董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
鄧氏の倉の帳が増えて、帳場の朝は前より半刻早くなった。その朝も俺は早くから帳場に座り、しばらくして、綴じを一冊部屋へ忘れて来たことに気づいた。
俺たちの寝起きの部屋は、帳場の裏にある。四年前からずっと、一部屋だ。拾った頃の白は小さくて、夜中に熱を出したり、夢にうなされたりした。同じ部屋で寝るのは看病の続きのようなもので、それがそのまま続いて、誰も疑問に思わなかった。俺も思っていなかった。その朝までは。
俺は戸を開けた。
白は、着替えの途中だった。こちらに背を向けて、衣に袖を通すところだった。
下ろした髪が、背の半分まで落ちていた。その髪の下にあるのは、俺の知らない背中だった。俺の知っている白は、拾った日の、骨と目ばかりの小娘だ。いま目の前に立っているのは、どこからどう見ても、年頃の娘だった。
一目見た。一目で、充分すぎた。俺は自分でも聞いたことのない速さで謝って、戸を閉めた。閉めた戸の前で、しばらく動けなかった。
戸の向こうは静かだった。悲鳴も、飛んでくる物もない。やがて、いつもの声がした。
「……用は」
「綴じだ。忘れた。机の上の、青い紐の」
戸が少しだけ開いて、隙間から綴じが出てきた。受け取ると、戸は閉まった。それだけだった。
それだけで済むはずがないと思いながら、俺は帳場で綴じを開いた。字が頭に入らなかった。入ってくるのは、別のことばかりだった。
俺の頭の中で、白はずっと小娘のままだった。背が伸びたのは知っていた。女将に、この子はここで止まる背だと言われたのも聞いていた。粥を三杯食うのも、俺の肩の高さで文句を言うのも、毎日見ていた。見ていて、分かっていなかった。頭の中の白だけが、拾った日の十三のままで止まっていて、俺はそれを四年間、一度も書き替えていなかった。
帳面なら、こんな付け方をしたら大目玉だ。
この四年、あの戸を叩いたことが一度もない。叩く必要のある相手だと思っていなかったからだ。相手は十七だ。この町なら、嫁に行っていておかしくない齢だ。必要はとっくにあった。無かったのは、俺の頭の方だ。元の世界の感覚なら、そもそも始めから有り得ない住まい方でもある。こっちでは狭い家の当たり前で、実際、当たり前のまま四年来た。その当たり前がいつ終わっていたのか、俺は今朝まで気づかなかった。終わったのは多分、ずっと前だ。今朝のは、それに気づいただけだ。
朝の粥の時、俺は改めて頭を下げようとした。白は匙を置かないまま、それを遮った。
「その話は終いじゃ。……粥が冷める」
終いにしてもらえるような話ではない気がしたが、白が終いと言った話を蒸し返す度胸は、俺には無かった。
昼の白は、いつもどおりだった。帳場に座り、客をさばき、預かりの数を突き合わせた。怒っている様子はなかった。ただ、算盤を一度だけ弾き間違えた。俺の知る限り、初めてのことだ。
疲れてるのか、と思った。俺に分かったのは、そこまでだった。
~
夕方、俺は帳場の隣の納戸を片付け始めた。
古い縄の束、空の俵、縁の欠けた升。奥から出てきた縄は、通りかかった
床が見えた頃、白が戸口に立った。
「何をしておる」
「片付けだ。今日からここで寝る」
「ならぬ」
即答だった。
「夜中に帳場へ用があったらどうする。そなたを呼びに、妾がいちいち外を回るのか」
「壁一枚だ。叩けば起きる」
「灯の油が倍要る。部屋が二つなら、灯も二つじゃ」
「油代は俺の給金から引けばいい」
「……納戸は黴臭い。冬は寒いぞ」
「俵と筵で冬は越せる。峠の小屋よりましだ」
白は俺の返事を全部聞き終えてから、納戸へ入ってきた。壁に手を当て、板の合わせ目を覗き、床を爪先で二度踏んだ。預かり倉を検分する時の目だった。
「……ここは、冬に水の凍る側じゃ」
「凍ったら考える」
「考える頃には凍えておるわ」
言うことは全部筋が通っていた。筋が通っているのに、どうしてか、押し込まれているのはこちらではない気がした。白はもう一度納戸を見回して、俺の敷いた筵を見て、それから言った。
「……勝手にせよ」
勝手にした。念のために言っておくと、白は最後まで、いいとは言わなかった。
~
納戸に移ってからも、白の反対は終わらなかった。雨の晩には雨漏りの心配を並べ、風の晩には隙間風を並べ、市の日には、帳場の隣で寝ていると盗人と間違われるという新しい理屈まで持ってきた。どれも筋は通っていた。俺はそのたびに一つずつ返事をして、寝床は動かさなかった。
数日して、宿で女将に聞かれた。
「あんたたち、喧嘩でもしたのかい」
