董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

33 / 33
第31話 空の市

 

その市は、音がしなかった。

 

塩売りに運び賃を倍払うようになって、五度目の市の日だった。市の日の朝というのは、夜明け前から車輪の音でできている。南から上ってくる荷車、川から上がる荷、店の板を叩く音。その全部が、その朝はなかった。

 

俺たちはいつもどおりに蔵を開けて、いつもどおりでない往来を見た。

 

店は立った。三つに一つだけ。並んだ品は、どの台の上でも薄く広げてあった。少なく見えないように広げてあるのが、かえって少なさを教えていた。

 

「南の荷が、一つも入っておらぬ」

 

董白は往来を端から端まで歩いて、戻ってきてそう言った。

 

「倉と、商人と、関所。別々に締めてきたのが、今日は全部いっぺんじゃ。……仕上げに来たの」

 

一年かけて糸を切り、切り残した糸を、最後にまとめて引いた。几帳面な仕事は、仕上げまで几帳面だった。

 

夕方の荷車で届いた手代の紙によれば、隣町も同じだという。市は三つに一つ。それでも交換は決まりどおりに続いていて、紙の最後には「升比べ、三度とも異常なし」といつもの一行があった。封じられたのは道と倉で、手順はまだ、誰にも封じられていなかった。

 

もう一つ、いつもと違う数字があった。俺は白札を始めた時から、一日に戻ってくる札の数を記録している。この日、うちの蔵に戻った札は、いつもの市の倍あった。換えた者は皆、静かだった。列も乱れなかった。ただ、換えた粟を担いで帰る背中が、どれも少し急いでいた。

 

 

明くる日の昼過ぎに、町の商人が三人、連れ立って帳場へ来た。

 

真ん中にいるのは米屋の主人だ。白札の預け主の一人で、うちの蔵に粟を預けている側の男でもある。頭は下げなかった。代わりに、単刀直入だった。

 

「白様。蔵の粟を、町に貸してもらえないか」

 

「うちの蔵に、貸せる粟はないぞ」

 

「あるだろう」

 

米屋は帳場の奥の、戸の向こうを目で指した。

 

「この戸の向こうに、山と積んであるのを、俺たちは知ってる。預けたのは俺たちだ。……なあ白様、貸せと言ってるんだ。取ろうって話じゃねえ。秋の新穀が入ったら、利を付けて返す。この町が冬までに干上がったら、あんたの札も蔵も、まとめて終わりなんだぜ」

 

筋は通っていた。商人の筋としては、どこも間違っていなかった。

 

「戸の向こうの粟はの」

 

董白は米屋から目を離さずに言った。

 

「わたしの粟ではない。そなたらの粟でもない。札を持っておる者の粟じゃ」

 

「だから、その俺たちが――」

 

「そなたが預けた分の札は、いま誰の帯にある」

 

米屋が詰まった。預けて受け取った札は、とっくに仕入れの払いで人手に渡っている。それが札というものだ。

 

「札は歩いておる。誰の帯にあるか、わたしにも分からぬ。分からぬ相手の粟を、わたしが貸したら――それは杜恪(とかく)がやったことと、升の底しか違わぬ」

 

浅い升の一件は、この町にも知れている。米屋は口を結んだ。結んだまま、引かなかった。

 

「……理屈は分かった。理屈はな。だが白様、覚えといてくれ」

 

米屋は帳場の縁に、節くれた手を置いた。

 

「あんたの約束は立派だ。この二年、俺は一度も疑ってねえ。だが、腹の減った人間は、約束を食えねえんだ」

 

三人が帰ってから、董白は長いこと、戸の向こうの気配を背中で聞いていた。

 

「柳誠。数えるぞ」

 

 

その夜、俺たちは帳場に木簡を並べた。

 

数えるのは三つ。町の商人たちの倉に残っている粟、うちの手数料の銭で買い足せる分、そして日々町が食う量。聞き集めた数字には穴があるから、少なめに見た。

 

町の周りの田で穫れる分は、先に入れてある。入れても、埋まらない。この町は、食う量の半分も自前では作れない。荷が集まるから人が集まり、人が集まるから町になった――そういう町だ。荷を止めるということは、その成り立ちごと止めるということだった。

