董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第1話 拾いもの

 

十六年前。長安。

 

俺がこの世界に来て、半年ほど経った頃のことだ。

 

「柳誠。昨日の控え、まだ持ってるのか?」

 

隣の書吏に言われ、俺は二枚の木簡を卓へ並べた。

 

「粟が二袋、東の倉と西の倉に入ったことになってる。どっちか間違ってるんだが……」

 

「倉へ戻せ。向こうで直す」

 

「だから、どっちの倉へ戻すんだよ」

 

男は木簡を覗き込み、嫌そうに口を曲げた。書いた者が違うのに、同じ荷の受け取り印がある。二人とも自分の倉に入ったと思っているなら、片方へ返しただけでは済まない。

 

結局、男が一枚持って訊きに行くことになった。

 

俺は残った木簡を脇へよけ、次の束を取った。こちらへ来たばかりの頃は、一字読むにも前後の文字と見比べていたものだが、粟の出入りくらいなら、今は迷わず読める。

 

その程度には、慣れてしまった。

 

元の世界では、一浪して大学受験の勉強をしていた。机に向かっているうちに居眠りをして、目が覚めたら、長安の城壁の外にいた。

 

牛に引かれた車が通り、荷を背負った人が門へ並んでいた。道に舗装はなく、馬の糞を誰も珍しがらずに避けて歩く。撮影でもしているのかと思ったが、日が暮れるまで歩いても、カメラは一台も見つからなかった。

 

その晩は、泊まる当てもなく野宿した。横になっても地面が硬く、寒くて何度も目が覚めた。朝になっても元の部屋には戻っていなかった。

 

腹が減って、翌日は飯と仕事を探して歩いた。

 

言葉は、どういうわけか通じた。知らない言い回しも多かったが、腹が減ったと訴えることも、働くから飯をくれと頼むこともできた。

 

なぜ通じるのかは、今も知らない。時間を遡ってしまった理由さえわからないのだから、そこだけ考えても仕方がなかった。

 

元の名前は聞き返されることが多く、使っていた漢字から二字を取って、柳誠(りゅうせい)と名乗るようになった。

 

初めは荷運びと使い走りで食いつないだ。文字が少し読めるとわかると、荷の数を書かされ、その仕事を続けているうちに、ここで帳簿をつける人手が足りないと言われた。

 

太師府。

 

董卓(とうたく)の屋敷である。

 

最初に名前を聞いた時は、同じ名前の人だと思いたかった。だが、呂布がいて、王允がいて、皇帝を洛陽から長安へ連れてきたという話まで聞けば、もう偶然では済まない。

 

三国志の時代だった。

 

わかった夜は、ほとんど眠れなかった。帰る方法を考え、そもそもどうやって来たのかを思い出そうとした。何もわからないまま朝になり、仕事へ行かなければ、その日の飯に困った。

 

それで、今日もここにいる。

 

武器は使えないし、馬にも乗れない。礼儀もまだ怪しい。ただ、受け取った数と出した数を合わせることはできた。人が急いで書けば抜けるし、同じ物を二度書くこともある。その辺りは、元の世界とあまり変わらない。

 

戻ってきた書吏が、卓へ木簡を置いた。

 

「東だとさ」

 

「わかった。西の方を消しておく」

 

俺は間違った方へ手を伸ばした。

 

その時、廊下で誰かが転んだ。

 

大きな音に続いて、走る足音が幾つも重なる。戸口を横切った男が柱に肩をぶつけ、その場にいた者へ向かって叫んだ。

 

「太師が殺された! 呂布が太師を殺したぞ!」

 

隣の男が立ち上がった。

 

俺は木簡を持ったまま、その背中を見ていた。

 

董卓は、呂布に殺される。

 

知っていた。

 

昔遊んだゲームや、読んだ小説のことを忘れないように書いたノートにも、その一行はある。確かな話と、怪しい話を分けて、これだけは確かだと思っていた。

 

今日だとは、知らなかった。

 

「何してる、逃げろ!」

 

卓が押され、膝に当たった。積んであった木簡が崩れる。

 

隣の男はもういない。戸口で二人がぶつかり、片方が怒鳴った。俺はようやく木簡を放し、書具箱を抱えた。ノートも銭も、この中に入れてある。

 

床へ散った控えを避けようとして、足が止まりかけた。

 

拾ってどうする。

 

俺は戸口へ走った。

 

 

廊下では、前へ進むだけで精一杯だった。

 

荷を抱えた男が転び、後ろから来た者がその肩を踏んだ。誰かが泣いている。助け起こす者はいなかった。俺も男の横をすり抜け、箱を胸へ抱き直した。

 

