董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
「見てきたまんまを言いな」
促されて、担ぎ屋が話した。
「竈の跡が、三百と少しありました」
「兵隊ってのは、十人一組で飯を炊く」
杜恪が俺の方を見て言った。
「竈が三百なら、まあ三千だ」
俺は帳面に書き付けながら、少し直した。
「跡には消えかけも混ざる。二千五百から三千五百、幅をそのくらいに見ておく。……旗は、どうだった」
「十二本、みんな張の字でした。破れた旗は、ありません」
破れ旗が無い。飢えていても、まだ軍の形が保たれているということだ。
董白は担ぎ屋に銭を払わせ、湯を出させてから帰した。杜恪は戸が閉まるのを待って、続けた。
「あの子は、西の峠の茶店に座らせとく。次に見るのは竈じゃなく、荷車の数だ。車が増え出したら、庄を空け終わって、こっちへ動き出した合図になる」
「して、足はどのくらいじゃ」
「まっすぐ来りゃ、市の日二つ。今みたいに庄を空けながらなら、四つってとこだ。……向こうの足を決めてるのは、道じゃなくて倉なのさ」
「四つじゃな」
董白は帳面の端に指を置いた。
「倉を伝うて来る軍、か。……柳誠。向こうの行く手で、この道筋いちばんの倉はどこじゃ」
答えなかった。うちだ。二人とも、とっくに分かっている。
杜恪が帰ってから、俺は帳面に新しい欄を作った。上に「軍まで」と書いて、最初の数字を入れた。市の日、四つ。去年の秋に閉じた欄と、同じ形の欄だった。
~
その晩、宿の広間は前の晩より人が多かった。床几が足りず、立っている者が壁際に並んだ。奥の卓に董白が座り、静かになるのを待って、最初に言った。
「始める前に、一つだけ言うておく。――裏付けの粟は、開けぬ」
広間の何人かが、うなずいた。去年の秋、この帳場は同じ言葉で米屋の頼みを断っている。
「知ってるよ」
その米屋が言った。
「あんたがあれを開ける人なら、うちはとっくに札を捨ててる。……で、開けずにどうするんだ」
「わたしの答えを言う。――食わせて、通す」
広間がざわめくより先に、蔵の三役の年嵩が手を挙げた。この男の役目は棚の粟だから、問いは決まっている。
「預かりの粟は」
「動かさぬ。預かりは預かり、商いは商い。二つの帳を混ぜた蔵から、人は逃げる」
三役は手を下ろして、隣の二人と低い声で何か話した。
「飯を見せてどうする。奪われて終わりだ」
人足の頭が立ったまま言った。
「見せぬ。渡すのじゃ。向こうが奪うより早く」
「兵隊が、並ぶのかい」
荷運びの女房だった。笑い話のような問いだったが、誰も笑わなかった。
「分からぬ」
董白は間を置かずに言った。
「……分からんのに、やるのかい」
「うむ。分かっておれば、賭けとは言わぬ」
広間が、初めてざわついた。壁際の誰かが低く何か言って、近くの数人が笑った。悪い笑い方だった。董白は待って、収まってから続けた。
「わたしの見込みだけ言うておく。向こうは荊州へ行きたい。この町が欲しいのではない。……見込みじゃ。外れることもある」
「その飯、どこで渡すんだい。まさか、うちの前の往来でかい」
広間の奥から女将の声だった。
「町へは、一兵も入れぬ」
即答だった。
「渡す場は、街道に作る。女子供は軍が見えたら奥へ入れて、通り切るまで出さぬ。並ばせる工夫は、これから作る。無いものを有ると言うても始まらぬでな」
「見込みで四百俵か」
米屋が低く言った。
「見込みで出せとは言うておらぬ。数を聞いてから決めるがよい。柳誠」
俺は帳面を開いた。
「三千として、一人に半斗。道中三日分の携行だ。しめて千五百斗、俵で四百弱になる」
「四百……」
誰かが息だけで言った。俺は続けた。
「出所は三つ。南の倉に、秋の商いへ回すはずの在庫が二百と少しある。まずそれを回す。次に、蔵の銭で北の郷から買い足す。あの郷は当たり年が二年続いて、去年の粟がまだ倉に残ってる。端境だから値は高い。それでも銭のある分で百俵は買える。銭の側の上限が、そこだ。残りのおよそ百俵が、この町だ。銭でも粟でもいい」