 

途中で一度、俺の手が止まった。手数料の銭で買い足せる分、の欄が埋まらないのだ。

 

「なあ、白。銭で買える分って、どう数えればいい」

 

「売り手がおらねば、零じゃ」

 

董白は迷わなかった。

 

「銭は蔵にある。じゃが、その銭で買える粟が、南にはもうない。……封鎖というのはそういうものじゃ、柳誠。奪いに来ぬ。売らぬだけじゃ。売らぬ相手を、罪には問えぬでの」

 

俺は銭の欄に零を書いた。書いてみると、震えが来た。銭が銭でなくなる日を、俺は初めて帳面の上で見た。

 

出た答えは、百二十日だった。

 

「百二十日……」

 

雪が来て、道が凍って、春の青物が出るまで。どう数えても、足りない。冬の真ん中で、この町の椀は空になる。

 

「二人の分を足しても、三日と延びぬな」

 

「足すなよ」

 

「戯けたのじゃ」

 

董白は笑わなかった。俺も笑えなかった。冗談の形をした確認だった。二人の食う分と、冬用の非常袋一つ。それを全部差し出しても、町は救えない。救えない量を差し出して安心するのは、救う側の贅沢というものだ。

 

「裏付けの粟は、開けぬ」

 

董白は、もう一度、自分に言うように言った。

 

「あれを開けて町に配れば、百二十日は少し延びよう。延びた先で、札は全部ただの木切れになる。……木切れを握って冬を越した町が、春に何を信じる」

 

「分かってる。誰も開けろとは言ってない」

 

「妾が言いそうになるのじゃ、柳誠」

 

その声だけ、少し小さかった。

 

「じゃから、そなたも数えておれ。妾が間違えそうになったら、今夜の数字を見せよ」

 

 

翌朝、鄧氏から手紙が来た。

 

届けたのは見知らぬ人足で、返事は要らないと言って帰った。手紙は短かった。時候の挨拶。先の書付は今も生きていること。そして、最後の一行。

 

「――ただし値の欄は、もう空白ではございません」

 

署名は鄧遷(とうせん)。相変わらず、字まで慇懃だった。

 

「返事は?」

 

「書かぬ」

 

董白は手紙を、手代の紙とは別の綴じへ挟んだ。鄧遷の分の綴じが、この日からできた。

 

「値が動いたと知らせてきただけじゃ。商人の手紙での。……こちらの値が下がったと思うておるうちは、泳がせておけばよい」

 

「下がってないのか」

 

「下がっておらぬ。売り物でないものに、下がる値はない」

 

言い切った声に、揺れはなかった。ただ、その綴じを棚へ戻す手が、いつもより丁寧だった。丁寧すぎた。

 

 

その日の夕方、女将から使いが来た。会わせたい客がいるから、飯どきに宿へ来い、という。

 

客は、炭売りの爺さんだった。北の山あいの郷から、年に何度か炭を担いで下りてくる。女将の宿の古い泊まり客だ。爺さんは俺たちの顔を見ると、挨拶より先に、湯気の向こうでぼやいた。

 

「あんたらの町は、粟がなくて難儀してるんだってな。……笑っちまうよ。うちの郷は、粟が余って難儀してる」

 

「余って?」

 

「今年は当たり年でな。倉に入り切らねえ。だが売りに出す先がねえんだ。南へ下ろそうにも、街道の関所で半日止められる。仲買は回状とやらで腰が引けてる。……粟ってのはな、売れなきゃただの鼠の餌だ」

 

俺と董白は、顔を見合わせた。

 

北に、粟がある。倉から溢れるほどある。こちらには、銭と、粟を待つ町がある。間にあるのは、関所のある街道と――もう一本。

 

「爺さん。炭焼きの山道は、今どうなっておる」

 

董白が身を乗り出した。爺さんは湯気越しに目を細めた。

 

「……よく知ってるな、あの道を。昔はうちらの道だったよ。今は夏藪に埋まって、沢の橋が二本落ちたきりだ。人と背負子なら通れる。荷車は無理だな。あのままじゃ」

 

あのままじゃ。女将と同じ言い方だった。裏を返せば、直せば通るということだ。

 

