董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「部屋かい? 二人で使うなら、一晩十二枚だね」
夕飯の片づけが済んでから訊くと、女将はそう答えた。
俺は隣の董白を見た。董白も俺を見ている。
十二枚。一晩だけなら払える。だが翌朝になれば、もう十二枚要る。寝床を移して何日か経つうちに、せっかく貯めた銭がなくなってしまう。
「……少し考えます」
「急いで決めなくていいよ。今の所を出ていけって言ってるわけじゃないんだから」
「はい。それは助かっています」
女将は洗い終えた鍋を伏せた。俺たちも手伝って卓を片づける。
部屋の話はそれで終わったが、董白はまだ女将のそばに残っていた。
「もう一つ、相談があるのじゃが」
「今度は何だい?」
「また揉め事の相談が来たら、あの卓を使わせて欲しい。話がついて手間賃を貰えたら、一件につき一枚渡そうと思う」
女将が手を止めた。
「あんたたち、今日やっと二枚貰ったんだろう?」
「うむ。じゃが、毎回ただで借りるわけにもいくまい。人が来れば水も使うし、女将の手も煩わせる」
「荷の方を放っておかれなきゃ、それでいいんだけどねえ」
俺は運びかけていた椀を置いた。
「時間を空けてもらうこともあると思います。その分は払わせてください」
女将は俺たちを順に見た。それから、少し呆れたように笑う。
「寝る所は負けてほしそうな顔をして、そっちは自分から払うのかい」
(顔に出てたか……)
「うちの客が使う時は空けてもらうよ。それでよければ、使いな」
董白の顔が明るくなった。
「ありがとう。では、次からそうさせてもらおう」
広間へ戻って俵を敷く。今夜も衝立の向こうが俺たちの寝床だった。
董白は腰を下ろすと、客の部屋がある方へ顔を向けた。
「十二枚か」
「聞いたばかりだぞ」
「もう少し安いと思うておったのじゃ」
「俺もだ。……まあ、今のうちに分かってよかった」
俺は衝立を少し引き、通路から足が見えないようにした。
部屋で眠れればとは思う。けれど、何日か眠ったらまた銭の心配をするのも嫌だった。
董白も何も言わず、粗布を膝へかけた。隣へ座ると肩をつつかれる。
「そなた、端を踏んでおる」
「ああ、悪い」
腰を浮かせた隙に布を引かれた。今夜はもう、部屋の勘定をするのはやめよう。俺も横になり、足を引っ込めた。
~
三日後、縄を抱えた男が宿へ来た。
俺はその男を見たことがあった。船着き場へ荷札を届けた時、道端で麻を撚っていた男だ。今日も指の間から細い繊維がはみ出している。
「ここで、商いの揉め事を聞いてくれるって……」
男は卓へ座る前に言った。
董白は女将の方を見た。昼の客が引いた広間で、女将がうなずく。
「うむ。何があったのじゃ?」
勧められて座っても、男は縄を膝から下ろさなかった。
「二人から縄を頼まれてる。一人は木場の親方で、もう一人は船頭だ。どっちも三十尋ずつ」
「それを、どちらも同じ日に欲しいと言うたのか?」
「いや。船頭は三日後の朝、親方は五日後だ。間に合うと思って受けたんだが、麻が半分しか入らなくてな」
男は抱えた縄へ目を落とした。
「できたのは三十尋だけだ。両方には渡せない」
俺は男の膝を見た。あれを二人に分けるのか。半分ずつでは、どちらも足りないのだろう。
「麻を追加で買うことはできないんですか?」
「町のは、次に入るのが半月先だ。隣町にも頼んであるが、届いたって綯わなきゃならん」
「それは、いつ届くと?」
「向こうの荷隊が六日後に来るから、そこへ載せてもらうつもりだ。返事を持った者が今日戻る」
