董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
俺の知らない男が、白の印の札を持ってきた。
二日後の昼前、戸を開けると、四十くらいの男が立っていた。腰には小さな銭袋を下げ、袖口には塩の白い粉がついている。近くで乾物を売っている店主だった。男は中へ入るなり、卓へ木札を一枚置いた。
「先に言っとくが、俺は船着き場で働いちゃいないぞ」
「見れば分かるぞ」
董白は男ではなく、卓の札を見た。白の印。端の切り目は一つ。裏には七とある。
「で、これはどこで手に入れた?」
俺が聞くと、店主は腕を組んだ。
「昨日、荷運びの男が店へ来たんだ。塩と干し魚が欲しいが銭はない。その代わり、これを白のところへ持っていけば粟一斗になるって言うんでな」
「それで受け取ったのか?」
「最初は断ったさ。木札じゃ塩も干し魚も仕入れられないってな。そしたら、あいつが『昨日これで一斗もらったやつがいる。嫌なら白のところまで一緒に来い』って言うんだ」
店主はそこで鼻を鳴らした。
「店を空けてまで付き合えるか。だから、粟一斗と取り替えるつもりで品を渡した。あの男、前にも何度か買いに来てるし、最初の札を持ってきたやつが本当に粟を担いで帰ったって話も聞いたからな」
店主は卓の札を指で押さえた。
「だが、俺はその商人から仕事を頼まれたわけでもない。荷を運んでもいない。これ、本当に俺でも一斗出るのか?」
董白が札を取った。
「柳誠。七番」
俺は控えを開いた。七番には、まだ線がない。
「まだ粟と換えてない。合ってる」
「なら一斗じゃ」
店主が目を瞬いた。
「それだけか?」
「何がじゃ?」
「誰からもらったのか、もっと聞かないのかよ。あの荷運びの名前だって、まだ言ってないぞ」
「話したければ話せ。じゃが、粟を出すかどうかには関係ない」
董白は札を指先で裏返した。
「白の印があり、切り目が一つ。番号もこちらの控えと合っておる。まだ粟と換えておらぬ札じゃ。なら、一斗渡す」
店主はしばらく董白を見た。
「……本当に、人じゃなくて札を見るんだな」
「そう言っておる」
董白は奥の戸へ向かった。
「柳誠。量れ」
俺は錠を外した。店主もついて来る。奥には、控えに線を引いていない札の分だけ粟が残っている。俺たちが食べる袋とも、冬用に残した袋とも離してある。店主は空の麻袋を広げた。
「袋まで持ってきたのか?」
「出るなら持って帰るつもりだったからな。出なかったら、このまま船着き場へ行くつもりだった」
「荷運びの男を捕まえるために?」
「当たり前だ。塩も干し魚も、ただでやるほど儲かってない」
俺は一斗を量った。店主は横でずっと見ていた。最後まで入れると、自分で袋の口を縛り、持ち上げて重さを確かめる。
「……ちゃんとあるな」
「そなたが見ておったであろう」
「見てても、持つまでは分からん」
董白は何も言わなかった。店主が疑うこと自体には腹を立てていないらしい。俺は七番の札を受け取り、控えに線を引いた。七番の札は、戻った札を入れる箱へしまった。店主は肩へ粟を担いだが、すぐには帰らなかった。
「なあ。次もあいつが、この札で払うと言ったら受け取っていいんだな?」
「そなたが欲しければな」
「白が受け取れって言うわけじゃないのか?」
「受け取るかどうかは、そなたが決めればよい。嫌なら銭か粟を出せと言え」
「いや、これならいい。店に置いといて、暇な時にここへ持って来れば済む。粟なら売れるし、うちでも使う」
店主は肩の袋を軽く叩いた。
「それに、荷運びのやつも助かるだろ。粟一斗を担いで店まで来なくていい」
董白の顎が少し上がった。
「なら、そなたらで好きに使え」
男は戸口まで行ってから、振り返った。
「そうだ。もう一つだけ」
「まだあるのか?」
「次に札を受け取った時、ここへすぐ来なくてもいいんだな?」
「いつ来てもよい。札が戻らぬ間は、その一斗を残しておく」
「じゃあ、店が忙しい日は置いとけばいい。分かった」
店主はそこで手を掛けた戸を開けかけ、また止まった。
「この札、何て呼べばいい?」
「呼び名か?」
「いちいち『白の印がついた、一斗になる木札』じゃ長いだろ」
俺は董白を見た。董白も、少し考えるように手元の箱を見た。
「好きに呼べばよい」
