董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
夜が深くなるにつれ、厨の前を走る足音は減っていった。
代わりに、歩いてくる者が増えた。戸を開ける音がして、閉める音がする。隣の部屋で物を動かす音を聞きながら、俺は、どうかここへは来ないでくれと祈っていた。
「今の者は、何と言うた?」
背後から董白が訊いた。
「向こうを調べるって」
「妾の供かもしれぬ。少し戸を開けよ」
俺は戸の前に置いた卓を押さえた。董白は立ち上がると、俺をどけるつもりで袖を引いた。
「待ってくれ。外の兵が味方とは限らないだろ」
「妾なら、供の顔ぐらい見分けられる」
それなら、俺が見るより確かだった。ただ、戸を開けて顔を出せば、向こうにも見られてしまう。
「じゃあ、ここから見てくれ。戸は開けないぞ」
俺は隙間を指し、横へ退いた。董白は袖から手を離して屈み、外を覗いた。
松明の明かりが、戸の隙間を横切る。
「知ってる人か?」
董白はすぐには答えなかった。足音が遠ざかってから、ようやく顔を離した。
「……知らぬ者じゃ」
袖を引いていた手が下がった。俺が卓を押さえ直す間、董白は戸の前に立っていたが、やがて壁際へ戻って座った。
その後も、人の声がするたびに董白は立ち上がり、隙間から外を見た。俺はその横で、いきなり戸を開けないか気にしていた。
知った顔は見つからなかった。夜が更けると、董白は声がしてもすぐには立たなくなった。それでも耳を澄まし、聞こえなくなるまで戸の方を向いていた。
紫の衣が、汚れた床へ広がっていた。
「寒くないか?」
「構うな」
両腕で膝を抱えている。俺は上着を脱ぎかけたが、董白がこちらを睨んだので、手を止めた。
「貸すだけだぞ」
「要らぬと言うておる」
まだ言ってないだろ、と思ったが、そこは黙っておいた。
火を起こすわけにもいかない。竈はすっかり冷え、近くへ座り直しても暖かくはなかった。
董白も黙ったままだった。俺は膝に書具箱を乗せ、蓋に頬を付けそうになっては顔を上げた。眠気はあるのに、足音が聞こえると目が冴える。それを何度か繰り返した頃、董白が口を開いた。
「そなた、名は何という?」
「柳誠」
「柳誠」
確かめるように言って、俺の顔を見た。
「妾の供が来たら、昨夜の無礼は一つ残らず詫びさせるぞ」
「……まず、ここを出てからにしてくれ」
董白は顔を背けた。
詫びるだけで済むなら、いくらでも詫びる。そんなことを考えてから、本当に迎えが来ればいいのにと思った。俺を叱りつけ、少女を引き取ってくれる人がいるなら、頭ぐらい下げる。
だが、戸を叩く者はいなかった。
~
朝になった。
厨の中が見えるようになったのは、ありがたかった。誰もいないはずの隅が気になり、何度も見直す必要はなくなった。
けれど、外は明るくなった分だけ人が増えた。
「金物と絹は中庭へ運べ。壊れた物は芥車だ!」
怒鳴り声の後で、幾人もが返事をした。
俺は隙間から外を見た。見覚えのある下働きが、兵に頭を下げている。昨日まではここで菜を洗っていた男だ。今は大きな壺を抱えさせられ、別の者と一緒に中庭へ歩いていった。
董卓の屋敷の物を、運び出している。
殺されたという話を聞いた時より、その光景を見た時の方が、もう戻らないのだとわかった。昨日の粟の間違いも、俺が直す必要はないのだろう。
「誰か来たのか?」
董白が横へ来た。
「屋敷の物を集めてる。あの人、厨で見たことがあるんだが、話せないか?」
少女は俺の指す方を見た。
「知らぬ。厨の者と話す用など、なかった」
それは、そうかもしれない。
「頼めそうな人は? この辺りにいる人で」
董白は答えず、外を見ていた。下働きの男が戻ってきたが、厨を見ようとはしない。兵に何か言われ、今度は木箱を持っていった。
俺が口を開きかけると、董白が先に言った。
「同じことを、何度も訊くな」
俺は外へ目を戻した。
侍女は戻らなかった。祖父の兵も来なかった。今いる者の中から味方を探せと言われても、あの娘には答えようがないのだろう。
ここを出る方法を、俺が考えるしかなかった。
屋敷の下っ端だった俺一人なら、荷を運ぶ者に交じれるかもしれない。だが、董白の衣と髪飾りは、顔を知らない相手にまで、身分のある娘だと教えてしまう。