爺さんの椀が空になるまで話を聞いて、俺たちは宿を出た。女将は戸口まで送りに出て、俺たちには椀を出さなかった。出さないことを、目で一度だけ詫びた。今の宿は、泊まり客の分を量って炊く。頼まれない粥を出せる台所は、もうこの町のどこにもない。

 

井戸端に、洗いかけの釜が伏せてあった。底に残った粥の跡が、この前見た時より確かに薄かった。

 

帰り道、董白は空を見ながら言った。

 

「百二十日」

 

「ああ」

 

「道さえ通れば、あれは期限ではのうなる。……柳誠、明日から仕事が増えるぞ」

 

 

家に戻って、晩飯にした。

 

粥は、まだ薄めていない。ただ、董白が椀を持ったまま、一口目の前に少し止まった。いつもなら三杯食う。今夜は一杯で匙を置いた。

 

「食わないのか」

 

「食うた」

 

「一杯だろ」

 

「あと百二十日と、妾が自分で数えたのじゃ。数えた者が、今までどおり三杯は食えぬよ」

 

そう言って董白は、空になった椀を卓へ置いた。

 

椀の底が、昼間の市と同じ色をしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

起きたら仁義なき転生、それから。(作者:函南)(原作:仁義なき戦い)

起きたら仁義なき戦いの世界にいた。そんな話。


総合評価:4503/評価:8.67/連載:53話/更新日時:2026年08月24日(月) 00:50 小説情報

愛と勇気と正義にかけて、市民をお守りいたします!(作者:イングラマン)(原作:機動警察パトレイバー)

某巡査の娘が特車二課第二小隊に配属される、原作再構成二次小説です。▼自分が読みたいがために投稿しました。▼・TVアニメ版を軸にOVA、漫画版や小説版をミックスしています。▼・転生オリ主最強です。▼・一部キャラクターの生年と経歴を変更しています。▼・作者は警察組織や軍事関係、コンピュータについてはネットで調べた程度の知識しかありません。▼以上の点を踏まえて、本…


総合評価:3799/評価:9.03/連載:23話/更新日時:2026年08月21日(金) 18:00 小説情報

【書籍発売中】転生宰相のダンジョン魔改造録 ~ポンコツ魔王様に頼られたので、壊滅した魔王軍を再建します~(作者:パンダプリン)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

【美人で最強、なのに俺の前ではうざかわポンコツな魔王様】▼女神さまにハズレ扱いされた俺は、ラスボスの魔王が超高難易度で有名なとあるゲームの世界へ転生させられてしまった。▼スキルはダンジョンマスター。種族は魔族。どう見ても主人公側ではなく、敵側としてだ……。▼途方に暮れていたところ、明らかに格上の存在と出会ってしまったが、あなたが魔王……?▼勇者たちを倒したは…


総合評価:2429/評価:8.23/連載:364話/更新日時:2026年08月23日(日) 23:50 小説情報

幽州を変えようか(作者:雑草弁士)(原作:恋姫†無双)

三国時代初頭、幽州の地にて。出立する劉備(桃香)に多大な物資と兵馬を与え、客将であった趙子龍(星)までもを持っていかれた公孫瓚(白蓮)。しかしこの時間軸、この外史では、星と引き換えの様な形で白蓮の元に居残った人材が居た。もともと劉備陣営では目立った働きをしていなかったらしい、ただ古参なだけのその男。彼の正体は。


総合評価:6023/評価:8.73/短編:3話/更新日時:2026年08月08日(土) 17:10 小説情報

女性向けアイドル育成ゲームでどうやって曇らせればいいんだよッッ!(作者:人生変化論)(オリジナルファンタジー/コメディ)

曇らせが好きだ。▼ので、異世界に転生した今、最高の曇らせシュチュエーションを求めようと思う。▼……これが女性向けアイドル育成ゲームの世界じゃなけりゃなァ!!殺すぞ!▼しかも俺がアイドルかよ!どうやって曇らせればいいんだこんなん!▼※なお、原作はアイドル育成の皮を被った鬱ゲーだった模様。


総合評価:3203/評価:8.42/連載:9話/更新日時:2026年08月18日(火) 12:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>