董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
白の札は、戻ってこなくなった。
まったく戻らないのではない。一日に一枚か二枚。多い日でも四枚。持って来た者の札を確かめ、一斗を量って渡す。それは変わらない。変わったのは、札の歩き方だった。
持って来るのが、最初に受け取った荷運び人とは限らない。油を売って札を受け取り、その札で縄を買った店主がいる。粟の要らない日は木箱へしまい、次の払いに取っておく者もいる。札は誰かの懐から別の誰かの懐へ移って、白蔵へはなかなか帰って来ない。
帰って来ないのに、新しい札は出て行く。
染め物屋が十五斗を運んで来た。酒を売る女が十斗を置いた。荷を運ぶ男たちへ毎日粟を量って渡す代わりに、白の札で払いたいのだと言う。二十一番から四十五番までが町を歩き回ったまま、四十六番から七十番までが増えた。その間に戻ったのは、四枚。
町にある札は四十六枚。奥へ残す粟も、四十六斗になった。
「まだ入る」
董白は壁際の袋を数えて言った。
「入るけど、寝床まで粟の匂いがするぞ」
「食う粟ではない。匂いくらい我慢せよ」
「そういう話じゃないんだよ」
そういう話でも、なかった。
その晩、奥の戸を閉めようとして、壁際に黒い粒が落ちているのが見えた。拾う気にはならない。鼠の糞だ。
一番端の袋の、口を縛った縄に、細い歯の跡があった。袋までは破られていない。粟もこぼれていない。まだ、だ。
董白がしゃがみ、歯の跡へ指を近づけた。
「昨日はなかったな?」
「なかった。毎晩見てるから」
俺は隣の袋を動かした。床に触れていた底が、湿っている。口を開けて腕を入れると、上の粟より、中の粟の方が温かかった。
手の甲を、小さな黒い虫が歩いた。
払い落とすのに、声が出そうになった。
「……これ以上は、入れない方がいい」
董白はもう立っていた。
「柳誠。今ある粟と、町に出ておる札を合わせよ」
俺は控えを開き、線を引いていない番号を数えた。董白は袋を一つずつ叩いていく。
四十六枚。四十六斗。まだ、欠けはない。
虫の出た一袋だけを表へ運び、筵へ薄く広げた。虫を拾い、日に当て、乾いたら量り直して戻す。減っていなければ、それでいい。減っていたら――考えたくなかった。
「今日から、ここへ置くのは四十六斗までじゃ」
董白は奥の戸を閉め、錠を掛けた。
「札が戻って空いた分しか、新しい札は出さぬ。持って来た札には今までどおり一斗を出す。じゃが、積み増しはせぬ。ここへ積めば、札が戻る前に、鼠と虫が先に食う」
言い切ってから、董白は錠を一度だけ引いた。掛かっていることを、確かめる手つきだった。
決めたそばから、試しは来た。昼、三度目の二十斗を荷車に積んで、船着き場の商人が来たのだ。
「止めるって、どういうことだ? もう運んじまったんだぞ」
「見れば分かる」
董白は商人を奥へ連れて行き、縄の歯形と、湿った袋の底を見せた。
「今ここへ積めば、これどころではすまぬ。札を出した後で鼠に食われれば、困るのはそなたではない。札を持った者じゃ」
商人は、積み上がった袋と、表の荷車を見比べて、口を曲げた。
「じゃあ俺は、また仕事のたびに量って払うのか」
「新しい蔵ができるまでじゃ」
「隣町の話はどうなる」
「こちらの粟も守れぬ者が、向こうの粟を預かれるか」
董白は、棚の奥の封をした袋へは目もやらなかった。あれは隣町の白蔵のためと約束して、この商人から預かった銭だ。
「この町の蔵は、この町で受け取った預かり代から作る。そなたの銭を、勝手にこちらへ回しはせぬ」
