董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第2話 芥車の姫

 

夜が深くなるにつれ、厨の前を走る足音は減っていった。

 

代わりに、歩いてくる者が増えた。戸を開ける音がして、閉める音がする。隣の部屋で物を動かす音を聞きながら、俺は、どうかここへは来ないでくれと祈っていた。

 

「今の者は、何と言うた?」

 

背後から董白が訊いた。

 

「向こうを調べるって」

 

「妾の供かもしれぬ。少し戸を開けよ」

 

俺は戸の前に置いた卓を押さえた。董白は立ち上がると、俺をどけるつもりで袖を引いた。

 

「待ってくれ。外の兵が味方とは限らないだろ」

 

「妾なら、供の顔ぐらい見分けられる」

 

それなら、俺が見るより確かだった。ただ、戸を開けて顔を出せば、向こうにも見られてしまう。

 

「じゃあ、ここから見てくれ。戸は開けないぞ」

 

俺は隙間を指し、横へ退いた。董白は袖から手を離して屈み、外を覗いた。

 

松明の明かりが、戸の隙間を横切る。

 

「知ってる人か?」

 

董白はすぐには答えなかった。足音が遠ざかってから、ようやく顔を離した。

 

「……知らぬ者じゃ」

 

袖を引いていた手が下がった。俺が卓を押さえ直す間、董白は戸の前に立っていたが、やがて壁際へ戻って座った。

 

その後も、人の声がするたびに董白は立ち上がり、隙間から外を見た。俺はその横で、いきなり戸を開けないか気にしていた。

 

知った顔は見つからなかった。夜が更けると、董白は声がしてもすぐには立たなくなった。それでも耳を澄まし、聞こえなくなるまで戸の方を向いていた。

 

紫の衣が、汚れた床へ広がっていた。

 

「寒くないか?」

 

「構うな」

 

両腕で膝を抱えている。俺は上着を脱ぎかけたが、董白がこちらを睨んだので、手を止めた。

 

「貸すだけだぞ」

 

「要らぬと言うておる」

 

まだ言ってないだろ、と思ったが、そこは黙っておいた。

 

火を起こすわけにもいかない。竈はすっかり冷え、近くへ座り直しても暖かくはなかった。

 

董白も黙ったままだった。俺は膝に書具箱を乗せ、蓋に頬を付けそうになっては顔を上げた。眠気はあるのに、足音が聞こえると目が冴える。それを何度か繰り返した頃、董白が口を開いた。

 

「そなた、名は何という?」

 

「柳誠」

 

「柳誠」

 

確かめるように言って、俺の顔を見た。

 

「妾の供が来たら、昨夜の無礼は一つ残らず詫びさせるぞ」

 

「……まず、ここを出てからにしてくれ」

 

董白は顔を背けた。

 

詫びるだけで済むなら、いくらでも詫びる。そんなことを考えてから、本当に迎えが来ればいいのにと思った。俺を叱りつけ、少女を引き取ってくれる人がいるなら、頭ぐらい下げる。

 

だが、戸を叩く者はいなかった。

 

 

朝になった。

 

厨の中が見えるようになったのは、ありがたかった。誰もいないはずの隅が気になり、何度も見直す必要はなくなった。

 

けれど、外は明るくなった分だけ人が増えた。

 

「金物と絹は中庭へ運べ。壊れた物は芥車だ!」

 

怒鳴り声の後で、幾人もが返事をした。

 

俺は隙間から外を見た。見覚えのある下働きが、兵に頭を下げている。昨日まではここで菜を洗っていた男だ。今は大きな壺を抱えさせられ、別の者と一緒に中庭へ歩いていった。

 

董卓の屋敷の物を、運び出している。

 

殺されたという話を聞いた時より、その光景を見た時の方が、もう戻らないのだとわかった。昨日の粟の間違いも、俺が直す必要はないのだろう。

 

「誰か来たのか?」

 

董白が横へ来た。

 

「屋敷の物を集めてる。あの人、厨で見たことがあるんだが、話せないか?」

 

少女は俺の指す方を見た。

 

「知らぬ。厨の者と話す用など、なかった」

 

それは、そうかもしれない。

 

「頼めそうな人は? この辺りにいる人で」

 

董白は答えず、外を見ていた。下働きの男が戻ってきたが、厨を見ようとはしない。兵に何か言われ、今度は木箱を持っていった。

 

俺が口を開きかけると、董白が先に言った。

 

「同じことを、何度も訊くな」

 

俺は外へ目を戻した。

 

侍女は戻らなかった。祖父の兵も来なかった。今いる者の中から味方を探せと言われても、あの娘には答えようがないのだろう。

 

ここを出る方法を、俺が考えるしかなかった。

 

屋敷の下っ端だった俺一人なら、荷を運ぶ者に交じれるかもしれない。だが、董白の衣と髪飾りは、顔を知らない相手にまで、身分のある娘だと教えてしまう。

 

