董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

32 / 34
第30話 常道

 

鄧氏の最初の一手は、糸を切ることではなかった。買うことだった。

 

書付を返した市から五日目の朝、杜恪(とかく)が帳場へ来た。市のない日に杜恪がこちらの町まで来るのは、決めてある報告の日だけだ。その日は、決めの日ではなかった。

 

「よう、姫」

 

俺は筆を止めた。

 

胸の中で、一度だけ大きな音がした。この男は何を知っている。どこまで嗅ぎ当てた。――そこまで考えてから、杜恪の顔を見て、息を戻した。人をからかう時の顔だった。それ以上の意味は、たぶん載っていない。

 

董白は控えから顔を上げた。

 

「……なんじゃ、それは」

 

「呼び方を変えた。今日からそうする」

 

「やめよ」

 

「やだね」

 

やめよ、と董白は一度言った。二度は言わなかった。言わずに、顎が少し上がった。それがこの女の、機嫌のいい時の癖だということを、俺は知っている。

 

杜恪は卓に着くなり、懐から小さな紙包みを出して置いた。開くと、真新しい銭が一列に並んだ。

 

「手付けだとよ」

 

「誰からじゃ」

 

「袖口の綺麗な男。……鄧遷(とうせん)本人だ。昨日の晩、隣町の飯屋で相席された。世間話が二つ、粟の相場が一つ。三つ目にこれが出た」

 

「条件は」

 

「今までどおり蔵の周りで見た物を、月に一度、南陽へも流す。裏切れとも盗めとも言わねえ。……本雇いになりゃ、あんたへの弁済の残りを、まるごとあっちが払うとさ。そのうえで釣りが来る」

 

「良い条件じゃの」

 

董白は試すように言った。杜恪は笑わなかった。

 

「ああ、良い条件だ。残りの額まで、一銭も違わずに調べてあった」

 

俺はそこで初めて気づいた。杜恪はいつもの顔で喋っている。喋っているのに、卓の銭を見る目だけが笑っていない。

 

「で、返事は」

 

「してねえ。……なあ姫。一応聞くが、俺がこれを受けると思ったか」

 

「思わぬ」

 

董白は即答した。

 

「一度売った男の値は、次から下がる一方じゃ。そなたは自分の値を下げぬ。それだけの話での。忠義とは思うておらぬ」

 

「話が早くて助かるぜ」

 

杜恪は銭の包みを、指の先で弾いた。

 

「あの男はな、姫。最後まで俺に、いくらだって聞かなかった。値を勝手に決めて、持ってきやがった。おまけに『これはあんたに付けた値じゃねえ、その席に付いた値だ』とよ。……座ってんのが俺だろうが誰だろうが、同じ銭を出すってことだ」

 

「そなたでなくてもよい、と言われたわけじゃな」

 

「そういうことだ」

 

杜恪は包みを指の先で押しやった。

 

「それとな。俺が一年かけて自分で返してる借りを、あの男は袖の銭で消してやると言った。……姫さんよ。俺がくすねた分は、俺が返す。そう決めて返してんだ。それを横から払われちゃ、俺は一年、何をしてたことになる」

 

「うむ」

 

董白は、それだけ言った。弁済はまけぬ、仕事は仕事だと言い渡したのは、この女だ。あの時の一言が、いま杜恪をここへ座らせている。当の本人は、それらしい顔を一度もしなかった。

 

「だからこの件は、最後まで乗る。見張りでも、数え役でも、使い走りでもだ。……報酬は要らねえ」

 

「ただ働きは、そなたの値を崩すぞ。一度ただで働いた男の仕事は、次からただにされる」

 

自分の言った理屈を、そのまま返された形だった。杜恪はにやりとした。

 

「崩れねえよ。売り物なら値が要る。これは売り物じゃねえ。手前の勘定だ。……銭で動く男だと思われたまま動くのだけは、我慢ならねえんだ。あんたのためじゃねえぜ」

 

「分かっておる」

 

