董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
その市は、音がしなかった。
塩売りに運び賃を倍払うようになって、五度目の市の日だった。市の日の朝というのは、夜明け前から車輪の音でできている。南から上ってくる荷車、川から上がる荷、店の板を叩く音。その全部が、その朝はなかった。
俺たちはいつもどおりに蔵を開けて、いつもどおりでない往来を見た。
店は立った。三つに一つだけ。並んだ品は、どの台の上でも薄く広げてあった。少なく見えないように広げてあるのが、かえって少なさを教えていた。
「南の荷が、一つも入っておらぬ」
董白は往来を端から端まで歩いて、戻ってきてそう言った。
「倉と、商人と、関所。別々に締めてきたのが、今日は全部いっぺんじゃ。……仕上げに来たの」
一年かけて糸を切り、切り残した糸を、最後にまとめて引いた。几帳面な仕事は、仕上げまで几帳面だった。
夕方の荷車で届いた手代の紙によれば、隣町も同じだという。市は三つに一つ。それでも交換は決まりどおりに続いていて、紙の最後には「升比べ、三度とも異常なし」といつもの一行があった。封じられたのは道と倉で、手順はまだ、誰にも封じられていなかった。
もう一つ、いつもと違う数字があった。俺は白札を始めた時から、一日に戻ってくる札の数を記録している。この日、うちの蔵に戻った札は、いつもの市の倍あった。換えた者は皆、静かだった。列も乱れなかった。ただ、換えた粟を担いで帰る背中が、どれも少し急いでいた。
~
明くる日の昼過ぎに、町の商人が三人、連れ立って帳場へ来た。
真ん中にいるのは米屋の主人だ。白札の預け主の一人で、うちの蔵に粟を預けている側の男でもある。頭は下げなかった。代わりに、単刀直入だった。
「白様。蔵の粟を、町に貸してもらえないか」
「うちの蔵に、貸せる粟はないぞ」
「あるだろう」
米屋は帳場の奥の、戸の向こうを目で指した。
「この戸の向こうに、山と積んであるのを、俺たちは知ってる。預けたのは俺たちだ。……なあ白様、貸せと言ってるんだ。取ろうって話じゃねえ。秋の新穀が入ったら、利を付けて返す。この町が冬までに干上がったら、あんたの札も蔵も、まとめて終わりなんだぜ」
筋は通っていた。商人の筋としては、どこも間違っていなかった。
「戸の向こうの粟はの」
董白は米屋から目を離さずに言った。
「わたしの粟ではない。そなたらの粟でもない。札を持っておる者の粟じゃ」
「だから、その俺たちが――」
「そなたが預けた分の札は、いま誰の帯にある」
米屋が詰まった。預けて受け取った札は、とっくに仕入れの払いで人手に渡っている。それが札というものだ。
「札は歩いておる。誰の帯にあるか、わたしにも分からぬ。分からぬ相手の粟を、わたしが貸したら――それは
浅い升の一件は、この町にも知れている。米屋は口を結んだ。結んだまま、引かなかった。
「……理屈は分かった。理屈はな。だが白様、覚えといてくれ」
米屋は帳場の縁に、節くれた手を置いた。
「あんたの約束は立派だ。この二年、俺は一度も疑ってねえ。だが、腹の減った人間は、約束を食えねえんだ」
三人が帰ってから、董白は長いこと、戸の向こうの気配を背中で聞いていた。
「柳誠。数えるぞ」
~
その夜、俺たちは帳場に木簡を並べた。
数えるのは三つ。町の商人たちの倉に残っている粟、うちの手数料の銭で買い足せる分、そして日々町が食う量。聞き集めた数字には穴があるから、少なめに見た。
町の周りの田で穫れる分は、先に入れてある。入れても、埋まらない。この町は、食う量の半分も自前では作れない。荷が集まるから人が集まり、人が集まるから町になった――そういう町だ。荷を止めるということは、その成り立ちごと止めるということだった。
途中で一度、俺の手が止まった。手数料の銭で買い足せる分、の欄が埋まらないのだ。
「なあ、白。銭で買える分って、どう数えればいい」
「売り手がおらねば、零じゃ」
董白は迷わなかった。
「銭は蔵にある。じゃが、その銭で買える粟が、南にはもうない。……封鎖というのはそういうものじゃ、柳誠。奪いに来ぬ。売らぬだけじゃ。売らぬ相手を、罪には問えぬでの」
