董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
市の日の朝、俺たちは隣町へ渡らなかった。
渡らないことは、向こうの三役の誰にも知らせていない。知らせてしまえば、試しにならないからだ。第一白蔵の戸だけを、いつもどおりに開けた。
「今日は、何も起きぬかもしれぬぞ」
朝のうちに、董白が先に言った。
「起きない方がいいだろ」
「うむ。じゃが、静かに終わった市は、何も教えてくれぬ」
知りたいのは、何事もない日にあの蔵が回るかどうかではない。それはもう見た。知りたいのは、誰かがしくじった日に、あの三人だけで立て直せるかどうかだ。そして、しくじりだけは、こちらから頼んで起こしてもらうわけにもいかない。
だから、待つしかなかった。
第一白蔵の仕事は、いつもどおりに流れた。札が二枚戻り、粟が二斗出て、控えに線が二本増えた。
昼を過ぎると、董白は頼まれてもいない控えの綴じ直しを始めた。とっくに揃っている綴じ紐を解いて、また同じ順に綴じる。手を動かしていないと、目が道の方へ行くからだと思う。俺も似たようなもので、今日の荷札の字は、いつもより妙に丁寧だった。
日暮れ前、道の向こうから荷車の音がした。
塩売りの商人の荷車だ。市の日の夕方、戻り札と手代の紙を積んで隣町から戻ってくる。この一年、市のたびに続いてきた決まりごとだった。
商人は荷台から布包みを下ろすと、中も改めずに卓へ置いた。
「はい、今日の分。……ああ、紙が一枚多いってさ」
言うだけ言って、自分の荷を下ろしに戻っていく。
董白が包みを解いた。戻り札。控えの写し。それから、いつもの紙の下に、もう一枚あった。
一行目に、こうあった。
「本日、交換を一度止めました。止めて、直して、その日のうちに開け直しております」
俺はそこで一度顔を上げた。董白は上げなかった。指で行を押さえたまま、先を読んでいる。
~
手代の字は、几帳面だった。
あの場を見た者は、この部屋にいない。だからここから先は、この紙と、後日の照合と、関わった持参人から聞いた話で組み直したものだ。紙の上では、こうだった。
昼過ぎ、第二白蔵の前に五人が並んだ。決まりどおり、先の三人をひと組にして、その組の分の三斗だけを量り台へ出す。組が終われば台は空になり、空にならなければどこかが違っている。この確かめ方は、俺たちが教えたものではない。冬の反復の間に、三役が自分たちで考えて足した決まりだ。
一人目、二人目までは、何もなかった。三人目を量っている途中で、量り手が横から声を掛けられた。市の荷運びが、台の脇の空桶のことで何か聞いたらしい。量り手は答えて、升へ戻り、続きから数えた。
続きから数えたつもりだった、と後で本人が言っている。
組が終わった時、空になるはずの量り台に、一杯分の粟が残った。
確かめ役の隠居は、次の組を呼ばなかった。呼ばずに、交換を止めた。
記す者の手代は、いま終わった組の三枚だけを紙へ写した。前の市の分にも、それより前の持参人にも、対象を広げない。台に粟が残ったのはこの組のどこかで、それ以外ではあり得ないからだ。
三人には、近くで待ってもらってある。組が終わるまで待つのも決まりのうちだ。三人の袋を、封じてある基準升で順に量り直す。一人目、一斗。二人目、一斗。三人目が、ちょうど一杯分だけ足りなかった。
台に残っていた一杯分を、その場でその袋へ足す。ほかの二人の一斗も、本人の目の前で確かめる。
手代の紙には、そこまでの番号と、止めた刻限と、足した量と、わけが書いてあった。「量り手、声を掛けられ、数を違える」。残りの二枚は、量り手を替えて続けたこと。持参人の名は、白札の帳簿には書いていない。その日の別紙にだけ、確かめの印がある。
三役で戻り札の数と払い出しと棚を突き合わせてから、次の組を呼んだ。交換は、そのまま再開された。
使いは、来なかった。
紙の最後に、手代の字で一行だけ添えてあった。
「止めた分、列を待たせました。次の市は、この二人を先に呼びます」
董白は、その一行を長いこと見ていた。
「……柳誠」
「なんだ」