董白は銭の包みを、指一本で杜恪の方へ押し戻した。

 

「なら、その勘定には口を出さぬ。代わりに、返事は延ばせ。受けるな、断るな。向こうがそなたの返事を待つ間、そなたは向こうの顔を見られる。……それにの、一番高くつくのは、返らぬ返事じゃ。あの男の手控えに、埋まらぬ欄を一つ、残しておいてやれ」

 

杜恪は少しの間、董白を見た。それから、今日初めて、目まで笑った。

 

「――いいね、それ」

 

杜恪は包みを懐へ戻して立ち上がり、戸口で一度だけ振り返った。

 

「言っとくが、俺を銭で買えなかったとなりゃ、次は銭の要らねえ手で来るぜ。倉か、関所か、道か。……あの手の男は、几帳面だからな」

 

「杜恪」

 

「あん?」

 

「なぜ、姫じゃ」

 

「教えねえよ」

 

杜恪は笑って、出ていった。

 

その言葉が当たるまで、市二つ分も掛からなかった。

 

 

最初に閉じたのは、倉だった。

 

鄧氏の使いが背を向けてから、二度目の市の日。隣町で第二白蔵に貸している物置の大家が、朝一番の渡しで川を越えて、わざわざこちらの町まで詫びに来た。

 

「次の期は、更新できません」

 

初老の男は、深々と頭を下げた。理由は言わなかった。南陽との取引を全部失うわけにはいかない、とだけ言った。誰との取引かは、言わなくても分かった。

 

「今の期の分までは、お貸しします。それが精一杯で」

 

「充分じゃ。期日までに移す」

 

董白は責めなかった。大家は何度も頭を下げて、来た時より小さくなって帰っていった。悪いのはあの人ではない。あの人の帳簿の、南陽に繋がっている側の糸だ。

 

移し先は、その日のうちに決まった。報せを聞いた隣町の商人たちが、寄り合いを開くより早く、依頼主の一人が自分の蔵の隅を空けると言ってきたからだ。曰く、「うちの粟を預けてる蔵に潰れられたら、こっちが困る」。

 

移したのは、次の市の前日だった。棚と量り台と控えの箱を運び、二つの錠はそのまま新しい戸へ付け替えた。鍵を持つ二人も、持ち方も変えない。場所だけが五十歩ばかり動いて、決まりは一つも動かなかった。

 

一つ閉じて、一つ開いた。ここまでは、勝ったり負けたりだった。

 

 

それから三度の市の間に、糸は次々と切れた。

 

札の材木を卸してくれていた木挽きが、頭を下げに来た。大家と同じ言い方で、同じように小さくなって帰った。札になる前の木は、まだ半年分ほど束ねてある。切り出しの当てを次の市までに見つけなければ、その半年が期限になる。

 

関所の検めが変わったと教えてくれたのは、荷運びの男だ。

 

「荷を開けられてよ。中身より先に、行き先を聞かれた。……白の蔵に行く荷か、って」

 

荷そのものは通される。ただ、半日遅れる。遅れた分の損は、荷主に付く。白の蔵に関わる荷主にだけ、付く。

 

俺は帳場の奥で、木簡を並べ直した。荷札を書く要領で、うちの蔵に入ってくる糸と出ていく糸を、一本ずつ書き出していく。札の木はどこから来る。修繕の職人は誰か。二人の食う粟はどの店で買う。隣町との紙と戻り札は、誰の荷車で渡る。

 

書き出してみると、思ったより多くて、思ったより細かった。

 

「手当たり次第ではないのう」

 

木簡を覗き込んで、董白が言った。

 

「太い糸から順に、鋏で切ってきておる。……几帳面な男じゃ、あの使いは」

 

「褒めてる場合か」

 

「敵の仕事の雑な方が困るぞ。雑な敵は、どこを突いてくるか読めぬ」

 

 

川の水が痩せて、船の荷が減る頃、船着き場の商人から手紙が来た。

 

