董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
市の日の杜恪は、最初の市で見たままの蔵番だった。
戸を開け、中を掃き、粟の袋を確かめる。それから、一斗ずつ升で量って手桶へ分けていく。客が来たら、目の前で手桶から十杯を数え直して袋へ移すだけでいい。量る手間を先に済ませて、見せる手間だけを客の前に残す。列が速いはずだった。
俺たちは、通りを挟んだ塩売りの商人の家から、格子越しにそれを見ていた。
阿慶は蔵の斜向かいにいる。荷車の陰に莚を広げ、縄を並べて売る格好で座っている。手元の縄は、朝からほとんど進んでいない。
董白は格子の前から動かない。膝の上には俺の書いた書付がある。誰が、いつ、どこにいるか。それだけの紙を、董白は一度も開かなかった。覚えているからだ。
交換が始まるのは、働き手が札を受け取ってからだ。日が傾くまで、蔵の前に列はない。待つだけの半日は長かった。長いのは明日だと言った董白だけが、涼しい顔で市を見ていた。
日が傾き、市の声が変わる頃、蔵の前に人が立ち始めた。仕事を終えた者が、札を握って集まってくる。この蔵が一日に換えるのは五枚まで。列は長くない。それでも、店じまいの騒がしさの中で、並んだ者は口々に急かした。
杜恪が屈んだ。
台の陰へ半身が沈み、すぐ戻った。手には升がある。同じ形、同じ色の升が。
俺には見えなかった。屈んで、戻った。それだけにしか見えなかった。だが向かいで、阿慶が立ち上がった。並べていた縄を一本取り、肩へ掛ける。決めておいた合図だった。
雑踏の中で、麻袋を担いだ男がゆっくりと列の尻へ付いた。最初に袋の軽さへ気づいた、あの行商人だ。手には今朝、塩売りの商人から仕事の払いとして受け取った、本物の札がある。これで今日の五枚目。この蔵の、今日の最後の客だ。
列が進む。
一人目が袋を担いで離れ、二人目、三人目、四人目と続いた。手つきは朝の量り分けと変わらない。数える声も、升の縁をならす指も同じだ。同じに見えることが、一番恐ろしかった。
行商人の番が来た。杜恪は札を受け取り、印を見て、番号を控えへ写した。手桶を引き寄せ、量り始める。
一杯。二杯。
十杯で、袋の口が縛られた。行商人は礼も言わずに袋を担ぎ、列を離れた。教えたとおり、振り返らなかった。担いだ肩が一度だけ揺れたのは、重さを確かめたのだと思う。
五枚目が終わった。
杜恪は空いた手桶を重ねながら、底に残った粟をひとつの桶へ集めていった。片付けにしか見えない手つきだった。それから台の内へ屈み、集めた粟を腰の小袋へ流し込んだ。
董白が立った。
「行くぞ」
~
通りを渡る間に、書付のとおりに人が動いた。
市の見回り役が人垣を割って、蔵の戸口の脇へ立つ。手代が台の内側へ回る。店じまいの手を止めて、人が集まり始めた。
杜恪が顔を上げ、俺たちを見た。
一拍だけ、何の表情も浮かばなかった。それから、いつもの顔へ戻った。
「……白様。今日は、来る日じゃないだろ」
「来ぬと言うた覚えもないがな」
董白は台の前へ立った。
「腰の袋と、鍵を卓へ置け」
「袋は俺の飯の粟だぜ」
「なら、量っても減るまい」
杜恪は肩をすくめ、小袋と鍵を台へ置いた。重さのある音がした。手代が帳簿と戻り札箱を卓の端へ並べ、見回り役の前で棚の斗数が数えられた。棚は帳簿どおりだった。今日もまた、帳簿どおりだった。
董白は振り向かずに言った。
「阿慶」
阿慶が莚を置いて来た。台の下へ屈み、すぐに升をひとつ取り出す。朝の量り分けに使われていた方の升だ。台の上の升と並べる。
