董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
朝、戸を開けても誰もいなかった。
通りを箒で掃く女と、井戸へ向かう子供がいる。こちらを見た子供へ会釈すると、小さく頭を下げて通り過ぎていった。
俺は戸の前の土を掃き、窓の板を外した。
宿ならもう荷車が来ている頃だ。今朝は自分たちで粥を温め直し、ゆっくり食べた。それから椀を洗っても、まだ誰にも呼ばれていない。
卓の代わりに置いた板へ書具箱を載せる。床机は一つしか買わなかったので、董白に使わせ、俺は木箱へ腰を下ろした。
「低くないか?」
「少しな。書けないほどじゃない」
「そのうち、もう一つ買おう」
「ああ。まずは仕事が来てからだな」
言ってから二人で戸口を見た。
誰も来ない。
董白は頬杖をつきかけ、やめた。俺は昨日の家賃の控えをしまい、筆を置き直す。
(朝から待ってるだけで、こんなに長いのか)
宿の仕事を片づけている間に客が来るのと、客が来るまで何もないのは違った。
その日は昼前に、布の代金を受け取ったという書付を頼まれた。女将がここを教えてくれたらしい。二人目は道を訊きに来ただけだったが、夕方には赤さんが顔を出した。
「ちゃんと住めてるか?」
「おかげさまで。雨が降っても、寝床は濡れずに済みそうです」
「そりゃよかった。爺さんがいた頃より、ずいぶん片づいたな」
赤さんは土間を見回した。それから、まだ空いている奥の戸を指す。
「荷を預かるって、あっちか?」
「はい。錠も付けました。何かありますか?」
「俺のじゃないんだが、聞きたいって奴がいてな。明日の朝、連れてきていいか?」
董白が床机から身を起こした。
「よいぞ。何を預けたいのじゃ?」
「粟だよ。そいつ、船着き場で人を使ってるんだ。俺も何度か運んでる」
「量は分かるか?」
「そこは本人に聞いてくれ。家ごと埋まるほどじゃないと思うが」
「埋められては、わたしたちが寝られぬぞ」
「そこまでは入れさせるなよ」
赤さんが笑った。董白も笑い、明日は朝から待っていると答えた。
男を見送ると、少女は奥の戸を開けた。俺も隣から覗く。
まだ何も置いていない。床へ敷いた板が並んでいるだけだ。
「粟なら、濡れぬようにしておけばよいな」
「ああ。明日、置く所も見てもらおう」
戸を閉める董白の手が、今朝よりずっと軽そうに見えた。
~
翌朝、赤さんが連れてきたのは、浅黒い顔をした商人だった。
男は戸口で立ち止まり、董白を見た。
「白ってのは、あんたか。宿で話を聞いてたと聞いたが」
「うむ。今はこちらにおる。中へどうぞ」
董白が床机を勧めた。自分は俺が使っていた木箱へ座り、俺には書具箱の横を空けてくれる。
赤さんは朝の仕事があると言って、挨拶だけで戻っていった。
商人は男を見送ってから口を開いた。
「粟を二十斗、預かってもらいたい」
俺は奥の戸へ目を向けた。置ける量だった。
「いつまででしょうか?」
「なくなるまでだな。毎日少しずつ出してもらうことになる」
「そなたが取りに来るのか?」
董白が訊くと、男は首を振った。
「俺が雇った連中だ。船から荷を下ろしたり、蔵まで運んだりな。この頃は、銭より粟で払えと言うのが多くて」
「赤さんにも、粟で?」
「ああ。あいつにも渡してるよ」
男は膝へ両手を置いた。
「払うのはいいんだ。どうせ粟も扱ってる。ただ、終わる時刻が揃わなくてな。一組済むたびに蔵を開けて量ってると、こっちの仕事が進まん」
まだかと待つ男たちの顔が浮かんだ。女将も、荷を運んでもらうたびに椀を持って出てきていた。
「初めから船着き場へ置いておくのでは駄目ですか?」
「前はそうした。だが、雨が来ると荷と一緒に片づけなきゃならん。人も欲しいしな。ここで出してもらえるなら、俺は仕事を済ませてから帰れる」
「その間、働いた者はこちらで受け取るのじゃな」
「そうだ。あんたたちなら勘定もできるし、勝手に減らしたりしないと聞いた。もちろん、その分は払う」
董白が俺を見た。俺もうなずき返す。
「先に置き場所を見て頂けますか。よければ、渡し方も相談したいです」
