董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
塩売りの商人が連れてきた男は、挨拶より先に升を手に取った。
「触るな」
董白が言うと、男は升を持ったまま振り返った。
「触らないと、升の良し悪しは分からないぜ、白様」
指の腹で升の底を二度叩き、耳を寄せる。それから、悪びれもせずに卓へ戻した。
「底の厚い升は音が違う。厚けりゃ、同じ一杯でも中身が減る。あんたの升は正直だ」
杜恪という名だと、塩売りの商人が横から言った。市で銭を数えさせれば誰より速く、列をさばくのがうまい。字も読める。字が読めて勘定のできる者を探せと言ったのは、こっちだ。
条件は董白が並べた。戸を開けるのは市の日だけ。換えるのは一回の市で五枚まで。給金は預かり代から出す。裏付けの粟からは一粒も出さない。
杜恪は指を折りながら聞いていた。
「縛られるのは市の日だけでいいんだな? ほかの日は好きに稼いでいいと」
「うむ。市の日に穴を空けられては困るがな」
「なら、一つ相談だ。換えた札一枚につき、いくらか乗せてくれないか。俺が列を速くさばくほど、この蔵の評判は上がる。悪い話じゃないだろ」
「断る」
董白は即答した。
「枚数で払えば、そなたは札を急がせる。急がせれば、量りが荒れる。給金は同じ額じゃ。速くても、遅くてもな」
「へえ」
杜恪は食い下がらなかった。かわりに、卓の上の札の束を顎で指した。
「試すんだろ? やってくれよ」
董白は懐から札を五枚出し、卓へ置いた。俺には分かった。四枚は第二白蔵の札。一枚だけ、蔵印のない第一白蔵の札が混ぜてある。
杜恪は五枚を扇のように広げ、一枚を抜いて卓の端へ弾いた。
「これは向こうの町の札だ。ここの粟は出ねえ」
「なぜ分かる」
「白の印の横に、もう一つの印がない。番号は見てない。印の方が速い」
それから杜恪は、抜いた札を裏返してぼやいた。
「よくできてるよ。番号まで振って、控えと突き合わせるんだろ? 正直、割に合わねえ手間だ。俺なら省くね」
「どこを省く」
「客が並んでる時の、二度目の数え直しだ。忙しい時に人が省くのは、決まってそこだ。――って顔だな、白様。安心しな。省かねえよ。給金の分は働く」
董白はしばらく杜恪を見ていた。それから、俺に木簡を出させた。給金の額と、この蔵でしてよいこと、してはならないことを書いたものだ。
「読め」
杜恪は声に出さずに目を走らせ、読み終えると一か所だけ指で押さえた。
「『封じた升に触れない』。じゃあ、俺の使う升がいかれたら、誰が確かめる」
「市のたびに、手代とそなたの前で比べる。封を切るのはわたしじゃ」
「なら、いい」
杜恪が木簡を返す。董白は最後に、新しい鍵を卓へ置いた。
「次の市はわたしたちも来る。その次からは、そなたが開けよ」
杜恪は鍵をつまみ上げ、掌の上で一度だけ跳ねさせた。銭を確かめる手つきだった。
~
最初の市は、俺たちが横で見た。杜恪は持って来た者の名前を聞かず、印と番号と切り目を確かめ、量って、渡した。列は、俺がさばくより速く進んだ。
その次の市から、俺たちは行かなくなった。
市の日の夕方、塩売りの商人の荷車がこちらの町へ戻ってくる。手代の書いた紙と、戻った札と、こちらで預かっている控えを突き合わせる。出た札の数。戻った札の数。棚に残っているはずの斗数。三つは、いつも合っていた。
二度目も合った。三度目も合った。預かり代の袋からは隣町の家賃と杜恪の給金が出て、それでもまだ残るようになった。
「合っておるな」
董白は控えを見て、それだけ言う。俺も同じだった。数字が合っている。それを確かめるたび、行かなくても大丈夫だという安心が、少しずつ積もっていった。
~
その安心は、四度目の市の晩に崩れた。
日が落ちてから、戸が強く叩かれた。開けると、隣町から来た男が息を切らして立っていた。手代からの言伝だった。
「交換は止めました。札も、袋も、預かってあります。白様に、来てほしいそうです」
事情は、途切れ途切れに分かった。
五人組の行商人が、市の終わりに揃って札を換えた。そのうちの一人は、前にこの町の第一白蔵でも一斗を受け取ったことのある男だった。袋を担いだ時に、首をかしげた。前より軽い、と。
五人はその場で量り直しを求めた。手代は決められたとおりに動いた。交換を止める。その組で戻った五枚と順番を紙へ写す。五人へ同じ番号の確かめの札を渡す。五人の袋を封じて、別に預かる。杜恪には帳簿と棚を確かめさせた。
「それで?」
董白が先を促す。使いの男は、困った顔になった。
「合ってるんです。札も、帳簿も、棚も。……なのに、五人とも、袋が軽いって言うんです」
董白は使いの男に飯を出させ、俺を見た。
「柳誠。戸に札を掛けよ。明日は休むと書いてな」
向こうを開けるためにこちらを閉めるのはやめる。そう決めて杜恪を雇ったのに、閉める理由は別の形でやってきた。
~
翌朝は荷車で隣町へ渡った。昼前に着くと、手代が第二白蔵の前で待っていた。市の立たない日の蔵は静かで、封をした五つの袋が壁際に並べてあった。
杜恪もいた。いつもと変わらない顔で、俺たちへ升を二つ差し出す。
「日常の升と、封じた升だ。好きなだけ確かめてくれ」
