董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
縄の男が五枚を置いていってから、宿の入口へ来る客がまた増えた。
その日の昼前に来た二人は、どちらも荷を持っていた。
日焼けした痩せた男は、黒い甕を一つ背負っている。もう一人の中年男は、同じ形の甕を抱えていた。並んで入ってきたのに、土間へ置いた甕は少し離れていた。
「白ってのは、あんたか。山から漆を持ってきたんだが、この男が約束の銭を出さねえんだ」
先に口を開いたのは、川上から来た男だった。
「約束を破る気はない。だが、漆は塗ってみないと良し悪しが分からないんだ。水で薄めたものでも、甕の中にあるうちは同じに見える。塗って二日置いて、きちんと乾くまでは払えない」
中年男は町の塗師だった。指の腹も爪の際も、漆で黒く染まっている。
川上の男が、すぐに言い返す。
「その二日が待てねえと言ってるんだ。上りの船が出るのは三日後だ。今年はそれが最後になる。二日待った挙げ句に乾かないと言われたら、俺は漆も銭もないまま、この町へ置いていかれる」
「まともな漆なら、乾かないとは言わん」
「あんたは前にも、乾きが遅いと言って値を下げただろうが。川上じゃ、あんたに売ると半値にされるって話になってるぞ」
塗師の顔が固くなった。
董白は二人の間に置かれた甕を見てから、塗師へ尋ねた。
「値を下げさせたことはあるのか?」
「……二度ある。だが、一度は本当に乾かなかった。もう一度も、仕事に使えるほど早くは乾かなかったんだ」
「乾かなかったのではなく、そなたが待てなかったのじゃな?」
塗師は答えなかった。
川上の男が鼻を鳴らす。
「これで分かっただろ。二日後にこいつへ決めさせたら、俺が損をする」
「そなたの漆が薄められておれば、先に銭を出した塗師が損をする。どちらも相手の言葉だけでは動けぬのじゃな」
董白は甕を指した。
「なら、漆も銭も、二日の間はわたしが預かろう」
二人が同時に董白を見る。
「今ここで、そなたが二つの甕から板へ塗る。二日後、初めに決めた見方で乾いておれば、銭は川上の者へ、漆はそなたへ渡す。乾いておらねば、どちらも元の持ち主へ返す。これなら、そなたは乾かぬ漆へ銭を払わずに済み、そなたは塗師の気が変わるのを待たずに済む」
川上の男が、董白と塗師を交互に見た。
「その二日間、こいつが漆へ触らないなら、俺はそれでいい」
塗師はすぐには答えなかった。
「乾いたかどうかは、誰が決める?」
「そなたら二人じゃ。だから今、決めておけ。二日後に新しいことを言い出しても聞かぬぞ」
塗師は甕の横へしゃがみ、蓋へ手を置いた。
「日の当たらないところへ置いて、二日後の朝に爪で押す。跡が残らなければ、まともな漆だ」
「それでいい」
川上の男が答える。
董白は頷いた。
「では、わたしの手間賃を決める。一人二十枚、二人とも先に払え」
「二十枚?」
川上の男が声を上げた。
「漆を二日置くだけで、俺から二十枚も取るのか」
「俺からもか。漆の代は別に出すんだぞ」
「高いと思うなら、二人だけで話を続ければよい」
董白は平然と答えた。
「塗師はこの漆を買えねば、夏に納める品を作れぬ。川上の者は船を逃せば、次に山へ戻れるのは秋になる。そなたらが失いかけておるものに比べれば、二十枚で二日を買える方が安いであろう?」
二人とも黙った。
先に銭袋へ手を入れたのは塗師だった。二十枚を卓へ置く。川上の男も渋い顔のまま、同じだけ出した。
「それから、その四十枚は預かる銭とは別じゃ。わたしは漆からも、その代からも取らぬ。わたしの銭は、今ここで出せ」
俺は二人分の手間賃を数え、董白たちの銭袋へ入れた。
「では始めよ。塗るのは塗師じゃ。川上の者は、その手元を見ておれ」
~
女将から借りた板を、二枚並べた。
塗師が甕を一つずつ開け、それぞれの漆を板へ薄く塗る。川上の男は隣にしゃがみ込み、塗師の指先から一度も目を離さなかった。
「これでいい。二日あれば乾く」
「では蓋を閉めよ」
