董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
夜半を過ぎても、車列は来なかった。
蔵の前の灯は、油を足しながら燃やし続けた。宵のうちは威勢のよかった人垣も、夜が深くなると半分は家へ帰り、残った半分は火のそばで筵をかぶって座っていた。米屋は残った。女将も残って、大きな薬缶で白湯を沸かし直していた。
夜更けから、町にも雪が舞い始めた。積もるほどではない。ただ、灯の明かりの中を粉のようなものが横に流れて、見ている人垣を静かにさせた。
峠の頭の火は、まだ点いている。
「遅いの」
董白が言った。帳場の前から、もう長いこと動いていない。
「軸を一本替えたら、これくらいは遅れる。予備は小屋に二本ある」
「替えたと決まったわけではないぞ」
「他に、遅れそうな理由を思いつかないんだ。·····あとは、もっと悪い事態、ってことだ」
董白はそれきり黙って、また峠を見た。
~
先に気づいたのは、火の番をしていた子供だった。
「灯だ」
指の先を、人垣がいっせいに目で追った。道の番の火は、峠の中腹から麓まで、点々と一列に並んでいる。その列のいちばん上のあたりを、別の灯が三つ、ゆっくり下りてきていた。
誰も、まだ声を上げなかった。灯は進んでは止まり、また進んだ。止まるたびに人垣のどこかで息を詰める音がして、動き出すと、詰めた息がほどけた。
一度だけ、長く止まった。
長かった。米屋が立ち上がり、女将が薬缶の手を止めた。誰かが「また折れたか」と小さく言って、誰も返事をしなかった。俺は番の火より下で止まっている灯を見たまま、頭の中で軸の数を数えていた。予備は二本。一本は使ったはずだ。まだ一本ある。
灯が、動いた。
人垣の息が、いっせいに戻った。後で聞いたら、止まっていたのは曲がった轍を丸太で直していただけで、車には何もなかったそうだ。知らないというのは、それだけで人を疲れさせる。
三つの灯が麓の火とすれ違い、道が平らになって、車輪の音が聞こえ始めた。
先頭の車が木戸をくぐって、灯の輪の中へ入ってきた時、俵の上にうっすらと雪が積もっているのが見えた。
そこで、町が沸いた。
~
「……着いたぜ」
御者の頭は轅を下ろして、それだけ言った。言ってから、腰を伸ばして、人垣を見回した。
「なんだ、こんなに起きてたのか」
荷降ろしは、待っていた者たちが我先にやった。米屋の店の者が指図をして、俵が蔵の前へ並んでいく。俺は荷札を一枚ずつ照らして、頭が懐から出した控えと突き合わせた。
二十四俵。番号、全部揃い。
「欠け、なし」
俺が声に出すと、人垣がもう一度どよめいた。
頭は白湯を受け取って、聞かれるままに夜のことを話した。俺は帳場の卓で、それを書き取った。
三台目の軸にひびが入ったこと。道の番が小屋まで走り、峠の小屋の阿慶が、予備の軸を担いで夜道を下りてきたこと。軸を替える間に、その娘が前の二台の車の下を灯で照らして、二台目からも石を見つけたこと。積んだ後に車の下を見る決まりが、その場でできたこと。降り出した雪と、賭けて下りたこと。
「軸を担いで、夜道を一人で下りてきやがった。うちの若い衆より肝が据わってる」
人垣の中から声が出た。
「峠の小屋の娘って、あの縄の子かい」
「阿慶だよ。水場番の孫の」
名前が、俺の帳面の外で、人から人へ渡っていった。俺はただ、頭の話を書き取っていた。
人垣の後ろに、水場番の婆がいた。いつから聞いていたのか、杖に両手を重ねて立っていた。頭の話が終わると、婆は誰にも何も言わずに、背を向けて帰っていった。杖の音が、来た時より速かった。
荷押しに行った米屋の店の者が二人、人垣の中で家の者に囲まれていた。若い方は女房に袖を掴まれたまま、峠の話を身振りで始めて、年上の方は何も話さず、差し出された子供をひとしきり抱えていた。行きは荷運びの人手だった二人が、帰りは山を越えた男たちになっていた。
