董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「その甕は、まだ開けないでください」
俺が声をかけると、蓋の紐に指をかけていた男が顔を上げた。
「中を見なきゃ分からんだろう」
「先に卓を空けます。ここへこぼしたら、女将に叱られますから」
男は渋々手を引っ込めた。
俺は荷札をまとめ、書具箱ごと隣へ移した。その間も、もう一人の男は甕のそばを離れなかった。紐に触られただけで、眉間の皺が深くなっている。
縄売りの一件から三週間ほど経っていた。
宿では少しずつ、荷物以外の相談も受けるようになっていた。朝の荷が多ければ昼まで待ってもらい、董白だけで聞いていることもある。今日の二人は、俺たちの手が空くまで待っていた割に、座るなり言い合いを始めた。
「待たせたのう」
董白が布を持って戻ってきた。卓へ広げると、その上に甕を置くよう二人へ頼んだ。
黒い甕が二つ並ぶ。片方ずつ持ってきたが、どちらも川上から来た男の物だという。蓋を開けようとしたのは、それを買うはずの塗師だった。
「まず聞きたいのじゃが、値段は決まっておるのか?」
「ああ。二つで二百枚。そこはもう済んだ話だ」
川上の男が答えた。
「なのに、こいつが今すぐは払えないと言い出した」
「試してからだと言ったんだ。漆は買ったその日に使って終わりじゃない。塗ってみなけりゃ、仕事に使えるか分からん」
塗師の指先は黒く汚れていた。俺には染みと漆の区別もつかないが、男は気にする様子もなく卓へ手を置いている。
「二日くれ。それで確かめる」
「その間、甕をあんたの店へ置いていくのか?」
「うちで試すんだから、そうなるだろ」
川上の男が笑った。少しも楽しそうではなかった。
「前もそれで、乾きが遅いから半値にしろと言ったじゃねえか。俺が船に乗る日にだぞ」
塗師の顔が強張った。
「遅かったのは本当だ。使うまでに待たされりゃ、こっちの仕事も遅れる」
「なら最初に買わないと言ってくれ。帰る日に値切られたって、ほかへ売りに行けねえんだよ」
董白は二人の間にある甕を見た。
「今度の船はいつ出るのじゃ?」
「三日後の朝だ。それを逃すと、次は十日も先になる。そんなに宿代を払ってたら、何をしに来たか分からん」
俺は二人の顔を見比べた。
塗師は使えない物を買いたくない。川上の男は、また出発間際に値を下げられたくない。どちらも分かったが、試すための二日間はなくならなかった。
「試す分だけ渡して、残りは持っていてもらうのでは駄目ですか?」
塗師へ訊くと男は首を振った。
「試したのと違う漆を渡されたら困る。二つとも置いてってくれなきゃ」
「俺がすり替えるって言うのか」
「前にやられたんだよ。あんたにじゃないがな」
川上の男が舌打ちした。甕を自分の方へ引き寄せようとしたので、俺は卓の端へ手を添えた。
(待ってくれ。倒すなよ……)
董白が俺を見た。
その顔で、また何か考えついたのだと分かった。
~
「二日の間、こちらで預かるのはどうじゃ?」
少し離れた所で董白が言った。
「漆をか?」
「漆と、その代金じゃ。塗師には先に銭を出してもらう。使えると分かれば、決めた二百枚を渡す。駄目ならそれぞれ返す。どちらの店にも置かずに済む」
俺は卓へ目を向けた。二人はまだ甕を挟んで座っている。
「置く所は、女将に聞かないと分からないぞ」
「うむ。奥に錠のかかる物置があったな」
「あそこを借りられれば、置けると思う。ただ、漆の良し悪しなんて俺には分からない」
「妾にも分からぬ」
董白はあっさり答えた。
「塗ったことなどないからのう。そこは塗師に聞かねばな」
「その塗師が悪いと言ったら、また同じ話になるだろ」
「だから、どうなれば買うのかを今聞きたい。二日後に値を下げるのはなしじゃ」
それなら、俺にも書ける。だが今度は書付を渡して終わりではなかった。
二百枚の銭と、二つの甕が残る。
「無くしたり、割ったりしたら困るな」
口にすると急に怖くなった。俺たちの銭をかき集めればいい、という額ではない。
董白もすぐには返事をしなかった。
「……まず、物置を見せてもらおう」
「ああ」
