董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~   作:ねじぇまる

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第3話 名前の価値

 

太師府を出ても、長安の城門までは遠かった。

 

俺は書具箱を抱え、人の少ない路地を選んで歩いた。箱の中には筆と木簡、それから董白が入れた印がある。少し傾けるたびに底で物が動くので、いつもより腕に力が入った。

 

董白はすぐ後ろを歩いていた。

 

芥車を降りてから、ろくに口を利いていない。菜屑は払ったが、顔の灰はそのままだ。頭からかぶせた粗布を時々引き上げようとするので、俺は角を曲がる前に声をかけた。

 

「もう少しだけ深くかぶっててくれ。この先で大きな道を横切る。顔を隠すなら、今が一番大事なんだ」

 

「歩く先が見えぬ。そなたは道を知っておるからよかろうが、妾にはどちらへ行くかもわからぬのじゃ」

 

言われて、足を緩めた。

 

「急に曲がらないようにする。転びそうなら、袖を掴んでくれていいから」

 

董白は返事をしなかった。ただ、布の端を少し下げた。

 

通りへ出る手前で、俺は立ち止まった。

 

荷車が行き交い、包みを背負った者がその間を抜けていく。子供の手を引く女が、道の向こうから来た男へ何か訊いていた。男は首を振り、そのまま走り去った。

 

街道口には兵が四人いた。通りかかった者を止め、荷の中を見ている。

 

あちらへ行かずに済む道はないかと考えたが、知っている路地は、どれも途中でこの通りへ出る。半年暮らしたからといって、長安の隅まで知っているわけではなかった。

 

「止められたら、俺が話す。お前は黙っててくれ。知らない顔に名前を言うのだけは、やめてほしい」

 

董白は兵を見た。それから、俺の方を向く。

 

「言われずとも、わかっておる」

 

少なくとも、ここでは大声を出すつもりはないらしかった。

 

荷車が前を通り過ぎるのを待ち、俺たちも道へ出た。

 

急がないように歩くのは、ひどく難しかった。兵を見ないようにすると、かえって目が向く。書具箱を持ち替えたくなったが、それさえ妙な動きに思えて、そのまま抱えていた。

 

道端に座っていた男が、顔を上げた。

 

革の鎧に泥が付いている。腰には剣があり、足元には小さな包みがあった。兵の格好なのに、街道口の四人が近づくと、顔を伏せていた男だった。

 

その目が俺を通り過ぎ、後ろで止まった。

 

「……渭陽君では?」

 

声は低かった。

 

董白の足が止まる。

 

男は立ち上がり、すぐにこちらへ寄ってきた。俺が間に入ろうとするより早く、董白の顔を覗き込む。

 

「やはり。太師府で幾度もお見かけしております。よくぞ、ご無事で」

 

董白が布の下から顔を上げた。

 

「妾を……知っておるのか?」

 

「見間違えはいたしませぬ。昨夜からお探ししておりました」

 

男が膝をついた。

 

董白はすぐには答えなかった。粗い上衣の袖を握っていた手がほどけ、顎が少し上がる。

 

「遅い。祖父様の兵は、どこへ行っておった? 妾を郿塢(びう)へ連れていけ。あそこなら、まだ味方がおろう」

 

叱る声だった。

 

だが、俺に向けていた声とは違った。待っていた相手が、ようやく来た。そう思っているのがわかって、俺は男の顔を見直した。

 

本当に助けに来たのなら、どれほどいいだろう。

 

「はっ。郿塢には兵も残っておりますし、太師の蓄えもございます。まずはそこへ。ご無事とわかれば、散った者たちも戻りましょう」

 

男は立ち上がり、董白の腕へ手を伸ばした。

 

俺はその手を押さえた。

 

「待ってくれ。どうやって連れていくんだ? 向こうに見回りがいる」

 

男は初めて俺をまともに見た。服から書具箱へ目を移し、眉を寄せる。

 

「太師府の書吏か。ここまでお連れしたのなら、もうよい。後は我らが引き受ける」

 

「もうよいとは何じゃ? 妾が連れていくとも、置いていくとも言うておらぬ」

 

董白が口を挟んだ。

 

俺は思わずそちらを見たが、董白は男を見ていた。助けてもらう気ではあっても、勝手に決められるのは気に入らないらしい。

 

男はすぐに頭を下げた。

 

「失礼いたしました。ただ、急がねばなりませぬ。今、太師の兵は主を失って散っております。渭陽君がお立ちになれば、まだ集められます。郿塢の門でお姿を示し、太師の御血筋は残っていると、お告げくだされば」

 

董白が、わずかにうなずいた。

 

男は街道口を見た。俺もつられて見た。四人のうち二人が、こちら側へ歩き始めている。

 

この場所で、いつまで話すつもりなのか。

 

「兵を集めて、その後はどうする? まだ戦うつもりなのか?」

 

俺が訊くと、男は声を落とした。

 

「それ以外に、我らが助かる道があるか? 太師に仕えた者は、今や道を歩くにも顔を隠さねばならん。郿塢の兵と財が使えれば、まだ立て直せる。書吏風情が口を挟むな」

 