奥へ案内すると、商人は板の上へしゃがんだ。壁の下の方を触り、天井も見る。
「ここならいいな。俺の蔵より井戸にも近い。帰りに水を汲む奴は喜ぶよ」
男の声が少し明るくなった。
俺も床を見た。ここに粟が並ぶ。
自分たちが食べるための袋とは違う。誰かが仕事を終えて、取りに来る分だ。
~
表へ戻ると、商人は持ってきた木簡を出した。
「こういうのを渡そうかと思ってたんだ。名前と、受け取る量を書いてな」
見せてもらうと、人の名前の下へ一斗とあった。
「毎回、これを書いて渡すんですか?」
「そうなる。人数が多い日は、それも手間だがね」
俺は木簡を裏返した。何も書かれていない。
「本人が取りに来るとは限らないですよね。仕事が長引いたら、家の人が来ることもあるでしょうし」
「あるよ。俺の所へ女房を寄越す奴もいる」
「その時は、こちらでは顔が分からないな……」
董白が木簡を受け取った。
俺が知っているのは赤さんくらいだ。家族までは会ったことがない。その名前の人が頼んだ相手なのか、訊くたびに商人を呼んでいては預かる意味がない。
けれど、持ってきた物と引き換えるだけなら。
「食券みたいにできれば楽なんだが」
「しょっけん?」
董白がこちらを向いた。
「……ああ。先に銭を払って札を貰うんだ。その札を出すと、決まった飯を渡してもらえる。そういうのを見たことがあってさ」
口に出してから、少しだけ身構えた。
いつ、どこで見たのかと訊かれたら困る。しかし董白は、手元の木簡へ視線を戻した。
「飯を受け取る時は、名前を言わずともよいのか?」
「ああ。札を渡すだけでいい」
「ふうむ……」
少女はしばらく考え、名前の書かれた所へ指を置いた。
「なら、ここはいらぬな」
「名前を消すのか?」
商人が覗き込んだ。
「うむ。そなたが働いた者へ札を渡す。その者が自分で来ても、家の者に持たせても、こちらでは札と引き換えに粟を出す」
「ああ……それなら俺の所へ、誰を寄越すって言いに来なくていいのか」
男は自分の木簡を見た。
「今までは、取りに来る者が違うたびに名前を聞いてたんだ。似た名前もいるから、時々どっちか分からなくなってな」
「誰へ札を渡すかは、そなたが決めればよい。ここでは、持って来た者へ渡そう」
董白は空いた木片を一枚取った。
「一枚で一斗にすれば、書く量も毎回変えずに済む。二斗払うなら二枚じゃ」
「二斗と書いた一枚じゃなくてか?」
「一斗ずつ取りに来ることもあろう。二枚あれば、一枚は家の者に持たせて、もう一枚は後に残せる」
俺は木片へ目を落とした。
そうか。俺はただ、名前を確かめなくて済むと思っただけだった。董白はもう、その札を受け取った人がどう使うか考えている。
商人は顎を撫でた。
「一枚で一斗か。そりゃ覚えやすいな」
「受け取った札はこちらへ残す。同じ札で二度渡すこともなくなる」
「ただの木片じゃ、似た物を持ってこられたら困るぞ。見分ける印が要るな」
俺が口を挟むと、董白がうなずいた。
「白の印を付けよう。それと番号じゃ。出した札の番号を、そなたの控えにも残しておけばよい」
「そうだな。戻ったら、その番号を消していく」
「うむ。一斗と分かるよう、端にも切り目を入れたい。字の読めぬ者もおるからのう」
俺は書きつけた。札に付ける物が決まると、ようやく形が浮かんできた。
商人が木片を指した。
「それは、今日から貰えるのか?」
「今日はまだ無理じゃ。札を作らねばならぬし、そなたの粟もここにはない」
「粟なら昼にでも運べるよ」
「では、札ができたら知らせよう。運んでもらい、量を確かめてから渡す」
男は少し考え、うなずいた。
「分かった。それまでは俺が払っておく」
俺はその日のうちに済ませようとしていた肩の力を抜いた。
札を作る。粟を受け取る。それから渡す。
順番にやればいい。考えついたばかりの物を、今すぐ男の手へ載せなくてもよかった。
「それで、いくらだい?」
商人が董白に訊いた。
少女は控えを見てから俺へ顔を向ける。
「二十斗を預かって渡し終えるまでで、二十枚。札の木と印を作る分は、別に出してもらいたいのじゃが」
「札を作るのも、俺持ちか」