卓へ戻り、置き場所を借りられるか確かめたいと二人へ伝えた。俺が女将を呼びに行くと董白もついてきた。
物置には空の籠と、脚の折れた床机が入っていた。女将に言われて籠を重ね直すと、奥に甕を並べる場所ができる。
棚の上なら銭袋も置けた。戸を閉めて錠をかけ、引いてみる。動かない。俺はもう一度中を見た。
「貸すのは構わないよ。ただ、あたしは中身まで面倒を見ないからね」
「はい。預かるのは私たちです」
「それと、この二日は籠を出せなくなる。いつもの卓の分も入れて、五枚でどうだい?」
董白が俺を見た。
五枚は安くない。けれど、広間の隅へ二百枚を置いておくよりずっといい。俺はうなずいた。
「その額で、向こうに話してきます」
女将は鍵を持ったまま待ってくれた。
~
「漆も銭も、あんたたちへ預けるのか?」
話を聞いた川上の男が訊いた。
「うむ。試す時は二人とも立ち会って、その後は蓋を閉める。塗師の店へ持っていかずに、ここへ置いておく」
董白が塗師へ顔を向けた。
「試す時は、いつもどうしておるのじゃ?」
塗師は甕の蓋を指で叩いた。
「板へ薄く塗って置く。二日経って、次を塗れるくらいに乾いていれば使える。べたついて仕事にならないものは要らん」
「そなたが普段使うておる漆も、一緒に試せぬか?」
「店にある。それも塗るのか?」
「同じ所へ置いた方が、こちらの漆だけ遅いと言う時に分かりやすかろう」
川上の男が初めてうなずいた。
「それなら俺も見たい。いつも何と比べて遅いと言ってるんだ」
「いいよ。持ってくる」
塗師はそう答えたが、続けて董白へ訊いた。
「使えるなら二百枚で買う。それはいい。駄目だったら、買わずに済むんだな?」
「うむ。二百枚は返す」
「待ってくれ」
川上の男が口を挟んだ。
「買わないとなったら、俺には漆が戻るんだろう。二日待って、結局また売り先を探すのか」
「そうなる。そこまでは変えられぬ」
董白は男を見た。
「ただし、買うかどうか決めるのは明後日の昼じゃ。船が出る前日になる。戻った漆をどうするか考える時間は残るぞ」
男は黙って蓋の紐を弄っていた。
「半値にしろとは言わないんだな?」
「言わん。買うか、返すかだ」
塗師が答えた。川上の男はその顔を見て、ようやく手を止める。
「分かった。それで頼む」
董白はそこで俺を振り返った。
「場所は五枚で借りられる。手間賃は一人二十枚でどうじゃ?」
俺が答えるより先に、川上の男が声を上げた。
「二十枚もか!」
「俺からも取るのか? 漆の代とは別に?」
塗師も懐へやりかけた手を止めている。
董白は驚かなかった。
「二人とも、相手へ渡したくない物を置いていくのであろう。こちらは、それを二日預かる。途中で片方に頼まれても勝手には渡せぬ」
少女は一度、奥の物置へ目を向けた。
「甕を割れば謝って済むとも思うておらぬ。その仕事を二枚では引き受けられぬ」
俺は董白の横顔を見た。
二十枚ずつ。初めは俺も高いと思った。だが、俺たちが受け取る四十枚と、無事に返さなければならない二百枚は別だった。
「私も、その額でお願いしたいです。預かる間の仕事なので、売買がまとまらなかった時も手間賃は頂きます」
言い終えてから喉が渇いた。
今までとは違うと言いながら、額を口にする方が怖がっていても仕方がない。
川上の男はしばらく考え、塗師へ顔を向けた。
「ほかに、二人とも知ってる預け先はあるか?」
「店同士ならある。だが、あんたが嫌だろう」
男は口をつぐんだ。
塗師も甕を見ながら考えていたが、やがて銭袋を卓へ置いた。
「俺は払う。その代わり、話したとおりにやってくれ」
川上の男も少し遅れて懐へ手を入れた。
「二十枚だな。ああ、分かったよ」
董白がうなずいた。
俺は木簡を引き寄せた。二人の名前を確かめ、受け取る物と、明後日の昼にどう渡すかを書き始める。
~
塗師が道具を取りに帰っている間に、物置の床へ板を敷いた。
甕を置くのは俺がやることにした。董白に持たせたくないというより、さっきから俺自身が触るのを避けていたのが気になった。
手を滑らせるな。そう思って持ち上げると、腕にずしりと重みがかかる。
「そこ、少し空けてくれ」
