董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
夜が明けるまで、董白の迎えは来なかった。
足音が厨の前を通るたび、董白は顔を上げた。最初のうちは、そのたびに立ち上がろうとした。俺が腕を掴んで止めると、目を細めて睨んでくる。
「今のは妾の供かもしれぬ。戸を開けよ」
「迎えなら、名前くらい呼ぶだろ」
「声を出せぬ事情があるのじゃ。そなたには分からぬ」
俺には、その事情とやらが思いつかなかった。戸の向こうを通った兵は、厨には誰もいないと話していた。別の一団は、董氏の人間を見つけたら縛れと怒鳴っていた。
どちらも、董白を助けに来た人には聞こえない。
夜が深くなると、屋敷の中を走る人は減った。その代わり、外から入ってくる兵が増えた。
戸の隙間から、松明の明かりが何度も横切る。誰かが泣いて助けを求めた。短い怒鳴り声が返り、すぐに聞こえなくなった。
董白も、その頃には立ち上がらなくなっていた。竈から少し離れた壁際に座り、両腕で膝を抱えている。紫の衣が汚れた床へ広がっても、直そうとはしなかった。
「寒くないか?」
「妾を誰だと思うておる」
答えになっていない。寒いのだろう。声が少し震えていた。
俺の上着を渡そうとすると、董白は顔を背けた。無理に掛ければ、また噛まれそうだった。
「そなた、名は何という」
「柳誠」
董白は一度だけ俺の顔を見た。
「柳誠。妾の供が来たら、今夜の無礼をすべて詫びさせるからな」
「来たらな」
目を細めた董白が、また壁の方を向いた。
仕方なく、俺は竈のそばへ座った。火をつければ煙が出る。人がいると知らせるようなものだ。
暗い厨で、朝を待つしかなかった。
助けた後のことは、何も考えていなかった。
金は少ししかない。頼れる相手もいない。俺一人なら、末端の書吏だったと言い張って町へ紛れることもできるかもしれない。
董白を連れていれば無理だ。
濃い紫の衣。銀の髪飾り。前髪に入った金色の一房。顔を知らない兵でも、あれを見れば一度は止める。そこで名前を聞かれたら終わりだった。
逃げ道を考えている間にも、董白は時々、戸の方を見た。けれど、もう「迎えが来る」とは言わなかった。
空が白み始めると、厨の外がまた騒がしくなった。今度は逃げる足音ではない。戸を開け、部屋の中を調べ、品物を運び出す音だった。
「東の蔵は封じた。中の物は一つずつ記せ!」
「金物と絹は中庭へ運べ。壊れた物は芥車へ回せ!」
太師府にある物が、差し押さえられている。俺が昨日まで書いていた帳簿も、どこかで調べられているのだろう。あの木簡に俺の名前が残っているかもしれない。
書吏の名前まで一人ずつ追う余裕があるとは思えない。それでも、ここへ長くいるほど危ない。
俺は戸の隙間から外を見た。董白が立ち上がる気配がした。
「誰が来た」
「迎えじゃない。屋敷の物を運び出してるだけだ」
董白は俺の横へ来た。戸へ近づきすぎないよう、袖を掴んで止める。
外では、見覚えのある下働きが兵に頭を下げていた。その男もすぐに荷を持たされ、向こうへ連れていかれた。
「あれ、お前の家の人じゃないのか」
「厨で働く者にすぎぬ。妾が声を掛けるような相手ではない」
「じゃあ、外でお前の顔を知ってる人は?」
董白の返事が止まった。
「祖父様の兵がおる。妾の名を知らぬはずがない」
「その兵、今どこにいる?」
「それは……」
董白の指が、銀の髪飾りへ触れた。
屋敷の中では、顔を知らなくても髪飾りと衣を見れば皆が頭を下げた。外へ出れば違う。
