董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
東の空が白み切る前に、順の札は七十一番までいった。
夜のうちに列を離れた者は、俺の見た限り二人だけで、その二人も、家へ戻って火の始末をして、また戻ってきた。日が上ってからは、後ろへ幾人か足された。焚き火は燃え尽きて、白湯の桶は空になっていた。
夜明けとともに、俺たちは蔵の戸を全部開け放った。
帳場の卓を表へ出し、量り台を戸口の真ん前へ据える。中の棚が、列から見えるようにするためだ。粟の袋が並んでいるのも、その数がこれから減っていくのも、全部見せる。昨日まで錠で守っていたものを、今日は開けて守る。
董白は列の前に立った。夜通し湯を注いで回った声は、少しかすれていた。それでも、通った。
「わたしの札を持つ者は、今日、一枚残らず換えてみせよう。札の裏には、札の数だけ粟がある。最初の一枚から、全てそう決まっておる」
列は、静かだった。
「蔵の粟はもう南陽へ売られた、と聞いた者もおろう。……じゃから今日は、戸を全部開けた。売られたかどうか、並びながら、その目で数えるがよい」
「ただし、決まりは曲げぬ。番号の順。升は皆の前。一人ずつじゃ。……夜通し並ばせた詫びに、今日は日が落ちるまで閉めぬ」
言い終えると、董白は
阿慶が皆の前で基準升の封を検め、それから切った。切り口を掲げて見せ、量り升と底を比べる。浅い升を見つけた娘だということは、この列の全員が知っている。誰も、もう一度検めろとは言わなかった。
「読み上げと控えは俺がやります。量るのは白。升の検めは阿慶。……一番の方」
あの女房だった。眠る子を背負ったまま、札を三枚、卓へ置いた。
俺が番号を読んで、札を殺す。董白が量る。三斗。女房は受け取った袋の口をその場で開けて、中を見て、それから少しだけ気まずそうに縛り直した。
「……悪いね。見ちまって」
「よい。見るのも決まりのうちじゃ」
二番、三番と、列は進んだ。
十番台の半ばで、二人が列を抜けた。換えずに、札を持ったまま帰った。そのうちの一人は帰り際に俺と目が合って、札を挟んだ指を軽く上げてみせた。換えない、という返事だった。俺は頭を下げた。下げながら、控えの隅にその数も書いた。
昼前に、米屋の番が来た。
米屋は札を十一枚、卓へ並べた。店の者を三人連れている。俺が読み、董白が量り、十一斗が担がれた。帰る前に、米屋は一度だけ、開いたままの棚を見た。
「……白様。あんたの約束は食えないと、俺は言ったな」
「言うた」
「取り消さねえぞ。約束ってのは、やっぱり食えねえ」
米屋は担いだ袋を、手のひらで叩いた。
「だが、これは食える。……次の話は、これを食い終わってからだ」
列の外れには、
数えたい者には、数えさせておく。今日のこの蔵は、数えられるために開けている。
昼を過ぎても、列は減らなかった。減らない代わりに、静かになっていった。怒鳴る者も割り込む者もいない。皆、前の者の升を見ている。升が正しく量られるたび、自分の番の心配が一つ減っていくからだ。
その静けさが破れたのは、昼下がり、棚の袋が目に見えて減ってきた頃だった。
「――待ってくれ!」
列の後ろの方で、声が裏返った。顔は知っているが名は知らない、瓦焼きの若い男だ。突き出した順の札は、七十六番。ほとんど最後尾だった。
「減ってるじゃねえか! 俺の番まであるのか! あるなら見せてくれよ!」
列がざわついた。ざわつきが、昨日の噂と同じ速さで前後へ走っていくのが分かった。量りかけの升を置いて、董白が顔を上げる。
「列を止めよ!」
静かな声だったのに、ざわつきの方が先に止まった。
「そこの者。蔵へ入って、数えよ」
俺は筆を止めた。取り付けの真っ最中に、蔵の中へ客を入れる。そんなことをする蔵は、この世に一つもない。
「……い、いいのか」
「そのために開けてある。ただし触るな、動かすな。数えるだけじゃ。――声に出してな」
男はおそるおそる蔵へ入り、棚の前に立って、指を差しながら数え始めた。
「ひとつ、ふたつ……」
十を越えたあたりで、列の誰かが一緒に数え出した。二十で、数える声は列の半分になった。三十で、往来いっぱいの声になった。袋を一つずつ、町が声を揃えて数えていく。