俺は厨の隅にあった粗い上衣を拾った。油染みはあるが、破れてはいない。下働きが脱いでいったものらしかった。

 

「これに着替えてくれ」

 

董白は差し出した服を見て、俺を見た。

 

「妾に、それを着ろと?」

 

「その紫の衣じゃ、昨日の兵に見られたままだ。すぐに見つかる」

 

「これは妾の衣じゃ。捨てていけと申すのか?」

 

胸元の金の縁を、董白の指が押さえた。

 

「持って出るのも危ない。袋に入れたって、中を見られたら終わりだ」

 

「勝手に決めるな」

 

言い切ったところで、隣の戸が開いた。

 

俺たちは口を閉じた。男が二人、何か重いものを運んでいる。ぶつけるな、と言う声に、もう一人が悪態を返した。

 

足音が遠ざかるまで、俺は服を差し出したまま待った。

 

董白が、留め具へ手をかけた。

 

「後ろを向け」

 

俺は戸の方を向いた。

 

布の擦れる音がする。急がせたかったが、声にはしなかった。外で車輪の音がして、男が道を空けろと怒鳴った。

 

「柳誠」

 

振り返ると、紫の衣を押しつけられた。

 

「地へ置くな。踏まれぬ所に置け」

 

「わかった」

 

俺は隅の籠へ衣を収め、上から古い布をかけた。

 

粗い上衣は、董白には大きすぎた。袖から指先が出ず、裾も余る。さっきまで着ていた物とは、触っただけでも違いがわかったはずだ。少女は袖口を折り返しながら、衣を入れた籠を見ていた。

 

「髪飾りも、外してほしい」

 

董白が俺を睨んだ。

 

「それだけ大きな銀の飾りを付けた下働きは、いないだろ」

 

伸ばしかけた手を払われた。

 

「触れるな。自分で外す」

 

左右の飾りを、一つずつ外した。大きな飾りの下には、髪を留める細い簪が二本残った。それは布をかぶれば見えない。

 

銀の飾りを受け取り、衣と同じ籠へ入れる。董白は、今度も止めなかった。

 

落ちてきた長い髪を布でまとめ、頭から粗布をかぶせた。結び目を直そうとすると肩が逃げたので、俺は手を引いた。

 

「前から髪が見えないように。そこは自分で直してくれ」

 

董白は布の端を引き、顎の下へ寄せた。

 

まだ、顔だけがきれいだった。

 

俺は竈の灰を指へ取った。董白の目が、その指を追う。

 

「……それもか」

 

説明する前に言われた。

 

「頬と額だけ。働いてたように見せたい」

 

董白は俺を見ていた。

 

服を脱ぐ時も、飾りを外す時も、腹を立てた顔だった。今は、何を言われるのか待っているようで、俺の方が目を逸らしたくなった。

 

「目は閉じててくれ」

 

少しして、瞼が下りた。

 

頬へ灰を伸ばす。触れた顔は冷たかった。額にも薄く擦りつけて手を引くと、董白は目を開けた。

 

何も言わない。

 

これで目立たなくなった、と安心しかけた自分が嫌になった。さっきから、俺がさせていることに違いはなかった。

 

それでも、元の衣を返すことはできない。

 

「外を見てくる」

 

すぐそこの戸まで戻るだけなのに、断ってから背を向けた。

 

 

荷を集める場所が、二つに分かれていた。

 

金物や絹、壊れていない家具は中庭へ運ばれる。割れた椀や裂けた敷物は、厨の荷を出す小さな門へ向かう車に放り込まれていた。

 

芥車(あくたぐるま)だ。屋敷のゴミを運び出す車である。

 

その一台が、厨の近くに止まった。

 

役人が荷を見て、木札に印を押す。脇にいた兵も、敷物を持ち上げて中を確かめた。金目の物を混ぜて持ち出す者がいないか、調べているらしかった。

 

検めが済むと、二人は次の車へ移った。

 

俺は戸の隙間から、車の高さを見た。

 

浅い。二人が入るには、荷の隙間へ体を押し込むしかない。上の敷物と壊れた籠をかぶせれば、見えなくはなるだろう。

 

途中で布をどけられたら、終わりだ。

 

だが、正門へ二人で歩いていくよりはいい。北の門も兵がいる。俺が知っている出口で、顔を見せずに通れそうなのは、この車が向かう小さな門だけだった。

 

董白を手招きした。

 

「あれに隠れる。門を出るまで、しゃべらないでくれ」

 

董白は俺の肩越しに、車を見た。

 

積まれた菜屑の上に、裂けた敷物がある。その端から腐った菜の汁が垂れていた。

 

「……あそこへ、入れと言うのか?」

 

「俺も入る」

 

董白はこちらを見た。だからどうした、と言いたそうな顔だった。

 

助けになる返事ではなかったかもしれない。だが、一人で乗れとは、とても言えなかった。

 

車を引く男が、縄を取りに離れた。

 

俺は卓をどけ、戸を少しだけ開けた。書具箱を抱え、董白へ手を伸ばす。

 