俺は厨の隅にあった粗い上衣を拾った。油染みはあるが、破れてはいない。下働きが脱いでいったものらしかった。
「これに着替えてくれ」
董白は差し出した服を見て、俺を見た。
「妾に、それを着ろと?」
「その紫の衣じゃ、昨日の兵に見られたままだ。すぐに見つかる」
「これは妾の衣じゃ。捨てていけと申すのか?」
胸元の金の縁を、董白の指が押さえた。
「持って出るのも危ない。袋に入れたって、中を見られたら終わりだ」
「勝手に決めるな」
言い切ったところで、隣の戸が開いた。
俺たちは口を閉じた。男が二人、何か重いものを運んでいる。ぶつけるな、と言う声に、もう一人が悪態を返した。
足音が遠ざかるまで、俺は服を差し出したまま待った。
董白が、留め具へ手をかけた。
「後ろを向け」
俺は戸の方を向いた。
布の擦れる音がする。急がせたかったが、声にはしなかった。外で車輪の音がして、男が道を空けろと怒鳴った。
「柳誠」
振り返ると、紫の衣を押しつけられた。
「地へ置くな。踏まれぬ所に置け」
「わかった」
俺は隅の籠へ衣を収め、上から古い布をかけた。
粗い上衣は、董白には大きすぎた。袖から指先が出ず、裾も余る。さっきまで着ていた物とは、触っただけでも違いがわかったはずだ。少女は袖口を折り返しながら、衣を入れた籠を見ていた。
「髪飾りも、外してほしい」
董白が俺を睨んだ。
「それだけ大きな銀の飾りを付けた下働きは、いないだろ」
伸ばしかけた手を払われた。
「触れるな。自分で外す」
左右の飾りを、一つずつ外した。大きな飾りの下には、髪を留める細い簪が二本残った。それは布をかぶれば見えない。
銀の飾りを受け取り、衣と同じ籠へ入れる。董白は、今度も止めなかった。
落ちてきた長い髪を布でまとめ、頭から粗布をかぶせた。結び目を直そうとすると肩が逃げたので、俺は手を引いた。
「前から髪が見えないように。そこは自分で直してくれ」
董白は布の端を引き、顎の下へ寄せた。
まだ、顔だけがきれいだった。
俺は竈の灰を指へ取った。董白の目が、その指を追う。
「……それもか」
説明する前に言われた。
「頬と額だけ。働いてたように見せたい」
董白は俺を見ていた。
服を脱ぐ時も、飾りを外す時も、腹を立てた顔だった。今は、何を言われるのか待っているようで、俺の方が目を逸らしたくなった。
「目は閉じててくれ」
少しして、瞼が下りた。
頬へ灰を伸ばす。触れた顔は冷たかった。額にも薄く擦りつけて手を引くと、董白は目を開けた。
何も言わない。
これで目立たなくなった、と安心しかけた自分が嫌になった。さっきから、俺がさせていることに違いはなかった。
それでも、元の衣を返すことはできない。
「外を見てくる」
すぐそこの戸まで戻るだけなのに、断ってから背を向けた。
~
荷を集める場所が、二つに分かれていた。
金物や絹、壊れていない家具は中庭へ運ばれる。割れた椀や裂けた敷物は、厨の荷を出す小さな門へ向かう車に放り込まれていた。
その一台が、厨の近くに止まった。
役人が荷を見て、木札に印を押す。脇にいた兵も、敷物を持ち上げて中を確かめた。金目の物を混ぜて持ち出す者がいないか、調べているらしかった。
検めが済むと、二人は次の車へ移った。
俺は戸の隙間から、車の高さを見た。
浅い。二人が入るには、荷の隙間へ体を押し込むしかない。上の敷物と壊れた籠をかぶせれば、見えなくはなるだろう。
途中で布をどけられたら、終わりだ。
だが、正門へ二人で歩いていくよりはいい。北の門も兵がいる。俺が知っている出口で、顔を見せずに通れそうなのは、この車が向かう小さな門だけだった。
董白を手招きした。
「あれに隠れる。門を出るまで、しゃべらないでくれ」
董白は俺の肩越しに、車を見た。
積まれた菜屑の上に、裂けた敷物がある。その端から腐った菜の汁が垂れていた。
「……あそこへ、入れと言うのか?」
「俺も入る」
董白はこちらを見た。だからどうした、と言いたそうな顔だった。
助けになる返事ではなかったかもしれない。だが、一人で乗れとは、とても言えなかった。
車を引く男が、縄を取りに離れた。
