董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
隣町の市で書付を預かって七日。夜の帳場で、俺たちはそれをまた開いていた。灯の下に、綴じた紙が四枚。俺は声に出して読み上げる。もう中身は二人とも覚えているが、声に出すと、書いていないものが分かることがある。
「一つ。二つの白蔵、白の印、控えと手順の一式を、鄧氏が買い受ける。二つ。預け主との結び付きは、条件を変えずに引き継ぐ。三つ。白様と柳誠殿は大番頭の格で迎える。名は白のまま、手順も変えない。給金は望みのままに」
「四つ目を読め」
「四つ。買値は――」
そこで俺は一度止まった。何度読んでも、ここで止まる。
「買値は、白様が書き入れること」
値の欄が、空いているのだ。
売り買いで一番強いのは、高い値を出すことじゃない。値段の話を終わらせることだ。望みの数字を書けと言われた瞬間から、こちらは値では断れなくなる。俺は一瞬だけ、頭の中に数字を浮かべてしまった。浮かべてから、感心した。この紙は、そういうふうに書いてある。
「柳誠。今、数を数えたな」
「……数えてない」
「嘘をつくでない。目が上を向いておった」
図星だった。董白は笑いもせず、綴じ紙の端を指で揃えた。
「怒っておらぬ。妾も数えた。三度な」
「白も数えたのか」
「数えた上で聞く。……そなたなら、売るか」
試されている、とは思わなかった。この聞き方をする時の董白は、本当に答えを聞きたい時だ。俺は浮かべた数字をもう一度眺めて、それから消した。
「売らない」
「なぜじゃ」
「……分からん。分からんから、白がどこが悪いか探し当てるのを待ってる」
「情けない相棒じゃのう」
そう言った声は、あまり情けなさそうに聞こえなかった。
「良い書付じゃ」
董白は卓に頬杖をついて、四枚目を睨んでいた。
「腹が立つほどに、良い書付じゃ」
「売る気になったのか」
「ならぬ。……ならぬがの、どこが悪いのか、朝から探しておる」
「見つかったか」
「書いてある中には、ない」
董白は身を起こし、指を折り始めた。
「名を消すなら断れる。手順を変えるなら断れる。預け主の条件を下げるなら断れる。値を値切るなら笑うて断れる。……全部、先に埋めてある。書けるものは、全部書いてあるのじゃ」
「じゃあ、断れないだろ」
「書けぬものが、一つだけ足りぬ」
「なんだ」
董白は答える前に、帳場の奥へ目をやった。控えの綴じと、戻り札の箱と、札になる前の木の束。この一年余りで増えた道具たちが、暗がりに並んでいる。
「閉めぬ理由じゃ」
「……閉めぬ理由」
「鄧氏の倉は、良い倉じゃ。大きゅうて、深うて、算盤が確かでの。良い倉ほど、閉める時を間違えぬ。水が出れば閉める。凶作なら閉める。戦が近づけば閉める。損の日に閉めるから、鄧氏はあれだけ大きゅうなった。それは商いの正しさじゃ。咎める話ではない」
「うちの蔵は違う、って言うのか。うちだって商いだろ」
「うちの札の裏付けは、粟の数だけではないぞ、柳誠」
董白は書付を綴じ直して、卓の真ん中に置いた。
「損の日にも、開くという約束じゃ。
灯が小さく揺れて、書付の影が伸びた。
「……惜しいのう」
董白がぽつりと言った。
「これほどの買い手は、二度と来ぬぞ」
「敵に回すには、な」
「うむ。じゃから――丁寧に断る」
~
次の市の日は、朝から晴れた。
第一白蔵はいつもどおりに開けた。午前のうちに札が三枚戻り、空いた分へ、新しい預かりが一件入った。
預けに来たのは隣の郷の油売りで、初めて見る顔だった。
「隣町で量り違いがあった時、その日のうちに直したそうじゃないか。名を聞かない蔵ってのは薄気味悪いと思ってたが……そういう蔵なら、聞かれない方がかえって信用できる」
油売りは粟を三斗置いて、札を三枚、帯に差して帰っていった。鄧氏が買いたがっている「預け主との結び付き」というのは、ああいう帯の裏のことを言うのだろう。
列が切れた昼過ぎに、道の向こうから供を一人だけ連れた男が歩いてきた。旅装ではない。町場の身なりで、袖口だけが相変わらず綺麗だった。
「お返事を、伺いに参りました」