商人はしばらく黙っていた。銭の心配をしていた顔が、途中から別の顔になった。
「……どれくらい待つ」
「できるまでじゃ」
「それじゃ分からねえだろ」
商人は頭をかき、それから自分で先を続けた。
「大工なら知ってる。船着き場の荷小屋を直した男だ。材木を売るやつにも話を通せる」
「代わりに、何を寄越せと言う気じゃ?」
「何もいらねえよ。預かり代も今までどおり払う。今はもう、白の札が止まってる方が困るんだ。だから早く作ってくれ」
「蔵ができるまで、札は出さぬぞ」
「分かってる。だから急いでるんだろうが」
商人は明日の朝に大工を連れて来ると決め、二十斗を積んだまま帰って行った。来た時より、帰りの荷車の方が速かった。
戸が閉まると、董白が俺を見た。
「柳誠。明日、大工へ奥を見せよ。鼠の跡も、湿った袋も、隠すな」
「白は?」
「蔵を置く場所を決める。油屋が、近くに空き地があると言うておった」
返事より先に、董白は外へ出ていた。
~
俺は、穀物を入れる建物の作り方なんて知らない。
元の世界で見た倉庫を、そのまま持って来ることもできない。石も木も道具も違う。それでも、何がまずいかだけは分かる。
濡らさない。床へじかに置かない。壁へ押し付けない。古い粟と新しい粟を混ぜず、先に入れた方から出す。こぼれた粒と、袋の下のごみを残さない。それから――鼠は、壁でも柱でも登る。登るなら、柱の途中に越えられない出っ張りを付ける。
翌朝、商人は本当に大工と材木屋を連れて来た。俺の話を聞きながら、大工は何度も首を傾げた。
「床を上げるのは分かる。下を風が通れば湿りにくい。だが、柱の途中へ皿を付けてどうする」
「鼠が上まで登れないようにするんです。木だとかじられるから、焼いた土で。柱よりずっと広く」
「重いぞ」
「支えられる形は任せます。俺は大工じゃないので」
染め物屋は、自分が甕を頼んでいる焼き物屋を連れて来た。話を聞いていた董白が口を挟む。
「鼠が越えられれば、払いは減らす。越えられぬ物を作れば、頼んだ分を払う」
「作る前から鼠に聞けるかよ」
「なら、先に一つ作れ。餌を置いて、一晩試す」
大工は呆れた顔をした。それから焼き物屋の方を向き、二人で話し始めた。呆れながら、もう寸法の話をしていた。
場所は、油屋の言っていた空き地に決まった。今の家から歩いてすぐ。持ち主へ先の分まで払い、道へ出る戸は一つ。地面より高く土台を組み、床を張り、袋は床からも壁からも離す。屋根の下には、細い木組みをはめた風の通り道を残す。入れる前の粟は一度広げて乾かし、湿った袋は同じ場所へ戻さない。
袋には、預けた人と量と入れた日を書いた札を結ぶ。控えには、預けた人ごとに、どの番号の白札を出したかを残す。古い袋が奥で埋まらないように、入れる側と出す側を分けた。
俺が知っていたのは、本当に入口だけだった。
床をどれだけ上げれば重みに耐えるかは、大工が決めた。鼠が穴を広げないよう壁の下を固めるのは、左官の仕事だった。柱の受け皿は、焼き物屋が二度作り直した。そして、誰が何を作り、いつまでに終え、幾ら払うかは、董白が決めた。
「隣町の袋を使えば、もっと早いぞ」
一度だけ言ってみると、董白は首を振った。
「あれは、向こうの白蔵から利益を返すと約束して預かった銭じゃ。こちらで使うなら、あの商人へ話を戻さねばならぬ」
「じゃあ、話す?」
「話さぬ。この町の粟が増えて困ったのじゃ。この町の預かり代で直す」
