董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
次の市の日の朝、北の郷の倉の前に、荷車が三台並んだ。峠の南側にも、同じ数の車が待っている。頂で積み替えて、三台分の粟を町へ下ろす手はずだった。
最初の実荷だ。空の車が越えられたのだから、積んだ車も越えられる。誰もがそう思っていたし、俺もそう思っていた。
積めるだけ積んだ。それが間違いだった。
倉の前で俵を担ぎ上げながら、御者は「行ける」と言った。空の車で二度、あの峠を越えた男だ。道は覚えたという自負があった。
郷の主は、倉の戸口から積むのを見ていた。売った分は銭が済んでいるが、貸した分は、届いて回り始めなければ返ってこない。一俵でも多く、一日でも早く。主の目は、そう言っていた。
こちらはこちらで、町の椀の残りを数えている身だ。荷を減らせと言う理由なら三人とも知っていて、荷を減らしたくない理由は、三人とも別々に持っていた。車の荷は、誰も止めないまま高くなった。
「……重うないか」
董白が一度だけ聞いた。御者は縄を締めながら答えた。
「重いですよ。だが、空で越えた道だ。行けます」
その言い方で、俺も納得してしまった。あとから思えば、あれは道を知っている者の答えではなく、道を信じたい者の答えだった。
~
一台目の荷は、無事に峠を越えた。
北から上がった車を頂の手前で降ろし、
二台目の荷を積んだ南側の車が、下りの曲がりで壊れた。
音が先に来た。木の裂ける、乾いた音だ。振り返ると、車が左へ傾いて、積んだ俵が前へ雪崩れていた。御者が轅にしがみつき、車輪が半分、路肩の外へ落ちている。傾いた荷台から俵が二つ転がって、一つは道に残り、一つは藪を割って沢へ落ちた。
車軸が、折れていた。
「怪我はッ」
「ねえ! 手の皮だけだ!」
御者の声より先に、俺は道の幅を見ていた。傾いだ車が、狭い下りをちょうど塞いでいる。後ろには三台目が、荷を積んだまま立ち往生していた。抜く道はない。片側は岩、片側は崖だ。
その日、町へ下りた物は、一つもなかった。
~
壊れた車をどける作業に、昼までかかった。
俵を全部降ろし、空にした車体を人の手で持ち上げ、岩側へ寄せる。三台目の荷は、峠の小屋へ戻して封をした。沢へ落ちた俵は、藪を刈った人足が二人がかりで拾い上げてきた。俵の腹が裂けて、粟が半分こぼれていた。
こぼれた分も、皆で掬った。土の混じった粟を升で量り直すと、欠けは二斗と出た。一俵は四斗ある。その半分が土に混じった勘定だ。俺はそれを控えに書いた。書きながら、この二斗にも五割増しの返しが付いていることを考えた。欠けた粟は消えるが、借りは消えない。
検分は、その場でやった。折れた軸を囲んで、大工と御者と阿慶が、順に口を開いた。
「軸が細いわけじゃねえ。荷が多すぎたんだ」
大工は折り口を指でなぞった。
「見な、この折れ方。じわじわ来たんじゃねえ。一遍に来てる。下りで荷が前へ食ったな」
「食った」
御者が認めた。手の皮の剥けた手で、曲がりの先を指す。
「あの曲がりだ。下りで荷が前に寄る。空車なら何でもねえ。積んでると、曲がった途端、車の前だけが重くなる」
「縄も違う」
阿慶が言った。責める声ではなく、升を読む時の声だった。
「あたしの掛けと違う掛けが三本あった。急いでたでしょ。掛け直した二台は前に寄ってない。寄ったのは、そのままの一台だけ」
三人が言い終えるのを待って、董白が聞いた。
「で、どう直す」
「積みを減らす。今日は十二積んだ。八までだ」
「曲がりの下に、丸太の受けを組む。荷が寄っても、車ごと崖へは行かねえように」