董白を助ける側で、その顔を知る人はいない。むしろ、王允や呂布の側には、知っている人間がいるだろう。今の董白にとっては、知られている方が危ない。
「侍女も戻ってこなかった。もう朝だ。それでも誰も来てないんだから、ここを出たら自分で歩くしかない」
「黙れ」
声が大きくなりかけた。俺が戸へ目を向けると、董白もすぐに口を閉じた。
しばらくして、足音が厨の前を通り過ぎる。董白は壁へ背を向けた。もう髪飾りには触れていなかった。
俺は厨の中を探した。隅に、下働きが使っていたらしい粗い上衣が落ちている。泥と油が染みていたが、紫の衣よりはずっといい。
それを拾って戻ると、董白の目つきが変わった。
「何じゃ、それは」
「その格好じゃ外に出られない。その上着、脱げ」
「断る」
返事が早い。
「そのまま出たら、董卓の孫だって丸分かりだろ」
「この衣は、妾が渭陽君である証じゃ。下働きのぼろなど着られるものか」
「じゃあ、このまま捕まる?」
董白が俺を睨んだ。睨み返されても、今度は引けなかった。
外では、次の部屋の戸が開けられている。兵がここまで来るのも時間の問題だ。
「今だけでいい。ここを出たら、別の服を探すから。それは置いていけ」
「勝手に決めるな。これは妾のものじゃ」
「その服を持ってたら、誰だかすぐばれるだろ」
董白の唇が動いた。反論は出てこなかった。
やがて、金の縁取りがある上衣へ手を掛けた。一つ留め具を外すたび、こちらを睨む。最後まで脱ぐと、畳まずに俺へ押しつけた。
「地へ置くな。踏めば許さぬぞ」
「分かった」
俺は紫の衣を厨の隅の籠へ入れ、上から汚れた布を掛けた。兵に見つかれば、そのまま差し押さえ品へ回されるだろう。隠して持ち出すよりはいい。
董白へ粗い上衣を渡す。袖は長く、肩も余った。紐を締めても、着せられているようにしか見えない。
それでも、色だけは人の中へ紛れられる。
「次、その髪飾りも外してくれ」
「まだ奪うつもりか」
「そんな大きな銀飾りをつけた下働きなんていないだろ」
俺が手を伸ばすと、董白は頭を引いた。
「妾の髪に触れるな。自分で外す」
大きな銀の飾りは、左右に一つずつ付いていた。董白は右を外し、俺へ渡した。左に手を掛けたところで、指が止まる。
「急げ」
「分かっておる」
外した飾りを、俺の手の上へ強く置いた。
大きな飾りの下には、髪を留める細い簪が二本残っていた。あれなら、粗布を被れば外からは見えない。
俺は銀の飾り二つを、紫の衣を入れた籠へ隠した。董白は目で追ったが、止めなかった。
長い藍紫の髪が肩へ落ちた。前髪の金色も、そのままでは目立つ。
俺は厨にあった細い布で髪を束ね、粗布を頭から被せた。董白は何度も手を払おうとしたが、兵の声が近づくたびに止まった。
最後に、消えた竈から灰を取った。董白の目が、俺の指先へ向いた。
「何をするつもりじゃ」
「顔だけきれいなままじゃ目立つだろ。灰を塗るぞ」
「……妾の顔を?」
董白の手が頬へ上がりかけ、途中で止まった。
「顔だけ見ても、どこかのお嬢様だって分かる。そんなんじゃ、着替えた意味ないだろ」
董白は、すぐには怒鳴らなかった。紫の瞳が、灰の付いた指と俺の顔を行き来する。
衣を脱げと言った時も、髪飾りを外せと言った時も、何かしら言い返してきた。
今度は、何も出てこない。
「目を閉じろ」
董白は動かなかった。俺がもう一度言うと、ゆっくり瞼を下ろした。
頬へ灰を擦りつける。額にも薄く伸ばし、金色の一房にも少し付けた。これなら、炊事場で働いていた娘に見えなくもない。
董白は目を開けた。近くに鏡はない。それでも、俺の顔を見れば、どんな姿になったかは分かったのだろう。
