董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
太師府を出ても、長安の城門までは遠かった。
俺は書具箱を抱え、人の少ない路地を選んで歩いた。箱の中には筆と木簡、それから董白が入れた印がある。少し傾けるたびに底で物が動くので、いつもより腕に力が入った。
董白はすぐ後ろを歩いていた。
芥車を降りてから、ろくに口を利いていない。菜屑は払ったが、顔の灰はそのままだ。頭からかぶせた粗布を時々引き上げようとするので、俺は角を曲がる前に声をかけた。
「もう少しだけ深くかぶっててくれ。この先で大きな道を横切る。顔を隠すなら、今が一番大事なんだ」
「歩く先が見えぬ。そなたは道を知っておるからよかろうが、妾にはどちらへ行くかもわからぬのじゃ」
言われて、足を緩めた。
「急に曲がらないようにする。転びそうなら、袖を掴んでくれていいから」
董白は返事をしなかった。ただ、布の端を少し下げた。
通りへ出る手前で、俺は立ち止まった。
荷車が行き交い、包みを背負った者がその間を抜けていく。子供の手を引く女が、道の向こうから来た男へ何か訊いていた。男は首を振り、そのまま走り去った。
街道口には兵が四人いた。通りかかった者を止め、荷の中を見ている。
あちらへ行かずに済む道はないかと考えたが、知っている路地は、どれも途中でこの通りへ出る。半年暮らしたからといって、長安の隅まで知っているわけではなかった。
「止められたら、俺が話す。お前は黙っててくれ。知らない顔に名前を言うのだけは、やめてほしい」
董白は兵を見た。それから、俺の方を向く。
「言われずとも、わかっておる」
少なくとも、ここでは大声を出すつもりはないらしかった。
荷車が前を通り過ぎるのを待ち、俺たちも道へ出た。
急がないように歩くのは、ひどく難しかった。兵を見ないようにすると、かえって目が向く。書具箱を持ち替えたくなったが、それさえ妙な動きに思えて、そのまま抱えていた。
道端に座っていた男が、顔を上げた。
革の鎧に泥が付いている。腰には剣があり、足元には小さな包みがあった。兵の格好なのに、街道口の四人が近づくと、顔を伏せていた男だった。
その目が俺を通り過ぎ、後ろで止まった。
「……渭陽君では?」
声は低かった。
董白の足が止まる。
男は立ち上がり、すぐにこちらへ寄ってきた。俺が間に入ろうとするより早く、董白の顔を覗き込む。
「やはり。太師府で幾度もお見かけしております。よくぞ、ご無事で」
董白が布の下から顔を上げた。
「妾を……知っておるのか?」
「見間違えはいたしませぬ。昨夜からお探ししておりました」
男が膝をついた。
董白はすぐには答えなかった。粗い上衣の袖を握っていた手がほどけ、顎が少し上がる。
「遅い。祖父様の兵は、どこへ行っておった? 妾を
叱る声だった。
だが、俺に向けていた声とは違った。待っていた相手が、ようやく来た。そう思っているのがわかって、俺は男の顔を見直した。
本当に助けに来たのなら、どれほどいいだろう。
「はっ。郿塢には兵も残っておりますし、太師の蓄えもございます。まずはそこへ。ご無事とわかれば、散った者たちも戻りましょう」
男は立ち上がり、董白の腕へ手を伸ばした。
俺はその手を押さえた。
「待ってくれ。どうやって連れていくんだ? 向こうに見回りがいる」
男は初めて俺をまともに見た。服から書具箱へ目を移し、眉を寄せる。
「太師府の書吏か。ここまでお連れしたのなら、もうよい。後は我らが引き受ける」
「もうよいとは何じゃ? 妾が連れていくとも、置いていくとも言うておらぬ」
董白が口を挟んだ。
俺は思わずそちらを見たが、董白は男を見ていた。助けてもらう気ではあっても、勝手に決められるのは気に入らないらしい。
男はすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました。ただ、急がねばなりませぬ。今、太師の兵は主を失って散っております。渭陽君がお立ちになれば、まだ集められます。郿塢の門でお姿を示し、太師の御血筋は残っていると、お告げくだされば」
董白が、わずかにうなずいた。
男は街道口を見た。俺もつられて見た。四人のうち二人が、こちら側へ歩き始めている。
この場所で、いつまで話すつもりなのか。
「兵を集めて、その後はどうする? まだ戦うつもりなのか?」
俺が訊くと、男は声を落とした。
