董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第36話 初便

 

市の前の日、俺たちは支度の名簿を書き上げた。

 

北側の車が三台と、御者が三人。南側の車が三台と、御者が三人。荷押しに米屋の店の者が二人。道の番が、藪刈りからそのまま雇われた人足が四人。頂の小屋に阿慶(あけい)と、字の早い手代がひとり。予備の軸は二本、小屋に上げてある。曲がりの下の丸太の受けは、大工が昨日、自分で乗って確かめた。

 

名簿の名前を一人ずつ読み上げながら、俺は妙な気分になった。この名簿は、この一年の帳面から生まれている。米屋は開帳の列に並んだ男で、人足たちは封鎖に仕事を奪われた者たちで、阿慶は浅い升を見つけた娘だ。誰ひとり、最初から荷運びのために雇った者がいない。

 

「明日は、朝のうちに郷で積む。昼に頂で積み替え、日のあるうちに曲がりを下りて、夜道は灯で行く。着くのは夜半になる」

 

先の便で車を折った、あの御者だ。頭に立てたのは董白で、本人は一度断って、二度目に受けた。帳場の卓に小さな木片を並べて、道順を示していく。

 

「夜道は危なくないですか」

 

俺が聞くと、御者は首を振った。

 

「危ねえのは曲がりと沢だけだ。そこは日のあるうちに抜ける。あとの夜道はゆるい下りで、道の番が火を持って立つ。……それよりな、書付の旦那。雪ってのは、朝が晴れてても昼に来るんだ。二日に分けて泊まりで運ぶ方が、俺はよほど怖え」

 

一日で通す。それがこの男の答えだった。俺は名簿の端にそう書いた。

 

その日の昼のうちに、俺と董白は歩いて峠を越え、郷へ入った。積み出しには、借りた側が立ち会う。それも決めてあった。

 

 

市の日の朝、北の郷の倉の前で、俵を積んだ。

 

八俵。数えたのは御者自身だった。人足が九つ目を担ぎ上げかけると、御者は手のひらでそれを押し戻した。

 

「八だ」

 

人足が何か言いかけると、御者は先に続けた。

 

「載せてえのは分かる。俺もそうだった。……この前、それで一本折ってる」

 

郷の主は、倉の戸口で腕を組んで見ていた。三台で二十四俵。天井まで詰まった倉から見れば、掬い一杯ほどの量だ。それでも主は、車が縄を締め終わるまで動かずに見ていて、最後に短く言った。

 

「秋までに、五割増しだからな」

 

「相分かっておる」

 

「……道中、気をつけてな」

 

言ってから、主は俺たちの顔を見ずに倉へ入っていった。取り立てる言葉の後で見送る言葉を言うのは、決まりが悪かったのだと思う。

 

車列が動き出す前に、俺は先頭の車の俵へ、荷札を結んだ。番号と、量と、出た倉の名。一俵は四斗、三台で二十四俵、合わせて九十六斗。開帳の日に蔵から出ていった八十七斗より、まだ多い。書きながら思った。この俵は、五割増しで借りた粟だ。峠を越えれば町で売られて、椀に入る。預けたい者の手で、蔵の棚へ戻ってくる分もあるだろう。北の粟と、直した道と、雇った人と、守った札。この一年の全部が、車三台に載っている。

 

載せ過ぎだと言う者は、今日はいなかった。俵は、八つずつだった。

 

車列が郷を出る時、倉の前に郷の人が集まっていた。見送りというより、見物だった。二年のあいだ売り先のなかった粟が、車に載って出ていく。子供が二人、先頭の車について走って、道の曲がりで戻ってきた。

 

人垣の端に、炭売りの爺さんがいた。背負子を背負ったまま、通り過ぎる車列を見ていて、俺と目が合うと、先頭の俵を杖で軽く叩いた。

 

「鼠の餌がよう。車に乗って、銭になりに行きやがる」

 

「爺さんが教えてくれた道です」

 

「うちらの道さ。あんたらが直しただけでな。……ま、炭は今日も俺の背中だ。車ってのは、粟のくせに生意気だぜ」

 

爺さんは笑って、背負子を担ぎ直して、車列の後ろをゆっくりついていった。追い越していく車の御者と何か言い合って、また笑っていた。

 

倉の戸口では、郷の主がまだ立っていた。空き始めた倉の中を一度振り返って、それから戸を半分だけ閉めた。全部は、閉めなかった。

 

 

頂の小屋に着いたのは、昼を少し回った頃だった。

 

積み替えは、静かに進んだ。北側の車から荷を降ろし、阿慶が升を通し、手代が控えに写す。南側の車へ積み、縄は一本残らず阿慶が掛けた。掛け終わるたび、阿慶は縄尻を二度引いて確かめる。二度引くのが、あの娘の癖になっていた。

 

「三台とも、あたしの掛け。積みは八つずつ。……検分、異常なし」

 

今度は誰も笑わなかった。御者たちが頷いて、それぞれの轅についた。

 

日はまだあった。曲がりを下りるには足りて、麓へ着くには足りない。ここから先、車列は夜へ入っていく。

 

「では、頼んだ」

 

董白は御者の頭へ言い、それから車列の全員へ、一度だけ声を張った。

 

「急ぐな。八つと決めた数と、決めた道順のほかに、そなたらへ頼むことは何もない。……荷は、明日も運べる。人は、取り替えが利かぬ」

 

先頭の車が、曲がりの下の丸太の受けの脇を、ゆっくりと抜けていった。二台目、三台目。車輪の音が木立の向こうへ遠くなって、聞こえなくなった。

 