俺は銭の欄に零を書いた。書いてみると、震えが来た。銭が銭でなくなる日を、俺は初めて帳面の上で見た。
出た答えは、百二十日だった。
「百二十日……」
雪が来て、道が凍って、春の青物が出るまで。どう数えても、足りない。冬の真ん中で、この町の椀は空になる。
「二人の分を足しても、三日と延びぬな」
「足すなよ」
「戯けたのじゃ」
董白は笑わなかった。俺も笑えなかった。冗談の形をした確認だった。二人の食う分と、冬用の非常袋一つ。それを全部差し出しても、町は救えない。救えない量を差し出して安心するのは、救う側の贅沢というものだ。
「裏付けの粟は、開けぬ」
董白は、もう一度、自分に言うように言った。
「あれを開けて町に配れば、百二十日は少し延びよう。延びた先で、札は全部ただの木切れになる。……木切れを握って冬を越した町が、春に何を信じる」
「分かってる。誰も開けろとは言ってない」
「妾が言いそうになるのじゃ、柳誠」
その声だけ、少し小さかった。
「じゃから、そなたも数えておれ。妾が間違えそうになったら、今夜の数字を見せよ」
~
翌朝、鄧氏から手紙が来た。
届けたのは見知らぬ人足で、返事は要らないと言って帰った。手紙は短かった。時候の挨拶。先の書付は今も生きていること。そして、最後の一行。
「――ただし値の欄は、もう空白ではございません」
署名は
「返事は?」
「書かぬ」
董白は手紙を、手代の紙とは別の綴じへ挟んだ。鄧遷の分の綴じが、この日からできた。
「値が動いたと知らせてきただけじゃ。商人の手紙での。……こちらの値が下がったと思うておるうちは、泳がせておけばよい」
「下がってないのか」
「下がっておらぬ。売り物でないものに、下がる値はない」
言い切った声に、揺れはなかった。ただ、その綴じを棚へ戻す手が、いつもより丁寧だった。丁寧すぎた。
~
その日の夕方、女将から使いが来た。会わせたい客がいるから、飯どきに宿へ来い、という。
客は、炭売りの爺さんだった。北の山あいの郷から、年に何度か炭を担いで下りてくる。女将の宿の古い泊まり客だ。爺さんは俺たちの顔を見ると、挨拶より先に、湯気の向こうでぼやいた。
「あんたらの町は、粟がなくて難儀してるんだってな。……笑っちまうよ。うちの郷は、粟が余って難儀してる」
「余って?」
「今年は当たり年でな。倉に入り切らねえ。だが売りに出す先がねえんだ。南へ下ろそうにも、街道の関所で半日止められる。仲買は回状とやらで腰が引けてる。……粟ってのはな、売れなきゃただの鼠の餌だ」
俺と董白は、顔を見合わせた。
北に、粟がある。倉から溢れるほどある。こちらには、銭と、粟を待つ町がある。間にあるのは、関所のある街道と――もう一本。
「爺さん。炭焼きの山道は、今どうなっておる」
董白が身を乗り出した。爺さんは湯気越しに目を細めた。
「……よく知ってるな、あの道を。昔はうちらの道だったよ。今は夏藪に埋まって、沢の橋が二本落ちたきりだ。人と背負子なら通れる。荷車は無理だな。あのままじゃ」
あのままじゃ。女将と同じ言い方だった。裏を返せば、直せば通るということだ。
爺さんの椀が空になるまで話を聞いて、俺たちは宿を出た。女将は戸口まで送りに出て、俺たちには椀を出さなかった。出さないことを、目で一度だけ詫びた。今の宿は、泊まり客の分を量って炊く。頼まれない粥を出せる台所は、もうこの町のどこにもない。
井戸端に、洗いかけの釜が伏せてあった。底に残った粥の跡が、この前見た時より確かに薄かった。
帰り道、董白は空を見ながら言った。
「百二十日」
「ああ」
「道さえ通れば、あれは期限ではのうなる。……柳誠、明日から仕事が増えるぞ」
~
家に戻って、晩飯にした。
粥は、まだ薄めていない。ただ、董白が椀を持ったまま、一口目の前に少し止まった。いつもなら三杯食う。今夜は一杯で匙を置いた。
「食わないのか」
「食うた」
「一杯だろ」
「あと百二十日と、妾が自分で数えたのじゃ。数えた者が、今までどおり三杯は食えぬよ」
そう言って董白は、空になった椀を卓へ置いた。
椀の底が、昼間の市と同じ色をしていた。