董白が足元の籠を引いた。甕を下ろしてから息をつくと、少女が俺の手を見た。
「もう一つは、底へ布を回した方が持ちやすそうじゃな」
「ああ。そうする」
今度は董白が布の端を揃えてくれた。二つ目を並べ、間を少し空ける。どちらも傾いていないことを確かめた。
塗師が戻ると、二人の男が見ている前で蓋を開けた。
漆を板へ取るのは塗師に任せる。どの甕から取ったか分かるように、俺が板と甕へ印をつけた。いつも使っているという漆も別に塗り、三枚とも塗師が選んだ物置の場所へ並べた。
「ここならいい。明後日もここで見る」
「俺も、ここまで見てるからな」
川上の男が言った。
二つの蓋を閉め、紐を結ぶ。結び目を封じた所へ二人に印をつけてもらった。俺は触らず、董白もそばで見ていた。
塗師が出した二百枚は、二人にも数えてもらってから袋へ戻した。俺たちの銭と混ぜずに、こちらも封をする。
手間賃の四十枚から女将へ五枚を渡した。残りをしまってから、預かった袋を物置の棚へ置く。
戸を閉めて錠をかけた時は、思ったより大きな音がした。
俺は鍵を握ったまま二人へ振り返った。
「明後日の昼、二人揃ってから開けます。この書付を持ってきてください」
渡した木簡を二人が読んだ。川上の男は時刻の所を指で押さえ、うなずく。
「頼む。終わったら、買い物にも行きたいんだ」
「では昼に待っておる」
董白が答えた。
二人を見送って卓へ戻ると、俺はようやく腰を下ろした。
董白が俺の手元を覗いた。
「それ、握っておらずともしまえばよかろう」
鍵を持ったままだった。
「ああ。そうだな」
懐の奥へ入れ、上から押さえる。董白はそれを見てから、卓に残っていた布を畳み始めた。
~
翌日の夕方、川上の男が一人で来た。
董白は卓に広げた俺の控えを読んでいた。男を見ると顔を上げ、空いた床机を示す。
男は座らなかった。
「少しだけ、先に渡してもらえないか」
「何をじゃ?」
「漆の代だ。十枚でいい。買いたい鍋があるんだが、店に一つしかなくてな。明日まで残ってるか分からない」
俺は筆を止めた。
たしかに十枚くらいなら二百枚の一部だ。漆が使えるなら明日には全部渡す。
だが、それはまだ決まっていなかった。
「明日の昼まで待って欲しい。そなたへ渡す銭と決まったわけではないのじゃ」
董白が言うと、男は少し苛立った顔をした。
「俺の漆はちゃんとしてる。試さなくても、俺には分かってるんだよ」
「うむ。じゃが、塗師は試してから払うと言うておった」
「十枚だぞ? もし駄目なら返す。それも書いといてくれりゃいい」
男が俺を見た。
目が合ったので、筆を置いた。
「すみません。それはできません。あの袋は二百枚揃えて返せるように預かっています」
「そっちまで同じことを言うのか」
「二人で引き受けましたから」
男は唇を結んだ。
気の毒ではあった。せっかく見つけた鍋が売れてしまうかもしれない。俺も、欲しい物がもう店にないのを見てがっかりしたことくらいはある。
それでも、あの袋を開けるために鍵を出す気にはならなかった。
「……分かったよ」
男はようやく床机へ腰を下ろした。
「明日は、昼になったらすぐ頼むぞ」
「塗師も来たら、すぐ始めよう」
董白が答えた。
男はそのまま少し休んでから帰った。戸口を出ていく時の背中は、来た時より丸く見えた。
俺は置いた筆を取り直したが、すぐには書き始められなかった。
「怒らせたな」
「うむ」
「鍋、残ってるといいんだが」
董白も男の出ていった方を見た。
「明日の帰りに、見つかるとよいのう」
それ以上は話さなかった。
俺は控えへ目を戻した。鍵は懐にある。座り直すと脇へ当たり、そういえば預かっていたのだと改めて思った。
~
次の日、昼になる少し前から二人は来ていた。
俺は朝の荷を片づけながら、何度か物置の前を見た。塗師は道具を持って立ち、川上の男は床机へ座っている。今日は言い合っていなかった。
昼になって女将へ声をかけ、二人と董白を連れて物置を開けた。
甕も銭袋も、置いたままだった。
塗師は試し塗りした板を取り上げた。まず自分の漆を確かめ、それから残りの二枚を見る。川上の男が横から覗き込んだ。
