董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
日が傾き始めた頃、表の戸が三度叩かれた。俺が開けると、日に焼けた男が立っていた。肩に空の麻袋を掛け、右手では小さな木札をつまんでいる。
「白ってのは、ここか?」
「そうだけど」
「船着き場の商人に、これを持って行けって言われた。今日の働き分は一斗だ。ここで粟を出してもらえるって」
男は木札を差し出した。
「先に言っとくが、出ないならすぐ船着き場へ戻るぞ。俺は朝から荷を担いで、粟一斗もらう約束で働いたんだ。最後にこんな札だけ渡されちゃ、たまらん」
木札を持つ指に力が入っていた。一日働いて、渡されたのは粟ではなく木札一枚だ。疑うのも無理はない。
表には白の印。端には一つの切り目。裏は一番。町へ出ていった二十枚のうち、最初の一枚だった。
「白。来たぞ」
奥から董白が出てきた。男の顔より先に、俺の手にある札を見る。
「見せよ」
渡すと、董白は印と切り目を確かめ、裏返した。
「一番じゃな。柳誠、控えは?」
俺は卓の引き出しから木簡を出した。一から二十まで並べた番号のうち、一番にはまだ線を引いていない。
「まだ使われてない。合ってる」
男が俺たちを見比べた。
「それで、本当に一斗もらえるのか?」
「出す。そなたが来る前から、その一斗はここにある」
「商人はもう帰ったぞ」
「だから何じゃ。粟は帰っておらぬ」
董白は奥の戸を顎で示した。
「そなたが持って来た札一枚の分は、最初からあそこへ残してある。袋を持って来ておるな?」
「一応な。だが、先に聞かせてくれ。俺の名前、どこにも書いてないぞ」
董白は木札を男へ返さず、指先で挟んだまま答えた。
「書いておらぬから、そなた以外が持って来ても出す。そなたが働いたかどうかを決めるのは、あの商人じゃ。わたしは、その札を持って来た者へ一斗渡す」
「じゃあ、俺がこれを拾っただけでも?」
「その札が本物なら出す。だから、なくすでないぞ」
董白は奥の戸へ向かう。
「一斗欲しいのであろう。来い」
俺は錠を外した。戸を開けると、商人から預かった粟が壁際に置いてある。寝床の脇に置いた冬用の袋とも、俺たちが食べる分とも離してあった。
男は入口に立ったまま、中を覗いた。壁際の粟を見つけると、さっきまで険しかった顔が少し緩んだ。
「本当に置いてあるんだな」
「粟を置いてからでなければ、札は出しておらぬぞ」
「全部、あの商人のか?」
「そなたらへ渡す分じゃ」
董白は寝床側に置いた袋には目も向けない。
「わたしたちが食う分とは混ぜておらぬ。そなたの一斗を粥にして食うてはおらぬから、安心せよ」
「そこまで疑ってねえよ」
「今、奥まで覗いたではないか」
男が言葉に詰まり、俺は笑いをこらえた。董白が振り返る。
「柳誠、一斗」
俺は量る道具を出した。男は空の麻袋を広げ、自分で口を持つ。粟を入れる音が、狭い奥の部屋に続いた。
一斗分を量り終え、俺が袋の口をねじる。
「確かめる?」
「いや。量ってるところは見てた」
男は袋の口を開き、指を差し入れて粟を一粒つまんだ。しばらく眺めてから口へ入れる。
「昨日まで船着き場へ運んでたのと同じだ」
「同じ商人が置いた粟だからな」
俺が言うと、男はようやく袋の口を縛った。持ち上げると、ずしりと腕が下がる。それから、董白の指に残っている木札を見た。
「札は返すのか?」
「返せ。一斗は渡した。もうその札の役目は終わりじゃ」
董白は札を俺へ寄こした。俺は控えの一番に線を引き、返ってきた札をその横へ置いた。
一枚戻った。奥の粟も一斗減った。町に残っている札は十九枚。残しておく粟も十九斗。
男は肩へ袋を担いだが、まだ帰らなかった。
「……変な話だな」
「何がじゃ?」
「朝は何も持ってなかったんだ。仕事が終わって、商人からこんな木切れ一枚もらっただけだ。それが今は粟になってる」
男は肩の袋を揺らした。
「商人が途中で逃げても、ここに粟があるなら関係ないってことか?」
董白は頷く。
「この一枚についてはな。粟は先にもらっておる。そなたが商人を追いかける必要はない」
男はそこで初めて、空いた右手を見た。さっきまで疑っていた木札は、もうそこにはない。代わりに肩へ一斗の粟が乗っている。
董白の眉がぴくりと動いた。
「木切れではない」