「そなたが仕事代を払うための札じゃ。その分も見ておいて欲しい。次からも使える印は、こちらで持っておくが」
商人は鼻の脇を掻いた。
「あんたたちの手間賃は、粟で払えないか?」
「構わぬ。預ける二十斗とは別に持ってきてくれればな」
「そこから引いといてくれりゃいいだろう」
「引いた分だけ札は減るぞ。一枚につき一斗残しておかねば、最後に来た者へ渡せぬ」
男は口を開きかけ、木片を見た。
「……そりゃそうか。二十斗を全部、働く連中へ回すつもりで言ってたな」
「では、手間賃は銭でよいか?」
「ああ。そっちは銭を持ってくるよ」
男がうなずいたので、俺は約束を書き足した。
今度は俺たちの銭と混ざる心配だけではない。俺たちが食べる粟とも分けておく。奥へ置くのは、二十枚の札と引き換えに渡す分だった。
~
商人が帰ると、俺は同じことを書いた控えをもう一度読んだ。
董白は木片を弄っている。
「二十枚、全部戻るまで置いておくんだよな」
「うむ」
「家へ持って帰って、しばらく忘れる奴もいるかもしれないぞ」
「その間も残しておく。預かる銭であれば、そなたもそうするであろう?」
「ああ。……同じか」
顔の分かる二人の物を置いておく時より、妙に落ち着かなかった。取りに来る相手は、まだ誰とも決まっていない。
董白が木片をこちらへ寄せた。
「嫌か?」
「いや。どうなるのか考えてた」
俺は木片を拾った。
前の世界では、似た物を何度も使っていた。渡せば飯が出てくることを、いちいち疑った覚えはない。
だが今度は、俺たちが渡す方だ。
「最初に来た奴は、本当に貰えるのかって顔をするだろうな」
「出してやればよい」
董白は少し笑った。
「腹を減らして来るのじゃ。長く待たせぬようにしよう」
「そうだな。量る物も用意しないと」
俺は立ち上がった。先に木を頼みに行く。商人にも代を確かめてもらい、粟を運ぶ日を決めなければならなかった。
董白も腰を上げ、戸口へ向かう。
「印には、白と入れてもらうぞ」
「柳白じゃなくていいのか?」
「皆、白と呼ぶであろう。その方が分かりやすい」
「まあな。俺の名前を知らない奴でも、お前の名前は知ってるからな」
「そなたの名前も一緒に教えておこうか?」
振り返った顔が少し得意げだった。
「頼むよ。書く時だけ、おいって呼ばれるのもな」
董白が吹き出した。
「では、もう一つ床机も買ってやらねばな。今日はそなたが一番低かったぞ」
「見えてたのか。途中から膝が痛くてさ」
笑いながら戸を閉める。昨日の朝は、仕事を待つ時間を持て余していた。今日は戻ってきてからも、やることがある。
~
二日後、商人が粟を積んで来た。
木工に頼んだ札と印は、前日の夕方に受け取ってある。その代は商人が払い、俺たちは角のざらつきを確かめながら二十枚を並べておいた。
「こっちでよかったな?」
袋を担いで入ってきた赤さんへ、奥の板を示した。
「そこへお願いします。手前の袋から量ります」
商人と量り器を比べ、量が合うのを確かめてから始めた。董白が控えを持ち、俺がすり切った粟を空の袋へ移していく。
十斗を過ぎる頃には腕が重くなってきた。
(受け取りだけでこれか……)
ここから毎日少しずつ渡すのだ。置き場所を作っただけで済む仕事ではなかった。
「次、わたしがやろう」
董白が控えを置いた。
「持てるか?」
「袋ごとではないぞ。その量り器なら持てる」
手を替わると、少女は両手で支えて粟を移した。少しこぼれかけた所へ赤さんが袋の口を寄せる。
「急がなくていい。こっちは持ってるから」
「うむ。助かる」
俺は残りを数えた。最後の一杯を移すと、商人が自分の控えを見てうなずいた。
「二十斗。合ってる」
袋の口を結んでもらい、赤さんと板の奥へ寄せた。寝床の脇にある俺たちの袋は動かさず、こちらは預かった分だけを並べる。
表へ戻ると、俺は札へ番号を書き始めた。
一から二十まで。控えにも同じ番号を残す。
董白が一枚ずつ読み、白の印を押していった。新しい印は初めに余った木で試してある。二枚目、三枚目と進むうちに、押す手つきも落ち着いてきた。
最後の一枚を置くと、董白は全部をもう一度見渡した。
