董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
十六年前。長安。
俺がこの世界に来て、半年が過ぎていた。
来ようと思って来たわけではない。
気がついた時、俺は見知らぬ城壁の外に立っていた。
道は乾いた土で、牛に引かれた車が木の車輪を鳴らしていた。粗い服を着た人たちが荷を背負って門へ並び、近くでは馬の糞と炊事の煙が混じった匂いがする。
初めは、どこかの撮影場所に迷い込んだのかと思った。
だが、どれだけ歩いても見えるものは変わらない。日が暮れると、町は家々の灯だけを残して暗くなった。俺の方を珍しそうに見る人はいても、撮影を止める人は一人もいなかった。
言葉は、最初からある程度は通じた。
最初に声をかけてきた男の話し方は妙に古く、知らない言葉も混じっていた。それでも、どこから来たのか、腹が減っているのか、そのくらいは分かった。俺が答えると、男も何度か聞き返したが、最後には分かってくれた。
だからといって、すぐに暮らせたわけではない。何を頼めば飯が出てくるのかも、どこで仕事を探せばいいのかも、銭をどう使うのかも知らなかった。
まず覚えたのは、長安がどこにあるかでも、今の皇帝が誰かでもない。腹が減った時に飯を頼む言葉と、仕事が欲しいと頭を下げる言葉だった。
次に必要になったのは名前だ。
元の名前を口にしても、聞き慣れない音らしく、何度も聞き返された。結局、名前に使っていた文字から二字を取り、柳誠と名乗ることにした。
文字も、まったく読めないわけではなかった。俺の知っている漢字とは、形が違うものも多かった。それでも、短い文なら前後から意味を拾えた。書き方は人の手元を見て覚えた。数はもっと分かりやすかった。
ここが後漢の終わりだと気づいたのは、長安へ入ってからしばらく経った頃だ。
それまでは、漢字に似た文字を使う、知らない国だと思っていた。長安という地名を聞いても、同じ名前の町かもしれないと考えた。
太師の名が董卓だと聞いた時も、まだ同じ名前の人で済ませようとした。
だが、呂布がいる。王允がいる。皇帝を洛陽から長安へ移したのも、その董卓だという。
そこまで重なれば、もう偶然ではなかった。
俺は時間を遡り、三国志の始まりへ放り込まれたらしい。
それが分かった夜は、さすがに眠れなかった。元の世界へ戻る方法を考えた。なぜこんなことが起きたのかも考えた。
何一つ分からなかった。
なぜ言葉まで通じるのかも知らない。だが、そもそも時間を遡った理由の方が、もっと意味が分からない。言葉のことだけ考えても、答えが出るとは思えなかった。
通じるなら使う。それでいいことにした。
朝になれば腹が減った。帰り方が分からなくても、飯を食べなければ死ぬ。知っている武将を訪ねる銭も、そこまで一人で旅をする力もない。
しばらくは、荷を運び、使い走りをして食いつないだ。ある倉で荷札を読めると分かり、受け取った袋の数を書かされた。何日か続けても数を間違えなかったので、今度は木簡を書く仕事を任された。その仕事を続けているうちに、太師府で帳簿を書く人手が足りないと言われ、俺も回された。
半年後の今、俺は太師府で帳簿を書いている。
武器は使えない。馬にも乗れない。この時代の礼儀は、半年経った今もよく分からない。俺にできるのは、地味な事務仕事だけだった。
「柳誠、昨日の分はまだか?」
隣の机から声が飛んできた。
「今、確認してる。粟が二袋、受け取った数と合わない」
俺は二枚の木簡を机へ並べた。
「またか。倉の方へ戻せ」
「だから、その戻す先が二つ書いてあるんだよ。どっちか分からない」
同じ印が押された箇所を指した。書いた人が違うせいで、粟二袋が東の倉と西の倉の両方へ入ったことになっている。
隣の書吏は嫌そうな顔をしたが、木簡を一枚持って席を立った。
この仕事に就いて分かったことがある。