止めている間も、札を粟へ換えに来る人は来た。奥の粟が一斗減るたび、待たせている商人から一斗だけ受け入れ、同じ数の札を出す。四十六斗より増やさない。空いた所を掃き、虫を探す。見つからない日が続くほど、探す手は丁寧になった。
蔵を急かすのは、船着き場の男だけではなかった。縄を扱う男は人足を集める者を教え、酒を売る女は屋根を葺く職人へ先に話を通した。誰も、預かり代をまけろとは言わない。白の札を早く使いたいから、知っている者を連れて来る。それだけだった。
家賃と俺たちの飯を先に残し、この町で受け取ってきた預かり代から、土地へ、木へ、土へ、人へ払った。隣町の袋は、棚の奥で封をしたまま動かなかった。
~
六度目の市が立つ前に、新しい蔵の屋根が閉じた。
粟を入れる前の晩、床の上へ少しだけ餌を置いた。朝、蔵の外の柔らかい土には、鼠の足跡が並んでいた。床の上の餌は、残っていた。
「一晩では足りぬ」
董白はそう言った。言ったが、大工への払いは一枚も減らさなかった。
蔵をもう一度掃き、床下と壁際を見て、それから袋を運び始めた。ただ積み直すのではない。湿りのない袋だけを入れる。入れた日の古い物を、出す側へ。袋と袋の間には、手の入る隙間。床へ落ちた粟は、拾っても袋へは戻さない。
四十六斗を移し終えると、家の奥に、人が通れる道が戻った。
次の市には、待たせていた商人たちが粟を運んで来た。船着き場の二十斗。油屋の八斗。縄を扱う男の五斗。俺と商人が量り、董白が数え、粟が蔵へ入ってから、止めていた番号の続きを出す。
白の札は、また町へ出て行った。
そして、やっぱり帰って来なかった。七日で戻ったのは六枚。町へ出た札は、七十三枚になっていた。
蔵が動き始めて七日目の晩、董白が俺の控えを取り上げた。
「今、町にある札は何枚じゃ」
「七十三枚」
「一日に戻った数が、一番多かった日は」
「五枚。……白、何を考えてる」
董白は答えず、七十三と五を見比べていた。
「札を持つ者は、すぐには換えに来ぬ。店で使い、受け取った者もまた、札のまま持っておる」
「そうだな。だから粟だけが、こっちに増えた」
「なら――札がもっと増えた時、出した札と同じだけの粟を、いつまでも蔵へ積んでおく必要はない」
俺は返事に詰まった。
元の世界の銀行も、預かった金を全部金庫へしまっていたわけじゃない。すぐ返す分を残して、残りは貸していた。誰かに教わらなくても、町へ出た札と蔵の粟を見ただけで、董白はそこへ届いてしまう。
「でも、七十三枚が同じ日に来たら終わるぞ」
「うむ」
董白はあっさり頷いた。
「誰かが『白蔵に粟がない』と言えば、札を持つ者は一度に来る。残す量を間違えれば、鼠より先に、わたしたちが白の札を食うことになる」
「じゃあ、やらない方がいい」
「今はな」
董白は控えを俺へ返した。
「七十三斗は、一斗も動かすな。そなたは今日から、一日に戻る札の数と、出てから戻るまでの日数を、別に書け。何枚残せば足りるかも分からぬうちは、減らさぬ」
「分かった。……分かったけど、その先は?」
「もっと増えた時に決める。余る粟を貸すなら、いつ戻るか、戻らぬ時に何を取るかが要る。預けた商人へも、先に話さねばならぬ。今日決めるのは、そこまでじゃ」
董白は新しい蔵の戸を開けた。床から離れて並ぶ袋の数だけ、白の札が町のどこかにある。
「まずは、鼠と虫に一斗もやらぬことからじゃな」
俺は控えの端へ、新しい欄を二つ増やした。戻った日。出てから戻るまでの日数。
書き終えて顔を上げると、董白はまだ袋を見ていた。
積む粟の数え方なら、俺にも分かる。董白が数えていたのは、もう、積まなくてよい粟の方だった。