董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
二人目の男は、袋を広げてから札を探し始めた。
胸元を探り、帯へ手をやり、最後に袋をひっくり返す。足元へ落ちた木札を拾うと、照れくさそうに笑った。
「なくさないように入れといたんだった」
「袋ごと預からなくてよかったです」
俺が手を出すと、男は札に付いた土を払って渡してくれた。
今度は三番だった。
先に二番が戻ってくるものと思い込んでいたので、一瞬だけ手が止まる。商人がどの順で渡したかも、受け取った者がどこへ寄ったかも知らないのだから、順番どおりに来るはずはなかった。
董白へ札を見せてから粟を量った。男は袋の口を結び、腰へ抱えるように持ち上げる。
「明日は女房に来させるよ。帰りに持ってくのが一番重いんだ」
「うむ。札を渡し忘れぬようにな」
「そっちは袋に入れないようにしとく」
男が出ていくと董白が笑った。俺も控えの三番へ線を引いてから、少し笑った。
夕方までに四枚が戻ってきた。
最後の客を見送り、奥の戸を閉める。手を洗って戻る頃には、董白が鍋に火を入れていた。
「今日はもう来ぬかのう」
「どうだろうな。飯を食ってる途中で来るかもしれない」
「その時はそなたが出るのじゃぞ」
「俺が先に食い終わればな」
「では、熱いうちに食べるがよい」
椀を差し出され、湯気の向こうの顔を見た。
(そういう競争はしたくないんだが)
俺が息を吹きかけている間に、董白も隣へ座った。
結局、その晩は誰も来なかった。二人で鍋を空け、明日の水を汲んでから戸を閉めた。
~
二日後の昼前、赤さんが老人を連れてきた。
老人は片手に履物をぶら下げている。もう片方の手には白の札があった。赤さんの足元を見ると、片足だけ裸足だった。
「悪いな。ちょっと、こっちにも話してやってくれ」
「どうしたんですか、その足」
「切れたんだよ。仕事の途中でな。直してもらったんだが、払う段になって揉めてる」
「揉めとらん。俺は初めから粟でいいと言ったんだ」
老人が札を持ち上げた。
「こんな物でいいとは言っとらんぞ」
董白が床机から降りて、戸口へ来た。
赤さんは老人の手にある履物を見た。
「だから、これで粟が貰えるんだって。俺が貰うか爺さんが貰うかの違いだろ」
「お前は知っとるだろうが、俺は今日初めて聞いたんだ。木っ端一枚渡されて、はいそうですかと言えるか」
「なら来てくれって言ったら、本当に履く物まで持ってくるし……」
「履かせたら、そのまま行くだろうが」
赤さんが俺を見た。否定はしなかった。
片足を浮かせたままでは落ち着かないらしく、戸口の柱へ手をついている。先に座ってもらおうと木箱を出すと、礼を言って腰を下ろした。
董白は老人へ向き直った。
「札を見てもよいか?」
「ああ。こいつが今朝の仕事で貰ったと言ってる」
受け取った札を俺にも見せてくる。白の印と端の切り目。裏の番号は、まだ控えに線を引いていないものだった。
「これなら一斗渡せるぞ」
「俺が貰ってもか?」
「うむ」
老人は赤さんを見た。赤さんは、ほらな、と両手を広げた。
「それを先に言っとけ。袋を持ってくるんだった」
「俺は言ったよ!」
赤さんの声に、通りの女がこちらを向いた。
董白が口元へ手をやる。俺は奥へ向かいかけて、老人がまだ履物を持っていることに気づいた。
「では、一斗を直し賃にするということでいいですか?」
「ああ。そこの男とは、そう決めた」
「余った革で、こっちも直してくれたんだ」
赤さんが腰の道具袋を示した。口のほつれた所に新しい革が当たっている。
「手間をかけた分、今日はちゃんと貰うぞ。近いからといって、ちょっと直せと持ってくるな」
「分かったから。履かせてくれよ、もう」
老人はようやく履物を返した。
受け取るなり赤さんが足を入れる。紐を結び直し、土間で一度踏ん張ってから立った。
その様子を見届けて、老人も顔を上げた。
「袋は取りに戻る。粟は見せてもらえるか」
「こちらです」
俺が案内すると、老人は開いた戸の前まで来た。中を覗き、板の上に並んだ袋を見ている。
「あの商人の粟だと言っとったな」
「はい。先にここへ運んでもらっています」
「ここなら、来る前に船が出たなんてことはないな」
