董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

34 / 35
第32話 夜

 

噂を最初に持ってきたのは、阿慶(あけい)だった。

 

空の市から五日目の昼、縄の束を担いだまま帳場へ入ってくるなり、挨拶より先に言った。

 

「白。変な話が回ってる」

 

「どんな話じゃ」

 

「白の札は、もうすぐ紙切れになるって。蔵の粟は、とっくに南陽へ売られてるって。……水場で三人、井戸で二人、同じ話をしてた。言ってることが、みんな同じすぎる」

 

阿慶は縄の束を下ろして、付け足した。

 

「あたし、噂って、もっとばらばらだと思う」

 

俺と董白は顔を見合わせた。誰かが同じ文句を配って歩いている。出所を探しても無駄だろう。噂に足はあっても、名札は付いていない。

 

「阿慶。その話、誰かに違うと言うたか」

 

「言ってない。あたしが言い返したら、慌ててるみたいだから」

 

「うむ。それでよい」

 

董白は縄の代金を払いながら、静かに言った。

 

「噂は、言葉では死なぬでな。言い返せば、餌をやるだけじゃ。……殺せるのは、明日も開いておる蔵の戸だけよ」

 

 

昼を過ぎると、札を換えに来る者が増え始めた。

 

俺は帳場で、いつものように戻り札の数を書いていく。空の市の日に倍だった数字は、この五日で倍のまま高止まりしていた。今日は、昼までで既にそれを越えている。

 

換えに来る顔ぶれも変わった。今までは、粟が要るから換えに来た。今日は、札が怖いから換えに来ている。同じ一斗を担いで帰るのに、背中の形が違う。

 

夕方、塩売りの荷車が隣町の紙を運んできた。手代の字は、いつもどおり几帳面だった。

 

曰く、こちらでも同じ噂が流れている。曰く、換えに来る者が増えたので、三役の相談で、升比べの回数を決まりより増やした。できることを先にやっておく、とある。曰く、市の日でないため交換は行っていないが、次の市は列が長くなると思う。

 

「……向こうは、決まりの中で備えておるな」

 

董白は紙を二度読み、綴じへ挟んだ。三役は誰にも聞かずに、自分たちで升比べを増やした。二人のいない蔵が、二人のいないまま身構えている。

 

日が落ちる少し前、俺は帳場の窓から外を見て、手を止めた。

 

蔵の前に、列ができ始めていた。

 

今日はもう終いの刻限だ。それを知らない者は、この町にいない。知っていて、並んでいる。明日は市の日でもない。それも知っていて、並んでいる。

 

「白」

 

「見えておる」

 

董白は帳場を出て、列の先頭へ歩いていった。並んでいるのは、荷運びの女房、瓦屋の隠居、顔は知っているが名を知らない男が二人。先頭の女房が、董白の顔を見て、握った札を胸に引き寄せた。

 

「今日の交換は終いじゃ。明日は交換日でもない。……それでも並ぶか」

 

「並ぶよ」

 

女房の声は、喧嘩腰ではなかった。それが一番こたえた。

 

「あんたを疑っちゃいない。疑っちゃいないけど、うちには子供が三人いるんだ。紙切れになってからじゃ、遅いんだよ」

 

「相分かった」

 

董白は、それ以上何も聞かなかった。列に向かって、一度だけ声を張る。

 

「明けたら開ける。決まりの外じゃが、開ける。並んだ者には順の札を配るゆえ、家で寝てからでも順は変わらぬ」

 

迷わなかった。たぶん、迷う理由がもうないのだ。損の日に開くと、あの袖口の綺麗な使いの前で言い切った日から。

 

列が、少しだけ静かになった。

 

 

夜、灯を二つ持ち込んで、俺たちは蔵の棚卸しをした。

 

数えるのは三人。俺が控えの番号を読み、董白が棚の粟袋を数え、阿慶が升の封を検める。帰りかけていた阿慶は、列を見て、袖をまくって残った。

 

「白。基準升、封のまま。切り目も潰れてない」

 

「うむ」

 

「量り升も見た。底、細工なし」

 

浅い升の一件を見つけた目が、今夜は守る側で升を検めている。

 

読み終えた控えの数字と、数え終えた棚の数字を、卓の上で突き合わせた。町に出ている札、百と十二枚。棚の粟、百十二斗。一斗の狂いもなかった。

 

「よし」

 

董白は短く言って、帳場へ戻った。

 

戸が叩かれたのは、その時だった。杜恪(とかく)だ。列を横目に入ってきて、卓に着く。決めの報告日ではない。それだけで、用件は半分分かった。

 

「噂の出所なら、探すだけ無駄だぜ、姫」

 

「聞こう」

 

「担ぎの行商が三人。隣町とこっちを行き来しながら、水場と井戸で同じ文句を撒いてる。土地の者じゃねえ。宿の払いの銭が、新しすぎる。……誰の銭かは、言わなくてもいいよな」

 

「うむ。それより、そなたには何か聞いてきたか」

 

「来た。昨日の晩だ。……蔵の粟は、札の数だけほんとうにあるのか。数えられるか、とさ。返事は保留してある。どう答える」

 

「いま数え終えたところじゃ」

 

董白は、卓の上の控えと数字を目で示した。

 

「百十二枚に、百十二斗。一斗も欠けぬ。……明日、そなたも見に来るがよい。見たままを数えて、そのまま流せ」

 

