董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
董白を拾ってから、四年が過ぎた。俺がこっちへ来たのは、その半年前だ。
拾った日は、董卓が死んだ日だ。俺の数え方なら、西暦百九十二年。
四年が過ぎたから、今年は百九十六年になる。
この世界にその呼び方は無いし、口に出したこともない。帳面の隅に、虫が這ったような大きさで書いてあるだけだ。
董白は十七になった。背は俺の肩を越したあたりで止まっている。この前、女将が衣の丈を詰めながら「この子はここで止まる背だ」と言って、本人が本気で嫌な顔をしていた。
町の者は白様と呼ぶ。
寝起きの部屋は、少し前から別にしてある。董白の着替えの最中に、俺が戸を開けてしまった。それで、その日のうちに帳場の隣の納戸を片付けて、俺の寝床をそっちへ移した。粟の袋を三つ出したら、人ひとりぶんの床がちょうど空くような広さだった。当たり前の始末だと思う。
なのに董白は、なぜか最後まで反対だった。夜中に帳場へ用があったらどうする、灯の油が倍要る、と理屈を並べる間、こちらを一度も見なかった。
……普通、逆じゃないのか。
俺の頭に入っている先の話の方は、相変わらず穴だらけだ。名前だけ知っている武将と、いつ起きるか分からない戦。そのうち本当に役に立ったものは、正直、片手で足りる。この町の暮らしを回してきたのは、そっちじゃない。升と、帳面と、預かった粟の数だ。
朝のうちに、帳場の棚の綴じを並べ替えた。いちばん古い束は木簡が十枚ばかりで、二人で井戸端に座って粥を食っていた頃のものだ。紐が乾いていて、動かすたびにからからと鳴る。
次が水場の桶の順番を書いた紙で、これはもう縁がぼろぼろになっている。その次から白札の控えになって、あとは棚の一段が全部それになる。今は、ひと月でその十枚と同じ厚さになる。
粟を預けると木の札が出る。札を持ってくれば、同じだけの粟が出る。升は皆の前で比べる。仕組みはそれだけだ。それだけのものが、この町と隣町の払いを回している。蔵が二つ、六日に一度の便が峠を越えて北の郷まで、それに春から南に借りた倉が一つ。
並べ替えている途中で、見覚えのない店の名前が出てきた。指がぴたりと止まって、二度読んだ。それでも心当たりが出てこない。川に沿った、下の町の店だ。うちへ来る荷の払いに、白札を出したらしい。
俺たちが配った札ではない。隣町で受け取った誰かが、そのまた先で払いに使ったのだ。書き足しながら、こういう増え方をするのか、と思った。撒いた覚えのない場所から芽が出ているようなものだ。
便の数は三十を越えている。峠の道は乾いて固まって、車が通るたびに土埃がもうもうと立つ。御者たちは水の甕を余分に積むようになった。
交換日の前の日の夕方、
帳場へ木簡をこつんと置いて、いつもの並びで報せる。俵の数、升、錠前。今回はもう一つあった。
「倉番の若いの、縄の掛けが様になってきた。締めた後で一度ゆすってみる癖もついた。荷は、締めた本人が揺すらないと締まらないもんだよ。あたしが見なくても、あの倉は回るよ。あと、屋根の北側に雨漏りが一つ。直させた。粟の上じゃなくて通路の上。今のうちだから」
言いながら、指の腹で木簡の縁をなぞっている。四日ぶんの字が薄くなっていないか、自分で確かめる癖だ。
阿慶が四日いない間の積み場も、教わった若い者たちでどうにか回っていた。それでも阿慶が戻った日は、案の定、縄の掛け直しが二つ出た。
交換日の列に
月に二度、南の倉の帳の写しを持って列に加わり、順番が来ると預かりの俵の数をこちらの帳面と合わせていく。その日は写しの横に、もう一枚、別の紙があった。折り目の新しい紙が、写しの下からはみ出すように置いてある。
「川下の町の店主二人より、手前どもの掛けの筋を通しまして、問い合わせにございます。白札の扱い所を、あちらの町にも置かせて頂けぬか、と」
