董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「家を借りたい?」
赤さんが荷車の柄を下ろした。
「はい。二人で住めて、荷物も置ける所を探そうと思ってるんですが」
「荷物って、あの書く道具か?」
「それもありますが、人から預かる物です。さっきまで漆を預かっていたんです」
俺が宿の奥を示すと、赤さんはああ、と声を上げた。
「あの二人、まとまったのか。さっき通りで見たが、どっちも機嫌がよさそうだったな」
「無事に済んで、さっき帰ったところです」
「そりゃよかった。……それで、今度は自分の所でやりたいわけか」
後ろから董白も出てきた。赤さんは俺たちを見比べてから、通りの先へ顔を向ける。
「この先に空いた家がある。前は籠を編む爺さんが使ってたんだ。息子の所へ移る時に荷を運んだから、場所は分かるぞ」
「貸してもらえそうですか?」
「そこまでは知らん。家主に会えたら聞いといてやるよ」
「お願いします」
「ただ、今からじゃなくていいか。こいつを届けなきゃならないんだ」
荷台には縄で括った板が積んであった。俺が慌てて脇へ退くと、赤さんは笑って柄を持ち上げた。
「急いで出なきゃならないわけじゃないんだろ?」
「はい。見つかったら、と思ってるだけです」
「なら、少し待ってな」
赤さんを見送り、俺は董白と宿へ戻った。
もう一度物置の戸を見る。さっきは借りられる所などあるのかと思っていたのに、空いている家が一軒あると聞いただけで気になり始めた。
屋根はちゃんとしているだろうか。俺たちにも払えるだろうか。
「見に行けるとよいのう」
董白に言われ、うなずいた。
「そうだな。まず女将に話しておこう」
~
「出ていくつもりなのかい?」
女将は洗い終えた鍋を伏せ、こちらを向いた。
「まだ決まってはいません。空いている家があると聞いたので、借りられるか確かめようかと」
口にすると、急に大事を言い出した気がした。
女将は俺を見てから董白へ目を移した。少女は隣で黙っている。厨房が静かになり、俺は先に言葉を足しかけた。
「まあ、そろそろそういう話になるだろうね」
女将が腰へ手を当てた。
「この頃は白を訪ねてくる客も増えたしねえ。あたしの宿なのに、あたしに用のないのが何人も入ってくるんだから」
「邪魔になっておったか?」
「忙しい時はね。あんたたちも気を遣ってたろう?」
董白が少し顎を引いた。
「うむ。卓を片づけても、立って話し始める者がおってな」
「そうそう。通れないから座っとくれって、結局また出すんだよ」
二人が笑ったので、俺も少し気が楽になった。
「ただ、朝の荷物を見る仕事はどうしましょう。私たちが急に抜けると困りますよね」
「急に出られたら、そりゃ困るよ。いつになるんだい?」
「家もまだ見ていないので……」
「じゃあ、まず見ておいで。その間にこっちも考えるから。あの子には、明日から札の方をやらせようかね」
庭で空の荷車を押していた若い男を指した。前にも札を読んでもらったことがある。少し時間はかかったが、読めないわけではなかった。
「馬の世話はどうするんですか?」
「そっちはあたしが割り振るよ。あんたは、今の荷がどこへ行くか教えてやっておくれ」
「分かりました」
女将は鍋の底に残った水を布で拭った。
「白も、椀を置く場所はあの子に言っとくんだよ。また勝手な所へ積まれたら、あたしが探すことになるから」
「昨日も一つ、薪のそばにあったぞ」
「誰だい、そんな所へ置いたのは」
「女将じゃ。呼ばれて持ったまま出ていった」
女将の手が止まった。
「ああ……あれかい」
俺は笑いそうになり、下を向いた。女将には気づかれたらしい。
「柳誠。あんたも覚えとくんだよ。二人で暮らすなら、誰かが片づけてくれるのを待ってても片づかないからね」
「はい」
返事をすると、隣の董白まで笑っていた。
~
翌日の昼過ぎ、赤さんが家主を連れてきてくれた。
年配の男だった。仕事のできる場所も欲しいと話すと、どんな荷を預かるのか訊かれた。漆の取引のことや、普段は書付を作っていることを説明すると、それなら見てから決めればいいと鍵を出してくれた。
宿を出て通りを曲がり、井戸へ向かう道を少し進む。
家は細い道に面していた。店が並ぶ通りからは外れるが、荷車が一台通る幅はある。赤さんが自分の車を引いてきて、戸口の横へ寄せてみせた。