「じゃあ、白の札でいいな。白のところへ持っていく札だ」
董白は止めなかった。店主は粟一斗を肩に担ぎ、「白の札か」ともう一度口にして出ていった。
~
その日から、戸口へ来る人の言い方が少し変わった。
「白はいるか」ではなく、「白の札を粟にしてくれ」と言う人が出た。
持って来るのは荷運び人だけではない。荷運び人へ油を売った男、縄を売った男、飯を出した店の女まで混じった。誰も長い事情は話さない。札を出し、印と番号が合い、控えにまだ線がなければ一斗を渡す。それだけで済んだ。
翌日、俺があの乾物屋へ塩を買いに行くと、俺より先に来ていた荷運び人が油と塩を受け取っていた。
「銭は?」
店主が聞くと、男は懐から白の札を出した。
「これで一斗分。昨日、あんたも粟をもらえたんだろ?」
店主は札を裏返し、白の印を見た。
「番号もあるな。分かった、置いてけ」
それだけだった。昨日は一斗の粟が本当に出るか確かめるため、袋まで持ってうちへ来た男が、今日は札を受け取って店の小箱へ放り込んだ。俺が塩を買う番になると、店主がこちらを見て笑った。
「白に言っとけ。これ、思ったより楽だな。粟一斗置かれたら邪魔だが、札なら箱に入る」
「でも、最後は粟にしないとならんが」
「必要な時だけ持って行けばいい。店に粟が余ってる日は、急いで換えることもないだろ」
札を受け取っても、すぐうちへ来ない人も増えた。ある夕方、船着き場で見たことのある荷運び人が、戸口の前で仲間と話していた。
「お前、それ今日もらったやつだろ。換えないのか?」
「明日、靴を直してもらうんだ。あそこの爺さん、白の札でもいいって言ってた」
「粟の方がよくないか?」
「家まで担いで、明日また持って出る方が面倒だろ」
二人はそれだけ話して、うちへ入らず帰っていった。董白も聞いていた。
「柳誠」
「ん?」
「札はまだ半分以上帰っておらぬのよな?」
「まあ、そうだな。なんか人伝にどんどん渡ってるみたいだ」
「まあ、ならよい」
それ以上は言わなかった。札が町をどこまで回ったか、俺たちには分からない。分かる必要もなかった。戻ってきていない札の数だけ粟を残しておけば、最後に誰が持って来ても同じ一斗を渡せる。
数日後、表の戸を閉めようとしていると、通りから声がした。
「白の蔵って、ここで合ってるか?」
見ると、若い男が木札を持って立っていた。一緒にいた男が、うちを指す。
「そこだよ。白の札なら、そこへ持ってけ」
董白が俺の横から顔を出した。
「まだ閉めておらぬ。入れ」
若い男はほっとした顔で中へ入った。俺は戸を押さえたまま、董白を見る。
「白の蔵だって」
「聞こえておる」
「俺たち、蔵を借りた覚えはないけど」
「奥に粟を置いておる。町の者から見れば蔵なのであろう」
董白は少しだけ顎を上げた。
「分かりやすい。好きに呼ばせておけ」
若い男へ一斗を渡し、戸を閉めた。戻った札は小箱へ。まだ町にある札の分だけ、奥に粟を残す。寝床の脇には、宿にいた頃から一度も開けていない冬用の粟袋がある。
あの袋へ最初の粟を移した時は、これが残れば次の飯を失っても何とかなると思った。冬の間も、結局一度も開けずに済んだ。
宿を出る時には、それだけでずいぶん遠くまで来た気がしていた。今、同じ屋根の下には、俺たちが食べてはいけない粟もある。誰かが白の札を持って来た時、その人へ渡すための粟だ。
俺たちの飯は自分たちの袋から出す。冬用の一袋は非常用のまま残す。奥の粟は、まだ町にある札が戻るまで触らない。商人から受け取った手数料は別の銭袋へ入れる。この仕事で俺たちのものになるのは、それだけだ。
宿で女将から初めて粥をもらった夜は、二人分の飯と寝床をどうやって明日につなぐか、それしか考えられなかった。
今は、顔も知らない誰かが明日ここへ札を持って来ても、その一斗を渡せるようにしてから戸を閉める。
「柳誠」
「どうした?」
「腹が減った」
「はいはい。今作るよ」
俺が竈へ向かうと、董白は寝床の脇にある冬用の袋と、奥の戸を一度ずつ見た。
「今夜は、どちらも使うでないぞ」
「分かってる。俺たちの飯は、俺たちの袋からだろ」
「うむ」
外を誰かが通った。
「白の蔵、もう閉まったぞ」
声だけが戸の向こうを流れていく。
白の札は町へ出て、その分の粟だけが、うちの奥でじっと待っていた。