「どうだ?」
「待てよ。今見てる」
塗師はしばらく確かめ、持ってきた道具で塗り重ねてみた。
俺には三枚の違いがよく分からなかった。どれも黒く光っている。手元を見ても、今どこを確かめているのかまでは分からない。
董白は口を挟まず待っていた。
やがて塗師が板を置いた。
「使える。これなら買う」
川上の男の肩が下がった。
「二百枚でな」
「ああ。二百枚だ」
男はそこで俺を見た。俺もうなずいて棚へ手を伸ばす。
その前に、董白が袋を指した。
「封を見て欲しい。甕の方もな」
二人が印を確かめた。どちらにも破れはない。男たちの前で袋を下ろし、塗師にも見てもらってから川上の男へ渡した。男は封を切って銭を取り出した。
塗師は甕の封を切り、蓋を開けて中身を見た。川上の男は銭を数えている。俺と董白は二人が確かめ終えるまで待った。
「全部ある」
その声で、俺はようやく息をついた。
「漆も、これでいい」
塗師が蓋を戻した。外へ声をかけると、荷車のそばで待っていた弟子が入ってくる。
試し塗りした板と道具を弟子に持ち出してもらい、残った甕を塗師が抱えた。今度は俺が運ぶ必要はなかった。戻ってきた弟子ももう一つを持ち上げ、戸口へ運んでいく。俺は道を空け、最後の甕が荷車へ下ろされるまで見届けた。
川上の男は銭袋を懐へ入れた。
「昨日は悪かったな」
不意に言われ、俺は男へ向き直った。
「いえ。これで買い物にも行けますね」
「ああ。鍋がまだあれば、真っ先に買うよ」
男は少し笑った。それから董白を見る。
「山へ帰ったら、ここを教えてもいいか? 俺みたいに、売った後で揉める奴はほかにもいるんだ」
「話を聞くのは構わぬ。ただし、持ってくる前に知らせて欲しい。いつでも場所を借りられるわけではないからな」
「分かった。泊まる所もここを教えておく」
それを聞いた女将が厨房から顔を出した。
「そっちは歓迎するよ。飯も出すから、そう言っとくれ」
男は笑ってうなずき、塗師と一緒に通りへ出ていった。
~
鍵を返すと、女将はさっそく物置を開けた。
俺たちも籠を元の場所へ戻す。床に敷いた板を引き上げ、倒れないよう壁へ立てかけた。二日前と同じ物置に戻ったのを見て、女将が戸を閉める。
「はい、おしまい。あたしも荷を入れられるよ」
「ありがとうございました」
礼を言うと、女将は厨房へ戻っていった。
懐が軽くなっていた。銭を使ったのではなく、鍵を返したせいだった。
俺は空になった手を開き、指を伸ばした。
「やっと落ち着いた」
「寝ておる間も、鍵を気にしておったのではないか?」
「ああ。なくしてないか、何度か触った」
「妾も気になった。そなたが寝返りを打つと鳴るでな」
「……それは悪かった」
董白は笑い、物置の戸を見た。
「次は、もっと大きな荷が来るかもしれぬな」
「あそこへ入らない物は断るぞ。女将の荷まで外へ出せない」
「うむ。毎回この物置を空けてもらうのも難しかろう」
少し前なら、また相談が来るのを待てばよかった。今は置き場所がなければ引き受けられない。
俺も閉まった戸を見た。自分たちで開け閉めできる場所があれば、いちいち女将を呼ばずに済む。朝、客のために寝床を畳むこともなくなるかもしれない。
「部屋を借りる話、もう一度聞いてみるか」
「一晩十二枚じゃぞ」
「ここの客間じゃなくてさ。町で空いてる家とか、物置とか。まず値段を聞くだけでも」
董白が俺へ顔を向けた。
「住む所と、荷を置く所を一緒に探すのか?」
「ああ。二つ借りるほどは持ってないだろ」
「では、そなたが縫うた袋も持っていかねばな」
「まだ引っ越すとは決まってないぞ」
「分かっておる。あれも入る所を探すのじゃぞ」
「あの袋が入らないなら、俺たちはどこで寝るんだよ」
董白が笑った。俺もつられて笑い、物置の前を離れた。
俺は表へ戻り、通りを見た。向かいの宿、その隣の店。町へ着いた日は、屋根の下で眠れればどこでもよかった。
今度は、二人で暮らしながら仕事のできる場所を探す。
通りを荷車が過ぎた。見慣れた赤い手拭いが、こちらへ振られる。
「赤さん! 少し聞いてもいいですか」
男が足を止めたので、俺は戸口を出た。