仕事で紙がほとんど回ってこないのは不便だ。木簡は重いし、場所を取る。書き直すのも面倒くさい。
それでも、間違い方は元の世界と大して変わらなかった。人が書けば抜けるし、急げば数字がずれる。誰かが確認しなければ、そのまま倉から物が消える。
そういう仕事なら、俺にもできた。
帳簿の数字を直し、紐を通す。返す木簡を持ち上げたところで、床が小さく揺れた。
地震ではない。
大勢が、廊下を一度に走っている。
「何だ?」
戸の外を見た書吏が、そのまま動かなくなった。
向こうから来た男が柱へ肩をぶつけた。そのまま、廊下中に響く声を上げる。
「太師が殺された! 呂布が、太師を!」
部屋の空気が止まった。
董卓は呂布に殺される。
それは、俺も知っていた。
正確には、知っていたつもりだった。
俺が知っている三国志は、昔遊んだゲームが中心だ。そこへ小説や漫画で見た話が混ざっている。誰が誰を殺すとか、どの戦でどちらが勝つとか、有名な話だけは覚えていた。
ただし、それが何年何月に起きるかは知らない。董卓が死ぬのと長安がまた荒れるのと、どちらがどれだけ先だったかも怪しい。
だから、覚えていることはノートに書いた。
確かな話と、怪しい話を分けて。
そのノートには、董卓は呂布に殺されると書いてある。
今日だとは、一字も書いていなかった。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ途端、止まっていた人たちが一斉に動いた。
机が倒れ、綴じる前の木簡が床へ散った。隣の書吏は自分の書具だけを掴み、戸口へ走る。何を持って出るべきか聞く暇もない。
俺も書具箱を抱えた。
帳簿まで持つ余裕はなかった。床へ落ちた木簡を踏みそうになり、慌てて足を引く。その横を、別の男が何のためらいもなく走り抜けた。
廊下へ出ると、もっとひどかった。
役人も下働きも、同じ方へ押し合っている。荷を抱えた男が転び、後ろから来た人に蹴られた。泣き声が上がっても、誰も止まらない。
太師が死んだ。
なら、この屋敷にいるだけで、太師の側の人間だと思われる。
半年前に雇われた末端の書吏です、と説明する時間を兵がくれるとは思えなかった。
俺は人の流れから外れ、荷を運ぶ時に使う細い廊下へ入った。正門へ向かう方が早い。だからこそ、あちらはもう詰まっている。
裏の通用口までなら、歩いて数分もかからない。
途中、一度だけ後ろを振り返った。
屋敷の奥から、濃い紫の衣を着た少女が出てきた。
見覚えがあった。
少し前、帳簿を届けた帰りに一度だけ見た。大人を何人も従え、廊下の真ん中を歩いていた少女だ。すれ違う人がみんな頭を下げたので、後から名前を聞いた。
濃い藍紫の髪には銀の飾りがあり、前髪の一房だけが金色だった。周りの大人より頭一つ小柄なのに、廊下を譲る側になる気など初めからない歩き方をしていた。
あの時は、こんな場所にも子供がいるのかと思っただけだ。
渭陽君、董白。
董卓の孫娘で、十三歳だと聞いた。
俺とは一生関わりのない相手だと思っていた。
少女の後ろには、侍女が二人いた。ただし、従っていたのは最初だけだ。正門の方から兵の怒鳴り声が聞こえると、一人が立ち止まった。もう一人も、少女と逃げ道を見比べた。
二人はほとんど同時に走り出した。
董白を置いたまま。
「待て。どこへ行く!」
少女の声が飛んだ。
侍女たちは振り返らない。人の流れへ入り、そのまま見えなくなった。
董白は、しばらく動かなかった。
置いていかれたことが分からないように見えた。あるいは、分かっていても認められなかったのかもしれない。
俺は足を止めかけた。
何をしてる。早く外へ出ろ。
董白は董卓の孫だ。助ければ、こっちまで殺される。そもそも俺には、あの先に何が起きるのか分からない。
ゲームでは、董卓のそばに小柄な女の子がいた気がする。
だが、そこで何をした?
どこで死んだ?
