董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
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日が落ちてから、あたしは小屋の前で縄を巻いていた。
便のある日は、ここに泊まる。荷が町へ着いたと分かるまで、火を絶やさないと決めたから、絶やさない。それだけのことだ。手を動かしていないと寒いので、明日使う分の縄を巻く。太いの、細いの、麻の、藁の。同じに見えるけど、同じじゃない。撚りの向きが違うし、雨に濡れた縄は乾いても腰が違う。
こういうのは、教わったんじゃない。毎日見てれば分かる。
昔、水場で桶の見分けを聞かれたことがあった。赤い布の桶は肉屋、縁の欠けたのは木こりの家。あの時、白は不思議そうな顔をした。全部分かるのか、と。分かるに決まってる。毎日そこにあるんだから。
あの日から、あたしの目は仕事になった。
浅い升を見つけた時もそうだった。あれは升が悪いんじゃなくて、底の面が新しすぎた。使い込んだ升の底は、粟の粉で薄く光る。あの升だけ、光り方が違った。
見つけたと言ったら、男が一人、蔵から追い出された。
あたしは正しいことをしたと思ってる。今でも思ってる。でも、あの日から、何かを見つける前に一度、指が止まるようになった。あたしが見間違えたら、誰かが追い出される。
だから、峠の小屋をやると言われた時、すぐには返事をしなかった。
「あたしの目じゃなくて、あたしの見間違いも、全部通ることになるよ」
そう言ったら、白は変な顔をして、それからこう言った。
「そのために升は封をして、控えは二つ書くのじゃ。そなた一人に背負わせる形なら、初めから頼まぬ」
だからやることにした。
払いは、前とは変わった。目を借りる日ごとの日当と、縄を休む分。あれが去年までのやり方だった。今度は固定で、月ごとにいくらと決まっている。縄を巻けない日の分も、そこへ入っている。
「そなたの目を、日で買うのはやめじゃ」
白はそう言った。
「小屋は、便のあるたび開ける。便がなければ町におれ。……婆どのの水汲みは、そなたが山にいる日だけ、うちの人足を回す。それは給金から引かぬ」
先に、婆ちゃんの話をされた。あたしが言い出す前にだ。
うちは、あたしと婆ちゃんの二人きりだ。父さんと母さんは、あたしが小さい時に、流行り病で続けて死んだ。顔はもう、あんまり思い出せない。悲しいというより、はじめから二人きりだったような気がしている。
婆ちゃんは水場番で、あたしは縄を巻く。それで足りてきた。
だから、峠の話をする時、あたしは道の遠さだけ言って、高さは言わなかった。言ったら止められる。荷の検分をやるとだけ言ったら、婆ちゃんは杖を持ち直して、昔と同じことを言った。
「縄を忘れるんじゃないよ」
三年前と、一字も違わなかった。
あの時は、遊んでないで仕事をしろ、という意味だった。今は、たぶん違う意味だ。
~
火が半分になった頃、道の下から足音が上がってきた。
走ってる。夜の下り道を走って登ってくる音は、良い報せじゃない。あたしは縄を置いて、火の脇の予備の軸を見た。二本、麓へ下ろさずに置いてある。大工がそうしろと言ったやつだ。
上がってきたのは、道の番の若い方だった。息が続かなくて、片手で膝を突いて、もう片手で下を指した。
「軸だ。……三台目。下の、番の火の三つ目のとこ」
「折れた?」
「まだ折れてない。ひびだ。轅の脇が裂けてきてる」
あたしは軸を一本、肩へ担いだ。思ったより重かった。
「手代さん。火を頼む。消さないで」
手代は控えの箱から顔を上げた。字が早いだけで、あたしより五つは年上の人だ。
「行くのか。軸だけ渡せばいいだろう」
「番の人は、もう一往復できないよ」
若い方は、まだ膝を突いたままだった。走って登ってきた足で、また走って下りろとは言えない。
「なら私が」
