董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
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隣町の飯屋の隅で、俺は安い方の飯を食っていた。
飯を食う時、俺は勘定をする。今日までにお嬢へ返した弁済の額と、まだ残っている額。指は使わねえ。頭の中の算盤でやる。
去年の秋、俺は升の底を厚くして粟をくすねた。ばれて、洗いざらい返すことになった。返し切るまで、あと少し。この一年、市の日の見張りと、月に一度の報告と、それで受け取る固定の銭を、全部その返済に突っ込んできた。
毎晩その数をなぞるのは、反省のためじゃねえ。俺が自分で返してるってことを、忘れねえためだ。誰にも肩代わりさせてねえ。それだけが、いまの俺の値打ちだ。
「相席、よろしゅうございますか」
答える前に、男はもう座っていた。
旅の埃をかぶった旅装で、袖口だけが綺麗な男。名乗りは要らなかった。この一年、二つの町の周りで蔵の出入りを数えていた顔だ。人の出入りを数えるのは俺の商売でもある。数えてる奴の顔くらい、とっくに覚えている。
座る前に、俺の目は勝手に仕事をしていた。癖だ。銭袋は左の帯の内側、紐は二重。筆と手控えは右の懐、こっちの紐は緩い。銭より帳面の方が早く出せるようにしてある男。そういう奴を、俺は銭袋の重い奴より警戒することにしている。
「南陽の鄧氏に仕えます、
「知ってるよ」
「これは。……手間が省けまする」
鄧遷は俺の椀を一目見て、店の女に酒と、俺の分の飯のお代わりを頼んだ。頼んでから「ご相伴の分は手前が」と言った。断る間も置かずにだ。
世間話が二つ。北の雪と、川の水。それから粟の相場の話が一つ。三つ目に、紙包みが卓へ出た。
開かなくても分かる。銭だ。それも、真新しい。
「手付けにございます。今までどおり蔵の周りで見ておられる物を、月に一度、南陽へも。それだけの御用にございます。裏切りを買おうという話ではございませぬ。同じ品を、二軒へ卸していただくだけの」
「……で、値は」
「本雇いとなられましたら、白様への弁済の残り、まるごと手前どもが払いまする。そのうえで、お釣りが参ります」
「残りがいくらか、知ってて言ってるのか」
鄧遷は手控えを開いた。開いて、数を読み上げた。
俺が今朝この店で、頭の中でなぞった数と、一銭も違わなかった。
顔には出さなかったはずだ。出さねえ稽古なら、ガキの頃から積んである。
「よく調べてあるな」
「商いにございますので」
俺は少し、値をつり上げてみることにした。誰でもやることだ。相手がどこまで俺を欲しがってるか、それで測れる。
「その倍出しな。俺の目は、その値じゃ安い」
「変わりませぬ」
即答だった。
「お気を悪くなさらず。その額は、貴殿に付けた値ではございませぬ。あの蔵の内を見られる場所に、いま座っておられる方――その席に付いた値にございます。座っておられるのがどなたでも、同じ額を出しまする」
俺は飯を噛むのをやめた。
「……そうかい。ずいぶん安く落としたもんじゃねえか。あんたの主家は、つい先だって白にでかい買い物を断られたばかりだろ。次の買い物が俺か」
「はい」
嫌味は通らなかった。鄧遷は盃へ手を伸ばしながら、当たり前のことのように頷いた。
「大きい買い物を断られましたら、商いは安い方から拾い直しまする。錠前を買えねば、まず合鍵から。……順当な仕入れにございます」
合鍵。俺のことだ。
「一つ聞くがよ。あんた、俺が受けると思って来たのか」
「思うておりませぬ」
鄧遷は盃を置いて、この晩初めて、俺の目を見た。
「じゃが、それで構いませぬのです。受けられても、受けられずとも、手前どもの勘定は変わりませぬので。……この話を白様へ持ち込まれるのも、ご随意に。それで崩れるような商いは、いたしておりませぬ」
「……考えとくよ」
俺は紙包みを袖へ落とした。
「預かっとくぜ。預かり賃は取らねえ」
「結構でございます」