董白は男の縄へ手を伸ばした。端をつまんで見るだけで、ほどこうとはしなかった。
「足りぬことは、二人とも知っておるのか?」
男は答えなかった。
「まだ言うておらぬのじゃな」
「……親方には、少し遅れるかもしれないとは言った」
「船頭には?」
「まだだ」
董白が縄から手を離した。
男は顔を上げ、今度は俺の方へ身を寄せた。
「親方には長く買ってもらってるんだ。船頭だって、川を下るたびに顔を出してくれる。どっちにも、よそで買えとは言いたくねえ」
声が低くなった。
「次も頼むからって言われたら、断れなかったんだよ」
さっきから抱えている縄の端が、男の膝を叩いていた。指で弄るたび少しずつ揺れる。
俺も仕事を頼まれて嬉しかったことがある。明日も来てくれと言われれば、先の心配が少し減った。断りたくない気持ちは分かる。
だが今、膝にある縄は増えなかった。
董白は卓へ肘をついた。
「二人に来てもらえるか? いつ、どれだけ必要なのか聞きたい」
「来ると思う。だが、ここへ呼んで怒らせるだけじゃ困るぞ」
「怒られずに済むとは言えぬ。二人とも三十尋を貰うつもりでおるのじゃろう?」
男の手が止まった。
「それは、そうだが」
「二人に頼まれたことも、麻が足りぬことも話して欲しい。それを隠したままでは手伝えぬ」
男は俯き、しばらく黙っていた。
やがて縄を卓へ置く。
「分かった。いくら払えばいい?」
董白が俺を見た。俺もうなずいた。話を聞く間、荷が来れば俺がそちらへ回る。二人を呼ぶなら午後にしてもらえばよかった。
「渡す量と日に折り合いがついたら一枚。約束どおり渡せて、二人とも次も頼むと言うてくれたら、あと五枚欲しい」
「五枚?」
男が聞き返した。
「甕の男は全部で二枚だったと聞いたぞ」
「あちらは二人じゃった。今度は三人の話を聞いて、それぞれに書いて渡さねばならぬ。隣町の麻を待つ間も、話が変わらぬか確かめたい」
董白は男の方へ少し身を寄せた。
「次も買ってもらえるところまで、付き合って欲しいのではないか?」
男は縄を見下ろしたまま考えていた。
「片方が、もう頼まんと言ったら?」
「五枚は取らぬ」
「……分かった。六枚だな。今日の午後に連れてくる」
男は縄を抱えて立ち上がった。
戸口まで行ってから戻りかけ、口を開く。
「麻売りが半分しか寄越さなかったのは、本当だからな」
董白はうなずいた。
「うむ。では、残りが届く日の返事も持ってきて欲しい」
男はまだ何か言いたそうだったが、結局そのまま出ていった。
~
木場の親方は、座るより先に縄売りを睨んだ。
「遅れるってのは、その男にも売ったからか」
連れてくる道で話したらしい。船頭も機嫌の悪い顔をしている。
「親方の方は五日後だろ。俺は三日後の朝に出るんだ。できてる分を先に寄越せば済む」
「俺が先に頼んだんだぞ。人も呼んである」
縄売りは立ったまま頭を下げた。
「すまん。今日聞いてきた。麻は六日後に入る。それが来たら残りも――」
「俺たちが要るのは、その前だって言ってるんだよ」
船頭が遮った。
俺は三人の前へ水を置いた。親方が椀を取ってくれたので少しほっとする。董白は二人が言い直し始める前に、船頭へ声をかけた。
「三十尋、全部取り替えねば出られぬのか?」
「舫いと帆桁に使う分は、今回替えると決めてる。切れてからじゃ遅い」
「うむ。それで三十尋か?」
「そっちは二十だ。残りの十は、船に積んでおく分だよ」
董白が俺を見た。俺は二十と十を分けて書いた。
「積んである縄は、もう使えぬのか?」
「いや。こないだ一部を使ったから足そうと思ったんだ。今ある分でも、今度の川下りは行ける」
