董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
市の日の朝、北の郷の倉の前に、荷車が三台並んでいた。
峠の南側にも三台、曲がりの下で待たせてある。頂の小屋で積み替えて、三台分をそのまま町へ下ろす手はずだった。空の車で越えた道だから、積んだ車も越える、と全員が思っていた。俺もそう思っていたし、あの朝、そう思っていなかった人間は、たぶん一人もいなかった。
倉の戸口には、郷の主が立っていた。腕を組んで、積むのを見ていた。何も言わなかった。言わないが、貸した粟は町へ着いて、売れて、回り始めなければ、五割増しで戻ってこない。それはこの人がいちばんよく分かっていて、だから戸口から動かなかった。
「積めるだけ積んでけ! 倉は空かねえと粟が腐るんだ!」
主の声だけは大きかった。
俵が上がっていった。八つで御者が縄を取りかけて、それでもまだ人足が担いできた。十で車が沈んだ。十二で、車輪の輻が少し外へ開いたように見えた。見えただけかもしれない。
「行けるぜ! 空で越えた道だ」
御者が轅を叩いた。俺より年上で、荷を降ろすたびに余計な一言を置いていくのが常の男だ。あの朝も上機嫌だった。
董白は、一度だけ訊いた。
「重うないか」
「重えよ。重えから、俺が引いてんだ。軽い荷なら誰にでも任せりゃいい」
董白は御者の手元を見て、それから俵を見て、引いた。俺も引いた。俺の場合は納得したというより、次の便まで何日空くかを先に数えてしまって、十二なら二便で足りる、と勝手に数えて、それで黙った。荷を減らせという理由は、皆知っていた。減らしたくない理由も、皆持っていた。別々のを。誰も止めないまま、荷は俺の背より高くなった。
言い訳になるが、あの時の俺は、御者の腕を信じていたのではない。空の車で戻る道の先で待っている町の顔を、見たくなかっただけだ。
~
一台目は、越えた。
刈った藪の間を、架けたばかりの橋の上を、俵を十二載せた車がゆっくり上って、頂の手前で止まった。車輪の音が止まった時、俺はなんだか、息を吐いた。吐いてから、吐いていたことに気づいた。
小屋の前で阿慶が待っていた。
「次! 降ろしな!」
北の車から降ろした俵を、阿慶が升を突っ込んで検めた。字の早い者がまだ来ていなかったので、控えは俺が写した。写した端から、南側の車へ担がれていった。二台目、三台目。急いでいた。日のあるうちに曲がりを下りるには、頂で長居をしていられない。
阿慶は、南の車の縄を一台ずつ検めて回った。
「そこ、違うよ。掛け直すよ」
縄を解いて、掛け直して、縄尻を掴んで引いた。次の車も同じことをやった。最後の車は、あの御者が自分で掛けたやつだった。阿慶はそれも見た。縄尻へ手を伸ばしかけて、伸ばしただけで、次へ行った。
急いでいた。俺は控えを書いていた。掛け直した縄が何を意味するのかを、あの時考えた者は誰もいない。俺も含めて、誰も。
「三台とも積んだよ!」
「よし。行くぜ」
御者は轅を握って、曲がりの方へ車の鼻を向けた。頭の車を任されて、少し得意そうだった。
~
曲がりの下は、片側が岩、片側が崖だ。
俺は董白と、車の前を歩いていた。後ろから車輪の音が来ていた。木の軋む音も来ていた。積んだ車の音は、空の車とはまるで違った。低くて、重い。
その音が、急に上ずった。
「――待て、待て待て」
御者の声だった。茶化しの声ではない。
まずい。
振り向いた時には、車が左へ傾いていた。俵が前へ雪崩れて、御者が轅にしがみついて、車輪が半分、路肩の外へ落ちた。木の裂ける音。
それだけだ。それだけのことが、たぶん一息のあいだに起きた。
御者は轅を放さなかった。放さなかったから、轅ごと持っていかれて、手のひらを削られた。それでも車は止まらなかった。人が一人ぶら下がったくらいで止まる重さではなかった。
俺は走った。走ったつもりだった。何をしに走ったのかは、今でも分からない。前へ崩れてきた俵の一つに手を掛けて、押し戻そうとして、俵は俺ごと動いた。足が滑って、膝を岩で打った。掴んでいた縄が、手の中から抜けていった。
「柳誠!」
董白の声が飛んだ。飛んだきり、次が来なかった。目の端で、董白が車輪のところへ行くのが見えた。傾いた車の、路肩へ落ちかけた側だ。両手で車体を押していた。動くわけがない。あの体で、十二俵を載せた車が動くわけがない。それでも押していた。