「正直でいいのかよ」

 

「嘘を流せば、そなたの値が下がるでの。それに、蔵が破れぬことくらい、向こうの算盤はとうに弾いておる。破れぬと知った上で、この噂じゃ」

 

「破れねえ蔵に取り付けをさせて、何になる」

 

杜恪の問いに、董白はすぐには答えなかった。

 

「……それを今から、柳誠と勘定するところでの」

 

杜恪は肩をすくめて立ち上がった。戸口で一度だけ、外の列を眺める。

 

「保留の返事ってのは、高く売れるうちが花なんだがな」

 

そう言って、来た時と同じように、列の脇を抜けて夜へ消えた。

 

戸が閉まると、升を片づけていた阿慶が顔を上げた。

 

「ねえ。あの人、白のこと姫って呼んでた」

 

「呼んでおるな」

 

「なんで?」

 

「知らぬ」

 

「……ふうん」

 

阿慶は升を箱へ戻し、紐を掛けながら、独り言のように言った。

 

「姫」

 

「阿慶」

 

「言ってみただけ」

 

阿慶は箱を抱えて、笑いもせずに出ていった。董白は追わなかった。追わずに、また顎を上げていた。

 

杜恪と阿慶が消えてから、俺たちは最後の勘定をした。

 

「換えられるかどうかは、案ずるな」

 

董白は先にそう言った。

 

「札の裏には、札の数だけ粟がある。最初の一枚からそう決めてきた。一枚残らず換えても、蔵は破れぬ。……破れぬが」

 

「破れないのに、負ける」

 

「そうじゃ」

 

換えること自体は、できる。問題はその後だ。換えられた粟は家々の甕に散り、封鎖の町で少しずつ食われていく。札は戻らず、蔵は空のまま残る。誰も損をしていないのに、白札だけが死ぬ。噂を流した側の狙いは、盗みでも壊しでもない。それが一番、常道だった。

 

「明日、妾たちにできるのは、勝つことではないのじゃ」

 

董白は、綴じてある鄧遷(とうせん)の手紙を見た。

 

「一枚残らず、決まりどおりに換える。升比べを皆の前でやり、番号を読み上げ、最後の一人まで渡す。……そこまでが、こちらの仕事じゃ。その先は、換えた者が決める。換えた粟を抱えて夜を明かした者が、明後日、また預けに来るかどうか。来なければ、それまでの蔵じゃったということでの」

 

「来ると思うか」

 

「半分は来る」

 

即答だった。

 

「量り違いの日に、目の前で直された者たちじゃ。杜恪の日に、その日のうちに戻された者たちじゃ。損の日に開くところを、あの者たちはもう二度見ておる。……明日は三度目じゃ。三度見て戻らぬなら、それはもう、妾の見立て違いじゃ」

 

言い切ってから、董白は少しだけ声を落とした。

 

「じゃがの、柳誠。半分で足りるかどうかは、妾にも分からぬ」

 

灯が揺れた。俺は筆を取った。

 

「じゃあ、俺は俺の仕事をしてくる」

 

「うむ?」

 

「順の札を配るって言っただろ。今のうちに列を回って、札の番号を控えておく。明日の朝、呼び上げる順をこっちで書いておけば、開けてから慌てない」

 

「……夜通しか」

 

「どうせ眠れないだろ、二人とも」

 

董白は少し笑って、立ち上がった。

 

「なら、妾は湯を沸かす。並んでおる者に白湯くらいは出してよかろう。蔵の粟は出せぬが、湯は妾の物じゃ」

 

 

夜の列は、昼の列と匂いが違った。

 

火鉢の代わりに小さな焚き火が二つ。誰かが持ち出した筵。眠る子供を抱いた女房。俺は端から順に、札の番号を控えへ写し、引き換えの順札を渡していった。番号を書いた木の切れ端を渡すたび、相手の肩が少しだけ下がる。順番が決まっているというだけで、人は夜を越せる。

 

列の半ばに、米屋の主人がいた。

 

目が合うと、米屋は気まずそうに、それでも逸らさなかった。

 

「……悪いな。俺まで並んで」

 

「順の札、要りますか」

 

「くれ。……あんたらを疑ってるんじゃない。ただ、俺は店の者を食わせなきゃならん。分かるだろ」

 

「分かります」

 

俺は番号を書いて渡した。米屋はそれを受け取って、懐へ入れる前に、一度だけ帳場の灯を見た。

 

「白様は」

 

「湯を沸かしてます。そのうち回ってくると思いますよ」

 

「……そうか」

 

米屋は何か言いかけて、やめて、順札を懐へ入れた。

 

列の最後尾まで番号を配り終えた時、順の札は五十七番までいった。控えに写した札の番号は、六十五。町に出ている百十二枚の、半分を越えていた。夜はもう深くなっていた。焚き火のそばで、董白が瓦屋の隠居に白湯を注いでいる。隠居が何か言い、董白が短く返し、周りの何人かが小さく笑った。何を話したのかは聞こえなかった。ただ、列はもう、昼間より静かだった。

 

帳場へ戻り、控えの番号を清書する。明日呼び上げる順。升比べの回数。渡す粟の置き場。書くことは多く、夜は足りないくらいだった。

 

窓の外で、焚き火が爆ぜた。

 

東の空は、まだ白まない。

 

列は、そこにあった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。