ここにいたら、俺も董卓の仲間だと思われる。

 

雇われて間もない下っ端で、帳簿を書いていただけです。そう言えば許してもらえるのかもしれない。だが、説明を聞いてくれる相手かどうかは、捕まってからしかわからなかった。

 

正門へ向かう廊下は、人で詰まっている。

 

俺は荷運びに使う脇の通路へ入った。通用口から外へ出て、屋敷を離れる。裏道なら知っていた。一人で歩く時には何でもない距離なのに、角を曲がるたび、向こうに兵がいないか足が鈍った。

 

背後から、女の声がした。

 

振り返ると、紫の衣を着た少女がいた。

 

見覚えがある。帳簿を届けた帰りに、一度だけ廊下ですれ違った。大人を従えて歩く小柄な少女に、周りの者がみな道を譲り、頭を下げていた。

 

藍紫の髪に、銀の飾りが揺れていた。

 

渭陽君(いようくん)董白(とうはく)。董卓の孫娘で、十三歳だと後から聞いた。

 

その時は、俺が話しかけることなど一生ない相手だと思った。

 

少女には、侍女が二人付いていた。だが、正門の方で兵の怒鳴る声がすると、一人が足を止めた。もう一人も董白の顔を見て、それから、来た道を振り返った。

 

二人とも走り出した。

 

董白を残して。

 

「待て。どこへ行く!」

 

呼び止められても、侍女は戻らない。人の流れへ紛れ、すぐに見えなくなった。

 

董白は二人が消えた方を見ていた。もう一度何か言いかけて、口を閉じる。

 

俺は前へ向き直った。

 

止まるな。俺にどうにかできることじゃない。

 

ゲームにも、董卓のそばに小さな女の子がいた気がする。だが、その子が何をしたのか、どこで死んだのか、何も出てこなかった。知っている先の話に、董白の名前はない。

 

このまま関わらなければ、俺一人なら逃げられるかもしれない。

 

通用口を抜けたところで、路地の先から声がした。

 

「董氏の者を逃がすな! 女も子供もだ!」

 

兵が入ってきた。

 

先頭の男は逃げてくる者の顔を見ている。後ろの兵が一人を捕まえ、壁へ押しつけた。捕まった男の弁解が、ここまで聞こえた。

 

俺は脇へ寄った。向かいに細い通路がある。そこへ入れば、ひとまず目を避けられる。

 

すぐ後ろで、衣の擦れる音がした。

 

董白も外へ出てきていた。

 

あの紫はまずい。

 

薄汚れた服の人間ばかりの中で、一人だけ色が違う。銀の髪飾りまで付けたままだった。

 

兵がこちらを見た。

 

董白は足を止めた。逃げる方へ目を向けず、顎を上げる。俺は、名乗るのではないかと思った。

 

衣の脇で、少女の手が震えていた。

 

十三歳だ。

 

この子を置いて、俺はあの通路へ入る。そうすれば、何が起きるかは見ずに済む。

 

嫌だった。

 

俺は手を伸ばし、董白の手首を掴んだ。

 

「こっちへ!」

 

引いた途端、少女が足をもつれさせた。転ばせかけたのを支える余裕もなく、俺はそのまま路地を横切った。

 

「何をする! 放せ、無礼者!」

 

董白が腕を振った。思っていたより強い。放したら逃げるに決まっているので、俺も握り直した。

 

助けた後のことなど、何一つ考えていなかった。

 

隠す場所もない。城の外へ連れ出す当てもない。それなのに、片腕には仕事道具を抱え、もう片方では董卓の孫娘を引っ張っている。

 

何をしてるんだ、俺は。

 

「侍女を呼べ! 妾をどこへ連れていく!」

 

「さっき逃げただろ!」

 

「逃げたのではない。妾の供じゃぞ、すぐに戻る!」

 

細い通路へ入っても、声が響いた。

 

俺は少女を壁際へ寄せ、口を手で塞いだ。

 

目を見開いた董白が、俺の掌に噛みついた。

 

「痛っ……!」

 

手を引きそうになった時、表の足音が止まった。

 

「紫の衣の娘を見なかったか」

 

すぐ近くだった。

 

俺は董白を見た。黙ってくれ、と声を出さずに頼んだつもりだったが、伝わったかどうかはわからない。

 

ただ、噛んでいた歯の力が緩んだ。

 

路地で誰かが答えている。向こうへ、と聞こえた。続いて足音が動き、遠ざかった。

 

