董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第37話 峠の夜

 

――阿慶(あけい)

 

日が落ちてから、あたしは小屋の前で縄を巻いていた。

 

便のある日は、ここに泊まる。荷が町へ着いたと分かるまで、火を絶やさないと決めたから、絶やさない。それだけのことだ。手を動かしていないと寒いので、明日使う分の縄を巻く。太いの、細いの、麻の、藁の。同じに見えるけど、同じじゃない。撚りの向きが違うし、雨に濡れた縄は乾いても腰が違う。

 

こういうのは、教わったんじゃない。毎日見てれば分かる。

 

昔、水場で桶の見分けを聞かれたことがあった。赤い布の桶は肉屋、縁の欠けたのは木こりの家。あの時、白は不思議そうな顔をした。全部分かるのか、と。分かるに決まってる。毎日そこにあるんだから。

 

あの日から、あたしの目は仕事になった。

 

浅い升を見つけた時もそうだった。あれは升が悪いんじゃなくて、底の面が新しすぎた。使い込んだ升の底は、粟の粉で薄く光る。あの升だけ、光り方が違った。

 

見つけたと言ったら、男が一人、蔵から追い出された。

 

あたしは正しいことをしたと思ってる。今でも思ってる。でも、あの日から、何かを見つける前に一度、指が止まるようになった。あたしが見間違えたら、誰かが追い出される。

 

だから、峠の小屋をやると言われた時、すぐには返事をしなかった。

 

「あたしの目じゃなくて、あたしの見間違いも、全部通ることになるよ」

 

そう言ったら、白は変な顔をして、それからこう言った。

 

「そのために升は封をして、控えは二つ書くのじゃ。そなた一人に背負わせる形なら、初めから頼まぬ」

 

だからやることにした。

 

払いは、前とは変わった。目を借りる日ごとの日当と、縄を休む分。あれが去年までのやり方だった。今度は固定で、月ごとにいくらと決まっている。縄を巻けない日の分も、そこへ入っている。

 

「そなたの目を、日で買うのはやめじゃ」

 

白はそう言った。

 

「小屋は、便のあるたび開ける。便がなければ町におれ。……婆どのの水汲みは、そなたが山にいる日だけ、うちの人足を回す。それは給金から引かぬ」

 

先に、婆ちゃんの話をされた。あたしが言い出す前にだ。

 

うちは、あたしと婆ちゃんの二人きりだ。父さんと母さんは、あたしが小さい時に、流行り病で続けて死んだ。顔はもう、あんまり思い出せない。悲しいというより、はじめから二人きりだったような気がしている。

 

婆ちゃんは水場番で、あたしは縄を巻く。それで足りてきた。

 

だから、峠の話をする時、あたしは道の遠さだけ言って、高さは言わなかった。言ったら止められる。荷の検分をやるとだけ言ったら、婆ちゃんは杖を持ち直して、昔と同じことを言った。

 

「縄を忘れるんじゃないよ」

 

三年前と、一字も違わなかった。

 

あの時は、遊んでないで仕事をしろ、という意味だった。今は、たぶん違う意味だ。

 

 

火が半分になった頃、道の下から足音が上がってきた。

 

走ってる。夜の下り道を走って登ってくる音は、良い報せじゃない。あたしは縄を置いて、火の脇の予備の軸を見た。二本、麓へ下ろさずに置いてある。大工がそうしろと言ったやつだ。

 

上がってきたのは、道の番の若い方だった。息が続かなくて、片手で膝を突いて、もう片手で下を指した。

 

「軸だ。……三台目。下の、番の火の三つ目のとこ」

 

「折れた?」

 

「まだ折れてない。ひびだ。轅の脇が裂けてきてる」

 

あたしは軸を一本、肩へ担いだ。思ったより重かった。

 

「手代さん。火を頼む。消さないで」

 

手代は控えの箱から顔を上げた。字が早いだけで、あたしより五つは年上の人だ。

 

「行くのか。軸だけ渡せばいいだろう」

 

「番の人は、もう一往復できないよ」

 

若い方は、まだ膝を突いたままだった。走って登ってきた足で、また走って下りろとは言えない。

 

「なら私が」

 

「手代さんは控えを持ってる」

 

それで話は終わりだった。控えは二つ書く決まりで、片方はこの小屋に残る。持って出たら決まりが崩れる。

 

でも、本当の理由は別だった。

 

