董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
俺たちは第一白蔵の戸へ休みの札を掛け、朝のうちに隣町へ渡った。開け方は決めてある。字の書ける手代が札の印と番号を確かめ、穀物商の人足が量り、商人たちが出し合った隠居が、終わりに数を突き合わせる。俺は横で帳簿を持つ。誰も、自分の受け持ちしかやらない。そのかわり、誰も慣れていなかった。
一枚を換えるのに、杜恪の三倍はかかった。列で待つ男が言った。
「前の男は速かったなあ」
「速い升だったからな」
別の誰かが返して、列が笑った。あの日の見物の輪は、こういう形で町に残っている。
五枚を換え終えると、日が傾いていた。戻り札は五枚。帳簿は五斗減り、棚も五斗減っていた。遅かったが、合った。
「遅いのう」
帰りの荷車で董白が言うので、俺は横を向いた。
「速い升に用はないって言ったのは白だろ」
「言うた。じゃが、限度というものがある」
二度目の市は、少しだけ速くなった。それでも杜恪には遠く、そして今度も、全部合った。
荷車の上で、董白は指を二本折った。
「二回、あの男なしで回った。……これでようやく、杜恪と話せる」
「話すって、何を」
「買い物じゃ」
~
杜恪は、市の外れで荷を担いでいた。
銭を数えさせれば誰より速い男に、もう誰も銭を触らせない。手の速さで生きてきた男が、背中で弁済を稼いでいた。それでも俺たちに気づくと、顔だけはいつもの軽さへ戻した。
「……白様。俺の働きぶりを見に来たのか」
「そなたに、一つ仕事をやる」
「蔵番の口なら断るぜ。ってのは嘘だが、どうせ違うんだろ」
「試験じゃ。一回きりの」
董白は荷の上へ、小さな銭袋を置いた。
「市のない日に、第二白蔵へ来い。そなたには、あの蔵から盗んでもらう」
杜恪の指が止まった。
「……本気で言ってるのか」
「盗ませるのは、使えなくした札と、試験の粟じゃ。生きた札にも、銭にも、鍵にも、印にも触れさせぬ。そのかわり、今の手順のままなら次はどこから盗れるか、そなたの目で挙げてもらう」
杜恪は、俺たちの顔を順に見た。
「……二回、俺なしで回してから来たわけか。足元を見られる前に、こっちの足元を消したと」
「気づくなら、話が早い」
「穴一つにつき、いくらだ」
「固定じゃ」
董白は即答した。
「穴の数で払えば、そなたは穴をこしらえる。枚数で払えば札を急がせるのと、同じことじゃ」
杜恪は短く笑った。雇われた日のことを、思い出したのだと思う。
「……弁済は」
「まけぬ。仕事は仕事、弁済は弁済じゃ。この報酬から決めた分を弁済へ回し、残りはそなたの銭になる」
「断ったら」
「断ればよい。弁済と、市に残った記録は、そのまま残るがな」
杜恪は担いでいた荷を下ろし、銭袋を目方で量るように持ち上げた。それから、担ぎ仕事の手間賃と見比べる顔になった。
長くは、かからなかった。
「……いつだ」
~
冬の初めの、市の立たない日だった。
第二白蔵の卓には、俺が並べた物だけがある。線を引き、切り目を潰して使えなくした札。無効の番号だけを写した控え。空の戻り札箱。試験用の粟が一袋と、升。鍵は最初から最後まで、俺たちの手で開け閉めした。
杜恪は卓の札を一枚つまみ、裏を返した。
「……徹底してるねえ。全部死んでる」
「生きた物は、そなたの仕事に要らぬ」
「違いない」
杜恪は蔵の中をゆっくり歩いた。棚を見て、箱を見て、戸口からの人の動きを目でなぞる。それから、戻り札の箱を指で叩いた。
「まず、ここだ。客から受け取った札、線を引くのはいつだ」
「その日の終いに、まとめてです」
手代が答えた。杜恪がにやりとする。
「なら、箱の中の札は夕方まで生きてる。量る奴でも記す奴でもいい、箱から一枚抜いて、次の市で素知らぬ顔で出す。粟がもう一斗出るぜ。帳簿は狂うが、狂ったと分かるのは市の後だ。誰が抜いたかは、もう分からねえ」
董白は俺を見た。
「柳誠」
やってみるまでもない気はしたが、やる決まりだった。俺が受け取り役で死に札を受け取り、線を引かずに箱へ入れる。阿慶が量り役の立ち位置から、体で箱を隠して一枚抜いた。俺は気づかなかった。次の「市」で阿慶がその札を出すと、俺はもう一度受け取ってしまった。
「……通った」
「だろ」
「塞ぎ方は」
「受け取ったその場で線を引いて、切り目を潰す。死んだ札しか箱へ入れない。それなら抜かれても、ただの木切れだ」