俺は封を検めてから切り、同じ粟を移し替えた。日常の升をいっぱいにして、封じてあった升へあける。余りも、不足も、出なかった。二つの升は同じだった。
次は数字だ。出た札、戻った札、控え、棚の斗数。手代の写した五枚の番号と順番。どこにも狂いはない。第一白蔵で俺が毎日やっているのと同じ確かめ方で、同じように、全部が合った。
最後に、五人の袋を開けた。
呼ばれた五人が入ってくる。手代が封を切り、俺が量る。一人目、足りない。二人目、足りない。三人目も、四人目も、五人目も。
そして五つとも、同じだけ足りなかった。
「な? だから言ったんだ」
最初に気づいた行商人が腕を組んだ。
「俺は向こうの町でも一斗もらった。担げば分かる。これは一斗じゃねえ」
杜恪が横から口を挟んだ。
「白様。俺は抜いてないぜ。抜けば棚が減る。棚は帳簿どおりだ。あんたが今、自分で数えたろ」
指を二本立てる。
「それにな、考えてもみろ。俺の給金と、袋の底の粟ひとつかみ、どっちが高い。給金を失う博打にしちゃ、割が合わなすぎる」
「そなたが抜いたとは言うておらぬ」
董白は静かだった。杜恪は肩をすくめた。
「袋の目が粗くて、こぼれたのかもしれねえ。担いで歩けば粟は痩せるって話もある」
「五つとも、同じだけか?」
杜恪が黙った。
董白は五つの袋を順に見た。
「こぼれたなら、ばらばらに減る。多く残る袋と、少ない袋ができる。同じだけ減るのは、こぼれたのではない。量られたのじゃ」
「その升は、今あんたらが確かめたろ」
「うむ。この二つは正しい」
董白はそれ以上言わなかった。手代に自由粟の袋を持って来させ、封を切る。五人の袋へ、足りない分を一人ずつ量って足した。五人目の袋の口が縛られると、董白は五人へ向き直った。
「待たせた。この蔵の札は、これからも一斗じゃ。次の市も、その次もな」
行商人たちは袋を担いで帰っていった。最初に気づいた男だけが、戸口で振り返った。
「あんたが来る蔵なら、次も使うよ。……来ない日も、頼むぜ」
その一言は、俺に刺さった。
数字は全部合っていた。第一白蔵で俺が信じてきた確かめ方は、ここでは五人の袋を守れなかった。
~
帰りの荷車で、董白は長いこと黙っていた。町へ入る手前で、ようやく口を開いた。
「柳誠。妾は、一つ思い違いをしておった」
「何を」
「札と控えと棚が合えば、約束は守れると思うておった。じゃが、あの三つが合ったまま、五人の袋だけを軽くするやり方が、ある」
「……分かったのか」
「量る所までは、な。じゃが、今日の二つの升は正しかった。なら、正しくない三つ目が、市の日にだけあの蔵に出る。妾はまだ、それを見ておらぬ」
「蔵の中を探せば――」
「探して出ても、それはただの升じゃ」
董白は膝の上で指を折った。
「誰の手が、いつ、何のために使うたか。それが無ければ、言い逃れはいくらでも立つ。妾が要るのは、疑いではない。現物じゃ。現物のないまま人を盗人と呼べば、次からは誰も白の蔵で働かぬ」
「じゃあ、どうする」
「次の市も、その次も、普通に開けさせる。何も気づいておらぬ顔でな」
実際、次の二つの市は何事もなく終わった。戻り札も、控えも、棚も合った。五人組の一件は、袋のせいだったという顔で流れていった。
合っている、という報せを受け取るたび、俺は前のようには安心できなくなっていた。
董白が動いたのは、その後だった。
まず、阿慶を訪ねた。水場の脇で縄を綯っていた阿慶は、董白の顔を見ると手を止めた。
「白。仕事?」
「うむ。近いうちに一日、そなたを借りる。縄を休む分も払うぞ」
「何を見ればいい」
「量る所じゃ。目の良い者が、もう一人要る」
「分かった」
阿慶はそれだけ言って、縄を巻き始めた。
それから董白は、別々に人へ会った。最初に気づいた行商人。塩売りの商人。隣町の市を預かる役人と、その下で市を見回る男。誰と何を決めたのか、俺は全部は聞かされていない。俺の仕事は書付を作ることだった。同じものを二枚ずつ。誰が、いつ、どこにいるか。
杜恪にだけは、何も知らせなかった。
~
その日の第一白蔵の仕事を終えると、俺たちは戸に明日の休みを告げる札を掛け、日暮れの道を隣町へ渡った。阿慶も一緒だった。
泊まったのは、塩売りの商人の家の奥の部屋だ。表から俺たちの姿は見えない。
「明日、市が始まっても、すぐには動かぬ」
董白は狭い部屋で、指先だけを動かした。
「杜恪が戸を開ける。列ができる。忙しくなる。人が確かめを省くのは、忙しい時じゃ。人が何かを替えるのも、な」
阿慶が短く聞いた。
「あたしは、どこで見てればいい」
「量る手元の見える所じゃ。目立たぬ場所は、朝のうちに手代へ選ばせる」
話が終わると、董白は俺の袖を引いた。
「柳誠。飯じゃ」
「こんな時でも減るんだな」
「こんな時こそじゃ。明日は長いぞ」
塩売りの商人が出してくれた粥を、董白は大盛りで二杯食べた。食べ終わると、壁に寄りかかって目を閉じた。
翌朝、市の音が立ち始めても、俺たちは表へ出なかった。
第二白蔵の戸が開く。列ができる。杜恪の、列をさばく声が遠くから聞こえてくる。
市の音が高くなっていく。列の先で、杜恪が升へ手を伸ばした。
董白は、瞬きもせずにその手元を見ていた。