「手代さんは控えを持ってる」
それで話は終わりだった。控えは二つ書く決まりで、片方はこの小屋に残る。持って出たら決まりが崩れる。
でも、本当の理由は別だった。
三台とも、縄はあたしが掛けた。ひびが入ったのが荷の寄りのせいなら、それはあたしの縄だ。誰かが「阿慶の縄だった」と言う前に、あたしが自分の目で見たかった。
情けない理由だと思う。思いながら、担いで出た。
~
下り道は、思っていたより暗かった。
灯を持っていても、足元しか見えない。道の番が立てた火は、麓へ向かってぽつぽつと点いていて、それが道の形を教えてくれる。左は岩、右は谷。習った通りに、岩側を歩く。
軸が肩に食い込む。持ち替えるたびに、担ぎ方が下手だと分かる。荷運びの人たちは、こういうのを軽そうに担ぐ。あれは力じゃなくて、乗せる場所なんだと思う。今度、聞いてみよう。
そう考えていたら、少し楽になった。何かを覚えようとしている時、あたしはたいてい怖くなくなる。
三台目の車は、道の脇に寄せてあった。
灯が三つ。人が五人。荷は半分降ろされて、道の岩側へ積み上げてある。御者の頭が、車の下から這い出てきた。
「阿慶」
名前を呼ばれた。それから、あたしが何か言う前に、頭は灯を軸の付け根へ寄せた。
「縄じゃねえ。見な」
裂け目の脇に、拳ほどの石が挟まっていた。
「登りの時に噛んだやつだ。積み替えの後だから、お前は見てねえ。俺も見てねえ。……石が挟まったまま下って、当たり続けたんだ。縄は関係ねえよ」
あたしは、返事をする前に、自分の息が一つ抜けたのが分かった。
頭は、あたしの顔を見ていなかった。石を指でつつきながら、言葉だけ寄こしていた。
「聞く前に言っといた方が、手が早く動くだろ」
~
軸の交換は、思ったより手がかかった。
車を持ち上げて、支えを噛ませて、折れかけた軸を抜く。抜けない。裂けた木が食い込んでいる。男が二人がかりで叩いて、やっと抜けた。
あたしは荷を数え直した。八俵のうち、四俵が降ろされている。降ろした順と、積み直す順を控えへ書いた。
書き終えて、まだ手が空いた。男たちが軸を入れている間、あたしは灯を持って、前の二台を見に行った。
一台目の車軸に、灯を寄せる。何もない。
二台目。
石が挟まっていた。
三台目のものより小さくて、まだ浅い。木の面が、そこだけ毛羽立っている。あたしは指を入れて、こじって、抜いた。抜いた跡は白く削れていた。
戻って、頭に見せた。
頭は石を受け取って、灯にかざして、それからしばらく黙った。
「……二台目もか」
「積んでから、軸は誰も見てない」
言ってから、自分でも分かった。積み替えの時、あたしたちが見るのは升と縄と数だ。車の下は見ない。北から上がってきた車の下も、南で待っていた車の下も、誰の受け持ちにもなっていなかった。
「小屋で、積んだ後に軸を見る」
あたしは言った。頭に許しを貰う言い方ではなく、そうすると決めた言い方になった。
「灯を下に入れて、両輪の付け根。石と、ひび。二つとも見る。……それでいい?」
「いい」
頭は即答した。
「それ、今日から決まりだ。俺から皆に言っとく」
書いておこう、と思って控えを開いたところで、手の甲に何かが落ちた。
冷たかった。溶けた。
もう一つ落ちた。今度は袖に残って、白いままだった。
「降ってきた」
誰かが言った。皆が一度手を止めて、上を見た。灯の届く高さのところを、細かいものが斜めに流れていた。
しばらく、誰も喋らなかった。頭が谷の方を見て、それから道の下を見た。
「泊まるか、行くか、だな」
荷押しの一人が言った。米屋の店の人だ。
「ここで夜明かしすりゃ、車は安全だ。荷も安全だ」
「明日の朝、道が白かったら」
頭が返した。
「積んだ車で新しい雪は下れねえ。轍が食わねえんだ。……ここで待って白くなったら、俺たちは荷を抱えたまま、春まで山にいることになる」
「そこまで積もるかよ」
「積もらねえかもしれん。賭けだ」