「百俵は重いぜ」
米屋が、俺の帳面の方へ首を伸ばした。
「重い。ただ、逃げて空の倉へ戻る時に失う数は、この比じゃない。それは前の晩に並べたとおりだ」
「四百くれてやって、渡す前に蔵ごと奪られたら、どうする」
人足の頭だった。まっすぐな問いだった。董白が受けた。
「その時は、戦うも逃げるも、今と同じに残っておる。先に食わせる手は、しくじっても元の三択へ戻るだけじゃ。……逆はできぬ。戦って負けた後にも、逃げて戻った後にも、食わせる手はもう残っておらぬでな」
頭は座らなかった。座らないまま、少し考えてから言った。
「俺は反対だ。……反対のまま、人手は出す。うちの若いのを、飯を運ぶのに使ってくれ。俺が反対したことは、帳面に書いといてくれや」
「柳誠。書け」
俺は書いた。人足の頭、反対、人手を出す、と。頭はそれを見届けてから座った。
「もう一つ、先に言うておく」
董白は広間を見回した。
「ただ飯にはせぬ。ただで食わせれば、次のただ飯が来る。買い物の形にすれば、次に来る軍も、買い物に来る。取れる物は取る。銭とは限らぬ。塩でも革でも紙切れでも、払うた、という形を必ず残す。軍から取れた払いは、出した者で分ける。取れねば、それまでじゃ」
「……分け前の割は」
「出した分に応じてよ。帳面が決める。妙な色は付けぬ」
瓦屋の隠居が身を乗り出した。
「なんだね、その紙切れってのは」
「払いの証文よ。後日、どこそこの倉から払う、という書付を取る。……取り立てられるかどうかは、また別の話じゃがの」
「……取れなきゃ、出しっぱなしってことかい」
女房だった。
「そうじゃ」
広間は静かになった。信じている顔は、見た限り一つも無かった。それでも席を立つ者もいなかった。他の道の値段は、前の晩にもう並べ終わっている。
「決めは取らぬ。信じよとも言わぬ」
董白は最後にそれだけ言った。
「賭けてもよいと思う者だけ、明日、蔵の前へ持って参れ。帳面に名を書く。それで足りねば、この話は終いじゃ。三択に戻る」
散会は早かった。出て行く背中は、前の晩と同じに重かった。女将だけが床几を片付けながら、湯は明日も沸かしとくよ、と言った。
~
翌朝、蔵の前に卓を出して、俺は新しい頁を開いた。上に「拠出」とだけ書いた。
最初に来たのは女将だった。銭の袋を一つ、音を立てずに置いた。
「釜と竈は貸すよ。それとこれとは別」
道普請の人足が三人、連れ立って来た。銭は少なかった。竹槍よりは安い賭けだ、と一人が言って、あとの二人が黙ってうなずいた。荷運びの女房は粟を二斗、担いで来た。婆さんの分も入ってる、とだけ言った。瓦屋の隠居は小さい包みを置いて、何も言わずに帰った。三役が来た。木挽きが来た。炭の郷から下りていた御者が小銭の包みを置きながら、にやりとした。
「郷の主が聞いたら怒るぜ。貸すなら五割増しを取れ、ってな」
大きい袋は一つもなかった。小さい袋が昼までに頁を半分埋めて、昼過ぎに、目当ての百を越えた。
夕方、卓を仕舞いかけた頃に、米屋が来た。
正直、来ないと思っていた。
「言っとくがな」
米屋は袋を二つ、卓に置いた。今日いちばん重い音がした。
「米屋さん。もう足りてる。昼過ぎに百を越えた」
「知ってるよ。向かいから見てたんだ、朝から」
袋は引っ込まなかった。
「俺は、あんたらの案を信じてねえ。兵隊は並ばねえよ。俺が兵隊なら、並ばねえもの」
「……なのに、二袋か」
「升だ」
米屋は蔵の戸を、顎で指した。
「開帳の日から、あの升は一度もこっちを損させてない。俺が銭を出すのは、案にじゃない。升にだ。並ばせられるかどうかは、あんたらの仕事だろ。……帳面に書いとけ。米屋、と」
俺は書いた。拠出の頁の、いちばん最後の行だった。
顔を上げた時には、米屋はもう往来を戻っていた。その晩、米屋の店の戸は、暗くなるまで開いていた。