隣町の白蔵に銭を出した、あの商人だ。手紙は挨拶抜きで始まっていた。

 

曰く、南の川筋では、鄧氏が空いている倉を片端から借り上げている。曰く、荷主の間に回状がまわっている。白の札と取引のある町の商人には、掛け売りをするな。曰く、お前たちの札の噂は川下まで聞こえている。潰される前に、川の道を考えておけ。銭を出した者として、沈む船は見たくない。

 

「回状、か」

 

「関所と同じじゃ。売るな、とは書いておらぬのだろ」

 

「書いてない。掛け売りをするな、だけだ」

 

「うむ。どこまでも常道じゃ」

 

董白は手紙を二度読んで、木簡の束の横へ置いた。切られた糸の図に、川下の分の線が増えた。

 

「川の道は、あの男が編んでくれよう。銭を出した船は、沈めとうないでの」

 

「陸は?」

 

「陸はいかぬ。太い道は、全部関所を通る」

 

そこで俺たちは、顔を見合わせた。太い道しか知らないなら、細い道を知っている者に聞けばいい。この町で一番、旅人の話を聞いてきた人がいる。

 

 

宿の晩飯時は、相変わらず湯気と怒鳴り声でできていた。

 

「――で、あんたたち、また大きい相手と喧嘩してるんだって?」

 

女将は俺たちの前に椀を二つ置いて、注文していない干し菜の小鉢まで付けた。説教の前触れだ。

 

「喧嘩ではない。断っただけじゃ」

 

「断るってのは、喧嘩の始め方のうちで一番丁寧なやつだよ」

 

女将はそう言って、隣の卓の客を捌きに行き、戻ってきて、俺たちがまだいるのを確かめてから声を落とした。

 

「それで? 粥を食いに来ただけじゃないんだろ」

 

「昔の道を聞きたい。関所を通らずに、北へ抜ける道じゃ」

 

「……あんたたちが来る前は、みんなどう運んでたと思う。今の街道ができる前の話だけどね」

 

女将は思い出すのに、少しだけ時間を使った。

 

「炭焼きの連中が使ってた山道がある。うちに泊まる炭売りが、昔はみんなそこから来た。今は藪だろうし、荷車は無理だね。……あのままじゃ、ね」

 

あのままじゃ、の先は言わなかった。言わない代わりに、俺の椀へ勝手に粥を足した。

 

「危ない橋なら、飯を食ってから渡りな」

 

 

年が明けて最初の市の晩、董白は切れた糸の木簡を長いこと眺めていた。

 

「……高うついたのう、あの断りは」

 

「後悔してるのか」

 

「まさか」

 

 

市が四度立って、木簡の切れた線は九本になった。

 

粟の値が、前の年の倍になった。

 

市はまだ立っている。列もまだできる。ただ、並ぶ顔から少しずつ、笑い話が減った。

 

「塩、また上がったってねえ」

 

列の中の女の声に、応じる声が続いた。値の話、南の話、どこそこの店が仕入れを断られた話。誰も白の蔵の名は出さない。出さないまま、視線だけがときどき、帳場のこちらへ寄こされた。恨む目ではない。値踏みする目だ。この蔵は、どこまで保つのか。

 

俺は荷札を書く手を止めなかった。止めれば、それも返事になる。

 

その日の夕方、俺たちはいつものように、隣町からの荷車を待った。塩売りの荷車は決まった刻限に来て、隣町の紙と戻り札を届けてくれる。二つの蔵が繋がってからずっと、市の日の締めはそうだった。

 

車輪の音は、聞き慣れた刻限に聞こえた。塩売りは俺たちの顔を見て、いつものように荷台の箱を下ろし、いつもとは違う顔で、先に自分から言った。

 

「済まねえ。今日から、運び賃を倍もらいてえんだ」

 

聞けば、南の塩問屋から、取引を断られたのだという。荷台を覗くと、隣町の紙と戻り札の箱だけがぽつんと載っていて、商いの塩は一俵もなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。