「――三十九!」
数え終わった男の声が、蔵の中で響いた。往来が一拍だけ、しんとする。
「いま呼んでおるのは六十六番。そなたは七十六番」
董白は升を持ち直した。
「袋は、そなたが数えたとおりじゃ。足りるか足りぬか、そこで自分の指で数えてみよ」
男は指を折り、折り終える前に、耳まで赤くなった。
「……足りる」
「なら列へ戻れ。番は飛ばさぬ」
男が頭を下げて駆け戻ると、列のどこかで、こらえ損ねた笑い声が上がった。一つ上がると、あとは続いた。この町の列で笑い声を聞いたのは、いつ以来だったか、思い出せなかった。
その笑い声に混じって、誰かが言うのが聞こえた。
「――やるじゃねえか、姫さん」
言ったのが誰かは、分からなかった。列の外れで、杜恪が手控えから顔も上げずに、口の端だけで笑っていた。
噂は、言葉では死ななかった。町が声を揃えて数えた数の前で、死んだ。
再開してからの列は、それまでの倍の速さで進んだ。もう誰も、升を疑う目をしていなかった。順の札を手の中で確かめながら、ただ自分の番を待っていた。
日が落ちる少し前、最後の一人が袋を担いで帰った。
その日、殺した札は八十七枚。棚に残った粟は、二十五斗だった。
見物だけして帰らずにいた者が、まだ何人か往来に残っていた。董白は開け放した戸の前に立って、その全部へ届く声で言った。
「明日も開ける。換えたい者が一人でも残っておるうちは、閉めぬ」
~
夜、帳場で最後の勘定をした。
町に出ている札、二十五枚。棚の粟、二十五斗。一枚に一斗。狂いはない。狂いはないが、朝には百十二あった袋が、いまは二十五しかない。開けて守ると決めた蔵は、守った分だけ軽くなった。
百二十日と数えた夜から、四日が過ぎている。今日出ていった八十七斗は町の甕へ散って、その分だけ誰かの冬が少し延びた。勝った日の勘定は、つまるところ、それだけだった。
「恐らく半分は返って来る、って言ったな」
俺が聞くと、董白は綴じ終えた控えから顔を上げずに答えた。
「言うた」
「来なかったら?」
「その時は、二十五斗の蔵の白として、明日からやり直すだけじゃ。……札は二十五枚、粟は二十五斗。始めた日より、まだ五枚多いでの」
白湯の椀を持つ董白の指が、升を握った形のまま、うまく開かなくなっていた。一日、量り通した手だ。俺は何も言わずに、その椀へ白湯を足した。次に見た時、董白は控えに突っ伏して眠っていて、俺は上着を掛けて、灯を一つ消した。
~
翌朝、蔵の前にまた列ができていた。
担いでいるのは、札ではなかった。袋だった。列には話し声があって、ところどころに、昨日の昼のような笑いが混じっていた。三十九まで数えたあの瓦焼きの男も、袋を担いで、後ろの方に並んでいた。
先頭は、あの女房だった。背中の子は起きていて、袋の上から俺たちを見ている。
「預けに来たよ」
「昨日、換えたばかりであろう」
「換えたよ。換えて、一晩、甕の前で寝てみたのさ」
女房は袋を量り台へ載せた。
「夜中に粟の番をするくらいなら、あんたの札を懐に入れて寝た方が、よっぽどよく眠れる。……そんなの、換える前から分かってたんだ。分かってて、一回、換えてみたかった。悪いね」
「良い確かめ方じゃ。あの手代にも聞かせたいの」
董白は袋を受け取り、升比べからやり直して、三斗を量った。俺は新しい札へ次の番号を書き、女房へ渡した。
「ありがとうね、姫様」
女房は三枚を懐の奥へ入れて、来た時より軽い背中で帰っていった。
姫様。昨日の昼から、この町はもう、当たり前の顔でそう呼んでいる。
一度だけ、背中が冷えた。この女の本当の名と、本当の身分を知っているのは、この町で俺一人だ。
だが、すぐに考え直した。冗談で姫と呼ばれている娘を、いったい誰が本物の姫だと疑う。隠すのに、これ以上うまい看板もない。
昼までに、戻ってきた粟は四十二斗になった。昨日殺した札の数の、ほとんど半分だった。数えるまでもなく、董白の見立てのとおりだった。数えたが。
列がいったん切れた時、往来の向こうで誰かの言う声が聞こえた。連れへ話す、世間話の声だった。
「――あれは姫の札だぜ。封鎖の中で換わった札だ。そんな札が、他のどこにある」
声の主は、探さなかった。
俺は帳場に戻って、控えの新しい一枚に、今日の分の線を引いた。