「扱い所とは」
「あちらの店で、札と粟を換えさせよという話で。換えるたびにこの町まで出て来ずに済めば、あちらの客は喜びまする。扱いが増えれば、手前どもの倉賃も、正直、太りまする」
鄧遷は自分の得を先に言う。隠さないことで信用を作りに来る男だ。
董白は紙を最後まで読んで、指で押し返すように卓へ戻した。
「断る」
「……伺いましょう」
「札と粟を換えるのは、この帳場と、隣町の蔵だけじゃ。升比べを皆の前でやれる場所、阿慶の目が届く場所、妙な札が出たら三日で気づく場所。……その三つが揃わぬ所へ、紙だけ出すわけにはいかぬ。勿体ない話ではあるがの」
「升は、あちらでも用意させまする。手前どもが打たせて、こちらの升と比べさせたうえで納めても。もっとも、升の代は手前どもが持ちまする」
「升は打てる。目は打てぬ」
董白は卓の白札を一枚、指で押さえた。爪の先で、端をとんとんと二度叩く。
「浅い升が一つ出れば、この紙は町ごと死ぬ。……うちは目の届く帳場の中で、一度それをやられておるでな」
「……蔵番の一件で」
「うむ。中でさえ出た。見えぬ川下でなら、気づくのは半年後じゃ」
鄧遷は紙を畳んで、懐へ戻した。畳み方が、来た時と同じ折り目に揃っている。
「左様に返しておきまする。……あいにく手前どもの掛けも、取り立ての足が届く先までしか貸しませぬ。足より先へ貸した銭は、貸した日から死んでおりますので」
夜、帳面を閉じてから聞いた。
「惜しくなかったか。川筋の先まで札が回れば――」
「回った先で、誰が升を見る」
「……阿慶は、二人いないな」
「二人おっても、足りぬ。……妾たちの届く範囲は、人の足で二日までじゃ。それより先は、まだ妾たちの物ではない」
俺は帳面の隅に線を一本引いて、川下の町の名をその外へ書いた。断った、と一言だけ添えて。この線を引き直す日が来るなら、それは升と人を運べるようになった日だ。
~
杜恪が決めの報告日を待たずに帳場へ来たのは、案の定というか、それから何日もしない昼だった。戸口の顔を見ただけで、軽口の用でないことは先に分かった。この男は、悪い話を持ってくる時ほど足音が静かになる。
「姫。西から、あんまり良くねえ話だ」
「言え」
「
「兵糧は」
「なにしろ、無えから動いてるのさ。通り道の村の話が二つ三つ流れてきてるが、どれも同じだ。着いた日に食い尽くして、次の朝には発ってる。居座る力も無えんだ」
「足は」
「荷が無えぶん速い。せいぜい荷車が数台ってとこだろう。西の峠の向こうで見たってやつの話が本当なら、早けりゃ市の日を二つ挟んだ頃にはこの辺だ」
「人は……殺されてるのか」
聞いたのは俺で、杜恪は湯呑みへ伸ばしかけた手を、宙で止めた。
「……思ったより聞かねえ。食い物と車は根こそぎだが、手向かいしなけりゃ、人は殴られるだけで済んでるって話だ。よもや優しいわけじゃねえ、殺すと後がうるせえだけさ。まだ軍の形が残ってるのさ。それが良い話かどうかは、別だぜ。形が残ってるってことは、頭の号令ひとつで、まとまって動くってことだからな」
張済。聞き覚えがあるような気がした。あるような、という程度で、どうも指に引っかかる棘みたいに取れない。宛という地名と一緒に頭の隅にある気もするが、それも確かじゃない。こういう時のノートは、いつも役に立たない。
董白は帳面の上で手を止めて、少しのあいだ往来を見ていた。筆は持ったままで、墨が穂先の先でぷくりと丸くなっていく。
「杜恪。銭を出す。網を西へ張れ。数と旗と竈。それと、どの道を通って来るかじゃ」
「相場の無え仕事は高くつくぜ、姫」
「そなたが値を付けよ。妙な遠慮をされる方が高くつく」
杜恪は笑って、笑いを引っ込めて、出て行った。出際に、卓の銭を一枚だけ、ちんと弾いていった。
寝る前に、ノートをぱらぱらと開いた。張の字で始まる行はいくつかあっても、張済の行は無い。つまり俺は、何も知らない。知らない相手は、この世界の人間として測るしかない。