「二十枚じゃ。確かめて欲しい」
商人が端から数えた。赤さんも一枚を取って眺める。
「俺がこれを貰ったら、ここへ持ってくればいいんだな」
「うむ。袋を忘れずにな。札と引き換えに一斗渡す」
「家の奴でもいいんだろ?」
「よいぞ。その札を持たせてくれればな」
赤さんは裏の番号を見てから、商人の前へ戻した。
「だったら明日から、これで貰ってもいいよ。今日はもう約束した分を貰うけどな」
「分かってる。今日の分まで変えんよ」
商人は苦笑し、札をまとめた。
俺は出した二十枚に間違いがないことを確かめ、控えをしまう。手間賃も受け取り、商人と赤さんを表へ見送った。
空の荷車が動き出した。商人は懐の札を一度押さえてから、その後に続いた。
董白が奥へ戻り、粟を置いた戸に錠をかけた。
「明日には来るかもしれぬな」
「ああ。袋へ入れやすいように、量り器は手前に置いとく」
俺は表へ戻って、次に書く場所を空けた。
一番から二十番まで。明日は、このどれかに線を引くことになる。
~
最初の男が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
赤さんではなかった。肩に空の袋を掛けた男が、戸口で足を止めている。
「ここで粟を貰えるって聞いたんだが」
俺が顔を上げると、男は札を差し出した。
「船着き場で荷を下ろしてきた。いつもは向こうで貰うんだが、今日はこっちへ行けって」
手の中に白の印が見えた。
昨日、董白が押した物だ。男が裏を見せると、番号は一だった。
「はい。一斗ですね。袋はこちらへ」
俺が立ち上がると、男は札を持つ手を引きかけた。
「……これでいいのか?」
「ええ。その札と引き換えに渡します」
男はまだ少し疑わしそうだったが、俺の手に札を載せた。
董白がそばへ来たので札を渡す。少女は印と端の切り目を確かめ、控えの一番へ目を落とした。
「来たのう。奥を開けてくる」
俺は男を土間の手前へ案内した。
董白が量り器を持って出てくる。男は開いた戸の向こうを覗き、積まれた袋を見てから、自分の袋を広げた。
「ちゃんと置いてあるんだな」
「昨日、運んでもらいました。これから量りますね」
男の目の前で一斗を量った。袋へ注ぐと乾いた音がして、底が丸く膨らむ。
「これで一斗です」
男はしばらく袋の中を見ていた。それから口を結び、持ち上げてみる。
「……ああ、貰えた」
思わず出たらしい声だった。
俺も少し笑ってしまった。男がこちらを見る。
「いや、悪い。お前らを疑ってたわけじゃないんだ」
「初めてだと気になりますよね」
「そうなんだよ。受け取って、さあ帰るかって時に、札一枚だからな。家へ着いてこれしかなかったら、何をしてきたって言われる」
男は袋を肩へ掛け直した。
「これなら、そのまま帰れる」
董白は札を俺へ渡した。控えの一番へ線を引き、戻った札を箱へ入れる。
奥に残る粟は十九斗。まだ戻っていない札も十九枚になった。
男は俺の手元を見ていた。
「明日もここでいいんだな?」
「札を貰うたら持ってくるがよい。水を汲むついでに家の者を寄越しても構わぬぞ」
「そりゃ助かる。次の荷が来ると、帰るのが遅くなるんだ」
「ただ、暗くなる前に頼む。戸が閉まっておったら声をかけて欲しい」
「分かった。じゃあな」
男は戸口で少し肩を傾け、袋をぶつけないように出ていった。
俺はその背中が通りを曲がるまで見送った。朝から働いてきた男に、一斗を渡せた。それだけなのに、座り直す時は妙にほっとした。
董白が隣へ来て、箱の中を覗いた。
「随分、確かめておったな」
「札一枚渡されただけじゃ、あの人も心配だったんだろ」
「そなたのことじゃ」
顔を上げると、董白が笑っていた。
「男が帰ってからも、札と控えを見比べておったぞ」
「……一人目くらい、間違えずにやりたいだろ」
「二人目からも頼むぞ」
「そこは分かってるって」
俺も笑い、控えを脇へ寄せた。
董白が表へ顔を向ける。通りの向こうから、もう一人、袋を持った男が歩いてきていた。
「次も来たようじゃな」
「ああ。今、行く」
今度は椅子代わりの箱から、すぐに腰を上げた。