「では、今回は二十尋を受け取るのでどうじゃ? 積んでおく分を買うのは、戻ってからでは困るか?」
船頭はすぐには答えなかった。縄売りを見て、卓へ置かれた縄の太さを確かめている。
「……その十尋を、親方へ回すのか?」
「まず聞いてみたい」
董白が親方へ向き直った。
「五日後は、どこで使うのじゃ?」
「山から木を下ろす。初めは道を確かめながら一組でやるが、四日目から人を増やす。そっちはもう声をかけてあるんだ」
「初めの一組なら、十尋で足りるか?」
親方は膝へ手を置いた。
「……足りる。だが、後の二組を遊ばせるわけにはいかんぞ」
俺は書いていた手を止めた。
五日後から三日間は十尋。人が増えるのは、今日から八日後だ。縄売りに顔を向ける。
「麻が六日後に来て、残りの二十尋を作るのにどれくらいかかりますか?」
「二日は欲しい。綯ってすぐ持っていっても、山へ上げるのは九日後の朝になる」
「一日足りねえな」
親方が言った。
縄売りも分かっていたのだろう。うなずくだけで、急げば何とかなるとは言わなかった。
俺は八日後の横へ小さく印をつけた。ほかが決まっても、その一日が残る。
親方は水を飲み、空になった椀を置いた。
「人を一日遅らせるなら、今日中に知らせに行かなきゃならん。それで皆が来てくれるかも分からんし、先に頼んだ分をいくらか払えと言われるかもしれん」
「俺が一緒に行く」
縄売りが顔を上げた。
「訳を話して頼む。もし余計に払うことになったら、俺が持つ」
「隣町から麻を買って、その分まで出せるのか?」
「痛いけどな。……これを売った分から出すよ」
男は縄の端を押さえた。
「親方に来てもらえなくなる方が困る」
親方はしばらく男を見ていた。それから、深く息を吐いた。
「まず人に聞くぞ。俺だけでいいとは言えん」
「ああ」
「残りは山まで持ってこい。取りに下りる暇はないからな」
「分かった。俺が持っていく」
董白の手が卓の下で俺の袖へ触れた。目を向けると、書いている所を覗いている。
俺は木簡を少し寄せた。まだ約束にはできないが、誰が何を確かめに行くかは決まった。
「船頭、そなたはそれでよいか?」
董白に訊かれ、船頭は親方へ向けていた顔を戻した。
「二十尋は今受け取れるんだな?」
「ああ。すぐ切って渡せる」
縄売りが答えた。
「なら今回は二十でいい。払うのも二十の分だぞ。残りの十は、帰ってから品物を見て決める」
「分かった。そうしてくれ」
ようやく縄売りが座った。
俺は三人の返事を確かめながら控えを書いた。船頭は二十尋を今日受け取り、残りの十尋の注文はいったん取り消す。木場へは先に十尋、残りの二十尋を九日後の朝に届ける。ただし、人を増やす日を変えられるかは、これから聞きに行く。
「親方の方が決まったら、もう一度知らせてもらえますか」
「ああ。こいつと戻る」
親方が縄売りを顎で示した。縄売りは黙ってうなずく。
三人が縄を持って出ていくと、董白は背もたれもない床机の上で大きく伸びをした。
「……喉が渇いた」
「水、飲まなかったのか?」
「そなたも飲んでおらぬぞ」
言われて椀を見る。俺の分も残っていた。
(用意した本人が忘れてどうする)
二人で水を飲んだ。まだ終わっていないが、さっきよりずっと静かに飲めた。
~
親方たちが戻ったのは日が傾いてからだった。
人を増やすのは一日遅らせられる。ただし先約を動かす分として、縄売りから余分に銭を出すことになったという。
「払ってきた。あとは縄を持っていくだけだ」
縄売りは疲れた顔で笑った。
俺は決まった日を書き入れ、二人へ読み上げた。木場へ渡す最初の十尋も、もう親方の手にある。縄代は残りの二十尋を受け取った時にまとめて払う。人足へ余分に出した銭を上乗せしないことも確かめた。