唇を一度きつく結んだ。
それから、口を利かなくなった。
外の作業は、厨の近くまで進んでいた。俺は隙間から、運び出される荷を見た。
金物、絹、形の残った家具は中庭へ集められている。壊れた椀、裂けた敷物、腐った菜、掃き集めた灰は、別の車へ放り込まれていた。
芥車だ。
荷を積み終えると、役人が木札へ印を押した。兵が中身を一度調べ、その後は誰も触れていない。
あれなら、外へ出られる。
太師府の正門には兵が集まっている。涼州の将たちが屋敷へ来る時に使っていた北の門も駄目だ。李傕や郭汜の兵が董卓の死を聞いて戻ってくれば、最初に通る。
残るのは、厨の荷を出す小さな門だった。芥車は、そこへ向かっている。
俺は董白へ顔を寄せ、声を落とした。
「あの車に隠れる。門を抜けるまで、何があっても黙ってろ」
董白は答えなかった。戸の隙間から芥車を見ている。
人一人が隠れるには浅い。二人なら、上に載っている敷物と壊れた籠を被せるしかない。
俺は書具箱を胸へ抱えた。箱まで捨てれば、持っている物は本当に何もなくなる。
外で兵が、次の部屋を開けろと命じた。もう選んでいる時間はない。
車を引く男が、縄を取りに車を離れた。その隙に裏戸を開ける。
「今だ」
俺は董白の手を引いた。厨から出て、車の陰へ入る。董白は積まれた芥を前にして、一度だけ足を止めた。
「入れ」
声には出さず、董白の口が動いた。
無礼者。
たぶん、そう言った。
それでも、今度は逆らわなかった。裂けた敷物を持ち上げ、自分から車の中へ身を滑り込ませる。俺も続き、上から籠と古い布を被せた。
すぐに、車を引く男が戻ってきた。車が軋み、ゆっくり動き始める。
腐った菜と灰の匂いで息が詰まった。顔の横には割れた椀があり、背中へ籠の骨が当たっている。
董白は俺のすぐ隣で小さくなっていた。今までなら、三つは文句が出ている。
何も言わない。
車が一度止まった。
「木札を見せろ」
門の兵だ。芥の上で木が擦れた。車を引く男が札を渡したらしい。
「検めは済んでおるな?」
「中庭で済んでおります。金目の物は何も」
兵が鼻を鳴らした。次の瞬間、棒の先が敷物を押した。
俺の肩をかすめ、董白の腕のすぐ横で止まる。董白の指が、俺の袖を掴んだ。強く引かれたが、声は出なかった。
「行け。こんな物まで置いていくな」
車がまた動き出す。門の敷居を越えた時、大きく車輪が跳ねた。董白の額が俺の肩へ当たる。それでも、董白は黙っていた。
しばらくして、背後の声が遠くなった。
太師府の塀が見えなくなり、芥車が細い道を曲がると、歩くほどの速さになった。
俺は敷物を押しのけ、書具箱を抱えて先に地面へ降りた。車の横を歩きながら手を伸ばし、董白も引き下ろす。
車を引く男は、一度も振り返らなかった。
董白の粗い上衣には、灰と菜屑が付いていた。藍紫の髪にも細かな埃が入り、顔の汚れはさっきよりひどい。
半日前まで、大人たちが道を空けていた少女には見えなかった。
董白は俺を見なかった。粗い上衣の内側へ手を入れ、何かを取り出す。
渭陽君の印だった。
衣も大きな髪飾りも手放したのに、それだけは隠して持っていたらしい。
「それ、見つかったらまずいぞ」
董白が、太師府を出て初めて口を開いた。
「これは捨てぬ」
低い声だった。怒鳴ってはいない。
「これだけは、誰にも渡さぬ。柳誠、書具箱を開けよ」
俺が蓋を開けると、董白は差し出した俺の手を避けた。自分で箱の中を見て、筆と木簡の下へ印を入れる。
俺は何も言わず、書具箱の蓋を閉じた。
箱の底で、渭陽君の印が小さく鳴った。