鄧遷は勘定を済ませ――俺の分もだ――手控えへ短く何かを書き付けてから、出ていった。
あの書き付ける仕草を、俺はこの晩から心底嫌いになった。
~
一人になって、冷めた飯の残りを食った。味はしなかった。もったいねえから食っただけだ。
腹が立った理由は、はっきりしている。二つだ。どっちも、去年お嬢と値を決めた晩を思い出しちまったせいだ。
一つ目は、値の決め方だ。
去年、蔵番から叩き出された後、お嬢は俺に仕事を持ってきた。蔵から盗んでみせろ、穴を挙げろ、という妙な仕事だ。値は俺の方から吹っ掛けた。
「穴一つにつき、いくらだ」
見つけた穴の数だけ払え、って話だ。その方が稼げる。当たり前の言い分だと思ったね。
お嬢は即答した。
「固定じゃ。穴の数で払えば、そなたは穴をこしらえる」
俺は笑っちまった。図星だからだ。歩合にすりゃ、俺は三つ見つけて四つ目をでっち上げる。必ずやる。あの女は俺を見くびりもしねえし、買いかぶりもしなかった。杜恪って男はどこで手を抜き、どこで嘘をつくか――そいつを正面から数えた上で、俺が悪さをせずに済む払い方の方を選んだ。
あれは、俺に付いた値だ。俺の癖まで勘定に入れて、出てきた額だ。
鄧遷は逆をやった。俺には一言も聞かずに額を決めて、こう言った。その席に付いた値にございます、と。座ってんのが俺だろうが誰だろうが、同じ銭を出すってことだ。
つまり、あの男の帳面に「杜恪」って名前は要らねえ。「白蔵の中が見える席に座ってる奴」で足りる。
二つ目は、弁済のことだ。
去年、俺はお嬢に聞いた。仕事を受けたら、弁済の方はいくらかまけてくれるのか、と。
「まけぬ。仕事は仕事、弁済は弁済じゃ」
一銭も引かねえ、とよ。あの時は渋い顔をしたが、今なら分かる。あの女は、俺が盗った分を俺に返させた。取り上げなかったんだ。
一年だ。市の日ごとに立って、見て、覚えて、報告して、受け取った銭袋から弁済の分を自分の指で数えて分けて、残りを懐へ入れる。それを一年やってきた。手前で始めて、手前で終わらせる仕事なんてのは、俺の稼業じゃ初めてだった。
それを鄧遷は、まるごと払ってやると言った。一晩の飯代を持つような顔でだ。
あの男の帳面じゃ、俺の一年は、ただの数字なんだ。
……気に入らねえ。
錠前が買えねえから、合鍵から。上等だよ。だがな、俺は合鍵じゃねえ。あの蔵の錠は、俺が一度破って、破った俺が洗いざらい払って、それでもまだ触らせてもらえてねえ錠だ。あれがどれだけ高い錠か、値付けの上手いあんたが一番分かってねえ。
そもそも、あの男は初めから読み違えてる。
商人を買いに来たんだ。値さえ積めば動く相手だと思って来た。だがな、あの蔵の主は商人じゃねえ。商人なら、値の欄が白紙の書付を見せられて、一晩くらいは迷う。あの人は迷わなかったと聞いた。売り物じゃねえ物に値を書けと言われて、腹を立てただけだ。
商人ってのは、損得で頭を下げる。あの人は違う。頭を下げる相手を、手前で決めてやがる。
……姫だ。
そう思ったら、妙にしっくり来た。
考えてみりゃ最初からそうだ。顎の上げ方も、人にものを命じる時の声も、庶民の娘のそれじゃねえ。俺は
詮索する気はねえ。名を問わねえのが、あの蔵の作法だ。俺はその作法で拾われた男だ。
袖の中で、真新しい銭が重かった。この話、いくらで売るか。
歩きながら勘定を始めて、途中でやめた。
売らねえ。ただでくれてやる。
銭で動く男だと思われたまま、銭をもらって動くのだけは、我慢ならなかった。
生まれて初めての、ただ働きだ。それが手前でも意外で、俺は夜道で少し笑った。ただほど高いものはねえと言うが、ありゃ受け取る側の話だ。くれてやる側は、値をいくらでも高くできる。
あの袖口の綺麗な男に、いつか払わせる勘定だった。
~
明日、蔵へ行く。
行って、なんて言うかな。
お嬢、じゃねえな。もう、そうは呼ばねえ。
――姫。
口の中で一度、言ってみた。夜道で言うと、我ながら間抜けな響きだった。
だが、悪くねえ。あの人が聞いたら、どんな顔をするか。それを拝めるってだけで、ただ働きの釣りにはなる。