甕には紐を巻き、結び目へ二人の印を押した。漆代の入った袋も、二人で中を数えてから同じように封をする。
女将は奥の物置を開け、俺へ鍵を渡した。
「貸すのは部屋と鍵だけだよ。預かったのは、あんたたちだからね」
「分かっておる」
董白は甕と銭袋を物置へ入れ、最後に二枚の板を運び込んだ。扉を閉めると、俺が錠を下ろした。
預かった品と、二日後にどう返すかは、木簡を三枚並べて同じように書いた。二人へ一枚ずつ渡し、残りは俺たちの控えにする。三枚の端には、同じ印を刻んだ。
「二日後の朝、この木簡を持って来てくれ。板を見てから、決めたとおりに返す」
「朝のうちに頼む。船が出るのは、その次の日だ」
「分かっておる。店へ寄る時間は残す」
川上の男は木簡を懐へ入れた。塗師も自分の一枚を受け取る。
宿を出る時まで、二人の間は空いたままだった。
~
翌日の夕方、川上の男が一人で戻ってきた。
「頼みがある。漆代を、少しだけ先に渡してくれないか。山へ持って帰る塩と鍋を買いたいんだ。明日の朝に乾いていれば、どうせ俺の銭になるだろ」
董白は入口の卓から動かなかった。
「渡さぬ。明日の朝までは、そなたへ渡すと決まっておらぬからな」
「全部とは言わない。ほんの少しでいいんだ。板を見れば、もう乾いてるかどうかくらい分かるだろ」
「見もせぬし、渡しもせぬ。二日後の朝に決めると、そなた自身が承知したのじゃ。昨日の約束を今日曲げるなら、初めからわたしへ預けるな」
川上の男は、しばらく何も言わなかった。
「……分かった。明日の朝まで待つ」
「それでよい。乾いておれば、店が開いてから船が出るまでに買える」
男は物置の方を一度だけ見て、宿を出ていった。
その夜、俺は物置の錠を引いてみた。扉が鳴っただけで、開きはしない。
中には、俺たちの物ではない漆と銭がある。
いつもの宿なのに、鍵を持っている間だけは、奥の物置が妙に遠く感じた。
~
翌朝、川上の男と塗師は、日の出より早く宿へ来た。
女将が竈へ火を入れる横で、俺は物置の錠を開けた。二枚の板も、二つの甕も、銭袋も、置いた時のままだった。
董白が板を土間へ並べる。
「そなたが決めた見方じゃ。自分で押せ」
塗師は一枚目の前へしゃがみ、親指の爪を立てた。力を入れて押し、指を離す。
黒い面に跡は残らなかった。
二枚目も同じだった。
塗師は板を朝の光へ傾け、もう一度指でなぞった。
「乾いてる。二つとも、まともな漆だ」
川上の男が大きく息を吐いた。
塗師は板を置き、男へ向き直る。
「前に値を下げさせた話まで出たんだ。疑われても仕方ない。悪かったな」
「漆を見たうえで言うなら、それでいい。山へ帰ったら、あんたがまともな漆だと言ったことも伝えておく」
二人の間にあった隙間が、少しだけ狭くなった。
俺は控えの木簡を出し、二人が持ってきた木簡と端の印を合わせた。
「三枚とも同じだ。決めたとおりに返すよ」
董白が銭袋を川上の男へ、甕を塗師へ押し出す。
「封は二人で確かめよ。切れておらねば、そのまま持っていけ」
二人は結び目の印を見てから、紐を切った。
川上の男は銭を数え、塗師は甕の中を確認する。どちらも最後まで終えると、董白へ頷いた。
「全部ある」
「こっちも減ってない」
「なら終わりじゃ。あとは二人で運べ」
塗師は甕を一つ抱え、もう一つを川上の男へ渡した。二人はそれぞれ甕を抱え、戸口へ運ぶ。
外には、塗師の弟子が荷車を引いて待っていた。
俺は空になった物置を閉め、女将へ鍵を返した。
川上の男は銭袋を腰へ結び、宿を出る前に振り返った。
「山の連中に、この町には漆と銭を預かってくれる者がいるって話してもいいか?」
「構わぬ。ただし、次も二十枚とは限らぬぞ。預かる物と日数を聞いてから決める」
「分かってる。だが、山で話せば、次は甕二つじゃ済まねえかもしれないぞ」
「その時は、入る場所を用意してから引き受ける」
川上の男は笑い、塗師と一緒に荷車の後ろへ回った。
来た時には離して置かれた二つの甕が、今度は同じ荷車に並んで宿を出ていった。