董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
二便が出たのは、初便の六日後だった。
書くことは初便と同じだった。三台、二十四俵。頂で積み替え。違ったのは帰ってきた御者たちの顔で、初便の時のような、勝って戻った顔ではなかった。仕事をして戻った顔だった。
「頂で軸を一本替えた。出す前に
荷の頭はそれだけ言って、湯を飲んだ。積んだ後に軸を見るという決まりは、初便の晩に阿慶が自分で作ったものだ。二便で、もう一本拾っている。
「これで、小屋の予備は無くなった。……あと、こっちからもう一つだ。手代。あれを言え」
頭は椀を置いて、後ろの男を顎で示した。頂の小屋で控えを書く、字の早い手代だ。
「初便の晩、風で火が細りました」
手代は控えの箱を膝に載せたまま言った。
「夕方の雪で、薪の表が湿っておりまして。阿慶が小屋から自分の縄を出してきて、燃やしました。売り物の麻縄です。……止めましたが、縄はまた綯える、と」
帳場が静かになった。町はあの晩、峠の頭の火が消えなかったことしか知らない。何で消えなかったかは、初めて聞いた。
董白は帳面から顔を上げて、少しのあいだ黙っていた。
「三便に、替えの軸を二本と、麻をひと荷載せよ。どちらも小屋の入り用じゃ。蔵の銭で払う。……縄は、あの者が自分で綯うでな。材料だけ切らさぬようにせい」
軸と麻は三便の荷に載って峠へ上がった。受け取った阿慶が何と言ったかは知らない。御者は「軸を二本とも検分して、その晩から小屋の前で綯ってた」と言っていた。火の明かりで縄を綯う音が、夜通し聞こえていたそうだ。
~
便を重ねるうちに、積み場の顔ぶれが増えた。道普請で雇った人足のうち、若いのが何人か、便の積みに回ってきた。教えるのは阿慶だった。
峠から下りている日の阿慶は、積み場の車のあいだを回って、新しい人足の縄の掛けを検めて歩く。上から二回、横から一回。緩んでいれば解かせて、最初から掛け直させる。積み終わった車は、動かす前に軸を見る。
「手で直すな。掛け直せ」
「緩んだとこだけ締めりゃ早いでしょう」
「そこだけ締めても、隣が緩むよ。峠の上で気づいても、もう降ろせない」
若いのが黙って解き始めるのを、俺は帳場の窓から見ていた。井戸端で縄を売っていた娘が、今は人に縄を掛け直させている。
雪の匂いが強くなった日の夕方、その阿慶が帳場へ来た。
「白。五便、明日の朝に出したい」
「決めの日は明後日であろう」
「うん。でも西の空が持たない。婆の膝も鳴ってる。明後日に出すと、峠の上で降られる」
董白は帳面を閉じて、阿慶を見た。
「そなたが決めよ」
「……あたしが?」
「便の日取りは、峠を知る者が決めるのが道理じゃ。妾は町しか知らぬでの。決めたら柳誠に言え。書き付けて皆へ回す」
阿慶は一度だけ瞬きをして、それから俺の方を向いた。
「五便。明日の朝」
翌々日、雪が来た。昼から夜まで降り続いて、峠は二日、白く閉じた。五便の粟はその前の晩のうちに、町の棚へ納まっていた。
雪が上がった日、阿慶は何も言わなかった。董白も何も言わなかった。ただその次の便から、日取りの欄は阿慶の名で埋まるようになった。
~
隣町からの頼みは、決まりどおりに受けた。同じ値、同じ升。六便からは三台のうち一台が隣町の分になり、手代の紙には升比べの行が一行増えた。紙の文句はいつもどおり几帳面で、最後に一度だけ、几帳面でない一行があった。曰く、井戸の氷を割りながら車列を待つのは、悪くない待ち方だと思う。
帳面の数字は、差分だけ書けば足りるようになった。軸を替えたのは二便で一本、五便で一本。どちらも出す前に見つけて替えた。折れてから替えたのは、初便の一度きりだ。俺が書き足すのは、便の番号と、欠けの有無と、借りの控えの行だけになった。借りは便のたびに増えていく。増えた分だけ、町の棚にも粟が入る。
控えは二本立てになった。俺が帳場で書く帳面と、阿慶が峠の小屋で書く控えだ。便がひとつ町へ着くたび、荷と一緒に阿慶の木簡が下りてくる。字は少ない。俵と軸と縄の印に、数の棒を並べてあるだけだ。それでも、積んだ数から縄の掛け直しまで、要ることは全部そこで読める。俺はそれを自分の帳面と突き合わせる。最初の頃は並びがばらばらで読むのに難儀したが、今は俺の帳面と同じ並びで書いてくる。教えたわけではない。何度か突き合わせるうちに、向こうが合わせてきた。
