董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
冬の間、俺たちは宿の荷受けを続けた。
荷車が来れば、俺が荷主から数と置き場所を聞く。
董白が荷運び人へ伝え、運び終えた荷を数える。
朝も昼も晩も、宿で食べさせてもらえた。
棚の端に置いた冬用の粟は、一度も袋を開けずに春を迎えた。
董白は暖かくなってからも、ときどきその袋を持ち上げた。
「まだ減っておらぬ」
「使ってないからな」
「分かっておる」
分かっていても、重さを確かめたいらしい。
荷受けの仕事をもらってから、食べることには困らなくなった。
ただし、銭は増えていない。
俺たちが受け取るのは、三度の飯と寝床だ。
棚の粟が、今も俺たちの蓄えの全部だった。
~
風がすっかりぬるくなった、ある朝。
昼を過ぎても、荷車は一台も来なかった。
「暇じゃ」
入口の柱にもたれていた董白が、今日三度目の「暇じゃ」を口にした。
「待つのも仕事だって、女将さんが言ってただろ」
「待っておる。暇なのは変わらぬ」
「じゃあ、荷車が来るよう祈ってて」
「わたしは祈らぬ。来させよ」
「無茶言うなよ」
董白は頬を膨らませた。
そのとき、酒場の奥から歓声が上がった。
「当たりだ!」
続いて、卓を叩く音。
董白の顔がそちらへ向いた。
「柳誠」
「駄目」
「まだ何も言うておらぬ」
「見に行くって顔に書いてある」
「ここからでも入口は見えるぞ」
確かに、酒場からでも宿の戸口は見える。
董白はもう歩き出していた。
俺も仕方なく後を追った。
酒場の一番奥で、六人ほどの男が卓を囲んでいた。
真ん中に伏せた椀が三つ並んでいる。
仕切っているのは、人のよさそうな笑みを浮かべた小柄な旅装の男だった。
男の前には、かなりの数の銭が積まれていた。
昼飯の前から続いているらしい。
女将は裏で酒甕を洗っていて、まだこの騒ぎには気づいていなかった。
「今のは見事だった。ほら、約束どおり二枚だ」
男が向かいの若い荷運び人へ銭を渡す。
若い男は上機嫌で、受け取った二枚を卓へ戻し、自分の銭を二枚足した。
「もう一度だ」
「いいとも」
小柄な男が、卓の上へ黒い豆を一粒置いた。
それに椀を被せる。
左右に空の椀を並べると、両手で三つを入れ替え始めた。
右へ、左へ。
椀の底が卓を擦る。
それほど速くはない。
「さあ、どれだ?」
若い荷運び人は、真ん中の椀を指した。
「ここだ」
小柄な男が椀を持ち上げる。
何もない。
「残念」
男は笑って、賭けられた四枚を自分の側へ寄せた。
「今のは右だよ」
別の男が言う。
小柄な男が右の椀を上げると、その下に黒い豆があった。
囲んだ男たちから、ため息と笑いが漏れた。
「見えていたなら、次はあんたがやるか?」
「やってやる」
右だと言った男が前へ出た。
卓に置いたのは一枚だけだ。
椀が動く。
今度は左を選び、そこから豆が出た。
「ほらな」
小柄な男は惜しそうな顔をして、一枚払った。
勝った男は二枚を握り、もう一枚を足した。
「次は三枚だ」
「景気がいいな」
また椀が動き始める。
董白は少し離れたところで、黙って見ていた。
顔は三つの椀へ向いている。
けれど、その目は椀だけを追っていなかった。
豆を置く指。
椀を入れ替える手首。
小柄な男の口元。
賭ける男の顔。
順番に、何度も見ている。
小柄な男もまた、賭ける人の顔をよく見ていた。
一枚を当てて喜んだ人。
外したあと、銭袋へ手をやった人。
負けたのに席を立たず、椀を睨んでいる人。
そういう相手にだけ、男は声をかけた。
「惜しかったな。もう一度なら取り返せるぞ」
言われた方は、決まって賭ける枚数を増やした。
董白は椀の動きよりも、そのやり取りを熱心に見ていた。
三枚を賭けた男は外した。
次の男は一枚を賭け、当てた。
さらに次の男は五枚を置き、外した。
小柄な男は五枚のうち四枚を懐へ滑り込ませ、一枚だけ自分の前へ残した。
少ないときには当たる。