人足の一人が、脇の石を抱えて車輪の下へ突っ込もうとした。石は車輪に噛まれて、跳ねて、沢へ落ちた。後ろの車で誰かが叫んでいた。言葉になっていなかった。
「掴め! 俵、掴め!」
小屋の方から、阿慶が転がるように下りてきた。転がってきて、道へ落ちた俵へ飛びついて、それは掴んだ。もう一つの方は、藪を割って、音を立てて沢へ落ちていった。阿慶の手は届かなかった。届かなかった手を、阿慶はしばらく藪の方へ突き出したままにしていた。
車が、止まった。
誰かが止めたのではなかった。それ以上、落ちる場所が無かった。傾いたまま、狭い下りを塞いでいた。二台目の車は、荷を積んだまま道の上で立ち往生した。三台目は、小屋の前から動いてもいなかった。抜く道は無い。片側は岩で、片側は崖だ。
御者が、轅の下から這い出してきた。両手を、胸の前で開いたまま持ち上げていた。手のひらの皮が剥けていた。他は、どこも切れていなかった。
怖かった。
声に出そうとして、出なかった。出なかったから、代わりに膝を見た。血が出ていた。それも今気づいた。
その日、町へ下りた物は一つもなかった。
~
壊れた車をどけるのに、昼までかかった。
俵を全部降ろした。空になった車体を、人手で岩側へ寄せた。車輪を外して、折れた軸を引き抜いて、それでやっと後ろの車が通れる幅ができた。幅ができても、後ろの車は下ろさなかった。十二を積んだまま、あの曲がりを下りる者はもういなかった。残った二台の荷は小屋へ戻して、封をした。阿慶が封をして、俺が控えに書いた。
沢へ落ちた俵は、藪を刈った人足が拾い上げてきた。
腹が裂けていた。粟が半分、藪と沢の石の間へこぼれて、土と一緒になっていた。土の混じった分を升で量り直すと、欠けは二斗だった。俵一つの半分。俺は控えに書いた。この二斗にも、五割増しの返しが付く。そこまでは書かなかった。
御者は、手のひらの皮が剥けたまま働いていた。
布を巻けと言った者はいた。巻かなかった。俵を降ろし、車体を押し、折れた軸を自分で引き抜いた。そのあいだ、一言も余計なことを言わなかった。あの男が黙って荷を運ぶのを、俺は初めて見た。
董白も、黙っていた。
車体を押す時も、俵を担ぐ時も、指図を出す時も、要る言葉しか出さなかった。押しても動かない車を押していた両手を、時々、自分の袖で拭った。何も付いていないのに、拭った。
俺は、どうにも居心地が悪かった。
自分も止めなかった。それが、昼まで頭から離れなかった。
~
折れた軸を囲んで、大工と御者と阿慶が立った。
検分は、その場でやると董白が決めた。麓へ下ろしてからでは、誰かが何かを忘れると言った。
大工は、折れ口をしばらく撫でていた。それから、御者の方を見ずに言った。
「軸が細えんじゃねえぞ。これは荷だ。折れ口が一遍に来てる。じわじわ来たんなら筋が見えるもんだ。無え。下りで荷が前へ食って、一遍に折れた」
御者は言い返さなかった。言い返さなかったが、剥けた手のひらを軸の折れ口へ当てて、その手で曲がりを指した。
「あの曲がりで、下りの荷は前に寄るんだ。空車なら何でもねえ。積んでると、曲がった途端に車の前だけが重くなっちまう。……俺は空で越えてる。積んだ車で越えたのは、今日が初めてだ」
言い訳ではなかった。言い訳なら、もっと上手いのを言う男だ。
「掛けが、違ってた」
阿慶が口を挟んだ。御者を見ていた。
「あんたの掛けと、あたしの掛けと。あんたのは荷を押さえてるけど、前へ引いてない。だから前に寄るんだ。あたしが掛け直した二台は寄ってないよ。寄ったのは、そのままの一台だけだ」
御者が阿慶を見た。
「……見てたなら、なんで直さなかった」
「あんたが掛けた縄だ。頭の車の縄を、あたしが目の前で解いたら、あんたの顔が無い。……そう思って、見て、通した。あたしの間違いだよ」
御者は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
大工が、折れ口から手を離した。
「縄の話は俺には分からねえ。だが荷が前へ食ったのは、折れ口が言ってる。それだけだ」
董白は、ずっと黙っていた。
軸を見ていた。人の顔ではなく、軸を。皆が言い終わって、少し経ってから、顔を上げずに言った。
「で、どう直す」
大工が先に答えた。
