董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
十六便が出た朝、峠の道から雪が消えた。
市の日の往来には、二種類の店が並ぶようになっていた。荷が動き出して品の戻った店と、品はあるのに客のいない店だ。客のいない店の表には、決まって新しい値札が下がっていた。鄧の息のかかった店の値札だ。
鄧の店、と町は呼ぶが、鄧氏がこの町に自分の店を構えているわけではない。南陽の本家は、物を売る家ではないのだ。町々の店に元手を貸す。掛け売りの帳面を仕切って、取り立てを請け負う。銭を替えて手間賃を取る。つまり、看板の後ろにいる家だ。この辺りで鄧の店と呼ばれるのは、鄧の銭で回っている店のことで、看板は別々でも、値札を書き替えろと言える口は一つしかない。倉を締め、商人を締め、関所まで動かせたのは、その口の届く先が、それだけ広いからだった。
その値札が、春に入ってから三度書き替えられて、三度とも安くなった。
交換の列で、米屋の主人と荷運びの女房がその話をしているのを、俺は帳場から聞いていた。
「安いんだろ、実際」
「安いよ。うちの仕入れ値より安い。……だから買わねえんだ」
「なんだいそりゃ」
「あんた、開帳の日に並んだろ。あれから俺は、値ってやつを疑って見るようになった。仕入れ値より安く売る店は、その損をどこかで取り返す当てがある。当てはどこだ。白の蔵が潰れた後の、売り手のいなくなったこの町だろ。……今日の安値ってのは、明日の高値の手付けなんだよ」
「難しいことは分からないけどさ」
女房は袋を担ぎ直した。
「あたしは簡単だよ。子供らの胃袋を一冬締め上げた店に、また食い物の元栓を預ける気はない。それだけ」
「まあ、そういうことだ。それに今どき、掛けで買う理由がもうねえしな。払いは札で済む」
列は進み、話は別の話に変わった。二人とも、声を低くしていなかった。往来で言ってよい話だと、思っている。
~
次の交換日の昼、列を整理していた人足が、帳場へ知らせに来た。
「白様。列の一番後ろに、妙な客が」
見に出るまでもなかった。帳場の窓から、列の尻尾は見えた。
当主ではない。本家に仕えて、うちの蔵の一件を初めから任されてきた男だ。買いの書付を持ってきたのも、封鎖を差配したのも、この男だった。家の名は鄧氏、動く手はいつも鄧遷。こちらにとって、敵の顔は初めからこの男だった。
供はいない。荷車もない。袖口の綺麗な着物のまま、瓦屋の隠居の後ろに立って、自分の番を待っている。列の何人かが振り返っては、前へ向き直った。誰の使いも、誰の文も、先に来ていなかった。
順番が来るまで、半刻かかった。鄧遷は一度も列を離れなかった。
帳場の卓の前に立つと、最初に頭を下げた。あの、深くて綺麗な下げ方だった。
「並んだの」
「約束にございますれば」
一年半前の、あの日の帰り際の一言を、この男は覚えていた。覚えていて、そのとおりに来た。
「用向きを聞こう」
「二つございます。一つは売り、一つは貸しで」
鄧遷は懐から手控えを出した。
「まず売りから。手前どもの南の倉に、粟が九百俵ございます。一昨年の秋から買い集めた分にございます。……何のために買い集めたかは、白様が一番ようご存じで」
締め上げるために、南の粟を先に買い占めた。あの空の市を作った粟だ。それが今、倉に九百俵、積まれたまま残っている。
「売れませなんだ」
鄧遷は、隠す様子もなく言った。
「封鎖のあいだは、売らぬのが仕事にございました。封鎖が破れてからは、売れませぬ。この町は北から買い、隣町はこの町から買う。手前どもの倉の粟は、行き先のないまま古うなってまいります。……いつぞや白様は、北の郷の主に、売れぬ粟を抱えて鼠を飼うておると仰せられたとか。回り回って、鼠を飼うのは手前どもの番で」
「それを、買えと」
「市の値で。一斗もまけませぬ代わり、一銭も上乗せいたしませぬ」
「二つ目は」