三台とも、縄はあたしが掛けた。ひびが入ったのが荷の寄りのせいなら、それはあたしの縄だ。誰かが「阿慶の縄だった」と言う前に、あたしが自分の目で見たかった。

 

情けない理由だと思う。思いながら、担いで出た。

 

 

下り道は、思っていたより暗かった。

 

灯を持っていても、足元しか見えない。道の番が立てた火は、麓へ向かってぽつぽつと点いていて、それが道の形を教えてくれる。左は岩、右は谷。習った通りに、岩側を歩く。

 

軸が肩に食い込む。持ち替えるたびに、担ぎ方が下手だと分かる。荷運びの人たちは、こういうのを軽そうに担ぐ。あれは力じゃなくて、乗せる場所なんだと思う。今度、聞いてみよう。

 

そう考えていたら、少し楽になった。何かを覚えようとしている時、あたしはたいてい怖くなくなる。

 

三台目の車は、道の脇に寄せてあった。

 

灯が三つ。人が五人。荷は半分降ろされて、道の岩側へ積み上げてある。御者の頭が、車の下から這い出てきた。

 

「阿慶」

 

名前を呼ばれた。それから、あたしが何か言う前に、頭は灯を軸の付け根へ寄せた。

 

「縄じゃねえ。見な」

 

裂け目の脇に、拳ほどの石が挟まっていた。

 

「登りの時に噛んだやつだ。積み替えの後だから、お前は見てねえ。俺も見てねえ。……石が挟まったまま下って、当たり続けたんだ。縄は関係ねえよ」

 

あたしは、返事をする前に、自分の息が一つ抜けたのが分かった。

 

頭は、あたしの顔を見ていなかった。石を指でつつきながら、言葉だけ寄こしていた。

 

「聞く前に言っといた方が、手が早く動くだろ」

 

 

軸の交換は、思ったより手がかかった。

 

車を持ち上げて、支えを噛ませて、折れかけた軸を抜く。抜けない。裂けた木が食い込んでいる。男が二人がかりで叩いて、やっと抜けた。

 

あたしは荷を数え直した。八俵のうち、四俵が降ろされている。降ろした順と、積み直す順を控えへ書いた。

 

書き終えて、まだ手が空いた。男たちが軸を入れている間、あたしは灯を持って、前の二台を見に行った。

 

一台目の車軸に、灯を寄せる。何もない。

 

二台目。

 

石が挟まっていた。

 

三台目のものより小さくて、まだ浅い。木の面が、そこだけ毛羽立っている。あたしは指を入れて、こじって、抜いた。抜いた跡は白く削れていた。

 

戻って、頭に見せた。

 

頭は石を受け取って、灯にかざして、それからしばらく黙った。

 

「……二台目もか」

 

「積んでから、軸は誰も見てない」

 

言ってから、自分でも分かった。積み替えの時、あたしたちが見るのは升と縄と数だ。車の下は見ない。北から上がってきた車の下も、南で待っていた車の下も、誰の受け持ちにもなっていなかった。

 

「小屋で、積んだ後に軸を見る」

 

あたしは言った。頭に許しを貰う言い方ではなく、そうすると決めた言い方になった。

 

「灯を下に入れて、両輪の付け根。石と、ひび。二つとも見る。……それでいい?」

 

「いい」

 

頭は即答した。

 

「それ、今日から決まりだ。俺から皆に言っとく」

 

書いておこう、と思って控えを開いたところで、手の甲に何かが落ちた。

 

冷たかった。溶けた。

 

もう一つ落ちた。今度は袖に残って、白いままだった。

 

「降ってきた」

 

誰かが言った。皆が一度手を止めて、上を見た。灯の届く高さのところを、細かいものが斜めに流れていた。

 

しばらく、誰も喋らなかった。頭が谷の方を見て、それから道の下を見た。

 

「泊まるか、行くか、だな」

 

荷押しの一人が言った。米屋の店の人だ。

 

「ここで夜明かしすりゃ、車は安全だ。荷も安全だ」

 

「明日の朝、道が白かったら」

 

頭が返した。

 

「積んだ車で新しい雪は下れねえ。轍が食わねえんだ。……ここで待って白くなったら、俺たちは荷を抱えたまま、春まで山にいることになる」

 

「そこまで積もるかよ」

 

「積もらねえかもしれん。賭けだ」

 

頭は手のひらの雪を見て、握って、開いた。溶けて水になっていた。

 