「積みを減らせ。十二は無え。八までだ。それと、あの曲がりの下に丸太で受けを組む。傾いても、受けが拾ってくれらあ」
御者が続けた。
「軸だ。予備を二本、小屋へ置いてくれ。折れてから麓へ取りに戻ったら、それで一日消えちまう」
阿慶は、最後だった。
「峠を越える縄は、全部あたしが掛ける。手が回らない分は、あたしが教えた掛けだけ。……他の掛けは、通さない」
董白は、何も聞き返さなかった。
「よい。全部、そのとおりにせよ」
それから、初めて顔を上げた。
「妾も、一つ引き受ける」
誰も何も言わなかった。
「積み過ぎを止められた者は、あの場に一人だけおった。荷主の妾じゃ。御者ではない。主でもない。……妾は一度訊いて、行けると言われて、引いた。次からは、八と決めた数を妾が守らせる。御者の腕にも、急ぐ理由にも、負けさせぬ」
言い終えて、顎を引いた。
俺は控えに、八、と書いた。
~
峠を下りた時には、もう夕方だった。
麓で、炭売りの爺さんと行き合った。背負子を背負ったまま、俺たちの後ろの峠を見ていた。
「頭が白えな」
言われて振り向いた。峠の頭が、白かった。朝はあんな色をしていなかった。
「初雪だ。今年は早え」
「……根雪になるまで、どのくらいある」
「ひと月あるか、半月か。俺の骨は早えと言ってる」
爺さんは自分の膝を叩いて、笑いもせずに、背負子を担ぎ直して行ってしまった。
董白は、しばらく峠を見ていた。
「そなた、あの時、何と叫んだ」
「……叫んだか」
「叫んだ。妾の名では無かった」
「覚えてない」
「妾も、聞き取れなんだ」
董白はそれきり前を向いて歩き出した。俺は膝を庇って、少し遅れてついていった。何と叫んだのかは、本当に覚えていない。覚えていないのに、喉の奥だけが、まだ痛かった。
~
町に着くと、暗かった。
蔵の前に、人が残っていた。
最初の荷が下りる日だということは、町中が知っていた。空の車で戻ったことも、俺たちより先に伝わっていた。灯を提げている者はいない。暗い中に、人の形だけが立っていた。
米屋が前へ出た。
「荷は」
董白は隠さなかった。声も落とさなかった。
「峠で車が壊れた。怪我人は無い。荷は峠の小屋にある。……積み過ぎた。妾が止めなんだ。直し方は決めてある。次の便で通す。雪より先に」
暗がりのどこかで、誰かが息を吐いた。責める声かと思った。違った。
「雪と競争かい」
米屋だった。
「……で、白様。次はいつだ」
「六日後。次の市じゃ」
米屋は、しばらく黙って董白を見下ろしていた。それから、後ろの店の者へ顎をしゃくった。
「店の者を二人貸す。丸太でも何でも担がせろ。……荷が着いたら、俺の店で量り直すからな。それは変えねえぞ」
手を貸すという声が、それから続いた。藪を刈っていた男が、道の番ならやる、と言った。荷運びの女房が、うちの亭主は担ぐ口に入れてくれるのかい、と後ろから言った。責める声も、あった。あったが、手を貸す声の方が多かった。多いと言っても、数えたわけではない。数えるより先に、名前を書き取っていた。
書き取りながら、俺は分からなくなっていた。町の人間は、なぜ責めないのか。空の車で戻ったのに。たぶん、董白が隠さなかったからだ。たぶん、というのは、俺にはそれしか思い当たらないという意味で、本当にそうなのかは分からない。
~
直しは、翌日から始まって、三日で終わった。
大工は麓で軸を削った。折れたのと同じ物を二本、自分で小屋へ上げた。曲がりの下には、丸太の受けを組んだ。丸太は米屋の店の者が担いだ。積みは八俵。縄は阿慶の掛けだけ。藪刈りの人足は、そのまま道の番に雇われた。
俺は帳場と峠を往復して、その全部を控えに書いた。
御者は、手に布を巻いて、大工の脇で軸を削るのを見ていた。余計な一言は、まだ戻っていなかった。戻っていなかったが、削り終わった軸を担ぐ時に、大工へ何か言って、大工が鼻で笑った。何を言ったのかは聞こえなかった。
三日目の夕方、阿慶が峠から下りてきた。
帳場の卓へ、積み替えの控え札を置いた。
「小屋はいつでも受けられる。次は折らせない」
言って、水を一杯飲んで、帰った。
壊れた車輪は、阿慶が峠の小屋の脇へ立てかけたと聞いた。通る者の誰からも見える所に。
戒めのつもりなのか、看板のつもりなのか。訊いていない。訊いたら、たぶん、縄の話にすり替えられる。
次の市は、六日後だ。峠の頭は、あれから白いままだ。