「書き方、誰かに習ったのか」と一度聞いたら、阿慶は変な顔をした。
「あんたのを見て覚えた。突き合わせるんだから、同じ形の方が早いでしょ」
一つだけ、書くのをやめた欄がある。
残りの日数だ。空の市の次の晩に百二十日と出して、そこから数え始めた。開帳で縮んで、初便から先は、数えるたびに増えるようになった。増えていく日数は、期限ではなく、蓄えの数になった。俺は十便の夜にその欄を閉じて、数字を蓄えの帳へ書き写した。
筆を置いたら、董白が横から帳面を覗いていた。
「閉じたか」
「閉じた。……長かったな」
「うむ」
それだけだった。
~
冬の真ん中の、何でもない晩だった。飯の後で、董白が包みを一つ、卓へ置いた。
「そなたにじゃ」
開けると、筆が一本入っていた。今使っているのより、軸の太いやつだ。
「隣町の手代に頼んで、取り寄せた。そなたの筆は、空の市からこっち、この町でいちばん働いておるでの。……穂が割れておるのに、黙って使うでない」
「気づいてたのか」
「帳面の字が太るでな」
俺は新しい筆を手に取った。軸が手に馴染んだ。値で言えば、たいした物ではない。ただ、封鎖の町で筆を一本取り寄せるのに何が要るかは、帳面を付けてきた俺が一番よく知っている。言伝を書いて、隣町へ回す車に託して、向こうで探してもらって、次の便の帰りに載せてもらう。頼んでから届くまで、便が三つ。
「使う。……大事に仕舞ったりはしない。仕事に使う」
「うむ。それがよい」
董白は先に立って、椀を洗いに行った。その背中に礼を言いそびれたことに、俺は次の朝まで気づかなかった。
~
十一便が着いた次の日、女将から使いが来た。飯どきに宿へ来い、という。
行ってみると、客はいなかった。女将は俺たちを座らせて、何も聞かずに椀を二つ置いた。粥だった。薄くない。匙が立つとまでは言わないが、底の方に粟の粒がちゃんと沈んでいる。
「頼んでないぞ」
「頼まれてないよ」
女将は自分の分もよそって、向かいに座った。
「頼まれない粥を出せるようになったんだ。誰かに食わせて確かめたくなるだろ。……あんたらでいいかと思ってさ」
空の市の頃、この宿は泊まり客の分を量って炊いていた。井戸端の釜の底で、粥の跡がどんどん薄くなっていくのを、俺は見ていた。その釜が、今は湯気を立てている。
「泊まりは戻ったのか」
「半分ね。隣町との行き来が戻ったから、その分。……南はまだ駄目。あっちの道が開かないと、昔の数にはならないよ」
女将は匙を止めずに、こともなげに言った。それから、思い出したように付け足した。
「そういえば、炭売りの爺さんから言伝。春になったら炭を担いで下りてくるから、宿を取っておけって。……粟と一緒に車に乗せてもらえって言っといたけどね。歩くより早いんだから」
董白が小さく笑った。粥は三人とも、残さず食った。
~
冬の終わりが近づいた頃、
「妙なもんを見たぜ、姫。鄧の店が、掛けの利を下げた。それと、銭替えの手間賃もだ。町の札には手を出さねえまま、値だけ下げてきてる」
「客は動いたか」
「動かねえ。……いや、正しく言うと、一度覗いて、戻ってくる。安いのは分かってて、戻ってくるんだ。俺が見た限りじゃな」
董白はしばらく黙って、それから杜恪の紙を綴じへ挟んだ。
杜恪が帰ってから、俺は聞いた。
「白。どう読む」
「読まぬ」
董白は綴じを棚へ戻した。
「値は向こうの物じゃ。向こうがどう動かそうと、こちらの升と値は変えぬ。……春になれば、向こうから分かるでの」
~
根雪が緩んだのは、十四便の朝だった。
軒の氷が落ちて、往来の雪が昼のうちに泥になった。水場で氷を割る音が、この冬で初めて、しなかった。
夕方、峠から下りた阿慶が、戸口から首だけ入れて言った。
「白。沢の音が変わった。……冬、越えたよ」
「うむ。ご苦労じゃった」
晩飯の粥を、俺はいつもどおりに椀へよそった。受け取る前に、董白が空の椀をこちらへ突き出してくる。
「柳誠」
「ん」
「今日は大盛りじゃ」