董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
太師府の外へ出ても、まだ長安の城壁の内側だった。
南の門まで行くには、大きな道を一度横切らなければならない。屋敷から離れたとはいえ、見回りの兵はどこにでもいた。
俺は書具箱を脇に抱え、人の少ない路地を選んだ。箱の底で、渭陽君の印が歩くたびに小さく鳴る。
董白は俺の後ろを歩いていた。一度も離れないが、それは俺を信じたからではない。この道のどこを曲がればいいのか、董白には分からないだけだ。
頭から被った粗布の下で、長い髪が時々のぞく。菜屑は払ったが、顔と服に付いた灰はそのままにしてあった。
「その布、もう少し下げてくれ」
「前が見えぬ」
「顔が見えるよりましだ。転びそうなら言え」
董白は返事をしなかった。粗い袖を握り、布の下から俺を睨む。それでも、頭巾は指一本分だけ前へ動いた。
大きな道へ出る手前で、俺は足を止めた。
幾人もの人が行き交っている。荷車、背中に包みを抱えた男、子供の手を引く女。みんな急いでいた。
正面の街道口には、見回りの兵が四人いる。通りかかった男を止め、腰の袋まで調べていた。
ここを通るしかない。
「下を見てろ。止められても、しゃべるなよ」
「また妾へ命じるのか」
董白は顔を上げかけ、見回りの兵を見て止めた。
「今だけは言うこと聞いてくれ。あそこを抜けたら、好きなだけ文句言っていいから」
「忘れるでないぞ」
忘れてくれた方が助かる。そう思ったが、口には出さなかった。
人の流れが厚くなったところで、俺たちも道へ出た。見回りの兵から顔を背けず、普通に歩く。急げば、それだけで見られる。
あと十歩。
そこで、道端に座っていた男が顔を上げた。
泥の付いた革の鎧。ほつれた髪。腰には鞘の剥げた剣がある。兵にしか見えないのに、見回りの目を避けるように体を丸めていた。
男の視線が、俺を通り過ぎる。
董白の足が止まった。
「……渭陽君?」
男は立ち上がり、人の流れをかき分けてきた。俺が前へ入るより早く、董白の前へ膝をつく。
粗布の端から、金の一房がこぼれていた。董白が顔を上げる。粗布の下から、紫の目がのぞいた。
「お探ししておりました。見間違えるはずがありません」
「……妾を、知っておるのか」
董白の声が、明らかに変わった。
一晩中、誰かが迎えに来ると言い張っていた。朝になっても誰も来ず、屋敷の外には自分を知る人がいないと、ようやく気づいた。
その名前が、今、もう一度呼ばれた。
粗布の下で、董白の肩から力が抜けた。屋敷を出てから、初めて見せた反応だった。
「そうか。遅いぞ」
怒っている声だった。けれど、男を睨んではいない。
「祖父様の兵はどこじゃ。妾を郿塢へ連れていけ」
「はっ。郿塢にはまだ兵が残っております。太師が蓄えた財も、すべて失われたわけではございません」
男は立ち上がると、董白の腕を取ろうとした。その前に、俺が手を払う。
「触るな」
「書吏か? 貴様がなぜ渭陽君とおる」
「ここまで連れてきた」
男は俺の服と書具箱を見た。礼を言うでもなく、怪我がないかを董白に聞くでもない。見回りの兵と、ここから抜けられる道を交互に見ている。
「ならば、ここまででよかろう。郿塢へ書吏は要らぬ」
「何を勝手に」
董白の声に、男はすぐに頭を下げた。
「ご容赦を。しかし、急がねばなりません。渭陽君がご無事と知れば、散った兵は必ず戻ります」
「そうであろうな」
「門の上にお姿を見せるだけでよいのです。太師の御血筋が残っていると、皆へ示せます」
男が見ているのは、董白の顔ではなかった。
灰で汚れた粗布の下。その奥に隠れた、董家の孫という立場を見ている。
「この子が生きてると分かったら、また戦うのか?」
