だった。
~
木場は翌日の朝に運べるという。
戻ってきた二人からそれを聞いて、俺は約束を書き終えた。商人が木場へ三十枚を払い、焼き上がった二十個を受け取る時に陶工へ七十枚。初めに払った五十枚と合わせて百五十枚になる。
読み上げると二人ともうなずいた。それぞれが持ち帰れるよう同じ物を書き、手元にも控えを残した。
商人が一枚を卓へ置いた。
「まず、こっちの分だな」
俺は董白を見た。少女の目はもう銭へ向いていたが、手を伸ばす前に顔を上げた。
「うむ。もう一枚は受け取ってからでよい」
「分かってるよ。今度はこっちが払いを忘れたら、あいつに何を言われるか」
陶工は鼻で笑い、先に外へ出た。商人もその後を追う。
董白は貰った銭をつまみ、俺の前へ置いた。
「これはそなたに預けておくぞ」
「ああ」
銭袋を出そうとして、少し手が止まった。
今日は一枚も貸していない。俺たちが作った物といえば、二人が持って帰った書付くらいだった。それでも、男は払う額を確かめてから一枚を置いていった。
「……貰えたな」
「貰う約束じゃったであろう」
「自分たちで決めた値段を払ってもらうのは、妙な気がするな」
「値切られなんだな」
「ああ。すんなり出してくれたから、余計にな」
笑うと董白も笑った。だが、すぐ入口へ目を向けた。
「薪は、ちゃんと来るかのう」
「気になるか?」
「気になるに決まっておろう。あそこまで話したのじゃぞ」
もっと平気な顔をしているのかと思ったら、そうでもないらしい。
俺は墨が乾いたのを確かめて木簡を重ねた。
「明日の荷で、あっちから来た人がいたら聞いてみよう。木場へ取りに行く荷もあるかもしれない」
「うむ。わたしも聞いておく」
そこで女将から声がかかった。空いた卓を拭いてほしいという。
董白が立ち上がり、俺は慌てて書具箱へ控えをしまった。一枚貰えたからといって、今日の仕事まで済んだわけではなかった。
~
薪が届いたと聞けたのは翌日の夕方だった。
商人が宿へ寄り、窯へ火を入れるところまで見てきたと言った。董白は何でもない顔でうなずいていたが、男が帰ると俺の腕をつついた。
「あと三日じゃな」
「ああ。受け取るのは朝だ」
「覚えておる」
待っている間にも宿の仕事はあった。朝には荷札を読み、昼には札の擦れた所を書き直す。董白は椀を洗い、荷が多ければ表へ出てくる。いつも通りの仕事なのに、商人に似た上着を見るたび少し顔を上げてしまった。
約束の日、朝の荷を見終えて筆を置くと、通りから俺たちを呼ぶ声がした。
「白、柳誠。ちょっと見てくれ!」
外へ出ると商人が荷車の脇に立っていた。荷台には藁に包まれた甕が並んでいる。
董白が俺より先に駆け寄った。
「揃うたか?」
「ああ。二十。残りの七十枚も渡してきた」
商人は手前の甕にかけた藁を少しよけた。丸い腹が現れる。口の縁を指でなぞり、満足そうに見下ろしている。
「こいつを待ってたんだ。これで市へ行ける」
俺もそばへ寄った。土の色をした、どこにでもありそうな甕だった。それが二十個揃って荷車に載っているのを見ると、こちらまで嬉しくなった。
「よかったですね」
「ああ。あいつも残りを貰って、やっと機嫌を直したよ」
「そなたも、随分と顔が変わったぞ」
董白に言われて商人は笑った。
「そんなにひどかったか?」
「水を飲む間も惜しそうじゃった」
「そりゃあ、甕は来ない、銭は返らないかもしれないで、腹も立つさ」
男は藁を戻して荷縄を確かめた。それから懐へ手を入れ、一枚を出す。
「約束の残りだ。世話になったな」
董白は受け取った銭を両手で挟むように持った。
「市でも売れるとよいな」
「ああ。売れたら、また顔を出すよ」
商人が荷車を動かし始めたので道を空けた。俺たちはしばらくその後ろ姿を見送り、一緒に宿へ戻った。
卓の所で董白が手を開く。
「今度こそ二枚じゃ」
「ああ。お疲れさま」
「そなたもな。あの書付、わたしが書いておったら、もっと待たせたと思うぞ」
そう言って渡してくるので、俺は少し得意になって受け取った。
「それなら、次も書く方は任せてくれ」
「うむ。頼りにしておるぞ」
素直に言われると、それはそれで照れくさかった。俺はうなずいて銭袋を開ける。
中には朝の仕事で貰った四枚も入っている。そこへ今日の一枚を足すと、どれがどの仕事の銭かはもう分からなくなった。
しまいかけた時、董白が袋の口へ目を寄せた。
「何だ?」
「いや。もう少し貯まったら、寝る所を変えられるかと思うてな」
俺も奥へ目をやった。広間の壁際で眠るのにも随分慣れたが、朝は客より先に俵と衝立を片づけなければならない。隣の部屋から寝息が聞こえるたび、そちらが羨ましかった。
「……それは、俺も考えてた」
「そなたもか?」
「ああ。まず、いくらかかるか聞いてみるか」
董白がうなずいた。
袋の口を結んで立ち上がる。女将は厨房にいるはずだった。今日は仕事を片づけた後で、少し時間を貰おうと思った。