「同じに見える」
阿慶は二つの升を順に持ち、指を中へ入れた。
「外は同じ。中が違う。こっちは底が上がってる。持てば分かる。毎日縄を綯う手なら、なおさら」
「いつ替わった」
「朝の量り分けは、正しい方でやってた。替えたのは、列ができてから。屈んで、台の下と入れ替えた。そこから五人、全部こっちの升で量った。あの人が五人目」
阿慶は行商人を指した。
杜恪が口を挟んだ。
「見間違いだったら、どうする」
「二十歩。間に遮る物なし。場所を選んだのは、あたしじゃなくてそっちの手代」
「……升なんざ、誰でも仕込めるぜ」
「台の下へ升を置けるのは、鍵を持つ者だけ」
董白が引き取った。
「市の日、この蔵の鍵は、そなたの帯にしかない」
杜恪は答えなかった。
董白は蔵の奥から、封じた基準升を持って来させた。縄も札も、封じた時のままだ。
「封を切るのはわたしじゃと、言うたであろう」
杜恪へ一度だけ目をやってから、董白は自分の手で縄を切った。
「柳誠」
俺は浅い方の升に粟を満たし、基準升へあけた。
縁まで、届かない。
もう一度満たして、空の桶へあける。十回繰り返して、欠けを集めた。掌にひとつかみ。一杯ごとの欠けの、十杯分だ。俺は懐から五人組の量り直しの控えを出し、並べて量った。
「……同じだ。五人の袋の不足と、同じ量だ」
次は小袋だった。中の粟を量る。十杯分の欠けの、ちょうど五人分あった。
「飯にしては、良う量れておるのう」
杜恪は答えなかった。
董白は手代の写しから、今日の五枚の札の番号を出させた。見回り役が市を回り、残りの四人が呼び戻される。行商人を入れた五人の袋は、どれも同じだけ軽かった。封を解いた自由粟から、その場で一人ずつ足していく。
五人組の時と同じだった。違うのは、今日は升がここにあることだ。
杜恪は、最後の袋が縛られるまで黙っていた。それから、軽く息を吐いた。
「……で、白様。これをいつからやってたって話にするんだ」
自分から聞いた。往生際の悪さというより、値切りの入り口に聞こえた。
「そなたが言うのじゃ」
「覚えてねえな」
「よかろう」
董白は手代の紙の束を指した。
「なら、こう扱う。わたしが最後にこの蔵の交換へ立ち会うた日から今日までに、札を換えた者を全員疑う。一人ずつ探し、袋を量り直し、足りねば足す。探す手間賃も、足す粟も、みなそなたの弁済へ載せる」
「おい――」
「浅い升を使うた日が分かれば、探す者は減る。減った分だけ、そなたの払いも減る。じゃが、どの日に使うたかを知っておるのは、この世でそなた一人じゃ」
杜恪の指が、癖のとおりに動いた。銭を数える指だ。探す者の頭数を数えたのか、弁済の額を数えたのか、その両方か。
「……手間賃ってのは、誰の値で付ける」
「わたしの値じゃ」
「高えな」
「うむ。高いぞ」
杜恪は台の上の升を見て、紙の束を見て、それから短く天を仰いだ。
「五人組の市と、今日だけだ。どっちも五人――一日五枚と決めたのは、あんただぜ、白様。間の二回は使ってねえ。当たり前だろ、あんたらが袋まで量り直した後だぞ。ほとぼりも冷めねえうちに使う馬鹿がいるか」
「よう覚えておるのう」
杜恪の口が止まった。
自分が何を言ったか、数え直している顔だった。使った日を数えられるのは、使った覚えがあるからだ。こぼれた話も、袋の目の粗さも、いま本人の口から消えた。
「……ああ、くそ」
杜恪は短く笑った。誰へ向けた笑いでもなかった。
「そういう仕掛けか。覚えてねえと言やあ弁済が膨らむ。覚えてると言やあ、わざとやったことが立つ。どっちへ転んでも――」