「それ以外に、我らが助かる道があるか? 太師に仕えた者は、今や道を歩くにも顔を隠さねばならん。郿塢の兵と財が使えれば、まだ立て直せる。書吏風情が口を挟むな」
男の手が、また董白へ伸びた。
その時になって、俺はようやく嫌だと思った理由がわかった。
あの男が、助かりたがっているのはわかる。俺も同じだ。だが、そのために董白を門の上へ立たせ、まだ戦えると兵を呼ぶつもりでいる。
この娘を隠して逃がす話ではなかった。
「行くぞ。いつまでここで揉めておる」
董白が俺に言った。
ついていく気だった。
俺は男の後ろを見た。見回りが近づいている。こちらへ来るのか、通り過ぎるのかはわからない。だが、次にあの名が聞こえれば、きっと立ち止まる。
言うなら、俺が先だった。
「郿塢には、まだ太師の兵と財が残ってるんですか?」
わざと、大きな声を出した。
男の顔が変わる。
「黙れ!」
胸元を掴まれた。書具箱が腹へ押しつけられ、足が半歩浮いた。
「何を騒いでいる!」
兵の声がした。
男が手を離そうとしたが、遅かった。見回りの一人がその腕を押さえ、もう一人が剣へ手をかけた。
「郿塢の兵というのは、何の話だ?」
俺は息を吸った。
「この男が、娘を郿塢へ連れていこうとしたんです。太師の兵も財も残ってるから、兵を集め直せるって」
言ってしまった。
男が俺を見た。さっきまで書吏風情と見下していた顔に、はっきりと憎しみが出た。
「貴様……」
「剣を取れ」
見回りの兵が、男の腰から剣を抜き取った。男が抵抗すると、腕を背中へ回し、そのまま地面へ押し倒す。
董白が前へ出かけた。
俺は手首を掴んだ。
「名乗るな。お前も捕まる」
小声で言うと、董白が俺を見た。
「渭陽君、ご命令を! この者を――」
男が叫んだ。
兵の一人が顔を上げ、董白を見た。灰の付いた頬と、油染みのある服へ目を走らせる。
「この娘が渭陽君だと言うのか?」
「太師府でお顔を見ております。この方こそ――」
「連れの娘です。この男がそう言い張って、連れていこうとしたんです」
俺は男の声にかぶせた。
兵の視線が戻ってきた。説明を足したくなったが、何を言えば信じてもらえるか、もうわからなかった。
董白は口を開かなかった。
「娘を担いで兵を集める気だったか。来い。郿塢の話を聞かせてもらう」
兵が男の腕を引き上げた。もう一人が縄を出す。
信じてもらえたのか。董白の顔を知らず、嘘の旗印にする話だと思ったのか。どちらでもよかった。今は、こちらを調べられなければ。
「お前たちも、いつまでいる。邪魔だ、行け!」
俺は頭を下げ、董白の手を引いた。
少女はすぐには動かなかった。縛られる男を見ている。俺がもう一度引くと、ようやく足を踏み出した。
背後から、その名を呼ぶ声が追ってきた。
さっきは董白をほっとさせた声だった。今は、早く聞こえなくなってほしかった。
~
二つ目の路地へ入ったところで、董白が手を振り払った。
「あの者は、祖父様の兵じゃ。妾を郿塢へ連れていくと申しておった。それを、そなたが敵へ売った。何のつもりじゃ?」
声を抑えていた。その分、一言ずつがよく聞こえた。
俺は立ち止まった。
「お前を連れていかせたくなかった。あの男は、隠して逃がすんじゃなくて、門の上へ立たせると言っただろ。お前の名前で兵を集めて、まだ戦うつもりだった」
「それの何が悪い? 祖父様の兵を集めるなら、妾が命じるのが当然であろう。そなたに決めさせることではない」
その通りなのかもしれなかった。
俺は身内でもなければ、家臣でもない。昨日、手首を掴んだだけの人間だ。
それでも、黙って渡すことはできなかった。
「お前を守るつもりなら、見回りのいる道で名前を呼ばないでほしかった。あの男についていって、また兵に追われた時、本当に守ってもらえるのか。俺にはそう思えなかった」
「……何も知らぬくせに、わかったような口を利くな」
董白の目が細くなった。
「あの者は妾の名を呼んだ。そなたのように、黙れ、隠れろと言うばかりではなかったぞ」
返す言葉が、すぐには出なかった。
俺は董白の袖を見た。厨で渡した服だ。本人の衣を置いてこさせ、灰を塗り、芥の中へ押し込んだ。助けるためだった、と言うことはできる。
だが、全部俺がやらせたことでもあった。
「俺だって、お前が誰だかは知ってる。ただ、あそこでそう言ったら、今頃は二人とも縛られてた。あの人は捕まりかけても、お前の名前を呼び続けただろ。お前まで調べられるところだった」