「そこまで気にするのかよ」
「そなたが木切れと言うたからな」
男は笑った。
「悪かったよ。札だ、札」
男は肩の袋を叩いた。
「でも、これなら次も札でいいな。仕事が終わるたびに、その場で粟を量り終わるまで待たなくて済む。札だけ受け取って、あとで来ればいいんだろ?」
「嫌なら受け取らねばよい。あの商人に粟で払えと言え」
「いや、今日みたいに出るならいい。最初は、商人が銭を惜しんで変なもん押しつけたのかと思っただけだ」
「銭を惜しんだのではなく、粟を船着き場まで運ぶ手間を惜しんだのじゃ。そこを間違えるな」
「どっちでも、俺の一斗が減らなきゃいい」
「なら、次からは知っておるな」
「分かった。白の印があって、切り目が一つなら一斗だろ?」
「裏に番号もあるぞ」
「そこまで覚えないと駄目か?」
「覚えずともよい。番号を控えと合わせるのはこちらの仕事じゃ。変な札を掴んだと思ったら、持って来い」
「なら、それでいい」
男は戸口へ向かった。外へ出る直前に振り返る。
「明日もあの商人のところで働く。たぶん、またこれを渡されるぞ」
「なくすでないぞ」
「粟一斗だと思えば、なくさねえよ」
男は今度こそ出ていった。肩の麻袋が、歩くたびに重そうに揺れていた。董白は男の背中が見えなくなるまで戸口に立っていた。
「どうした?」
「最初から信じて来たわけではなかったな」
「そりゃそうだろ。働いたあとに木札一枚渡されたんだから」
「それでよい」
董白は戻ってきた一番の札を卓へ置いた。
「一度目は疑って、自分で粟を持って帰ればよい。次も札を受け取るかどうかは、あの者らが決める」
董白が無理に信じさせる必要はない。あの男が持ち帰った一斗そのものが、次の返事になる。
~
日が落ちてから、商人が来た。
「一人、来ただろ?」
「ああ、昼間に一人な」
俺が答えると、商人は奥の戸を見る。
「ちゃんと出したか?」
董白が先に口を開いた。
「一斗渡した。疑うなら、次あった時に確認してればよい」
「いや、そういう意味じゃない。あいつ、札を渡した時にずいぶん嫌そうな顔をしてたんだ。木切れで払う気かってな」
「うむ、同じことを言うたぞ」
商人が吹き出した。
「やっぱりか」
俺は控えを卓へ置いた。一番には線が引いてある。その横には、戻ってきた札が一枚。商人はそれを見ると、少しだけ顔を近づけた。
「これが戻ったってことは……奥は?」
「十九斗じゃ」
「数えたのか?」
「減ったのは一斗だけだよ」
商人はしばらく、線を引いた一番と札を見ていた。
「明日は三人に払う。二人は一斗ずつで、一人は二斗だ」
董白は頷いた。
「なら四枚渡せ」
「それでいいのか?」
「何がじゃ?」
「今日のやつみたいに、すぐ取りに来るとは限らないぞ。一枚は明日、もう一枚は十日後かもしれない」
董白は奥の戸を指した。
「だから残しておる。札が戻らぬ限り、その分の粟には触れぬ」
商人は奥を見てから、俺の控えへ目を戻した。
「じゃあ、俺が途中で、残ってる粟を返してくれと言ったら?」
「まだ誰にも渡しておらぬ札を戻せば、その分は返せる。もう人へ渡した札の分は返さぬ」
「俺の粟だぞ」
「そなたが札に換えて人へ渡した時から、その分は札を持つ者へ渡す粟じゃ」
董白はそこで言葉を切った。
「返してほしければ、先にその札を取り戻して来い」
商人は一瞬黙り、それから笑った。
「なるほどな。俺まで勝手に触れないのか」
「当たり前じゃ。そなたが好きに粟を持ち帰れるなら、札をもらった者が困るであろう」
「分かった。触らない。明日も使うよ」
商人は帰っていった。俺は戸を閉め、錠を下ろした。
卓には、戻ってきた一番の札が残った。
董白が一番の札をつまみ上げる。
「柳誠。これは別にしておけ」
「戻った札?」
「うむ。もう使わぬものと、まだ町に出ておるものを混ぜるな」
俺は小さな箱を一つ出し、その中へ一番の札を入れた。控えには二番から二十番までが残っている。奥には十九斗の粟がある。
董白は控えに残った番号を目で追い、満足そうに頷いた。
「合っておるな」
「合ってる」
「なら、飯じゃ」
董白はすぐに竈の方を指した。
「今日は濃くせよ」
「毎日濃いのは駄目だって言っただろ」
「一枚、ちゃんと粟になった祝いじゃ。今日くらいよかろう」
昨日も同じことを聞いた気がする。俺は返事の代わりに、鍋を取りに立った。