「してない」
「そうかい」
女将はそれ以上聞かずに、椀へ粥を盛った。盛ってから、まあ、そういう齢だしね、と一人で納得していた。どっちの齢の話だ。聞き返す度胸は無かった。
幾日かすると、白は夜の仕事を帳場へ移した。部屋より明るいでな、というのが理屈だった。帳場は、納戸の壁一枚隣だ。夜、壁の向こうで木簡を繰る音がする。たいてい、遅くまで。
俺は俺で寝付きが悪くて、灯を点け直して帳面を開く晩が増えた。部屋に一つ、帳場に一つ、納戸に一つ。この家の灯は増えた。
油は、確かに倍より要るようになった。そこだけは、白の言うとおりになった。部屋を分けた意味は、あるような、無いような。
朝は、納戸の戸が外から三度叩かれる。
「朝じゃ。……起きておるか」
「起きてる」
返事をするたび、少し笑ってしまう。この家で最初に、戸を叩く決まりを守ったのは白の方だった。
――董白
妾は、あの時のことを、しばらく誰にも言わなかった。言うほどのことでもない。
戸が開いた。柳誠が立っておった。妾は着替えの途中で、背を向けておった。それだけじゃ。
腹は、思うたほど立たなかった。当たり前じゃ。この男には、もっとひどいものを見られておる。四年前、妾はこの男に口を塞がれ、芥車へ押し込まれて門を抜けた。壊れた物と一緒くたじゃ。紫の衣も、銀の髪飾りも、あの時に捨てた。あれを見ておる男が、今さら背中の一つや二つで何を思うものか。
思うものか、と思うたのに、声が出なかった。
戸が閉まってからも、妾はしばらく立っておった。何か用があったのだ、と気づくまでに、ずいぶんかかった。青い紐の綴じは、机の上にあった。手が、いつもより硬かった。
昼、妾は計算を違えた。
四年で、初めて。世が引っくり返った日から、妾に残っておったのは頭一つじゃ。家も、名も、衣も、付いておった者も、みな一晩で無うなった。数字だけが、妾の言うことを聞いた。その数字が、その日は一度だけ言うことを聞かなんだ。
柳誠が、疲れておるのか、という顔で妾を見た。違う。妾は疲れてなどおらぬ。では何じゃと問われれば、答えられぬ。それが、いちばん気に入らなかった。
~
夕方、納戸から音がした。行ってみると、柳誠が古い縄と空の俵を引き出しておった。
「何をしておる」
「片付けだ。今日からここで寝る」
ならぬ、と妾は言うた。言うてから、なぜならぬのかを探した。順番が逆じゃ。妾は普段、そういう物の言い方はせぬ。
夜中に帳場へ用があったらどうする。灯の油が倍要る。納戸は黴臭い。あそこは冬に水の凍る側じゃ。――どれも本当のことじゃ。嘘は一つも言うておらぬ。
嘘は言うておらぬが、どれも、妾が言いたかったことではなかった。
言いたかったのは、たぶん、もっと短い。その短いのが、どうしても出てこなんだ。
あの部屋は、妾がこの町で持った、初めて動かぬものじゃった。太師府の妾の部屋は、一晩で無うなった。ここへ来てからの四年、朝に目を開ければ同じ場所に同じ男が寝ておるということだけが、ずっと動かなんだ。
それを、あの男は一人で決めて、その日の夕方には筵を敷いておった。妾には、一言も聞かずに。
……こう並べると、妾が拗ねておるだけに聞こえる。それも違う。違うと思うが、では何じゃと問われれば、また詰まる。
分からぬものは、分からぬまま置いた。他にしようがなかった。
~
女将には、二日目に聞かれた。
「あんた、あの男と何かあったのかい」
「何もない」
「そうかい」
女将はそれ以上聞かず、椀へ粥を盛った。盛りながら、あんたももうそういう齢だからねえ、と一人で言うておった。
妙に耳に残った。なぜ残ったのかは、分からぬ。
幾日かして、妾は夜の仕事を帳場へ移した。部屋より明るい。それは本当じゃ。
帳場は、納戸と壁一枚じゃ。あの男が寝返りを打つと、板が鳴る。鳴るたびに、木簡から目を上げてしまう。上げたところで何も見えぬ。壁じゃからな。
……明るいからじゃ。それ以上は、考えなんだ。
油は、本当に、倍より要るようになった。そこだけは妾が正しかったのじゃから、たまには褒めてもよかろうと思うたが、褒めよと言うのも妙な話じゃ。言わずにおいた。
~
あの男が移った次の朝、妾は納戸の戸の前に立った。
叩かねば入れぬ。叩くというのは、この戸を戸として認めるということじゃ。最後まで反対しておったのは妾の方なのに、先に認めるのも妾になる。
……業腹じゃ。
扉を強めに叩く。
「朝じゃ。……起きておるか」
「起きてるよ」
返事がした。
前は、返事など要らなかった。戸も無かった。起きておるかどうかは、目を開ければ分かった。今は、叩いて、待って、返事を聞く。手間が増えた。
……むう。