杜恪が言い、俺が木簡へ書いた。手の空いた者が後でやる、ではなく、記す者の仕事として最初から入れる。
次に杜恪は、升を顎で指した。
「二つ目。升比べは朝だけか」
「朝、封じた升と比べます」
「なら、俺のやり口がまだ通る。朝は正しい升で比べて見せて、昼に替えりゃいい。あんたらが俺を捕まえられたのは、張り込んでたからだ。毎市、張り込むのか?」
これも試した。阿慶が途中で升をすり替える役をやると、朝しか比べない決まりでは、誰も気づかなかった。だから比べる回数を増やす。開始の前。五人ごと。終いの後。すり替える隙間を、確かめの間隔で潰す。
三つ目に、杜恪は札そのものを取り上げた。
「切り目を足す。一斗の切り目を二つにすりゃ、一枚で二斗だ」
これは、通らなかった。切り目の位置は決まっていて、後から足せば木肌の色が違う。阿慶が三度やって、三度とも手代が見つけた。
「忙しい市なら通るね」
杜恪は食い下がったが、董白は首を振った。
「再現できぬ穴は、塞げぬ。塞げぬ穴は、買わぬ」
「俺が通るって言ってるんだぜ」
「そなたの言い分で通るなら、穴の真偽をそなたが決めることになる。それは、この蔵で一番大きな穴じゃ」
杜恪は口を開け、それから閉じた。反論の代わりに、肩をすくめた。
「……ごもっとも」
日が傾く前に、董白は蔵の中の三人へ向き直った。手代と、人足と、確かめ役の隠居だ。
「今日から、この蔵の仕事は三つに分ける」
記す者は、印と番号と控えを照合し、戻った札をその場で殺す。粟と升には触れない。量る者は、粟を量る。札にも帳簿にも箱にも触れない。確かめる者は、決めた回数だけ升を基準升と比べ、終いに戻り札の数と棚を突き合わせる。合わなければ、交換そのものを止める。誰であっても、一人では何も決められない。
錠は二つに増やした。鍵は、記す者と確かめる者が別々に持つ。開ける時は、必ず二人。
手代が少し困った顔をした。
「私まで、疑われるのですか」
「疑うておらぬ」
董白の答えは早かった。
「疑わずに済む形に、しておくのじゃ。そなたが正しいことを、そなたの言葉ではなく、帳簿と升が言うてくれる。それは、そなたを守る柵でもあるぞ」
手代は少し考えて、頭を下げた。
最後に、杜恪の報酬だった。
俺が同じ木簡を二枚書いた。一回の試験仕事に対する固定の報酬。そこから弁済へ回す分。蔵番には戻らないこと。粟、銭、生きた札、印、鍵、帳簿に触れないこと。真偽も、払いも、処分も決めないこと。次に手を出せば、その場で終わりということ。
杜恪は読み終えて、名を書いた。それから、報酬の銭袋から弁済の分を自分で数えて分け、残りを懐へ入れた。銭を数える指は、相変わらず誰より速かった。
「言っとくがな、白様。忠義じゃねえぞ」
「要らぬ」
「あんたの蔵から盗るより、あんたの銭で穴を数える方が割がいい。そういう勘定だ」
「うむ。その勘定が続く限り、そなたは使える」
杜恪は戸口で一度だけ振り返った。
「……またな、お嬢」
白様、ではなかった。董白は聞こえなかった顔で、控えを揃えていた。
~
冬から春へ、市のたびに三役は同じことを繰り返した。
開始の前に升を比べる。戻った札は、その場でただの木切れに戻る。五人ごとにまた比べ、終わりに数を突き合わせる。三人分の賃金と戸の修繕は手数料の袋から出て、払っても、袋にはまだ残った。速さも少しずつ戻ってきた。杜恪ほどではない。ただ、誰が休んでも、別の者が同じ手順で代われる速さだった。
春になると、蔵の方が育ち始めた。こちらの町では預け主が二人増え、控えに新しい番号帯が増えた。隣町では市のたびに上限の五枚まで札が戻るようになり、換えられずに次の市を待つ者が出た。夏の初めから、交換の上限は十枚になった。決まりどおり、先に補いの自由粟を十斗へ増やしてからだ。上限を上げても、三役の手順は変わらない。組が一つ増えるだけだ。
夏も半ばを過ぎた頃、第一白蔵の卓で控えを閉じた董白が、ふいに言った。
「柳誠。次の市は、行かぬぞ」
「隣町の?」
「うむ。知らせもせぬ。妾たちがおらぬ日に、あの三人だけで回るかどうか。試しておらぬのは、もうそれだけじゃ」
董白の袖に、もう第二白蔵の鍵はない。二つに増えた鍵は、隣町の二人の帯にある。
次に試されるのは、俺たちがいなくても回るはずの、その形だった。