董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第3話 名前の価値

 

太師府の外へ出ても、まだ長安の城壁の内側だった。

 

南の門まで行くには、大きな道を一度横切らなければならない。屋敷から離れたとはいえ、見回りの兵はどこにでもいた。

 

俺は書具箱を脇に抱え、人の少ない路地を選んだ。箱の底で、渭陽君の印が歩くたびに小さく鳴る。

 

董白は俺の後ろを歩いていた。一度も離れないが、それは俺を信じたからではない。この道のどこを曲がればいいのか、董白には分からないだけだ。

 

頭から被った粗布の下で、長い髪が時々のぞく。菜屑は払ったが、顔と服に付いた灰はそのままにしてあった。

 

「その布、もう少し下げてくれ」

 

「前が見えぬ」

 

「顔が見えるよりましだ。転びそうなら言え」

 

董白は返事をしなかった。粗い袖を握り、布の下から俺を睨む。それでも、頭巾は指一本分だけ前へ動いた。

 

大きな道へ出る手前で、俺は足を止めた。

 

幾人もの人が行き交っている。荷車、背中に包みを抱えた男、子供の手を引く女。みんな急いでいた。

 

正面の街道口には、見回りの兵が四人いる。通りかかった男を止め、腰の袋まで調べていた。

 

ここを通るしかない。

 

「下を見てろ。止められても、しゃべるなよ」

 

「また妾へ命じるのか」

 

董白は顔を上げかけ、見回りの兵を見て止めた。

 

「今だけは言うこと聞いてくれ。あそこを抜けたら、好きなだけ文句言っていいから」

 

「忘れるでないぞ」

 

忘れてくれた方が助かる。そう思ったが、口には出さなかった。

 

人の流れが厚くなったところで、俺たちも道へ出た。見回りの兵から顔を背けず、普通に歩く。急げば、それだけで見られる。

 

あと十歩。

 

そこで、道端に座っていた男が顔を上げた。

 

泥の付いた革の鎧。ほつれた髪。腰には鞘の剥げた剣がある。兵にしか見えないのに、見回りの目を避けるように体を丸めていた。

 

男の視線が、俺を通り過ぎる。

 

董白の足が止まった。

 

「……渭陽君?」

 

男は立ち上がり、人の流れをかき分けてきた。俺が前へ入るより早く、董白の前へ膝をつく。

 

粗布の端から、金の一房がこぼれていた。董白が顔を上げる。粗布の下から、紫の目がのぞいた。

 

「お探ししておりました。見間違えるはずがありません」

 

「……妾を、知っておるのか」

 

董白の声が、明らかに変わった。

 

一晩中、誰かが迎えに来ると言い張っていた。朝になっても誰も来ず、屋敷の外には自分を知る人がいないと、ようやく気づいた。

 

その名前が、今、もう一度呼ばれた。

 

粗布の下で、董白の肩から力が抜けた。屋敷を出てから、初めて見せた反応だった。

 

「そうか。遅いぞ」

 

怒っている声だった。けれど、男を睨んではいない。

 

「祖父様の兵はどこじゃ。妾を郿塢へ連れていけ」

 

「はっ。郿塢にはまだ兵が残っております。太師が蓄えた財も、すべて失われたわけではございません」

 

男は立ち上がると、董白の腕を取ろうとした。その前に、俺が手を払う。

 

「触るな」

 

「書吏か? 貴様がなぜ渭陽君とおる」

 

「ここまで連れてきた」

 

男は俺の服と書具箱を見た。礼を言うでもなく、怪我がないかを董白に聞くでもない。見回りの兵と、ここから抜けられる道を交互に見ている。

 

「ならば、ここまででよかろう。郿塢へ書吏は要らぬ」

 

「何を勝手に」

 

董白の声に、男はすぐに頭を下げた。

 

「ご容赦を。しかし、急がねばなりません。渭陽君がご無事と知れば、散った兵は必ず戻ります」

 

「そうであろうな」

 

「門の上にお姿を見せるだけでよいのです。太師の御血筋が残っていると、皆へ示せます」

 

男が見ているのは、董白の顔ではなかった。

 

灰で汚れた粗布の下。その奥に隠れた、董家の孫という立場を見ている。

 

「この子が生きてると分かったら、また戦うのか?」

 

男の目が俺へ向いた。

 

「無礼な。散った兵を呼び戻すだけだ。太師の他に主を持たぬ者なら、渭陽君の御名で必ず集まる」

 