「どちらへ転がすかは、そなたが選んだ。安い方をな。割の合わぬ博打はせぬ男なのであろう?」
雇った日の、本人の言い分だった。
「粟は返す」
杜恪は早口になった。
「今日の分はそこにある。五人の分は……売った。銭で足す。給金の残りも当てろ。それで――」
「それで、明日からも蔵番か?」
董白は首を振らなかった。振るまでもない、という顔だった。
「返すのは、盗んだ者の当たり前じゃ。当たり前を済ませたところで、信用は戻らぬ。そなたはこの蔵の鍵にも、升にも、札にも、粟にも、二度と触れぬ」
杜恪は、台の上の鍵を見下ろした。ついさっきまで自分の帯にあった鍵だ。手を伸ばしはしなかった。
「……白様。最後にひとつ、商売の話だ」
声から早口が消えていた。
「俺はこの蔵の穴を、升のほかにもいくつか知ってる。戻り札の箱にもある。控えの写しにもある。買わねえか。弁済から引いてくれりゃあいい」
「今日は買わぬ」
董白は即答した。
「盗んだ者が、盗みの知恵で払いを軽くする道は、ここで塞ぐ。そなたの弁済は、一粒も減らぬ」
杜恪はしばらく董白を見ていた。それから、ふ、と息だけで笑った。
「……今日は、ときたか」
董白は答えなかった。
~
役人が市の詰所から来て、蔵の前で記録が作られた。
書いたのは俺だ。浅い升の手口。被害は二つの市で十人。全員へ足し終えたこと。隠した粟が自由粟の袋へ戻ったこと。売られて戻らない分が弁済として残ること。蔵番の解任。鍵、升、粟、札、印、帳簿のどれにも触れられないこと。白蔵の名で、人から札や粟や銭を預かることの禁止。
同じものを二枚書いた。一枚は役人が持ち、一枚はこちらが持つ。浅い升は証拠として役人の手へ渡った。杜恪は、弁済を認める一札へ自分の名を書いた。字の読める蔵番は、こんな所で役に立った。
見物の輪は、最後まで薄くならなかった。散り際に、袋を足された誰かが言うのが聞こえた。
「盗られたのが、こんな早く戻ったぜ」
「姫の来ない日に盗られたのにな、よくやるわ」
塩売りの商人は、輪の外でずっと難しい顔をしていた。杜恪を連れて来たのは、この人だ。董白はその前へ行き、相手が口を開く前に言った。
「そなたのせいではない。雇うたのはわたしじゃ。目利きを外したのもわたしじゃ」
「……次の市は、どうする」
「開ける。開け方は、次の市までに決める。この蔵は、盗人一人で閉まるほど安うない」
杜恪は、見回り役に付き添われて市を出て行った。
去り際に一度だけ振り返り、役人の手の中の升を見た。惜しむようでも、憎むようでもなかった。出目の悪かった賽を、確かめ直すような目つきだった。
~
市が閉まる前に、俺たちは蔵の戸へ錠を下ろした。錠は新しい物に替えてある。鍵は董白の袖へ入った。
阿慶には、約束の一日分と縄を休んだ分を払った。阿慶は数えて、しまって、それだけだった。ただ、荷車へ乗る前に一度だけ言った。
「また要る時は言って」
「うむ。目の良い者は、また要る」
帰りの荷車で、董白は袖の上から鍵を押さえていた。
「柳誠」
「なんだ」
「一人へ、鍵も升も帳簿も持たせた。持たせたのは妾じゃ。次は分ける。量る手と、記す手と、確かめる手をな」
「分けると、遅くなるよ」
「遅うてよい」
董白は袖から手を離した。
「速い升に、もう用はない」
それから、思い出したように付け足した。
「飯じゃ。町へ着いたら大盛りぞ。今日は長かったでな」
荷車が動き出す。次の市の日、あの蔵は杜恪なしで戸を開ける。
大盛りの約束だけが、いつもどおりだった。