俺は卓をどけ、戸を少しだけ開けた。書具箱を抱え、董白へ手を伸ばす。
「今なら行ける」
少女は一度、厨の奥を振り返った。
衣を入れた籠がある。
何か言うかと思ったが、董白は俺の手を取った。
二人で車の陰へ入った。俺が敷物を持ち上げると、董白は車の縁へ手をかけた。汚れているとわかっていても、ほかに掴む所はなかった。
体を押し上げ、足を畳んで荷の間へ入る。
俺も続いた。箱を腹へ抱え、空いた手で籠を引き寄せる。敷物を頭までかぶったところで、男が戻ってくる足音がした。
暗くなった。
腐った菜の臭いが、すぐ鼻の前にあった。
縄をかける音がして、荷台が傾いた。車輪が軋む。隣で董白の足が動き、俺の脛に当たった。
今までなら、どけと命じられただろう。
董白は膝を引き直しただけだった。
車はゆっくり進んだ。地面の凹凸を拾うたび、背中へ籠の骨が当たる。どこを走っているのかわからず、俺は敷物の小さな裂け目から、揺れる明かりを見ていた。
「止まれ!」
車が止まった。
「札を見せろ」
門まで来たのだと思った。
外で、木が擦れる音がした。
「中庭で検めていただきました。壊れた物ばかりでございます」
男の声が、さっきまでより高い。
返事がない。
俺は裂け目から目を離した。外からも、こちらの目が見えるかもしれない。そう思った途端、息をする音まで大きく感じた。
敷物がへこんだ。
棒だった。
先が肩の横を滑り、董白の腕のすぐ脇へ入る。押された籠が鳴った。
袖を掴まれた。
董白の指だった。強く引かれているのに、そちらを見ることもできない。俺は腕を動かさず、棒が引かれるのを待った。
「金目の物はないだろうな?」
「ございません。芥だけです」
もう一度、敷物が押された。
声を出すなと、俺が言った。だが今は、俺の方が何か言ってしまいそうだった。見つかるくらいなら先に謝れば、話を聞いてくれるのではないか。そんなことまで頭に浮かんだ。
隣で董白は、黙っていた。
「行け。さっさと片づけろ!」
棒が抜けた。
車輪が回り、敷居を越えたところで大きく跳ねた。董白の額が俺の肩にぶつかる。
袖を掴む手に、また力が入った。
それでも、声は出なかった。
~
車が角を曲がり、門の声が遠ざかった。
裂け目から見えるのは、知らない家の土壁だった。太師府の塀ではない。俺は少しだけ敷物を持ち上げ、後ろから来る兵がいないか確かめた。
車が細い道へ入り、速さを落とす。
俺は董白へ顔を寄せた。
「降りるぞ」
返事はなかったが、袖を掴んでいた指が離れた。
書具箱を抱えて縁を越え、先に地面へ足を下ろす。膝がもつれ、車に肩をぶつけかけた。慌てて歩調を合わせ、董白へ手を伸ばした。
少女がその手を掴んだ。
引き下ろすと、足が地面に着いても、しばらく手を離さなかった。車を引く男は前を向いたまま、道を進んでいく。
俺は董白を連れ、近くの路地へ入った。
壁へ背をつけて、ようやく息を吐いた。
出られた。
まだ長安の中だ。城門も越えていない。それでも、さっきの戸の前へ戻らずに済んだことが、今はありがたかった。
董白はうつむいていた。
頭からかぶった布に菜屑が付いている。袖には汁が染み、頬の灰は汗で筋になっていた。大人たちが道を譲っていた、昨日の少女には見えなかった。
袖へ付いた菜を払ってやろうとして、俺は手を止めた。
董白が上衣の内側へ手を入れている。
取り出した小さな物を見て、俺は息を呑んだ。
渭陽君の印だった。
「それ、持ってたのか?」
董白は答えず、握った印を自分の方へ引いた。
「見つかったら、誰だかわかるぞ」
「これは捨てぬ」
低い声だった。
衣も銀の飾りも、あの厨に置いてきた。灰を塗られても、芥の中へ入れと言われても、最後には従った。
だが、これは違うらしかった。
「これだけは、誰にも渡さぬ」
俺は少女の手を見た。あの棒がもう少し深く入っていたら、助からなかったかもしれない。その危なさを一緒にくぐってきた今、知らずに持っていたのだとは思えなかった。
「柳誠。書具箱を開けよ」
俺は箱を壁際へ下ろし、蓋を開けた。
受け取ろうとすると、董白は手を引いた。自分で中を覗き、筆と木簡をよけて、底へ印を入れる。
俺は何も言わずに待った。
少女の手が離れてから、蓋を閉めた。