それは、董白を助ける話ではない。董白という名前を、新しい旗にする話だ。

 

あの男が欲しいのは、門の上に立つ董卓の孫だ。その下にいるのが、どんな状態の少女かは見ていない。

 

街道口の兵が、こちらを見た。

 

ここで董白の名前をもう一度出されれば、終わる。

 

俺は男へ一歩近づき、わざと声を上げた。

 

「郿塢に、まだ太師の兵と財貨が残ってるのか?」

 

「黙れ!」

 

男が俺の胸元を掴む。それで十分だった。

 

背後で、兵の靴が土を踏む。剣の柄で男の腕が打たれ、手が離れた。

 

「郿塢の何を知っている」

 

見回りの兵が、男を三方から囲んだ。そのうち一人が剣を抜き、残りの二人が腕を抑える。

 

「この男、連れの娘を渭陽君だって言い張って、郿塢へ連れていこうとしたんです。向こうには、まだ兵も財貨もあるって」

 

「貴様、謀ったな!」

 

男が体をひねった。見回りの兵に頭を押さえられても、董白の方へ顔を向けようとする。

 

「渭陽君、ご命令を! この者こそ……!」

 

董白が顔を上げた。

 

粗布が少し後ろへずれ、灰の付いた頬が見える。口が開き、息を吸った。

 

俺はその手首を掴み、声を落とした。

 

「名乗ったら、お前もああなる」

 

董白が俺を見る。

 

男の剣が取り上げられた。手首に縄が回り、背中側で強く縛られる。

 

「その灰まみれの娘が、渭陽君だとでも言うのか」

 

兵の一人が鼻で笑った。男は「そうだ」と叫んだが、最後まで言い終える前に土へ押さえつけられた。

 

「太師の孫が、そんな格好で歩いておるものか。苦し紛れに娘まで巻き込むな」

 

「その娘も仲間か?」

 

兵の一人が董白を見た。

 

心臓が大きく鳴った。ここで頭巾を取られたら、何と言い逃れればいいのか分からない。

 

「違います。道を聞かれて、止まってただけです」

 

兵は董白の汚れた服と、粗布の奥に隠れた顔を見た。

 

「なら、さっさと行け」

 

「はい」

 

俺は董白の手を引いた。董白は踏ん張ろうとした。けれど、自分の名前を呼んだ男の手に縄が食い込んでいるのを見ると、抵抗をやめた。

 

「行くぞ」

 

声を落とすと、ようやく歩き出した。

 

男は、引かれていく間も渭陽君を呼び続けた。通りの人は立ち止まらず、声が聞こえるたびに男から離れた。

 

誰も、董白へ頭を下げなかった。

 

俺は振り返らなかった。郿塢の情報を欲しがる兵へ、あの男を渡した。この先、ただ話を聞かれるだけで済むとは思えなかった。

 

それでも、董白を連れていかせるわけにはいかなかった。

 

 

街道口から路地を二つ曲がったところで、董白が俺の手を振り払った。

 

「なぜ勝手をした」

 

声は小さい。それでも、怒っているのは十分に分かった。

 

「あの人についてく気だっただろ」

 

「当たり前じゃ。祖父様の兵ぞ」

 

董白のあごが上がった。

 

「あいつ、お前が無事かどうかも聞かなかっただろ。最初から、兵を集める話ばっかりだった」

 

「妾が命じれば、あの者は従う」

 

「でも、あそこで命じたら、お前が董白だって言うのと同じだろ」

 

董白の目が細くなる。

 

「妾は董白じゃ」

 

「分かってる。でも、あそこでそう言ったら、今頃はあの人と一緒に縛られてた」

 

董白は何も言わなかった。

 

「お前を守るなんて、一言も言ってない。欲しいのは、お前の名前だろ」

 

「祖父様の兵なら、妾を守るのが役目であろう」

 

「だったら、あんな道の真ん中でお前の名前を呼ぶなよ」

 

言い方が強かった。董白の顔がさらに固くなる。

 

「……分かったような口を利くな」

 

「全部分かるなんて言ってない。でも、あいつが欲しかったのは、お前じゃなくて名前の方だ」

 

董白は粗い袖を強く握った。

 

「同じことじゃ」

 

「違う」

 

俺には、どうしても同じには見えなかった。

 