「今なら行ける」

 

少女は一度、厨の奥を振り返った。

 

衣を入れた籠がある。

 

何か言うかと思ったが、董白は俺の手を取った。

 

二人で車の陰へ入った。俺が敷物を持ち上げると、董白は車の縁へ手をかけた。汚れているとわかっていても、ほかに掴む所はなかった。

 

体を押し上げ、足を畳んで荷の間へ入る。

 

俺も続いた。箱を腹へ抱え、空いた手で籠を引き寄せる。敷物を頭までかぶったところで、男が戻ってくる足音がした。

 

暗くなった。

 

腐った菜の臭いが、すぐ鼻の前にあった。

 

縄をかける音がして、荷台が傾いた。車輪が軋む。隣で董白の足が動き、俺の脛に当たった。

 

今までなら、どけと命じられただろう。

 

董白は膝を引き直しただけだった。

 

車はゆっくり進んだ。地面の凹凸を拾うたび、背中へ籠の骨が当たる。どこを走っているのかわからず、俺は敷物の小さな裂け目から、揺れる明かりを見ていた。

 

「止まれ!」

 

車が止まった。

 

「札を見せろ」

 

門まで来たのだと思った。

 

外で、木が擦れる音がした。

 

「中庭で検めていただきました。壊れた物ばかりでございます」

 

男の声が、さっきまでより高い。

 

返事がない。

 

俺は裂け目から目を離した。外からも、こちらの目が見えるかもしれない。そう思った途端、息をする音まで大きく感じた。

 

敷物がへこんだ。

 

棒だった。

 

先が肩の横を滑り、董白の腕のすぐ脇へ入る。押された籠が鳴った。

 

袖を掴まれた。

 

董白の指だった。強く引かれているのに、そちらを見ることもできない。俺は腕を動かさず、棒が引かれるのを待った。

 

「金目の物はないだろうな?」

 

「ございません。芥だけです」

 

もう一度、敷物が押された。

 

声を出すなと、俺が言った。だが今は、俺の方が何か言ってしまいそうだった。見つかるくらいなら先に謝れば、話を聞いてくれるのではないか。そんなことまで頭に浮かんだ。

 

隣で董白は、黙っていた。

 

「行け。さっさと片づけろ!」

 

棒が抜けた。

 

車輪が回り、敷居を越えたところで大きく跳ねた。董白の額が俺の肩にぶつかる。

 

袖を掴む手に、また力が入った。

 

それでも、声は出なかった。

 

 

車が角を曲がり、門の声が遠ざかった。

 

裂け目から見えるのは、知らない家の土壁だった。太師府の塀ではない。俺は少しだけ敷物を持ち上げ、後ろから来る兵がいないか確かめた。

 

車が細い道へ入り、速さを落とす。

 

俺は董白へ顔を寄せた。

 

「降りるぞ」

 

返事はなかったが、袖を掴んでいた指が離れた。

 

書具箱を抱えて縁を越え、先に地面へ足を下ろす。膝がもつれ、車に肩をぶつけかけた。慌てて歩調を合わせ、董白へ手を伸ばした。

 

少女がその手を掴んだ。

 

引き下ろすと、足が地面に着いても、しばらく手を離さなかった。車を引く男は前を向いたまま、道を進んでいく。

 

俺は董白を連れ、近くの路地へ入った。

 

壁へ背をつけて、ようやく息を吐いた。

 

出られた。

 

まだ長安の中だ。城門も越えていない。それでも、さっきの戸の前へ戻らずに済んだことが、今はありがたかった。

 

董白はうつむいていた。

 

頭からかぶった布に菜屑が付いている。袖には汁が染み、頬の灰は汗で筋になっていた。大人たちが道を譲っていた、昨日の少女には見えなかった。

 

袖へ付いた菜を払ってやろうとして、俺は手を止めた。

 

董白が上衣の内側へ手を入れている。

 

取り出した小さな物を見て、俺は息を呑んだ。

 

渭陽君の印だった。

 

「それ、持ってたのか?」

 

董白は答えず、握った印を自分の方へ引いた。

 

「見つかったら、誰だかわかるぞ」

 

「これは捨てぬ」

 

低い声だった。

 

衣も銀の飾りも、あの厨に置いてきた。灰を塗られても、芥の中へ入れと言われても、最後には従った。

 

だが、これは違うらしかった。

 

「これだけは、誰にも渡さぬ」

 

俺は少女の手を見た。あの棒がもう少し深く入っていたら、助からなかったかもしれない。その危なさを一緒にくぐってきた今、知らずに持っていたのだとは思えなかった。

 

「柳誠。書具箱を開けよ」

 

俺は箱を壁際へ下ろし、蓋を開けた。

 

受け取ろうとすると、董白は手を引いた。自分で中を覗き、筆と木簡をよけて、底へ印を入れる。

 

俺は何も言わずに待った。

 

少女の手が離れてから、蓋を閉めた。

 

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