董白は答えなかった。
見回りに囲まれた男が、こちらへ向けて叫んでいた顔を思い出す。あのまま連れていかれて、話を聞かれるだけで済むのだろうか。
俺が呼んだ兵だ。
董白を渡したくなかった。そのためにしたことを、正しいことだったとまで言い切るのは、怖かった。
「……ここを離れよう。まだ近い」
俺が言うと、董白は肩を押しのけて先へ歩いた。
少し進み、曲がり角で止まる。
「南の門は、どちらじゃ?」
「右。その先で、また曲がる」
董白は振り向かず、俺の言った方へ歩いた。
俺も後を追った。
~
飯の匂いがした。
道の脇で、粥を売っている。店先に腰を下ろした男が、椀へ顔を近づけていた。それを見るまで忘れていたのに、急に腹が減った。
俺は腰の銭袋を押さえた。
少しはある。今、二人で食うことはできる。ただ、長安を出てからも食わなければならないし、今夜どこで眠れるかも決まっていなかった。
野宿は、こちらへ来た最初の晩にやった。眠れたものではなかったし、今度は一人ではない。
足を止めると、董白も止まった。
「今度は何じゃ?」
「銭が足りない。ここで飯を買ったら、あと何回も食えないんだ。その簪、一本だけ売らせてもらえないか?」
董白の手が、頭の布を押さえた。
「衣も飾りも置いてきたというのに、まだ要るのか? そなたは妾から、どれだけ取り上げれば気が済む?」
「売らずに済むなら、俺もそうしたい。でも、印は売れないし、この箱と筆がないと俺も仕事を探せない。ほかに銭へ替えられる物が、ないんだ」
董白は粥の店へ目を向けた。
「飯なら、そこにあるではないか」
「あるけど、払わないともらえない」
「妾が――」
その先を言わず、董白は口を閉じた。
店の男がこちらを見た。客が来るかと思ったのだろう。董白が何も言わずにいると、鍋へ向き直って粥を混ぜ始めた。
少女は、しばらくその背中を見ていた。
やがて粗布の下へ両手を入れ、髪がほどけないように押さえながら、簪を抜いた。
一本は小さな玉の付いたもの。もう一本は、細い模様の入った銀の簪だった。
董白は玉の方を握り直した。
「こちらは形見じゃ。売るなら、そっちにせよ」
銀の簪だけを差し出された。
「わかった。こっちだけにする」
誰の形見かは訊かなかった。
董白が残した一本で髪を留め直すのを待ち、俺は通りを見た。少し先に、金物を買うと書いた木片を下げた店があった。
戸は半分閉まり、店の男は品を箱へしまっていた。
「すみません。これを買ってもらえませんか?」
男は面倒そうにこちらを見たが、銀の簪を出すと手を止めた。
受け取って、光へかざす。表の模様を見ていた時には何も言わなかった。裏へ返したところで、顔が上がった。
「これを、どこで手に入れた?」
「拾いました」
咄嗟に答えた。
男は簪と俺の顔を見比べた。
「今日、この辺りでそれを拾ったと言われて、はいそうですかと買えると思うか? 裏を見てから持ってこい」
小さな印が彫られていた。俺には模様と区別がつかなかったが、男にはわかるらしい。
返してもらおうと、手を出した。
「……なら、やめます」
「待て。四十銭でよければ買う」
男は簪を卓へ置いた。俺の手へは戻さなかった。
「銀なのに、それだけですか?」
「銀だから四十出せる。このまま売ったら、買った相手にどこから来た品か聞かれるだろうが。潰して、印が残らんように溶かす。その手間も、面倒を引き受ける分も引いて四十だ」
董白が俺の横へ出た。
「宮の工が作ったものじゃぞ。その細工だけでも、四十などという値では――」
「子供、それ以上は言うな」
男が戸へ手をかけた。
俺も董白の袖を引いた。男は外を確かめ、声を落とした。
「何の印かは聞かん。昨日なら、その印のある品を欲しがる客もいただろう。今日は違う。四十で置いていくか、持って帰るか、早く決めてくれ」
董白は簪を見ていた。
俺にも、本当なら幾らになる品かはわからない。買い叩かれているのかもしれない。だが、別の店でまた由来を訊かれれば、今度は四十銭どころでは済まない気がした。
男が銭を出し、十枚ずつ四つに分けた。
董白の指が、卓の縁に触れた。簪へ手を伸ばすのかと思ったが、その手は止まった。
「柳誠。数えよ」
俺は四つの小山を、一枚ずつ確かめた。
四十枚あった。
銭を袋へ入れると、男はすぐに簪を布で包んだ。戸を閉める音を背中に聞きながら、俺たちは店を離れた。
董白は振り返らなかった。
俺は銭袋を結び、先へ出た少女を追った。