頭は手のひらの雪を見て、握って、開いた。溶けて水になっていた。
「今はまだ、地面が温けえ。積もる前に下りきる方に賭ける。……嫌なやつは、ここに残って明日下りろ。責めねえよ」
残ると言った人は、いなかった。
「積め」
頭の声は、さっきと同じ調子に戻っていた。
「軸は入った。縄を掛けたら出す。……阿慶、掛けてくれ」
「うん」
あたしは縄を掛けた。四俵を戻して、上から二回、横から一回。掛け終わってから、縄尻を二度引いた。
引きながら、指先が震えているのに気づいた。寒いからだ。それだけだ。
~
車が動き出したのは、それからすぐだった。
三台とも、麓へ向かって下りていく。灯が三つ、道の形に沿って離れていく。もっと下の方に、火の点がいくつも並んでいた。道の番の火だ。その、ずっと先。谷の底みたいなところに、灯がまとまって光っていた。
町だ。
あんなに灯を点けているのを、あたしは見たことがなかった。誰かが待っている灯だと、見れば分かる。
「阿慶。乗ってくか」
頭が振り返らずに言った。あたしは首を振った。
「小屋に戻る。火があるから」
「そうか」
それだけだった。行けとも、危ないとも言われなかった。行くと決めた人間に、余計なことを言わない人たちだ。
~
登りは、下りよりずっと長かった。
灯を持って、岩側を歩く。空の手が寒い。軸を担いでいた方の肩が、まだ痛い。
半分ほど登ったところで、あたしは足を止めた。
道の上に、自分の足跡があるはずだった。さっき、軸を担いで下りた足跡だ。
無かった。
灯を下げて、よく見た。道の土が、うっすらと白い。踏んだ跡は、もうどこにも残っていない。
降り始めてから、あたしが荷を数えて控えを書いて縄を掛けた、あれだけの間のことだ。
あたしは灯を持ち直して、登る速さを上げた。
小屋へ戻ると、手代さんが火に薪を足していた。
「早かったな」
「登りは道を覚えてるから」
嘘だ。速く歩いただけだ。手代さんは何も言わずに、椀に湯を注いでくれた。手が椀の熱さを分かるまで、少しかかった。
~
夜半を過ぎた頃、風が出た。
峠の風は、谷から吹き上げてくる。火が横に寝て、雪が炎の根元へ吹き込む。薪はまだあったが、夕方からの雪で表が湿り始めていて、くべても煙ばかり太くなった。
火が細るたび、あたしは手で囲って、息を吹き込んだ。
この火は、車が町に着いたと分かるまで消さない。あたしが勝手に決めて、白にも、御者の頭にも言った火だ。誰かに頼まれた決まりなら、破っても謝れば済む。自分で言った決まりは、そうはいかない。
乾いた薪が、あと少しになった。
あたしは小屋の中から、自分の縄の束を持ってきた。
明日の分に巻いておいた、麻の縄だ。よく乾いてる。よく燃える。縄売りの娘だから、そういうことは知ってる。
「おい。それは、お前の売り物だろう」
「縄はまた綯える」
一本ほどいて、薪の下へ差し込んだ。火が、音を立てて起き上がった。谷の方から見れば、峠の頭の火は、ずっと同じ大きさに見えているはずだ。細ったことも、縄を食ったことも、下からは分からない。それでいい。
手代さんは何か言いかけて、やめて、次の一本をほどき始めた。
~
風の合間に、谷を見下ろした。
三つの灯は、番の火の列のずっと下まで進んでいた。
そこから、動かなくなった。
長かった。あたしは上から、動かない灯を見ながら数えた。軸なら、予備はまだ一本ある。届けるなら、また担いで下りる。縄なら――縄なら、あたしの掛けだ。三台とも、あたしが締めて、二度引いた。
灯が、動いた。
息を吐いたら、白かった。何があったのかは、上からは分からない。分からないまま、灯は小さくなっていって、麓の番の火と混ざって、見分けがつかなくなった。
その先に、町の灯がまとまって光っている。今夜のあの町は、遠くからでも分かるくらい明るい。あの灯の中に、白がいて、婆ちゃんがいる。
車列は、まだ着いていない。
あたしは次の縄をほどいて、火にくべた。