「峠を越える縄は、全部あたしが掛ける。あたしの手が回らない分は、あたしが教えた掛けだけ」
「予備の軸を二本、小屋へ置いておくれ。折れてから麓へ取りに戻ったら、それだけで一日消える」
董白は最後まで聞いて、頷いた。
「全部、そのとおりにせよ。妾から足すことは一つもない。……一つだけ、引き受ける」
折れた軸の傍らで、董白は三人の顔を順に見た。
「積み過ぎを止められる者は、あの場に一人だけおった。荷主の妾じゃ。重うないかと聞いて、行けると言われて、引いた。……次からは、八と決めた数を、妾が守らせる。御者の腕にも、急ぐ理由にも、負けさせぬ」
それから、折れた軸を拾い上げて、しばらく手の中で見ていた。
「……空の車で確かめた道は、空の車の道じゃったの。荷の道は、荷を積んでからしか確かめられぬ。今日のは、その
「そくしゅう?」
「入門の払いじゃ。物を教わる時は、先に払う」
~
夕方、麓まで下りたところで、炭売りの爺さんと行き合った。爺さんは俺たちの顔と、空のままの荷車を順に見て、事情を聞く前に山の上を指した。
「見な」
峠の頭が、白かった。
「初雪だ。今年は早い。……根雪になったら、あの道は春まで閉じるぞ」
「根雪まで、どれほどある」
「山と年による。ひと月あるか、半月か。……爺の骨は、早いと言ってるがね」
帰りの道で、俺は頭の中の帳面に、時計をもう一つ書き足した。町の椀が空になるまでの残りの日。それから、峠が閉じるまでの日。二つ目は、数字が読めない。読めないだけで、確かに減っている。
~
町に着いた時には、もう暗かった。
蔵の前に、人が残っていた。並んでいるのではない。ただ、待っていた。今日の市で最初の荷が下りてくることは、町中が知っていた。俺たちが空の車で戻ったことも、俺たちより先に伝わっていた。
米屋が、人垣の前へ出てきた。
「白様。荷は」
「峠で車が壊れた。怪我人はない。荷は峠の小屋に置いてある」
董白は隠さなかった。声も落とさなかった。開帳の日と同じ、往来の端まで届く声だった。
「積み過ぎたのじゃ。急いで、欲をかいて、車を一台折った。……直し方はもう決めてある。次の便で通す。雪より先にじゃ」
「……雪と競争かい」
「そうなるの」
米屋は何か言いかけて、結局、短く息を吐いた。
「なら、うちの店の者を貸すよ。荷降ろしでも、丸太運びでも使ってくれ。……早く来てもらわねえと、こっちが困るんでな」
人垣の後ろで、同じような声がいくつか続いた。手を貸すという声は、責める声より多かった。俺は控えを開いて、名前を書き取っていった。書きながら思った。開帳の日に隠さなかったことの利子が、今日、返ってきている。
~
直しは、翌る日から三日で終わった。
大工は麓で新しい軸を削り、同じ物をもう二本作って峠の小屋へ上げた。曲がりの下には丸太の受けが組まれ、荷が寄っても車ごと崖へは行かない形になった。積みは一車八俵まで。縄は阿慶の掛けだけ。米屋の店の者が丸太を担ぎ、藪刈りの人足がそのまま道の番に雇われた。
三日目の夕方、阿慶が峠から下りてきて、帳場の卓へ木の札を置いた。峠の小屋の、積み替えの控え札だった。
「小屋は、いつでも受けられる。……次は折らせないよ」
~
峠の小屋の脇に、壊れた車輪が立てかけてある。
阿慶がそうしたのだと、後で聞いた。捨てずに、峠を通る誰からも見える場所に置いた。急いで積むとどうなるか、縄を横着するとどうなるか、峠を通る誰もが、あれを見れば分かる。
その車輪の輻の向こうに、白くなった峠の頭が見えた。
次の市は、六日後だ。