何も思い出せない。
俺が知っている先の話に、董白の名前は出てこない。この先も大きな役目はないのだろう。俺が知っている話を変えてまで助ける理由もない。
そう考えている間に、通用口の外から別の声が近づいてきた。
「董氏の者を逃がすな! 女も子供もだ!」
武器を持った兵が、狭い路地へ入ってくる。
先頭の兵は、逃げてきた人の顔を一人ずつ見ていた。後ろの兵は、捕まえた男を壁際へ押しつけている。
董白の紫の衣は、薄汚れた人の中で嫌になるほど目立った。
あれで隠れるのは無理だ。
董白にも、ようやく分かったらしい。
少女の足が止まった。
兵がこちらを見た。
董白は逃げなかった。
顎を上げ、兵を睨み返そうとしている。両手は小さく震えていた。
あと少しすれば、兵はここまで来る。
捕まればどうなるかは、考えるまでもない。
十三歳の少女が、目の前で殺される。
嫌だった。
俺は董白の手首を掴んだ。
考えたのは、その後だった。
逃げ道は決めていない。少女を隠す場所も、城の外へ出す方法もない。仕事道具まで抱えたままだった。
助けると決めて動いた人間の手際ではない。
ただ、兵がこの手首を掴むより先に、俺の手が届いてしまった。
「こっちだ!」
「なっ、そなた、妾に何をする! 放せ、無礼者!」
董白はすぐに手を振り払おうとした。だが、俺も放さなかった。兵がこちらへ来る前に路地を横切り、向かいの狭い通路へ飛び込む。
「侍女を呼べ! 今すぐじゃ!」
「さっき逃げただろ!」
「逃げたのではない! 妾の供なら、すぐに戻ってくる!」
董白の声が路地に響いた。
俺は反射的に少女の口を塞いだ。
董白が目を見開く。次の瞬間、手のひらに歯が当たった。
「痛っ……噛むな!」
「むぐっ!」
「静かにしろ。見つかる!」
背後で足音が止まった。
俺は董白を壁際へ押し込み、自分も息を止めた。書具箱の角が脇腹へ食い込む。
「紫の衣の娘を見なかったか?」
兵の声が近い。
路地の入口で、誰かが違う方角を指した。すぐに複数の足音が遠ざかっていく。
それでも、しばらく動けなかった。
手の下で董白が何か叫ぼうとしている。兵の声が聞こえなくなってから手を離すと、少女は大きく息を吸った。
「無礼者! 妾の口を塞ぐなど、どうなるか分かっておるのか!」
「今は大声を出すなって!」
董白は俺を睨み返した。声は、さっきより低くなっている。
「妾へ命じるな。侍女を呼べ。いや、祖父様の兵でよい。すぐにここへ連れてこい!」
「無理だ。太師は死んだ」
董白の口が閉じた。
聞こえなかったのではない。分かる言葉だったから、反応できなかった。
やがて、少女は顎を上げ直した。
「戯言を申すな。祖父様が呂布ごときに遅れを取るものか」
「俺だって見たわけじゃない。でも、屋敷中の人が逃げてる。兵は董氏の身内を探してる。それだけは見ただろ」
「ならば、妾が姿を見せればよい。祖父様の兵なら、妾を守る」
本気で言っている。
半日前までなら、その通りだったのだろう。
今は、誰が董卓の兵で、誰が董卓を殺した側なのか、俺にも分からない。少なくとも、それを見分けるために名乗っていい状況ではなかった。
路地の奥で、また怒鳴り声が上がった。
俺は辺りを見回した。
すぐ先に、太師府の厨へ通じる裏戸がある。さっき逃げる途中、兵が二人出てくるのを見た。中には誰もいないと話していたから、今すぐまた調べに来る可能性は低い。
安全とは言えない。
外に立っているよりはましだった。
「こっちへ来い」
「また妾へ命じたな」
董白の目が細くなった。
「今だけ我慢しろ」
俺は再び手首を掴んだ。
董白は踏ん張ったが、遠くで兵の声がすると、今度は叫ばなかった。腹を立てたまま、俺に引かれて裏戸をくぐる。
厨の中はひどく散らかっていた。
切りかけの菜、倒れた椀、床へこぼれた水。火だけは消されており、竈から細い煙が上がっている。
俺は裏戸を閉め、壊れた卓を少し動かして戸の前へ置いた。
「ここで待つ」
「誰をじゃ?」
俺は戸の隙間へ目を戻した。
「誰も待たない。外が静かになるのを待つんだ」
董白は汚れた床を見て、信じられないものを見る顔になった。
「妾に、ここで待てと?」
「そうだ。朝まで動けない」
「朝まで?」
声が低くなった。
俺は戸の隙間から外を見た。路地を走る兵の影が、何度も壁を横切っている。
「今出たら、すぐ見つかる。迎えも来ない」
「来る。妾を置いて逃げるなど、許されぬ。あの者たちは戻ってくる」
董白は背筋を伸ばしたまま、裏戸を見た。
紫の衣も銀の髪飾りも、そのままでは外へ出られない。今夜を隠れ切れたとしても、明日の朝には別の問題が待っている。
それでも、今は戸を開けさせないことしか考えられなかった。
俺の話を、何一つ信じていない顔だった。
それでも、戸へ手を伸ばすことはしなかった。