御者の残りの二人は、車の脇で荷縄を解きながら、労いの白湯を受け取っては頭を下げていた。女将が三人まとめて宿へ引っ張っていこうとして、頭に断られていた。
「車を置いたら行きますよ。……車を先に寝かせねえと、明日からの車が困る」
三台の車は、空になってから、蔵の脇へ並べて置かれた。頭は轅を下ろした場所を一台ずつ確かめて、それから雪のついた俵の縄を一本、指でつまんで俺に見せた。
「阿慶の掛けだ。峠からここまで、ひと結びも緩んでねえ。……あの娘に言っといてくれ」
「自分で言えばいいでしょう」
「照れるだろうが」
「よう戻った」
董白が頭に言った。頭は白湯を飲み干して、椀を返した。
「言われた通り、急がなかった。……急がねえのが、一番速かったですよ」
~
明け方、雪はやんだ。
屋根が薄く白くなった町で、俺は帳場の控えを開いて、残りの日を数える欄に、初めて数字を足した。九十六斗で延びる日は、両手の指で足りる。それでも、この欄はずっと引く一方だった。
隣で董白が、北の借りの控えを綴じから抜いて、開いた。五割増しのあの紙だ。書いた夜は、手が止まった紙だった。董白はしばらく眺めてから、元の場所へ戻した。
「重さは変わらぬがの。……道が通ったで、返し方の分かる借りになった」
それだけ言って、次の便の割り振りを書き始めた。
昼前に、米屋が蔵へ来た。売り出しの相談だ。
「値は、どうする」
「封鎖の前の値じゃ」
米屋は少しの間、黙った。
「……今なら、倍でも売れるぜ」
「倍で売れば、皆また怖がって、甕へ溜め込む。前の値で回る方が、粟も札もよう回る。それに、次の便も来る。溜め込む理由を、こちらから作らぬことじゃ」
「分かった。前の値だ」
米屋は請け負って、それから少しだけ笑った。
「……あんた、商いが下手なのか上手いのか、いまだに分からねえよ」
昼から、米屋の店の前に列ができた。
換えの列でも、預けの列でもない。粟を買う、ただの列だ。店の台に俵が開けてあって、値を書いた札が立ててある。封鎖の前と同じ値だ。札を見て、値を聞き直す者が何人もいた。米屋はそのたびに同じことを言った。
「前の値だよ。明日もこの値だ。次の便も来るとさ」
列の中に、あの女房がいた。三人の子供の上の子に袋を持たせて、二斗買っていった。帰り際、袋の口を縛りながら、連れの女に言っているのが聞こえた。
「甕に溜めるのはやめた。どうせまた買えるんだ」
言ってから、自分で笑っていた。半月前に夜通し並んで札を粟に換えた人が、今日は買った粟を溜めないと言っている。俺は帳場に戻ってから、そのことをそのまま控えの端に書いた。うまく言えないが、書いておかないといけない気がした。
宿の前を通ると、竈から湯気が上がっていて、粥の匂いが往来まで届いていた。女将が戸口から俺を見つけて、声を張った。
「今夜は食いに来な。湯じゃない粥を出すよ」
誰かが中で笑っている声も聞こえた。
夕方には、塩売りの荷車が隣町の紙を運んできた。手代の字で、いつもの升比べの報せの後に、一行足してあった。曰く、荷が着いたと聞きました。次の便から、こちらの町の分もお願いできますか。買値と運び賃は言い値で構いません、とある。
封鎖は、二つの町に掛かっている。道は、まだ一本しか通っていない。
「隣町の分は、どうする」
「運ぶに決まっておろう。第二白蔵の町じゃ。……言い値は取らぬがの。同じ値で、同じ升じゃ」
峠を見ると、頭の火が消えていた。着いた報せが、山を登り切ったのだ。
~
その晩、うちの粥は久しぶりに濃かった。
董白は一杯目を食い終えると、椀をこちらへ差し出した。
「おかわりじゃ」
「三杯じゃないのか」
「道が冬を越えたらの」
俺は二杯目を注いだ。椀から湯気が上がって、窓の外の峠の頭は、まだ白かった。