男の目が俺へ向いた。
「無礼な。散った兵を呼び戻すだけだ。太師の他に主を持たぬ者なら、渭陽君の御名で必ず集まる」
それは、董白を助ける話ではない。董白という名前を、新しい旗にする話だ。
あの男が欲しいのは、門の上に立つ董卓の孫だ。その下にいるのが、どんな状態の少女かは見ていない。
街道口の兵が、こちらを見た。
ここで董白の名前をもう一度出されれば、終わる。
俺は男へ一歩近づき、わざと声を上げた。
「郿塢に、まだ太師の兵と財貨が残ってるのか?」
「黙れ!」
男が俺の胸元を掴む。それで十分だった。
背後で、兵の靴が土を踏む。剣の柄で男の腕が打たれ、手が離れた。
「郿塢の何を知っている」
見回りの兵が、男を三方から囲んだ。そのうち一人が剣を抜き、残りの二人が腕を抑える。
「この男、連れの娘を渭陽君だって言い張って、郿塢へ連れていこうとしたんです。向こうには、まだ兵も財貨もあるって」
「貴様、謀ったな!」
男が体をひねった。見回りの兵に頭を押さえられても、董白の方へ顔を向けようとする。
「渭陽君、ご命令を! この者こそ……!」
董白が顔を上げた。
粗布が少し後ろへずれ、灰の付いた頬が見える。口が開き、息を吸った。
俺はその手首を掴み、声を落とした。
「名乗ったら、お前もああなる」
董白が俺を見る。
男の剣が取り上げられた。手首に縄が回り、背中側で強く縛られる。
「その灰まみれの娘が、渭陽君だとでも言うのか」
兵の一人が鼻で笑った。男は「そうだ」と叫んだが、最後まで言い終える前に土へ押さえつけられた。
「太師の孫が、そんな格好で歩いておるものか。苦し紛れに娘まで巻き込むな」
「その娘も仲間か?」
兵の一人が董白を見た。
心臓が大きく鳴った。ここで頭巾を取られたら、何と言い逃れればいいのか分からない。
「違います。道を聞かれて、止まってただけです」
兵は董白の汚れた服と、粗布の奥に隠れた顔を見た。
「なら、さっさと行け」
「はい」
俺は董白の手を引いた。董白は踏ん張ろうとした。けれど、自分の名前を呼んだ男の手に縄が食い込んでいるのを見ると、抵抗をやめた。
「行くぞ」
声を落とすと、ようやく歩き出した。
男は、引かれていく間も渭陽君を呼び続けた。通りの人は立ち止まらず、声が聞こえるたびに男から離れた。
誰も、董白へ頭を下げなかった。
俺は振り返らなかった。郿塢の情報を欲しがる兵へ、あの男を渡した。この先、ただ話を聞かれるだけで済むとは思えなかった。
それでも、董白を連れていかせるわけにはいかなかった。
~
街道口から路地を二つ曲がったところで、董白が俺の手を振り払った。
「なぜ勝手をした」
声は小さい。それでも、怒っているのは十分に分かった。
「あの人についてく気だっただろ」
「当たり前じゃ。祖父様の兵ぞ」
董白のあごが上がった。
「あいつ、お前が無事かどうかも聞かなかっただろ。最初から、兵を集める話ばっかりだった」
「妾が命じれば、あの者は従う」
「でも、あそこで命じたら、お前が董白だって言うのと同じだろ」
董白の目が細くなる。
「妾は董白じゃ」
「分かってる。でも、あそこでそう言ったら、今頃はあの人と一緒に縛られてた」
董白は何も言わなかった。
「お前を守るなんて、一言も言ってない。欲しいのは、お前の名前だろ」
「祖父様の兵なら、妾を守るのが役目であろう」
「だったら、あんな道の真ん中でお前の名前を呼ぶなよ」
言い方が強かった。董白の顔がさらに固くなる。
「……分かったような口を利くな」
「全部分かるなんて言ってない。でも、あいつが欲しかったのは、お前じゃなくて名前の方だ」
董白は粗い袖を強く握った。
「同じことじゃ」
「違う」
俺には、どうしても同じには見えなかった。