「そこは分かってるよ。俺が遅らせたんだ」
俺が確かめると、男はそう答えた。
二人に書付を渡した後で、縄売りが一枚を出した。
「まずはこれだな」
董白は受け取り、親方が立ち上がるのを待って男へ訊いた。
「麻が届いたら、一度顔を出して欲しい。予定が変わった時も、すぐにな」
「ああ。今度は待たせないうちに言う」
帰っていく二人を見送った。
貰った一枚は、そのまま女将へ渡した。女将は俺たちの顔を見て受け取り、銭を入れる箱を開けた。
「ずいぶん長くかかったね。お疲れさん」
「まだ終わってはおらぬ。縄を渡すところまで見ねばな」
董白はそう言ったが、俺は座りたかった。話を聞いて書くだけでも、随分と疲れるものだ。
卓へ戻ると董白が隣へ腰を下ろした。俺が筆をしまう間も、縄売りの書付を見ている。
「親方がまた頼むと言うか、まだ分からぬからのう」
あれだけ長く話しても、そこまでは決まらない。俺も空いた椀を重ねかけ、二つ目を隣へ置いた。
董白に渡すと、なぜか睨まれた。
「何も言ってないぞ」
「顔で言うておる」
「……そんなに分かりやすかったか?」
少し笑ってから一緒に椀を運んだ。夕飯の前に、片づける物がまだ残っていた。
~
約束どおり六日後に麻が届いた。
縄売りは宿の入口からそれだけ告げて、すぐ戻っていった。俺も仕事中だったので手を上げるだけにしたが、厨房へ行って董白には伝えた。
それから三日後の朝、男は綯い上げた縄を担いで山へ向かった。帰りに寄った時は裾まで泥が付いていた。
「渡したぞ。親方にも確かめてもらった」
「何か言われたか?」
董白が訊く。
「次は早めに頼むから、あんたも早めに麻を買っとけってさ」
男は笑った。俺もつられて笑い、控えの木場の欄へ縄を渡し終えたことを書き足した。
船頭が戻ってきたのは、その二日後だった。
昼の荷受けをしていると、縄売りと並んで入ってきた。男の肩には短い縄の巻きがある。
「これから届けるところだ。残りの十尋も買ってもらえた」
「今ある分で足りたんだがな。どうせ次には要るし、戻ったら作ってあったからさ」
船頭はそう言って卓の端へ手を置いた。
「今度は、できるだけ先に頼むよ。その代わり、無理なら頼んだ日に言ってくれ」
「分かってる。もう二人まとめて怒鳴られるのは懲りた」
「こっちだって好きで怒鳴ったんじゃねえぞ」
二人が言い合う横で、董白が俺の袖を引いた。
振り向くと少し笑っている。俺もうなずき、木場の親方のことを書いた行へ目を戻した。
どちらも、またこの男から縄を買う。
初めに来た時、男がいちばん心配していたことがようやく片づいた。
船頭が先に外へ出ると、縄売りは卓へ五枚を並べた。
「遅くなったな。約束の分だ」
董白が受け取り、俺へ寄せる。
「うむ。これで終いじゃな」
「やっとな。次の縄は、揉めずに売りたいよ」
男はそこで笑い、肩の縄を担ぎ直した。
「買ってくれる相手が残ってよかった。助かったよ」
今度こそ男が出ていった。
俺は五枚を銭袋へしまった。董白はまだ入口を見ていたが、縄売りの姿が見えなくなると大きく息を吐いた。
「今日は先に飯を食うぞ。そなたが書き終えるまで待っておったら、また冷めてしまう」
董白が立ち上がった。
「あと一行だ。椀だけ貰ってきてくれ」
「一行じゃぞ」
「ああ」
控えの最後に、五枚を受け取ったと書き添えた。
二人の客を失いかけた男は、また縄を届けに行った。書き終えた木簡を見ているうちに、俺はまた少し笑ってしまった。
「柳誠! 飯じゃ!」
呼ぶ声に顔を上げる。
筆を置いて箱を閉じ、今度はすぐに立ち上がった。