しばらく、そのままでいた。

 

書具箱の角が脇腹へ食い込んでいる。掌も痛い。だが、手を離してまた叫ばれたらと思うと、どこで動いていいのかわからなかった。

 

董白が俺の手を掴んだ。今度は噛まずに、顔から引き剥がそうとする。

 

俺はゆっくり手を離した。

 

「……妾に、何をしたかわかっておるのか」

 

董白の声は低かった。

 

「わかってる。今は大声を出さないでくれ」

 

「では、祖父様の兵を呼べ。そなたなどに頼まずとも、あの者たちなら妾を守る」

 

「太師は呂布に殺された」

 

口にしてから、言い方を考えるべきだったと思った。

 

董白が黙った。

 

怒鳴り返されると思っていたのに、何も言わない。俺を見たまま、さっきまで手首を掴まれていた方の手を、自分の胸へ寄せた。

 

「……戯言を申すな。祖父様が、殺されるはずがなかろう」

 

「俺も、殺されるところを見たわけじゃない。でも、屋敷の人が逃げてる。兵は董氏の者を捕まえろと言ってる。さっき、聞こえただろ」

 

董白は通路の入口へ顔を向けた。

 

「祖父様の兵もおる。妾が名乗れば――」

 

「誰が味方か、わかるのか」

 

続きが出なかった。

 

俺にも、見分けられない。董卓の屋敷へ入ってくる兵だからといって、董卓を守りに来たとは限らない。名乗って確かめるには、間違えた時に失うものが大きすぎた。

 

路地の向こうで戸が開いた。

 

俺は董白の前へ腕を出し、壁に沿って身を寄せた。少し先の厨の裏戸から、兵が二人出てくる。

 

「こっちは誰もいねえ」

 

一人が言い、二人とも路地の先へ歩いていった。

 

あそこなら、知っている。

 

食事を受け取りに来たことのある厨だった。今、調べたばかりなら、続けて別の兵が入ることはないかもしれない。

 

ここで誰かが曲がってくるのを待つよりは、ましだ。

 

「あの戸へ入る。来てくれ」

 

「妾は、祖父様の――」

 

遠くで怒鳴り声が上がり、董白が言葉を切った。

 

俺はもう一度、手首を掴んだ。少女は腕を引いたが、今度は声を上げなかった。

 

 

厨には、切りかけの菜が残っていた。

 

椀が倒れ、水が床へ広がっている。火は消されていたが、竈はまだ熱を持っていた。ついさっきまで、ここにも人がいたのだ。

 

俺は裏戸を閉め、近くの壊れた卓を引き寄せた。脚が床を擦る音が大きく、途中からは持ち上げて、戸の前へ置いた。

 

書具箱を下ろすと、腕が痛くなった。

 

董白は、入口のそばに立っている。汚れた床から俺へ目を移し、奥を見た。

 

「ここで、誰を待つのじゃ」

 

「外が静かになるのを待つ。誰かを呼べるわけじゃない」

 

「いつまで」

 

戸の隙間に、人の影が横切った。

 

俺は答える前に、その足音が通り過ぎるのを待った。

 

「朝までは、動けないと思う」

 

「ここで一晩待てと申すか」

 

「今出たら、また見つかる」

 

董白は裏戸を見た。卓をどけろと言われるのではないかと、俺はその前に立ったままでいた。

 

外へ出せば、彼女が殺される。

 

ここに置けば、見つかった時には俺も一緒だ。

 

手を掴んだ時には考えなかったことが、今になって、はっきりわかった。戸一枚を挟んで兵が歩いている。あの時通路へ一人で入っていれば、今頃は屋敷から離れていたかもしれない。

 

董白が顔を上げた。

 

「迎えは来る。妾を置いて逃げるなど、許されぬ」

 

俺へ言い聞かせるように、ゆっくりと言った。

 

「あの者たちは、戻ってくる」

 

返事ができなかった。

 

侍女たちが走り去ったことは、俺より近くで見ていたはずだ。それでも董白は背筋を伸ばし、戸を見ている。迎えが来ない時のことを、俺に話させたくないのだと思った。

 

俺は戸の前へ座った。

 

掌には、噛まれた跡が残っていた。指を動かすと痛む。朝になったら、この目立つ衣をどうするか。どこから外へ出るか。考えなければならないことはあったが、頭がうまく働かなかった。

 

まず、今夜だ。

 

董白はまだ立っていた。足音が近づくと顔を上げ、遠ざかっても、その方を見ていた。

 

俺は何も言わず、戸の隙間へ目を戻した。

 

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