「五人組の市の晩の使いを、覚えておるか」
「覚えてる。夜に戸を叩かれた」
札も袋も預かってあります、白様に来てほしいそうです――あの晩の言伝は、そういうものだった。止めるところまでは向こうでやり、直すのはこちらの仕事だった。
今日の紙は、直した後の報せだ。誰も、俺たちに何も聞いていない。
「行かないのか」
俺が聞くと、董白は紙を控えの綴じへ挟んだ。
「行って、何を直す。直っておるものを」
そう言ってから、少しだけ付け足した。
「次の市には行くがな。妾の目でも確かめる」
「それは検分? それとも見たいだけ?」
「両方じゃ」
董白は素直に言った。その日はもう、控えの綴じ直しをしなかった。
~
次の市の日、俺たちは第一白蔵へ休みの札を掛けて、隣町へ渡った。
昼過ぎに着くと、第二白蔵の前には列があって、そして動いていた。
組の三人が量り台の前に立ち、記す者が札を殺し、量り手が量り、確かめ役が升を見る。俺たちに気づいた手代は頭を下げたが、手は止めなかった。列の誰も、俺たちを待っていなかった。
組の切れ目で、董白は紙と現物を突き合わせた。あの日の三枚の番号。止めた刻限。足した一杯。帳簿と棚。どこにも狂いはない。二つの町の札も粟も混ざっていない。家賃と三人の日当と戸の修繕はこの蔵の手数料から出て、まだ残っている。補いの自由粟も、十斗が封のまま揃っている。
あの日の三人目にも会えた。市で荷を運ぶ若い男だった。
「その場で足してもらったよ。目の前で量り直して、台に残ってた分をそのまま、な」
男は袋を担ぎ直した。
「間違えられたのは確かだけどよ、間違いがその場で直る蔵なら、こっちは困らねえ。また使うさ」
董白は三役を集めて、多くは言わなかった。
「あの日の扱いは正しかった。この形のまま続けよ」
それだけ言って、少し間を置いた。
「……よう止めた。開けるより、止める方が難しい」
隠居が、皺の中で笑った。
「止めて間違いだったなら、詫びて開け直せば済みます。止めそこねた間違いは、詫びる相手を探すところからですからな」
「うむ。それじゃ」
~
帰り支度を始めた時だった。
列の外れに立っていた男が、こちらへ歩いてきた。
商人だ。それも、身なりのいい。旅の埃は付いているのに、袖口だけが妙に綺麗だった。男は董白の三歩手前で止まり、深く頭を下げた。
「白様とお見受けいたします。手前は南陽の鄧氏に仕えます、
腰の低い、よく回る舌だった。南陽の鄧氏。名前だけなら、この町の商人たちの口からも聞いたことがある大商家だ。
鄧遷は懐から手控えを出し、開きもせずに言った。
「この一年、両の町の白蔵を見せていただきました。市を止めたのは二度。一度は蔵番の盗み、一度は量り違い。どちらも、その日のうちに全員へ一斗が渡り、その日のうちに開き直しておいでだ」
数えていたのは、こちらだけではなかったらしい。
「それで、御用は」
董白の声は平らだった。鄧遷は動じず、綴じた書付を両手で差し出した。
「買わせていただきたい」
「……何をじゃ」
「すべてを。二つの白蔵と、白の印と、預け主の方々との結び付きと、それから――止め方、直し方、開け直し方。手前どもは、その紙一式にこそ値を付けております」
董白は、すぐには書付を受け取らなかった。
「わたしの蔵に、売り物の看板を出した覚えはないがの」
「存じております。ですが白様、失礼を承知で申し上げますと――」
鄧遷は、動いている列を目で示した。
「白様がおられずとも回る蔵に、白様は先日、仕上げられました。おられずとも回るものは、持ち主が替わっても回りましょう。売り物になさったのは、白様ご自身にございます」
董白は、しばらく鄧遷を見ていた。
それから、差し出されたままだった書付を取った。
「預かる。読むのが先じゃ。返事はそれからになる」
「結構でございます。手前は、急ぎませぬので」
鄧遷はもう一度深く頭を下げ、手控えへ短く何かを書き付けてから、市の雑踏へ戻っていった。
帰りの荷車の上で、董白は書付を開かなかった。膝の上に置いたまま、遠くなっていく第二白蔵の屋根を見ていた。
屋根が木立に隠れると、董白は書付を袖へしまい、前を向いた。