増やすと外れる。
それでも、一度は勝たせてもらえるから、誰も卓を離れない。
「柳誠」
董白が小声で呼んだ。
「何」
「次を見ておれ」
「何か分かった?」
董白は答えず、大柄な男へ目を移した。
男は、さっきから何度も腰の銭袋へ触れている。
小柄な男も、それを見ていた。
その間にも、次の勝負が始まっていた。
冬の間に何度も荷を運んできた、大柄な男が卓につく。
腰から銭袋を外し、中身を出した。
八枚あった。
「さっきから見てた。今度こそ分かったぞ」
「なら、賭けるといい」
小柄な男が笑う。
「全部だ」
八枚が卓に積まれた。
小柄な男は止めなかった。
むしろ、待っていたように身を乗り出した。
俺は思わず董白を見た。
董白は動かない。
三つの椀が何度も入れ替わる。
大柄な男の目は、黒い豆が入ったはずの椀を追っている。
小柄な男の右手が椀を滑らせる。
左手が一度だけ、卓の縁へ下がった。
それから三つの椀が止まる。
「さあ、どれだ?」
大柄な男は迷わず右を指した。
「これだ」
小柄な男の目が、右の椀ではなく大柄な男の顔へ向いた。
口の端が上がる。
その左手は、軽く握られていた。
「それを上げるな」
「誰も、勝手に手を動かすでない」
董白の声が通った。
小柄な男の手が止まる。
卓を囲んでいた全員がこちらを見た。
董白は男たちの間へ入っていく。
「なんだ、お嬢ちゃん」
小柄な男の笑みは崩れない。
「遊びたいなら、銭を持ってきな」
「そなたと遊ぶ気はない」
董白は三つの椀を指した。
「豆は、もうどの椀にも入っておらぬ」
ざわめきが起きた。
小柄な男が鼻で笑う。
「負け惜しみなら、賭けた本人に言わせな」
「ならば、確かめればよい」
董白は大柄な男を見上げた。
「そなたは右を上げよ。隣の二人は、残りを一つずつ持て」
「おい。勝手に触るな」
小柄な男の声が低くなる。
「なぜじゃ?」
董白が男を見る。
「豆が入っておるなら、誰が上げても同じであろう」
男の笑みが消えた。
董白はそれを見て、ほんの少し顎を上げた。
「三つとも、同時に上げよ」
大柄な男と、その両隣にいた二人が椀を掴む。
「せえの」
董白の声で、三つの椀が上がった。
どこにも豆はなかった。
一瞬、誰も声を出さなかった。
小柄な男が椅子を引いた。
「知らねえな。そいつらの誰かが隠したんだろ」
董白は、男が握ったままの左手を見て、口元をわずかに上げた。
「ほう? そうかそうか、そうかもしれんな。では、その左手を開いてみよ」
「これは関係ない」
「一枚なら椀を見る。三枚以上になると、選んだ者の顔を見て笑う」
董白は一歩、男へ近づき、その拳を見た。
「そのときだけ左の肩が下がり、親指を中へ隠す。豆を握るからじゃ」
男の視線が一瞬だけ、自分の左手へ落ちた。
「でたらめだ」
男が左手を懐へ入れようとした。
「押さえよ」
大柄な男が、その手首を掴む。
「じゃあ、開けてみろ」
「離せ!」
小柄な男が腕を振るが、びくともしない。
大柄な男が、握り込んだ指を一本ずつこじ開けた。
黒い豆が一粒、卓の上へ落ちた。
乾いた音がした。
小柄な男の顔から、血の気が引いた。
「……あったな」
大柄な男が言った。
「俺たちが選んだあと、お前が違う椀を上げる。そのときに入れ直してたのか」
小柄な男は答えなかった。
答えなくても、もう十分だった。
「白。分かってたなら、俺が賭ける前に止めろよ」
大柄な男が董白を見た。
「止めれば、そなたはやめたのか?」
大柄な男が言葉に詰まる。
さっきまで、自分なら当てられると言い切っていた。
「……やめなかったかもしれねえ」
「なら、置かせた方がよい」
「だからって、俺を餌にしたのか?」
「一枚では、こやつは豆を抜かぬ。そなたが全部置いたから、欲を出した」
董白は卓に落ちた豆を指した。
「八枚で、こやつの手を押さえられた。安いものであろう」
「俺の八枚だぞ!」
「今から取り返す」
「何の騒ぎだい!」
奥から女将が飛んできた。
空の椀が三つ。