男の手が、また董白へ伸びた。

 

その時になって、俺はようやく嫌だと思った理由がわかった。

 

あの男が、助かりたがっているのはわかる。俺も同じだ。だが、そのために董白を門の上へ立たせ、まだ戦えると兵を呼ぶつもりでいる。

 

この娘を隠して逃がす話ではなかった。

 

「行くぞ。いつまでここで揉めておる」

 

董白が俺に言った。

 

ついていく気だった。

 

俺は男の後ろを見た。見回りが近づいている。こちらへ来るのか、通り過ぎるのかはわからない。だが、次にあの名が聞こえれば、きっと立ち止まる。

 

言うなら、俺が先だった。

 

「郿塢には、まだ太師の兵と財が残ってるんですか?」

 

わざと、大きな声を出した。

 

男の顔が変わる。

 

「黙れ!」

 

胸元を掴まれた。書具箱が腹へ押しつけられ、足が半歩浮いた。

 

「何を騒いでいる!」

 

兵の声がした。

 

男が手を離そうとしたが、遅かった。見回りの一人がその腕を押さえ、もう一人が剣へ手をかけた。

 

「郿塢の兵というのは、何の話だ?」

 

俺は息を吸った。

 

「この男が、娘を郿塢へ連れていこうとしたんです。太師の兵も財も残ってるから、兵を集め直せるって」

 

言ってしまった。

 

男が俺を見た。さっきまで書吏風情と見下していた顔に、はっきりと憎しみが出た。

 

「貴様……」

 

「剣を取れ」

 

見回りの兵が、男の腰から剣を抜き取った。男が抵抗すると、腕を背中へ回し、そのまま地面へ押し倒す。

 

董白が前へ出かけた。

 

俺は手首を掴んだ。

 

「名乗るな。お前も捕まる」

 

小声で言うと、董白が俺を見た。

 

「渭陽君、ご命令を! この者を――」

 

男が叫んだ。

 

兵の一人が顔を上げ、董白を見た。灰の付いた頬と、油染みのある服へ目を走らせる。

 

「この娘が渭陽君だと言うのか?」

 

「太師府でお顔を見ております。この方こそ――」

 

「連れの娘です。この男がそう言い張って、連れていこうとしたんです」

 

俺は男の声にかぶせた。

 

兵の視線が戻ってきた。説明を足したくなったが、何を言えば信じてもらえるか、もうわからなかった。

 

董白は口を開かなかった。

 

「娘を担いで兵を集める気だったか。来い。郿塢の話を聞かせてもらう」

 

兵が男の腕を引き上げた。もう一人が縄を出す。

 

信じてもらえたのか。董白の顔を知らず、嘘の旗印にする話だと思ったのか。どちらでもよかった。今は、こちらを調べられなければ。

 

「お前たちも、いつまでいる。邪魔だ、行け!」

 

俺は頭を下げ、董白の手を引いた。

 

少女はすぐには動かなかった。縛られる男を見ている。俺がもう一度引くと、ようやく足を踏み出した。

 

背後から、その名を呼ぶ声が追ってきた。

 

さっきは董白をほっとさせた声だった。今は、早く聞こえなくなってほしかった。

 

 

二つ目の路地へ入ったところで、董白が手を振り払った。

 

「あの者は、祖父様の兵じゃ。妾を郿塢へ連れていくと申しておった。それを、そなたが敵へ売った。何のつもりじゃ?」

 

声を抑えていた。その分、一言ずつがよく聞こえた。

 

俺は立ち止まった。

 

「お前を連れていかせたくなかった。あの男は、隠して逃がすんじゃなくて、門の上へ立たせると言っただろ。お前の名前で兵を集めて、まだ戦うつもりだった」

 

「それの何が悪い? 祖父様の兵を集めるなら、妾が命じるのが当然であろう。そなたに決めさせることではない」

 

その通りなのかもしれなかった。

 

俺は身内でもなければ、家臣でもない。昨日、手首を掴んだだけの人間だ。

 

それでも、黙って渡すことはできなかった。

 

「お前を守るつもりなら、見回りのいる道で名前を呼ばないでほしかった。あの男についていって、また兵に追われた時、本当に守ってもらえるのか。俺にはそう思えなかった」

 

「……何も知らぬくせに、わかったような口を利くな」

 

董白の目が細くなった。

 

「あの者は妾の名を呼んだ。そなたのように、黙れ、隠れろと言うばかりではなかったぞ」

 

返す言葉が、すぐには出なかった。

 

俺は董白の袖を見た。厨で渡した服だ。本人の衣を置いてこさせ、灰を塗り、芥の中へ押し込んだ。助けるためだった、と言うことはできる。

 

だが、全部俺がやらせたことでもあった。

 

「俺だって、お前が誰だかは知ってる。ただ、あそこでそう言ったら、今頃は二人とも縛られてた。あの人は捕まりかけても、お前の名前を呼び続けただろ。お前まで調べられるところだった」

 

董白は答えなかった。

 