鄧遷は三歩手前で止まり、深く頭を下げた。手にはもう、あの手控えがある。
列を離れたばかりの預け主が二人、遠巻きに足を止めるのが見えた。南陽の鄧氏の名は、この町でも知られている。あの身なりの男が白の蔵の前で頭を下げたことは、日暮れまでに市を一回りするだろう。
隠れて断る手もあった。呼び出して、人のいない場所で返す手も。董白はどちらも選ばなかった。
董白は帳場を出て、綴じた書付を両手で差し出した。
「返す。……危ういところであった。買えぬものに、値を書かされるところじゃった」
鄧遷は書付を受け取り、押し頂くようにしてから、懐へ納めた。慌てもせず、崩れもしなかった。
「理由を、伺っても」
「値の話なら要らぬ。あれは、そなたらが先に終わらせた」
「恐れ入りましてございます。あの欄を空けることは、手前が言い出しました」
「見事じゃった。じゃから、値では断らぬ」
鄧遷は手控えを開いた。筆を構える。その仕草が、断られた男ではなく、仕入れの帰りに相場を書き付ける男のものだったので、俺は少し背中が冷えた。
「では、商人として一つだけ伺いまする」
顔を上げた鄧遷の声は、変わらず柔らかかった。
「白様の蔵は、大水ひとつ、凶作ひとつで底が見えまする。鄧氏の身代は、十の凶年に耐えまする。預け主の方々の粟を思うなら、強い倉へ移すのが誠意――手前は、そう心得まするが」
これが本命だ、と俺にも分かった。値でも、名でも、手順でもない。預け主のため。こちらの看板を、そのまま矢にして射てくる。
「鄧遷。鄧氏の倉は、なぜ十の凶年に耐える」
「耐えられるだけの蓄えと、耐えられるだけの算盤があるからにございます」
「うむ。閉める時を、間違えぬからじゃ」
鄧遷の筆が、止まった。
「損の日には閉める。それが正しい算盤じゃ。じゃからこそ、そなたらの倉は残ってきた。……この蔵の裏付けは、粟の数と、もう一つでできておる。損の日に開くという約束じゃ。そなたは一年、二つの蔵を数えたのであろう。市を止めたのは二度、開き直したのも二度。あの二度は、どちらも損の日じゃった」
「存じております。数えましたゆえ」
「そなたらがうちの蔵を買えば、その日からここは鄧氏の倉じゃ。鄧氏の倉は、閉める時を間違えぬ。――間違えてくれぬ、と言うた方がよいかの」
短くない沈黙があった。鄧遷は手控えに何かを書き、書き終えてから、初めてため息のようなものを吐いた。
「……手前は一年数えて、数え損ねていたものが一つあったようでございます」
「帳面には載らぬからの」
「載らぬものに値を付けるのが、手前の仕事にございますが」
鄧遷は手控えを閉じた。
「これは、値の付け損ないでございました」
頭の下げ方は最初と同じで、深く、綺麗だった。ただ、上げた顔はもう買い手の顔ではなかった。
「……時に、柳誠殿」
不意に、矛先がこちらへ来た。
「書付の三つ目は、貴殿の名でも書いてございます。大番頭の格、給金は望みのまま。白様が頷かれずとも、貴殿お一人なら、いつでも」
二人を割りに来た。最後の最後に、一番安い手を、一番丁寧な声で出してくる。
「断る。……俺の給金は、もう望みのままなんだ」
「ほう。おいくらで」
「粥が二杯と、屋根と、この帳場」
鄧遷は瞬きを一つして、それから手控えを開き直し、短く書き付けた。
「……それは、鄧氏には払えませぬな」
「されど白様。手前どもは商家にございます。買えぬと決まれば、次の手は決まっておりまする」
「聞こう」
「競いまする。値で、倉で、道で。……商いの常道にて」
脅しの声ではなかった。明日の天気を言う声だった。それが一番怖いのだと、俺はこの時に知った。
「うむ。常道で来るなら、常道で受ける」
「では、これにて。……ああ、最後に一つだけ」
鄧遷は懐の書付の上から、軽く手を当てた。
「手前は本家に対し、この買い物は成らぬ方に賭けておりました。賭けに勝つのは良い気分のはずでございますが――今日ばかりは、負けた方が安く済んだ気がいたします」
供を促して、鄧遷は背を向けた。来た時と同じ、急がない歩き方だった。
「鄧遷」
董白の声に、その背中が止まる。
「預けに来る日は、列に並ぶのじゃぞ」