「このくらいなら、入るぞ。前もここで積んだんだ」
家主が戸を開けると、乾いた土と古い木の匂いがした。
表は土間になっている。以前はここで籠を編んでいたのだろう。壁際には細い切れ端が残っていた。赤さんの車から荷を下ろしても、奥へ歩く場所は取れそうだ。
董白はさっそく中へ入った。
俺は戸口で一度天井を見上げてから、その後へ続く。昼なのに暗かったが、家主が小窓の板を外すと壁まで明るくなった。
「奥も見ていいですか?」
「ああ。戸は固いから、少し上へ持ち上げて引いてくれ」
言われたとおりにすると、ごとりと戸が動いた。
奥には板を張った小部屋があり、その横にもう一つ土間があった。裏の竈は煤けているが、鍋を置く所は崩れていない。
董白は小部屋へ顔を入れ、床を見た。
「ここで寝られるな」
「ああ。二人でも狭くはなさそうだ」
少女はしゃがみ、板を手で押してから立ち上がった。
俺も中を覗く。馬の臭いはしない。庭を横切る客もいない。朝になっても、この床へ荷物を積まれることはない。
(……いいな、ここ)
思ってから、慌てて奥の土間へ目を戻した。
寝る所が気に入っただけで決めるわけにはいかない。預かった物を置くなら、こっちの戸にも錠が要る。
董白も同じ所を見ていた。
「この戸へ錠を付けてもよいか? 荷を置く時に閉めておきたい」
「構わんよ。付ける銭は出してもらうがね」
少女は天井を指した。
「屋根はどうじゃ? 雨の時に見ておきたいのじゃが」
「裏は去年葺き直した。そこからは漏れんはずだが、確かめたいなら雨の日にも来ればいい。今すぐ決めろとは言わんよ」
俺は壁の下の方も見た。濡れた跡はなかった。前の雨の晩は、乾いている所を探して寝床をずらした。家を借りてまで同じことはしたくない。
赤さんは戸口からこちらを覗いている。
「どうだ?」
「使いやすそうですね。荷も置けますし」
「じゃ、あとは銭だな」
返事をしかけた口が止まった。董白が隣で小さく笑う。
家主は表の土間へ戻り、窓の板を立てかけた。
「一月で六十枚。初めに払ってくれれば、その日から使っていい」
俺は頭の中で、手元の銭を数え始めた。
「どの銭でも六十枚、ということではないですよね」
「そりゃそうだ。これくらいのを揃えてくれ」
家主が懐から一枚出した。受け取って厚みを確かめる。董白も俺の掌を覗いた。
揃えられそうだった。これまで貰った銭の中にも、同じくらいの物はある。
「少し、二人で話してもいいですか?」
「ああ。私は外にいるよ」
男が赤さんと戸口へ出ると、家の中は急に静かになった。
董白が奥へ目を向けた。
「妾はここがよい」
「早いな。ほかにもあるかもしれないぞ」
「あるかもしれぬが、ここは井戸にも宿にも近い。荷車も入る。そなたは嫌か?」
「いや。俺も、いいと思う」
言ってしまうと、いよいよここで暮らす気になってきた。
俺は竈の方へ顔を向けた。
「ただ、鍋も椀も買わないとな。水を汲む物も要るし、寝る物も……宿のをそのまま持ってくるわけにはいかない」
「うむ。まず帰って、足りぬ物を書こう。全部買うて、家賃がなくなっては困る」
「お前もそこは気になるんだな」
「当たり前じゃ。妾がここにいたいと言うただけで、家主が貸すと思うか?」
「……最初の頃なら、言いそうだったからさ」
董白が俺を睨んだ。
「今は言うておらぬであろう!」
「悪かった。そうだな」
笑いながら謝ると、少女はもう一度奥の小部屋を見た。
俺も見た。まだ何も敷いていない床なのに、今夜からでも横になりたかった。
~
その晩は、飯を食べた後も二人で卓を借りていた。
買う物を書き出し、女将にだいたいの値を聞く。棚の奥から銭袋を出して、家主に見せてもらった銭と近い物を分けた。
漆の手間賃もそこへ加えると、家賃の分は揃った。
その横へ買い物の銭を置いていく。筆を持つより銭を触っている時間の方が長い。途中で董白が、まだ結ばぬのか、と袋を見た。
「もう少し待ってくれ」
「さっきもそれだけあったぞ」
「分かってる」
俺はようやく手を止めた。
家賃を払って、足りない物を買っても、銭は残る。少しずつ貰ってきた粟もある。明日から何も食えなくなるような引っ越しではなかった。
ただ、宿を出れば朝晩の飯は自分たちで用意することになる。