老人の声が少し変わった。
「前に修理代を取りに行ったら、船が出たあとでな。戻るまで待てと言われた。履いて帰る時は、すぐ持ってくると言ってたのによ」
「俺は持ってきてるだろ」
後ろから赤さんが言う。
「お前の話じゃない」
老人は振り返りもせず答えた。
俺は笑いそうになって、開けた袋の口を広げた。老人は粟を少しすくって眺め、袋へ戻す。
董白が持っていた札を差し出した。
「袋を取りに行くなら、これは持っていて欲しい。戻った時に引き換えよう」
「分かった。店はすぐそこだ」
老人が札を懐へしまう。赤さんはそれを確かめてから、俺たちへ頭を下げた。
「じゃあ頼む。昼には、もうひと働きあるんだ」
「今度は切れる前に持ってこい」
「ああ。助かったよ」
二人は戸口で別れた。赤さんは船着き場へ、老人は井戸と反対の方へ歩いていく。
俺はその背中を見ていた。
さっきまで、札は赤さんの仕事代だった。
今はあの老人の懐に入っている。俺たちはまだ一粒も出していないのに、履物の修理代は払えたらしい。
「……あれでよかったんだな」
董白がこちらを見た。
「持って来た者へ渡すと言うたであろう?」
「それはそうなんだが。家族に取りに来てもらうくらいしか、考えてなかった」
「赤さんも、初めは自分で取りに来るつもりだったのじゃろうな」
少女は二人が去った方へ目を戻した。
「その前に履物が切れたのじゃ」
言われてみれば、それだけのことだった。
~
老人はすぐに戻ってきた。
今度は袋も持っている。札を渡すと、袋の口を自分で広げた。
俺は董白と印と番号を確かめ、老人の前で粟を量った。すり切った上をじっと見られると、普段より手つきがぎこちなくなる。
(こぼすなよ、俺)
袋へ注ぎ、量り器を置いた。
老人は口を結ぶ前に中を見た。それから袋を持ち上げる。
「これで、もう貰っていいんだな」
「はい。札はこちらへ戻してもらったので」
俺が控えに線を引くと、老人は卓の脇に置いた札を見下ろした。
「これなら、もうあいつを捕まえなくていいな」
老人が初めて笑った。
「赤さんも助かるであろうな」
「次は壊れた物だけ持ってこさせるよ」
董白も笑った。
袋を脇へ抱えた老人が、戸口でこちらを向いた。
「次もこの札でいい。まだ使える物まで直せと持ってこなけりゃな」
「それは赤さんに言うて欲しい」
「ああ。どうせ明日も通る」
老人が出ていったあと、俺は札を箱へしまった。
赤さんが一斗を受け取って老人の店へ持っていくところを、老人が直接取りに来た。粟を出す手間は同じだった。
なのに、俺の書いた小さな札で買い物ができた。
もう一度箱の中を見ようとして、やめた。さっき番号は確かめたばかりだ。
「気になるなら、見てもよいぞ」
「……顔に出てたか」
「赤さんが履物を返してもらった時から、そなたは同じような顔をしておる」
「便利になるとは思ってた。でも、こんな使い方までされるんだな」
董白は俺の隣へ座った。
「粟が欲しい者ばかりではないからのう。今日、家に食う分があれば、ほかの物を買いたくもなる」
「その店が受け取ってくれれば、か」
「うむ。あの爺も、次は赤さんとここまで来ずに済む」
老人が店で札を受け取るところを想像した。
商人が渡しているところは見ていない。赤さんが老人へ渡した時も、俺たちはここにいた。
次は、どこを通って戻ってくるのだろう。
面白いと思った。同時に、少し怖くもなった。札を受け取った時に俺たちの顔を思い浮かべる人が、一人増えたのだ。
「出し渋るわけにはいかないな」
「粟か?」
「ああ。あの爺さんが今度、ほかの客から受け取った時も」
「そのために預かっておるのじゃ。そなたが腹を減らしても、食わせてはやれぬぞ」
「そっちを食う話じゃないだろ」
董白は笑って立ち上がった。
「妾も腹が減った。飯にしよう」
言われて初めて、もう昼を過ぎていることに気づいた。
~
それから三日ほどして、油を売る女が札を持ってきた。
この町へ来た頃から通りで見かけている女だ。小さな甕を戸口の脇へ下ろすと、その腕に掛けていた袋を取った。
「これ、一斗だったね?」
「はい。こちらへどうぞ」
俺が受け取ると、女は袋を置いて帯を締め直した。
「店の人から、ですか?」