けれど、半日前までその名前で生きてきた董白が、俺の話を聞いてすぐ納得できるはずもない。

 

「どけ」

 

董白が肩を押しのけ、先に行こうとした。

 

二歩で止まる。

 

「……どちらじゃ」

 

「こっち」

 

俺が指した方と、董白が進んだ方は逆だった。

 

董白はしばらくそのまま立っていた。やがて何も言わずに向きを変え、俺を追い越して歩いていく。

 

どこへ行くかは、やはり分かっていない。

 

歩きながら、腹の奥が細く痛んだ。朝から何も食べていない。董白も同じはずだ。

 

俺は腰の小さな袋を触った。中にある銭は、二人分の飯を数回買えばほとんどなくなる。長安を出た後のことまで考えるなら、まったく足りない。

 

売れる物など、ほとんど持っていなかった。

 

俺の書具箱は手放せない。中の木簡も筆も、仕事を探すなら必要になる。

 

残っているのは、董白の髪を留めている細い簪が二本。

 

「その簪、一本だけ売ってもいいか」

 

「今度は妾の簪まで奪うつもりか」

 

董白の手が、粗布の下で髪を押さえた。

 

「奪わないって。俺の銭だけじゃ、飯を買ったらすぐなくなる」

 

「飯など、この城にいくらでもある」

 

俺は腰の銭袋を軽く叩いた。ほとんど音はしない。

 

「いくらあっても、銭を払わなきゃもらえない」

 

「妾に飯を出すのは、当たり前のことじゃ」

 

そう言い切った直後、董白の目が揺れた。

 

董白は足を止め、道の両側に並ぶ店を見た。誰かが気づいて飯を持ってくる様子はない。

 

やがて両手を粗布の下へ入れた。

 

髪が崩れぬよう、ゆっくりと簪を一本ずつ抜く。一本の先には、小さな玉が付いていた。もう一本は、銀の板に細い模様を彫ったものだ。

 

董白は玉の付いた方を握った。

 

「これは形見じゃ」

 

それ以上は言わなかった。銀の簪だけを俺へ差し出す。

 

「売るなら、そちらにせよ」

 

「……分かった」

 

俺は簪を受け取った。軽い。大きな銀飾りを二つ持ち出せていればと思ったが、あんなものを抱えて門を通れるはずもなかった。

 

道沿いに、金物を買うと書いた木片を出す店があった。戸は半分閉まっており、店の男は品物を箱へしまっている。

 

「これ、買ってもらえますか」

 

店の男は俺の手から簪を取ると、端を歯で噛んだ。それから光へかざし、裏返す。

 

そこで、指が止まった。

 

簪の裏には、小さな印が彫られていた。俺には模様にしか見えない。それでも、店の男には意味が分かったらしい。

 

「……どこで手に入れた」

 

「拾いました」

 

「今日、こんな簪を拾った場所なんて、一つしかないだろう」

 

粗布の下で、董白が動いた。俺は簪を返してもらうために手を出した。

 

「じゃあ、いいです」

 

「待て。四十銭なら出す」

 

店の男は簪を返さず、指の上で転がした。

 

「銀ですよね?」

 

「銀なのは分かっておる。じゃが、このままでは売れん。潰して、印ごと溶かす手間賃を引けば四十じゃ」

 

董白が俺の横へ並んだ。

 

「それは、宮の工が作ったものじゃ。四十など……」

 

「やめろ」

 

店の男が戸へ手を掛けた。

 

「子供、それ以上言うな。何の印かは聞かん。四十で置いていくか、持って帰るかだ」

 

店の男は戸の向こうを見た。見回りの兵はいない。それでも、すぐにも閉めたがっている。

 

「昨日までなら、その印の分まで値が付いた。今日は、その印があるから四十じゃ」

 

董白の口が閉じた。

 

男は銭を四十枚、粗い卓の上へ積んだ。十枚ずつ指で分け、俺の前へ押す。

 

俺は董白を見た。

 

董白は銀の簪と、四十枚の銭を見比べていた。やがて、ごく小さくあごを引く。

 

「柳誠、持っていけ」

 

俺は四十枚を袋へ入れた。店の男が、すぐに簪を布で包む。見えなくなると、董白は俺より先に店を離れた。

 

粗布の下には、形見の簪が一本だけ残っている。

 

董白という名前は、もう董白を守らない。

 

それどころか、銀の簪の値段まで四十銭に下げていた。

 

 

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