「来月も、六十枚かかるんだよな」
「うむ」
「今月だけ払えばいいなら、もっと気楽なんだが」
董白は茶化さずに銭を見ていた。
「相談に来る者が、この先も必ず来るとは言えぬ。じゃが、場所があれば受けられる仕事も増える」
「漆みたいなのか」
「そうじゃ。あの二人も、もう預け先を知っておる」
川上の男は、帰ったら仲間にも教えると言っていた。
どんな荷が来るかは分からない。まるで来ないかもしれない。それでも、今まで知り合った顔が一人ずつ浮かんだ。家を出ても、この町に誰もいなくなるわけではない。
董白が俺の手元へ指を伸ばした。
「そなたも、ここでなくとも字は書けるであろう?」
「ああ。道具は持っていくからな」
「妾もおるぞ」
少女は俺を見上げた。
「そなた一人で払えとは言うておらぬ」
俺はしばらくその顔を見て、それから笑った。
「そうだったな。悪い、また一人で考えてた」
「二人で決めるために座っておるのじゃがのう」
「ちゃんと聞いてるよ。……借りよう。家主に返事をしてくる」
董白の口元が緩んだ。
「うむ!」
声が思ったより大きく、厨房の女将が顔を出した。
「決まったかい?」
「はい。あの家にしようと思います」
「なら、明日から買う物を見に行かなきゃね。鍋は底もよく見るんだよ。安いからって穴を塞いだのを持ってきたら、火にかけてから泣くことになる」
俺は書付の鍋の横へ、小さく字を足した。
隣で董白が覗き込む。
「穴を見る、と書いたのか?」
「忘れないようにな」
「妾も見よう」
二人で鍋の底を覗いているところを想像して、少しおかしくなった。
~
家を見た五日後、俺たちは宿を出ることになった。
その間に一度雨が降り、家主に戸を開けてもらった。屋根も奥の床も濡れてはいなかった。固かった戸は削ってもらい、荷を置く土間には錠を付けた。
家賃を渡し、借りる約束を書いた木簡を家主と一本ずつ持つ。俺の手元には鍵が残った。
女将の物置の鍵とは、少し形が違う。
懐へしまって宿へ戻ると、若い男が卓に札を広げていた。
「この麻布は、明日出す方ですよね?」
「はい。今日出す分は丸い印です。あちらの柱のそばにまとめてあります」
俺が答えると、男は札を手に立ち上がった。荷を見てから戻り、控えに数を書き込む。
書き終えるまで待っていた董白が、その横へ別の札を置いた。
「こちらは明日の朝じゃ。荷主が戻るまでは出さずにおいて欲しい」
「分かりました。こっちへ置いときます」
男が次の札を取りに立ったところで、俺は卓の端へ寄せていた書具箱を抱えた。もう、ここへ戻しておく必要はなかった。
荷物をまとめるのは長くかからなかった。
衣を包み、粟の袋を結ぶ。買った鍋と椀は先に家へ運んである。それでも来た時より荷が増えていて、董白は包みを二つ並べて持ち方を考えていた。
「こっちを持つ。お前は衣の方を頼む」
「書具箱もあるぞ」
「一度で全部持たなくていいだろ。すぐそこなんだから」
「ああ、そうか」
董白が片方から手を離した。
俺も、言ってからおかしくなった。旅に出るわけではない。忘れ物をしても、歩いて取りに戻れる。
それなのに厨房へ挨拶に行く時は、少し緊張した。
女将は夕方の仕込みをしていた。董白が戸口で立ち止まり、俺より先に声をかける。
「女将。世話になった」
「荷物はまとまったのかい?」
「うむ。借りた物も、そこへ戻しておいた」
畳んだ粗布を示す。女将は一度そちらを見てうなずいた。
「白、椀は布で包んで運んだんだろうね?」
「もう家に置いてある。割っておらぬぞ」
「ならよし」
女将が笑う。董白も笑いかけたが、まだ戸口を離れなかった。
「……あの晩、粥を貰えて嬉しかった」
女将の手が止まった。
「二人で、もう泊まれぬかと思うておったからな。ここへ置いてもらえて助かった」
董白はそう言って頭を下げた。
女将は少し黙った後、布で手を拭った。
「こっちも助かったよ。白がいなきゃ、今頃また椀を探してるところだ」
「棚へ戻せば探さずに済むぞ」
「分かってるって」
俺も頭を下げた。
「本当にありがとうございました。家の方が落ち着いたら、また顔を出します」
「落ち着くまで待たなくてもいいよ。煮炊きで困ったら聞きにおいで」
女将は俺へ言い、それから董白を見る。
「あんたたちを訪ねてきた客には、あの家を教えとくよ。銭を持ってくれば、飯も食わせるからね」