卓の上の黒い豆。
手首を押さえられた小柄な男。
董白が短く言った。
「こやつが、豆を隠して銭を取っておった」
女将はそれだけで大方を察したらしい。
小柄な男の前へ立つ。
「今日取った分を返しな」
「返せばいいんだろ」
小柄な男は卓に残っていた銭を腰の袋へ押し込み、女将の前へ放った。
「これで全部だ」
「まだじゃ」
董白の声に、男の肩が跳ねた。
「五枚を取った時、四枚を懐へ入れたな」
「見間違いだ」
男は右の脇をきつく締めた。
董白の笑みが深くなる。
「そこか」
男は慌てて右腕を離したが、もう遅い。
「出しな」
女将に言われ、男は懐から平たい銭袋を出した。
「これで本当に全部だ」
「誰から何枚取った?」
「覚えてねえよ。勝手に分けろ」
「そうか。ならば、そなたの元手もまとめて、ここにおる者で分けよ」
「待て。八枚はそいつで、五枚は向こうの男だ。俺の分まで取る気か」
董白は楽しそうに男を見上げた。
「覚えておるではないか」
男の口が閉じた。
「一人ずつ返せ。思い出せぬ分は、そなたの銭から払え」
「嫌なら、役人の前で同じ話をしな」
女将が戸口を顎で示す。
小柄な男は、うつむいたまま銭を返し始めた。
忘れたと言ったくせに、誰へ何枚返すのか、一度も迷わなかった。
最後の男へ銭を返し終えると、女将が戸口を開けた。
「二度とうちへ入るんじゃないよ」
小柄な男は残った銭を袋へ押し込み、逃げるように戸口へ向かった。
「なんじゃ、もう終わりか」
男は振り返らずに宿を出ていった。
戸が乱暴に閉まる。
大柄な男は、戻ってきた八枚を今度こそ腰の銭袋へしまった。
ほかの男たちも、戻ってきた銭を掌の上で何度も数えていた。
銭を取り戻した人は、帰り際に一人ずつ董白へ声をかけた。
「助かった、白」
「よく見てたな」
「次からは、ああいうのを見つけたら先に教えてくれ」
「次はないぞ」
董白が言うと、酒場に笑いが起きた。
~
夕方までに、結局、荷車は一台も来なかった。
それでも董白は、もう暇だとは言わなかった。
晩飯の粥を食べ終えた頃、大柄な荷運び人が俺たちの卓へ来た。
小さな銭袋を一つ持っている。
「白。これ、受け取ってくれ」
卓に置かれた袋から、銭の触れ合う音がした。
董白は手を出さない。
「なぜじゃ」
「あんたが見つけなきゃ、俺たちはもっと取られてた。返ってきた分から、みんなで少しずつ出した」
「礼なら、もうよい」
「口だけじゃ足りねえよ」
大柄な男は袋を董白の前へ押した。
「五枚ある。あんたがやった仕事の分だ」
仕事。
その言葉で、董白の目が袋へ落ちた。
「わたしの仕事か?」
「そうだ。俺たちの銭を取り返した」
董白はしばらく男の顔を見た。
今度は、手元へ一度も目をやらなかった。
大柄な男は目を逸らさなかった。
董白が銭袋へ手を置いた。
「ならば、受け取ろう」
男はほっとしたように笑った。
「助かったよ」
「次からは、見て分かったと思っただけで全部賭けるでない」
「……分かった」
「本当に分かっておるのか?」
「次は気をつけるよ」
「まだ懲りぬのか」
大柄な男は頭を掻きながら戻っていった。
俺は銭袋を持ち上げてみた。
じゃらりと音がする。
二人で午前いっぱい荷受けをして、十枚だった。
五枚は、その半分しかない。
それでも、董白が人を見抜いて稼いだ、最初の銭だった。
「白」
「なんじゃ」
「お前、途中から楽しんでただろ」
董白は銭袋を俺から取り上げた。
「暇であったからな」
~
寝る前、董白は棚の端にある冬用の袋を持ち上げた。
「減っておらぬ」
「だから、使ってないからな」
董白はそれを元へ戻した。
その隣へ、五枚の入った銭袋を置く。
これまで、棚の上にある蓄えは粟だけだった。
今日からは、銭もある。
董白が二つの袋を見比べた。
「柳誠」
「何」
「増えたぞ」
「うん」
董白は満足そうに頷いた。
荷車は一台も来なかった。
それでも今日、荷受けが俺たちの仕事になってから初めて、蓄えが増えた。