「倉にございます。粟が出て空きました南の倉を、白様にお貸ししたい。蔵二つと峠の小屋では、二つの町と川筋は、もう回りますまい」
俺は思わず帳面から顔を上げた。うちの置き場が足りないことを、この男は帳面も見ずに、外から言い当てている。
「本家が、ようこれを飲んだの」
「手前はかねて本家に、この蔵は潰すより組む方が安いと申し上げて、退けられた身にございます。同じ具申を、この春もう一度出しました。今度は通りました。手前の弁が通ったのではございませぬ。帳面の数字が通したので。掛けの帳面は年々痩せる。銭替えの手間賃も痩せる。白様の札が回るほど、手前どもの本業は要らのうなる。あの日、この帳場で白様が仰せられたとおりに。……ならば外で痩せてまいりますより、中で倉賃を頂く方が、まだしも商いで」
「一つ聞くがの。白札が回るほど、そなたの家の本業は要らのうなる。そなたが今それを言うた。……要らのうなる家が、倉賃ごときで収まるのか」
「収まりまする。当面は」
鄧遷は、当面は、をごまかさなかった。
「白様の札が食いましたのは、この二つの町と、川筋の商いにございます。南陽の本体には、まだ届いておりませぬ。本家の勘定は、家の存亡ではのうて、届いた場所を捨てるか、貸して倉賃を取るかの二択で。……もっとも、収まらぬ者も本家にはおりまする。潰し損ねたのなら次は別の手をと申す者が。手前は、その者たちが動く前に、収まる形を先に作りにまいった次第で」
「して、そなたにどこまで決めさせる気じゃ、本家は」
「白蔵の一件は、値決めから判まで、始末ごと手前が預かりましてございます。……負け戦の後始末は、負けると申した者に回ってまいりますので」
言い終えて、鄧遷はもう一度、深く頭を下げた。
「値で競い、倉で競い、道で競いまする、と申し上げました。三つとも、負けましてございます。……大きい買い物を断られましたら、商いは安い方から拾い直しまする。本日のは、その拾い直しで」
~
返事は、その場ではしなかった。鄧遷を帰してから、俺と董白は夜まで勘定した。
九百俵。北へ返す分を全部積んでも、残りで二つの町の夏は越せる。値は市の値。粟の方は、断る理由が帳面のどこにもない。
ただし、買う銭がない。
「白。市の値で九百俵だ。うちの銭箱じゃ、四割も払えない」
「半分を札で払う」
董白は木簡を裏返した。
「あの倉の粟を、こちらの棚へ入れる。入った分だけ札を切って、半分はそれで払う。……札の裏の粟は、その粟じゃ。銭の要らぬ払いではない。粟を預かって、預かり証で払うだけよ」
「向こうが受けると思うか。札は、あの家が二年かけて潰そうとした紙だぞ」
「そこが山じゃな。受けねば、買う量を減らすまでのこと」
倉の方は、もっと厄介だった。要ることは要る。冬のあいだ、置き場が足りずに便を二度延ばした。隣町の分を受けてからは、うちの蔵はいつも九分まで詰まっている。数はあの男の言うとおりで、だからこそ嫌だった。
「要るのは分かってる。怖いのも、倉の方だ」
「うむ」
「倉を借りて、中の粟ごと鄧の手の内ってことにならないか。向こうの倉番、向こうの錠前、向こうの升。……いつでも戸を閉められる」
「じゃから、こう縛る」
董白は指を折り始めた。
「錠前と鍵は、こちらで新しく打つ。倉番はこちらの人足。升比べは月に二度、皆の前でやる。検分は
「先払い」
「補償の銭を、先に預かっておくのじゃ。約束を破る方が高くつくように、先に値を付けておく。……敵じゃった者を中に入れる時はの、柳誠、信用ではのうて、決まりで縛るのじゃ。信用は後から、決まりを守った年数の分だけ生えてくる」
「もう一つあるだろ。あの家は、うちの札が広まるほど痩せる家だ。倉賃で食いつないで、いつか盛り返す気で入ってくるんじゃないのか」
「入ってくるじゃろの。じゃからよいのじゃ」
董白は折った指を開いた。