小屋の脇の壊れた車輪の前で、阿慶が手を振った。

 

「あたしは残るよ。車が町に着いたって分かるまで、小屋の火は消さない」

 

 

俺と董白は、徒歩で峠を下りた。

 

車列は道なりに遠回りをする。人の足なら、昔の細道をまっすぐ下りられる。日が落ちる前に麓へ出て、そこから町までは、いつもの道だった。

 

歩きながら、董白はほとんど喋らなかった。喋らないまま、何度も振り返って峠を見た。また振り返ったところで、俺は聞いた。

 

「心配か」

 

「……荷が着くまで、妾にできることが一つもないのじゃ」

 

董白は前を向いて、歩く速さを少しだけ上げた。

 

「決めて、頼んで、送り出した。ここから先は、御者の腕と、阿慶の縄と、大工の受けの仕事じゃ。妾の仕事は、もう終わっておる。……終わっておるのにの、柳誠。妾は今夜、眠れる気がせぬ」

 

珍しく、言い換えのない言葉だった。俺は少し考えて、それから思いついたことを言った。

 

「なら、仕事を一つ作ればいい。帳場の灯を、今夜は全部点けておこう」

 

「……灯?」

 

「夜道を下りてくる御者から、町がどっちにあるか見えた方がいい。目印だ。蔵の前にも掛け灯を出して、白湯を沸かして待つ。眠れないなら、番をすればいい」

 

董白は歩きながら、しばらく黙っていた。

 

「そなた、それは妾のための仕事であろう」

 

「御者のためでもある。半分ずつだ」

 

「……うむ。ならば、よい」

 

顎が、少し上がった。

 

 

夜、帳場と蔵の前に、灯を並べた。

 

宿の女将が、頼みもしないのに焚き付けを持ってきた。米屋が店の掛け灯を一つ貸した。灯の番は、子供らの取り合いになった。夜更かしがそのまま仕事になる晩は、そうそうない。焚き火の脇に二人、掛け灯の下に二人。親たちは口では叱って、誰も連れて帰らなかった。夜が更けても、蔵の前には人がぽつぽつと残っていて、誰も口には出さないまま、皆が同じ方角を見ていた。

 

町の椀は、今日も薄かった。女将の宿は泊まり客の分を量って炊き、うちの粥は一杯ずつになって久しい。焚き付けを置いた帰り際、女将は蔵の中の棚をちらりと見て、何も言わずに帰った。数えるまでもない棚だということは、女将が一番よく知っている。それでも今夜の往来は、ただ腹が減って静かなのとは違った。皆、待っていた。

 

夜が更けた頃、杜恪(とかく)が灯の輪の外に立った。

 

「豪勢だな、姫。祭りみてえだ」

 

「そなたも並んで待つか」

 

「俺は仕事だよ」

 

杜恪は峠の方角へ顎をしゃくった。

 

「言っとくが、今夜のことは向こうさんも知ってるぜ。北に倉を見つけたことも、道を直したことも、とっくにな。……で、何もして来ねえ」

 

「できぬのじゃろ」

 

「できねえのさ」

 

杜恪は火に手をかざした。

 

「回状ってのは帳面を伝って回る。卸から仲買、仲買から問屋へな。北の郷はどこの帳面にも載ってねえから、回状の行き先がねえ。関所も同じだ。あれは道の上にしか建たねえし、あの山道にゃ道役人がいねえ」

 

「そこまでは、妾も読んだ」

 

「だろうよ。……じゃあ、その先を聞くかい」

 

杜恪は少しだけ身を寄せた。

 

「俺が向こうの番頭なら、人を出す。銭で買えねえなら、峠に十人置いて、夜に轅を折る。誰がやったかなんて、山の中じゃ分かりゃしねえ。掏摸あがりの言うことだと思って聞き流していいぜ。俺なら、それをやる」

 

「やらぬのか、あの家は」

 

「やれねえんだ」

 

杜恪は、少し面白くなさそうな顔をした。

 

「あの家が持ってんのは銭じゃねえ。名前だよ。南陽の鄧氏と書いてあるから掛けが通って、荷が動いて、問屋が頭を下げる。……その名前で追い剥ぎをやったら、どうなる」

 

「一度で終わるの」

 

「一度で終わる。しかもこの町だけじゃねえ。川筋も街道も全部だ。あの家の商いは、鄧氏の名を疑わねえ連中の上に建ってる。名前が傷めば、荷より先に掛けが止まる」

 

杜恪は火から手を離した。

 

「だから向こうは、噂を撒いて、掛け売りを止めて、倉を閉めた。どれも名前を汚さずにやれる手だ。……逆に言やあ、名前を汚さずにやれる手は、もう全部やっちまったってことだ」

 

「残るは、雪か」

 

「そういうこった。あの几帳面な男に残ってんのは、天気を待つことだけだよ」

 

杜恪は手控えを袖へ戻して、灯の輪の外へ戻っていった。戻る前に、一度だけ言った。

 

「着くといいな」

 

からかいの声ではなかった。

 

夜半前、東の峠の高いところに、火が一つ見えた。

 

峠の頭が町から見えることは知っていたが、あんな高いところに火が点くのを見たのは初めてだった。阿慶の小屋の火だ。着いたと分かるまで消さないと、あの娘は言っていた。

 

俺たちは灯の下で、白湯を持って待った。道の両端で、火が焚かれている。その間の暗がりを、車列が下りてきている。

 

初便は今、夜の峠にいる。

 

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