「今はまだ、地面が温けえ。積もる前に下りきる方に賭ける。……嫌なやつは、ここに残って明日下りろ。責めねえよ」

 

残ると言った人は、いなかった。

 

「積め」

 

頭の声は、さっきと同じ調子に戻っていた。

 

「軸は入った。縄を掛けたら出す。……阿慶、掛けてくれ」

 

「うん」

 

あたしは縄を掛けた。四俵を戻して、上から二回、横から一回。掛け終わってから、縄尻を二度引いた。

 

引きながら、指先が震えているのに気づいた。寒いからだ。それだけだ。

 

 

車が動き出したのは、それからすぐだった。

 

三台とも、麓へ向かって下りていく。灯が三つ、道の形に沿って離れていく。もっと下の方に、火の点がいくつも並んでいた。道の番の火だ。その、ずっと先。谷の底みたいなところに、灯がまとまって光っていた。

 

町だ。

 

あんなに灯を点けているのを、あたしは見たことがなかった。誰かが待っている灯だと、見れば分かる。

 

「阿慶。乗ってくか」

 

頭が振り返らずに言った。あたしは首を振った。

 

「小屋に戻る。火があるから」

 

「そうか」

 

それだけだった。行けとも、危ないとも言われなかった。行くと決めた人間に、余計なことを言わない人たちだ。

 

 

登りは、下りよりずっと長かった。

 

灯を持って、岩側を歩く。空の手が寒い。軸を担いでいた方の肩が、まだ痛い。

 

半分ほど登ったところで、あたしは足を止めた。

 

道の上に、自分の足跡があるはずだった。さっき、軸を担いで下りた足跡だ。

 

無かった。

 

灯を下げて、よく見た。道の土が、うっすらと白い。踏んだ跡は、もうどこにも残っていない。

 

降り始めてから、あたしが荷を数えて控えを書いて縄を掛けた、あれだけの間のことだ。

 

あたしは灯を持ち直して、登る速さを上げた。

 

小屋へ戻ると、手代さんが火に薪を足していた。

 

「早かったな」

 

「登りは道を覚えてるから」

 

嘘だ。速く歩いただけだ。手代さんは何も言わずに、椀に湯を注いでくれた。手が椀の熱さを分かるまで、少しかかった。

 

 

夜半を過ぎた頃、風が出た。

 

峠の風は、谷から吹き上げてくる。火が横に寝て、雪が炎の根元へ吹き込む。薪はまだあったが、夕方からの雪で表が湿り始めていて、くべても煙ばかり太くなった。

 

火が細るたび、あたしは手で囲って、息を吹き込んだ。

 

この火は、車が町に着いたと分かるまで消さない。あたしが勝手に決めて、白にも、御者の頭にも言った火だ。誰かに頼まれた決まりなら、破っても謝れば済む。自分で言った決まりは、そうはいかない。

 

乾いた薪が、あと少しになった。

 

あたしは小屋の中から、自分の縄の束を持ってきた。

 

明日の分に巻いておいた、麻の縄だ。よく乾いてる。よく燃える。縄売りの娘だから、そういうことは知ってる。

 

「おい。それは、お前の売り物だろう」

 

「縄はまた綯える」

 

一本ほどいて、薪の下へ差し込んだ。火が、音を立てて起き上がった。谷の方から見れば、峠の頭の火は、ずっと同じ大きさに見えているはずだ。細ったことも、縄を食ったことも、下からは分からない。それでいい。

 

手代さんは何か言いかけて、やめて、次の一本をほどき始めた。

 

 

風の合間に、谷を見下ろした。

 

三つの灯は、番の火の列のずっと下まで進んでいた。

 

そこから、動かなくなった。

 

長かった。あたしは上から、動かない灯を見ながら数えた。軸なら、予備はまだ一本ある。届けるなら、また担いで下りる。縄なら――縄なら、あたしの掛けだ。三台とも、あたしが締めて、二度引いた。

 

灯が、動いた。

 

息を吐いたら、白かった。何があったのかは、上からは分からない。分からないまま、灯は小さくなっていって、麓の番の火と混ざって、見分けがつかなくなった。

 

その先に、町の灯がまとまって光っている。今夜のあの町は、遠くからでも分かるくらい明るい。あの灯の中に、白がいて、婆ちゃんがいる。

 

車列は、まだ着いていない。

 

あたしは次の縄をほどいて、火にくべた。

 

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