「今日はもう、自分たちで炊く」
「そうかい。じゃあ、焦がすんじゃないよ」
返事をして厨房を離れた。董白は表へ出る前に一度だけ振り返ったが、女将はもう鍋へ向かっていた。
~
最後の荷物を運び終える頃には、日が傾いていた。
俺は寝床へ腰を下ろし、脚を伸ばした。董白は表の戸を開けたり閉めたりしている。
「そんなに気になるか?」
「ここを閉めると、ずいぶん暗くなるのう」
「窓を開けてみるか」
板を外すと、傾いた日の光が床へ伸びた。董白が目を細める。
「灯もこちらへ置きたいのう」
小窓の下を指す。朝になったらそこへ書く道具を置こうと思っていたが、今は董白の好きにさせておくことにした。
立ち上がり、竈へ火を入れる。
宿では女将が火の面倒を見ていた。自分でやると、火を起こすだけでも思ったより時間がかかる。董白が運んできた細い薪を足すと、ようやく鍋の底へ炎が届いた。
「ついたな」
「ああ。水を頼む」
鍋に水を入れ、粟を加える。俺が杓子で混ぜている間に董白が椀を並べた。
二つとも、昨日買った物だ。少し歪んでいたが、台へ置いてもぐらつかない。董白は一つをこちらへ寄せ、もう一つを自分の前に置いた。
粥が煮えるのを待つ間、俺は表まで見に行った。
書具箱は窓の下にある。預かる荷はまだ一つもない。何も置かれていない土間は、昼に家主と立っていた時より広く見えた。
「そろそろよいのではないか?」
呼ばれて戻ると、鍋の縁まで粥が上がっていた。
「おっと……」
慌てて混ぜる。董白が下の薪を少し引いた。
「初日から焦がして、女将に笑われるところじゃったな」
「まだ焦げてないぞ」
「そう願うておる」
椀によそって渡すと、董白はまず匂いを嗅いだ。
「大丈夫だって」
「確かめておるだけじゃ」
俺もひと口食べてみた。焦げた味はしない。少し塩が足りない気がするが、食べられる。
向かいで董白も匙を動かし始めたので、ようやく安心した。
外で荷車の音がした。
つい顔を上げる。宿では車が止まれば、札を受け取りに出ていた。今の車は戸の前を通り過ぎていき、呼ぶ声もしなかった。
董白が俺を見ている。
「行かずともよいぞ」
「分かってる。音がすると、どうもな」
「そなたも落ち着いて食え。今は誰も待っておらぬぞ」
「……そうだな。椀はあとで俺が洗うよ」
「では、今日はそなたに任せる」
「ああ」
匙を動かしながら家の中を見た。董白の後ろに衣の包みがある。その隣には粗布を敷き、俺たちが食べる粟を置いた。
寝る場所と荷物を何度も動かさずに済む。
朝になったら、表の戸を俺たちで開ける。
「白」
「何じゃ?」
「借りてよかったな」
董白は匙を止めて俺を見た。それから椀へ目を戻し、小さくうなずいた。
「うむ。……まだ少し、変な気がするがのう」
「俺もだ」
もっと大喜びすると思っていた。けれど、飯を食べて寝る支度をしていると、ただ今日の疲れが出てくる。それが少し意外で、心地よくもあった。
椀が空になると、董白が荷物のそばから包みを持ってきた。
開くと粟を飴で固めた菓子が二つ並んだ。昨日の買い物の帰りに、前と同じ店で買っておいた物だ。取っておいた包みも、ようやくまた使えた。
「そなたの分じゃ。今日は割らぬぞ」
「ああ。引っ越し祝いだからな」
一つを渡され、手元と董白の分を見比べる。
「……そっちの方が大きくないか?」
「早く取らぬからじゃ」
言い終えるなり齧られてしまった。
「先に取ったのはお前だろ」
董白は菓子を噛みながら笑っている。俺も諦めて口へ運んだ。前に食べた時と同じように歯へ飴がくっつき、しばらくは二人とも黙っていた。
今夜は最後のひと口まで、自分の分だった。
食べ終わった椀を洗い、鍋に残った粥は蓋をして取っておいた。董白が窓の板を戻す。俺は表の戸を閉めて閂をかけた。
戸口から振り返ると、灯の下に二人分の寝床が見えた。
先に横になった董白が、粗布から顔を出す。
「明日は、起こされずに済むかのう」
「どうだろうな。今度は俺たちで起きないと、飯もできないぞ」
「……もう少し後で言えばよかろう」
「悪かった」
笑って隣へ座ると、董白が俺の分の粗布を押してよこした。
朝の支度は、明日考えよう。
今夜は寝床を空けてくれと呼ばれる心配もなかった。俺は草鞋を揃え、ようやく横になった。