けれど、半日前までその名前で生きてきた董白が、俺の話を聞いてすぐ納得できるはずもない。
「どけ」
董白が肩を押しのけ、先に行こうとした。
二歩で止まる。
「……どちらじゃ」
「こっち」
俺が指した方と、董白が進んだ方は逆だった。
董白はしばらくそのまま立っていた。やがて何も言わずに向きを変え、俺を追い越して歩いていく。
どこへ行くかは、やはり分かっていない。
歩きながら、腹の奥が細く痛んだ。朝から何も食べていない。董白も同じはずだ。
俺は腰の小さな袋を触った。中にある銭は、二人分の飯を数回買えばほとんどなくなる。長安を出た後のことまで考えるなら、まったく足りない。
売れる物など、ほとんど持っていなかった。
俺の書具箱は手放せない。中の木簡も筆も、仕事を探すなら必要になる。
残っているのは、董白の髪を留めている細い簪が二本。
「その簪、一本だけ売ってもいいか」
「今度は妾の簪まで奪うつもりか」
董白の手が、粗布の下で髪を押さえた。
「奪わないって。俺の銭だけじゃ、飯を買ったらすぐなくなる」
「飯など、この城にいくらでもある」
俺は腰の銭袋を軽く叩いた。ほとんど音はしない。
「いくらあっても、銭を払わなきゃもらえない」
「妾に飯を出すのは、当たり前のことじゃ」
そう言い切った直後、董白の目が揺れた。
董白は足を止め、道の両側に並ぶ店を見た。誰かが気づいて飯を持ってくる様子はない。
やがて両手を粗布の下へ入れた。
髪が崩れぬよう、ゆっくりと簪を一本ずつ抜く。一本の先には、小さな玉が付いていた。もう一本は、銀の板に細い模様を彫ったものだ。
董白は玉の付いた方を握った。
「これは形見じゃ」
それ以上は言わなかった。銀の簪だけを俺へ差し出す。
「売るなら、そちらにせよ」
「……分かった」
俺は簪を受け取った。軽い。大きな銀飾りを二つ持ち出せていればと思ったが、あんなものを抱えて門を通れるはずもなかった。
道沿いに、金物を買うと書いた木片を出す店があった。戸は半分閉まっており、店の男は品物を箱へしまっている。
「これ、買ってもらえますか」
店の男は俺の手から簪を取ると、端を歯で噛んだ。それから光へかざし、裏返す。
そこで、指が止まった。
簪の裏には、小さな印が彫られていた。俺には模様にしか見えない。それでも、店の男には意味が分かったらしい。
「……どこで手に入れた」
「拾いました」
「今日、こんな簪を拾った場所なんて、一つしかないだろう」
粗布の下で、董白が動いた。俺は簪を返してもらうために手を出した。
「じゃあ、いいです」
「待て。四十銭なら出す」
店の男は簪を返さず、指の上で転がした。
「銀ですよね?」
「銀なのは分かっておる。じゃが、このままでは売れん。潰して、印ごと溶かす手間賃を引けば四十じゃ」
董白が俺の横へ並んだ。
「それは、宮の工が作ったものじゃ。四十など……」
「やめろ」
店の男が戸へ手を掛けた。
「子供、それ以上言うな。何の印かは聞かん。四十で置いていくか、持って帰るかだ」
店の男は戸の向こうを見た。見回りの兵はいない。それでも、すぐにも閉めたがっている。
「昨日までなら、その印の分まで値が付いた。今日は、その印があるから四十じゃ」
董白の口が閉じた。
男は銭を四十枚、粗い卓の上へ積んだ。十枚ずつ指で分け、俺の前へ押す。
俺は董白を見た。
董白は銀の簪と、四十枚の銭を見比べていた。やがて、ごく小さくあごを引く。
「柳誠、持っていけ」
俺は四十枚を袋へ入れた。店の男が、すぐに簪を布で包む。見えなくなると、董白は俺より先に店を離れた。
粗布の下には、形見の簪が一本だけ残っている。
董白という名前は、もう董白を守らない。
それどころか、銀の簪の値段まで四十銭に下げていた。