~
夕方には、町中が知っていた。銭のかかったうちの網より、ただの噂の方がよほど速い。
日が落ちてから、宿の広間に人が集まった。誰も呼んではいない。集まってしまったので、女将が床几を並べた。蔵の三役、米屋、瓦屋の隠居、積み場の人足の頭。奥の卓に董白が座り、俺はその横で帳面を開いた。人の数のわりに、部屋がざわざわしない。
「戦えばいい」
最初に言ったのは人足の頭で、床几に腰を下ろす前から言っていた。声だけが、いつもの普請場の大きさのままだった。
「道普請の連中がいる。竹槍なら数が揃う。町の入り口は、たった二つだぞ。普請場の木戸と同じだ、塞ぐ所が少ねえのはこっちの得だ」
「柳誠。数を」
「棒を持てる男は、この町でせいぜい二百足らず。隣町から来る当ては無い。あっちも同じ道筋だ。相手は少なく見て二千。壁も無い。数字にならない」
「だったら、山だ」
言ったのは瓦屋の隠居で、膝に立てた杖をこつんと床へ置き直した。手つきが、やけに落ち着いている。
「黄巾の時は、皆で山へ入った。ひと月で戻れた。焼けた屋根なら、葺き直せばいい」
「背負えるのは、一人二斗が精々だ。倉は置いていく。……あの時と違うのは、向こうが飢えてることだ。通り道の村は、どこも空にされてる。戻った時に倉と種が残ってる見込みは、薄い。夏に逃げて、空の倉へ戻って、蒔く物も無しに冬へ入る」
隠居は黙って、杖の先で土間をこつこつと二度突いた。
「逃げるって、簡単に言うけどね」
声を上げたのは荷運びの女房で、腕を組んだまま隠居の方を見ていた。
「うちの婆さんは膝が悪い。隣は乳飲み子がいる。山ん中でひと月、って話なんだろ。婆さんを背負って山道を登るのは、誰がやるんだい。……夏でも、年寄りと赤ん坊がひと月保つのかい」
誰も答えなかった。竈の火がぱちりと鳴ったのが、やけに大きく聞こえた。あの冬の水場の氷を、この町はまだ忘れていない。
「なら、銭で通ってもらうしか無えだろう。どうせ向こうも、戦いに来たわけじゃねえ」
言い出したのは米屋で、指を折りながら喋っていた。折った指が、途中で止まる。
「相場より高く買うって話なら、乗る商人は他所にもいる。うちだって、値さえ合えば誰にでも売るんだ。詫び代でも通行の礼でも、名目は何でもいい。銭を包んで、町へ入らずに行ってもらう」
「飢えた軍に、銭は食えない」
俺は帳面を繰りながら答えた。繰らなくても分かっている数を、やはり一度なぞった。
「銭を受け取ったとして、向こうがそれで飯を買える先は、この道筋じゃうちしか無い。銭は回り回って、結局この町の倉の前へ立つ。食い物で包むなら、二千人が食う量になる。……一度出せば、足りるまで取りに来る。どこで終わるかは向こうが決めるし、終わった後にうちの倉へ何が残っているかも、向こう次第だ」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
吐き捨てるような言い方で、それでも責める声ではなかった。米屋は言いながら奥の卓を見ていたし、見ていたのは米屋だけでもなかった。広間の目が、少しずつ、同じ方へ集まっていく。
董白は目を伏せなかった。伏せないまま、何も言わなかった。散会を告げたのは女将で、まったく、明日も飯どきには湯を沸かしとくよ、と言っただけだった。
帳場へ戻る道で、董白がぽつりと言った。
「鄧氏はの、柳誠。こちらを潰しには来たが、帳面の外へは一歩も出なんだ。回状も、関所も、値も、みな帳面の内の得物じゃ」
「こっちだってそうだ。うちの得物だって、全部帳面の上にある」
「うむ。しかし軍は、帳面を持たぬ」
帳場の棚には、うちが太らせてきた綴じが並んでいる。四年かけて厚くしてきたものが、今夜はどうにも薄く見えた。
戸を開ける前に、往来を振り返った。いちばん早く戸を閉めたのは、米屋だった。