「外に置けば、鄧氏は痩せながら、こちらを潰す手を探し続ける。次は商いの手とは限らぬ。……中に入れてみよ。倉賃は、札が回るほど入る。うちが肥えるほど、あの家も肥える形にしておくのじゃ。潰す理由を、算盤から消していく。商家というのはの、柳誠、商いの形を替えて生き延びてきた家のことじゃ。替え先をこちらが用意してやれば、替える」
「本家の、収まらない連中は」
「それは鄧遷の戦じゃ。妾たちの戦ではない。……あの男が中で倉賃を稼ぐほど、あの男の言い分が本家で強くなる。手伝うてやるのが、一番安い備えよ」
「これで判を捺すかな、あの男」
「捺すじゃろ。外におる方が高いと、算盤を弾き終えて来た男じゃ」
翌朝、書付を持たせた使いに、鄧遷は一箇所も直さず判を捺して寄越した。
札の件で一往復あると、董白は見ていた。無かった。それどころか、返ってきた書付の払いの欄には、こちらが書いた「半分」の横に、慇懃な字でこう足してあった。曰く、半分と言わず、六分まで札で構いませぬ。手前どもは、その方が銭を寝かせずに済みますれば。
「……値切られるより気味が悪いな」
「上手じゃの。銭で受け取れば、ただの売り手じゃ。札で受け取れば、預け主になる」
末尾にもう一行、添えてあった。曰く、錠前を新しく打たれるとのこと、ご賢明にございます。合鍵から入る者が、世にはございますので。
「……自分のことだろ、それ」
「うむ。性根のねじれ方まで慇懃じゃの」
~
鄧の倉に白の錠前が付いた日、阿慶が升を担いで検分に行った。南の倉まで二日、往きも帰りも荷車の空きに乗って。
四日目の夕方に戻ってきて、帳場へ木簡を一枚置いた。俵の印と、数の棒と、隅に升の印が一つ。
「数、合ってた。升も見た。底、細工なし」
それから、少しだけ悔しそうに付け足した。
「……いい倉だった。うちのより広い」
~
内入れの便が北へ発ったのは、その次の市の日だった。
三台とも、南から上がってきたばかりの粟を積んでいた。鄧の倉から出た粟だ。封鎖のために買い集められた粟が、峠を越えて、封鎖を破った借りの返しになる。帳面を書きながら、俺は少し笑ってしまった。この勘定の形を、去年の秋の俺に見せてやりたい。
出発の前の晩、俺は借りの控えを開いて、聞いた。
「北へは、どう言う。早く返すから、まけろって話にするのか」
「せぬ」
即答だった。
「約束は秋のままじゃ。五割も動かさぬ。これは内入れよ。……同じ粟でもの、柳誠、秋の郷は倉が満ちて、粟の値が一番安い。春の郷は端境で、一番高い。同じ量を返すなら、相手に一番効く時に返す。値切るよりよほど安うつくのじゃ」
俺は控えに、内入れの行を書いた。秋に五割増しと書いて手が止まった、あの帳面の、同じ頁だった。今度は止まらなかった。
郷の主からは、便の帰りに口上が一つだけ戻ってきた。曰く、受け取った。秋の約束は変わらぬ。……律儀な借り方をなさる白様だ、とだけ。
~
その次の交換日、列の最後尾に、また鄧遷がいた。
今度は用向きを聞くまでもなかった。順番が来ると、鄧遷は卓の上に白札を一枚、置いた。粟の代金として、こちらが払った札のうちの一枚だ。
「一斗、頂きに参りました」
俺は番号を読んだ。董白が皆の前で升比べをして、一斗を量る。升の縁を、木の棒がすっと撫でて、盛り上がった分が落ちる。決まりどおり。誰にでも同じ。この帳場が二年半、一度も曲げなかった手つきだった。
鄧遷は量られる升を、目を離さずに見ていた。手控えは、懐から出さなかった。
袋に受けた一斗を、鄧遷は供に持たせる代わりに――供はいないのだった――自分の腕に抱えた。それから董白へ、あの深い辞儀をした。
「確かに、頂きました」
「うむ。……また預けに来るがよい」
「列に並びまする」
鄧遷は粟を抱えたまま、来た時と同じ、急がない歩き方で往来へ出ていった。列の誰も、もう振り返らなかった。
卓の上には、殺したばかりの札が一枚。俺は町に出ている札の綴じを開いて、その番号を消した。
それから、次の番号を呼んだ。
列は、まだ続いていた。