見回りに囲まれた男が、こちらへ向けて叫んでいた顔を思い出す。あのまま連れていかれて、話を聞かれるだけで済むのだろうか。

 

俺が呼んだ兵だ。

 

董白を渡したくなかった。そのためにしたことを、正しいことだったとまで言い切るのは、怖かった。

 

「……ここを離れよう。まだ近い」

 

俺が言うと、董白は肩を押しのけて先へ歩いた。

 

少し進み、曲がり角で止まる。

 

「南の門は、どちらじゃ?」

 

「右。その先で、また曲がる」

 

董白は振り向かず、俺の言った方へ歩いた。

 

俺も後を追った。

 

 

飯の匂いがした。

 

道の脇で、粥を売っている。店先に腰を下ろした男が、椀へ顔を近づけていた。それを見るまで忘れていたのに、急に腹が減った。

 

俺は腰の銭袋を押さえた。

 

少しはある。今、二人で食うことはできる。ただ、長安を出てからも食わなければならないし、今夜どこで眠れるかも決まっていなかった。

 

野宿は、こちらへ来た最初の晩にやった。眠れたものではなかったし、今度は一人ではない。

 

足を止めると、董白も止まった。

 

「今度は何じゃ?」

 

「銭が足りない。ここで飯を買ったら、あと何回も食えないんだ。その簪、一本だけ売らせてもらえないか?」

 

董白の手が、頭の布を押さえた。

 

「衣も飾りも置いてきたというのに、まだ要るのか? そなたは妾から、どれだけ取り上げれば気が済む?」

 

「売らずに済むなら、俺もそうしたい。でも、印は売れないし、この箱と筆がないと俺も仕事を探せない。ほかに銭へ替えられる物が、ないんだ」

 

董白は粥の店へ目を向けた。

 

「飯なら、そこにあるではないか」

 

「あるけど、払わないともらえない」

 

「妾が――」

 

その先を言わず、董白は口を閉じた。

 

店の男がこちらを見た。客が来るかと思ったのだろう。董白が何も言わずにいると、鍋へ向き直って粥を混ぜ始めた。

 

少女は、しばらくその背中を見ていた。

 

やがて粗布の下へ両手を入れ、髪がほどけないように押さえながら、簪を抜いた。

 

一本は小さな玉の付いたもの。もう一本は、細い模様の入った銀の簪だった。

 

董白は玉の方を握り直した。

 

「こちらは形見じゃ。売るなら、そっちにせよ」

 

銀の簪だけを差し出された。

 

「わかった。こっちだけにする」

 

誰の形見かは訊かなかった。

 

董白が残した一本で髪を留め直すのを待ち、俺は通りを見た。少し先に、金物を買うと書いた木片を下げた店があった。

 

戸は半分閉まり、店の男は品を箱へしまっていた。

 

「すみません。これを買ってもらえませんか?」

 

男は面倒そうにこちらを見たが、銀の簪を出すと手を止めた。

 

受け取って、光へかざす。表の模様を見ていた時には何も言わなかった。裏へ返したところで、顔が上がった。

 

「これを、どこで手に入れた?」

 

「拾いました」

 

咄嗟に答えた。

 

男は簪と俺の顔を見比べた。

 

「今日、この辺りでそれを拾ったと言われて、はいそうですかと買えると思うか? 裏を見てから持ってこい」

 

小さな印が彫られていた。俺には模様と区別がつかなかったが、男にはわかるらしい。

 

返してもらおうと、手を出した。

 

「……なら、やめます」

 

「待て。四十銭でよければ買う」

 

男は簪を卓へ置いた。俺の手へは戻さなかった。

 

「銀なのに、それだけですか?」

 

「銀だから四十出せる。このまま売ったら、買った相手にどこから来た品か聞かれるだろうが。潰して、印が残らんように溶かす。その手間も、面倒を引き受ける分も引いて四十だ」

 

董白が俺の横へ出た。

 

「宮の工が作ったものじゃぞ。その細工だけでも、四十などという値では――」

 

「子供、それ以上は言うな」

 

男が戸へ手をかけた。

 

俺も董白の袖を引いた。男は外を確かめ、声を落とした。

 

「何の印かは聞かん。昨日なら、その印のある品を欲しがる客もいただろう。今日は違う。四十で置いていくか、持って帰るか、早く決めてくれ」

 

董白は簪を見ていた。

 

俺にも、本当なら幾らになる品かはわからない。買い叩かれているのかもしれない。だが、別の店でまた由来を訊かれれば、今度は四十銭どころでは済まない気がした。

 

男が銭を出し、十枚ずつ四つに分けた。

 

董白の指が、卓の縁に触れた。簪へ手を伸ばすのかと思ったが、その手は止まった。

 

「柳誠。数えよ」

 

俺は四つの小山を、一枚ずつ確かめた。

 

四十枚あった。

 

銭を袋へ入れると、男はすぐに簪を布で包んだ。戸を閉める音を背中に聞きながら、俺たちは店を離れた。

 

董白は振り返らなかった。

 

俺は銭袋を結び、先へ出た少女を追った。

 

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