「荷を運ぶ男からだよ。銭を持ってないって言うから、油と替えたんだ」
女が、俺の手元へ目を向けた。
「あの靴直しが、ちゃんと貰えたって話してたからね。ここでいいんだろ?」
董白が奥の戸を開けながらうなずいた。
「よいぞ。一斗出そう」
俺は裏の番号を確かめた。最初に出した二十枚のうち、まだ戻っていなかった札だった。
三日前の老人は、赤さんと一緒に来た。粟を見せ、量るところも見てもらった。
この女は、あの老人から聞いただけで札を受け取ったらしい。
量り終えると、女は袋を抱えて小さく息を吐いた。
「やっぱり、こっちは重いね」
「さっきまでなら、帯へ入ったであろう?」
董白が訊くと、女は笑った。
「そうだねえ。油を届けた帰りでよかったよ。行く前に来てたら、持ち切れなかった」
戸口の脇に置いた甕を持とうとして、女が手を止めた。俺が先に甕を取る。
「店まで運びましょうか」
「助かる。すぐそこだから」
董白へ声をかけ、女と一緒に通りへ出た。
女の店は本当に近かった。軒下の板へ甕を戻すと、隣で縄を選んでいた男が顔を上げる。
「今日は粟も売るのか?」
「これはうちで食べるんだよ。白の札を持ってったら、すぐ貰えた」
白の札。
女が何気なくそう呼んだので、俺は甕から手を離すのが少し遅れた。
名前は印に入っている。それでも、俺たちのいない所で同じ呼び方をされていると聞くのは、初めてだった。
「ああ、靴直しも言ってたな。荷運びの連中が貰ってるやつだろ」
男の返事を聞きながら、俺は空いた手を握った。
知っている人が、ここにもいた。
女に礼を言われて家へ戻ると、董白が卓の上を片づけていた。俺も書具箱を脇へ寄せ、空いた所へ椀を二つ置く。
「喉が渇いた。白も飲むか?」
「うむ」
水甕から二人分を汲んだ。椀を渡して隣へ座ると、董白もひと口飲んだ。
「店で、白の札って言ってたぞ」
「白と押してあるからな」
「そうだけど。隣にいた奴まで知ってた。俺たちが説明しなくても、誰かが話してるんだな」
董白は椀を膝へ下ろし、戸口の向こうへ目をやった。少し口元が緩んでいる。
「明日、爺に会うたら礼を言っておこう」
「ああ。俺も」
俺は戸口へ目を向けた。油売りの店はここから見えない。その向こうに靴を直す老人がいて、もっと先には船着き場がある。
そこを人が行き来する間に、俺たちの札も運ばれている。
明日戻ってくる一枚を、誰が持っているのかは分からなかった。名前を知らない人が来ることにも、もう少し慣れなければいけない。
「忙しくなるかもしれないな」
「ならば、先に買っておこう」
「何を?」
「そなたの床机じゃ。客が来るたびに膝をさすっておるではないか」
まだ木箱に座ったままだった。気づかれているとは思わず、膝に置いていた手をどける。
「……ああ。そろそろ欲しい」
「次に木工が来たら頼もう。いつまでも妾が見下ろすことになるぞ」
「座ってる時だけな」
董白が俺の肩を小突いた。水をこぼしかけて椀を持ち直すと、知らぬ顔で自分の分を飲んでいる。
俺も飲み干して立ち上がった。
~
その日の夕方、最後の客が帰ってから二人で粟を確かめた。
董白が袋の口を押さえ、俺が残った量を控える。戻った札も並べ直すと、今日の仕事は終わった。
表の戸を閉めようとしたところで、通りから声がした。
「白はまだいるかい?」
靴直しの老人だった。今度は札も袋も持っていない。
董白が俺の脇から顔を出した。
「ここにおるぞ。どうした?」
「うちの前を通った女に、ここを教えた。途中で誰かに捕まったらしいが、まだ来るかもしれん。札を持ってたぞ」
俺は閉めかけた戸を押し戻した。
「分かりました。少し待ってます」
「悪いな。これを仕舞ってから言いに来ようと思って、忘れるところだった」
老人が肩へ掛けた道具袋を叩いた。董白は首を振る。
「知らせてくれて助かった。そなたも、またな」
老人は片手を上げて帰っていった。
俺は奥の鍵を取った。
「白、飯を頼む。こっちは俺が出す」
「うむ。では、そちらは任せた」
表へ戻ると、通りの向こうから袋を持った女が早足で近づいてきた。
「まだ、いいですか?」
女の手に白の印が見えた。
俺は戸を大きく開け、袋を置く場所を空けた。
「ええ。ここで受け取れますよ」