董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
拠出の頁を締めた晩、帳場に三人が残った。俺と、董白と、呼ばれて来た
「聞いてるぜ、話は。飯を並べて、軍を素通りさせるんだってな。まったく、よく売り物にしたもんだ。……で、その話、向こうは知ってるのかい」
「知らぬ」
「だろうな。つまり、売り込みからだ。誰が行くんだ、その命がけの使いは」
「そなたじゃ」
「だろうな」
杜恪は天井を見て、それから床几へ座り直した。指の先で、卓の銭をひとつ、癖のように弾いた。
売る物は決まっている。並べば食える、だ。一人に半斗で道中三日分、三千人で四百俵。渡す場は街道の渡し場で、隊列の順にだけ。町へは一兵も入れない。俺はそれを書付に起こした。差出の名前は、柳白。
「持ち帰るのは二つじゃ」
董白が指を二本立てた。
「塩と革の先払い。残りは証文」
「塩と革? 銭じゃなくてか」
「よもや、軍が銭を積んで来るとでも思うたか。有るのは、売れぬまま担いでおる荷よ。兵の塩と、潰れた馬の革。向こうの帳ではもう値の消えた荷じゃが、こちらの冬には効く」
「証文てのは」
「後日、どこそこの倉から払う、の書付。判は、糧秣の帳を握っておる者に押させよ。上の名前だけの判は受け取るな。……いっそ、判の無い方がましじゃ」
「……取れると思ってんのか、そんな紙」
「思うておらぬ」
杜恪は少し黙って、董白の顔を見た。それから俺の方を見たが、俺にも説明する気は無かった。ただ飯にしない理屈は、評定で町中が聞いている。
「値を言え。網とは別の仕事じゃ」
杜恪はしばらく指を折って、値を言った。案の定というか、冬の便の手数料のひと月分に近い数字だった。ふっかけたな、というのは俺にも分かる。値切りの口上まで込みの、商人の値だ。
「柳誠。払え」
俺が銭函を開けると、杜恪の顔から笑いがすっと消えた。
「……おい。値切れよ、そこは」
「相場の無い仕事は高くつくと、言うたのはそなたじゃ」
杜恪は差し出された包みを受け取って、中も確かめずに、卓の隅へ置き直した。その上を、手のひらで一度だけぽんと叩く。
「五日で戻る。それまで預かっといてくれ。六日目からは、その銭で俺の弔いでも出してくれ」
「戻って参れ。銭はもう払うたでな」
荷は持たせなかった。持って行かなかった、が正しい。俺が車を出すと言ったら、鼻で笑われた。飢えた軍の前に荷を積んで行く馬鹿がいるか、手で持てる分なら奪られても懐が痛まねえ、と。もっともな話で、俺は口を閉じた。懐へ入れたのは書付と、炒り粟の小袋が三つだけだった。
~
杜恪のいない間も、町は止まらなかった。
街道の渡し場に、杭が一本ずつ立ち始めた。打つ音が、どすん、どすんと往来まで届く。杭を打つ人足の中に、いちばん早くから出ている組があった。人足の頭のところの若い衆だ。反対、と帳面に書かせた男が、人手だけは真っ先に出している。
頭自身はといえば、現場に来て杭の間隔にひとしきり文句を言って、二本打ち直させて、一本ずつ握ってぐらぐらしないか確かめてから帰った。
二日目、
どちらも、杜恪の返事を待たずに動かした。
「話が流れたら、買った粟が残るぞ」
「銭が粟に変わるだけじゃ。……どうせ、粟は腐らぬ」
董白は木簡から目を上げずに言った。上げないまま、筆の先だけがぴたりと止まっている。減るのは、冬の便で貯め直した手数料の銭だ。それを端境の高値で粟に替えて、渡す相手が来なければ、町は買わずに済んだ粟を抱えて秋を待つことになる。
それでも、先に出さなければ間に合わない。南の倉から車で二日、北の郷は峠越えだ。返事を待ってから動かす余裕は、市の日二つには無い。
三日目の昼、西の峠の茶店から報せが来た。走ってきた子が、肩をぜえぜえ言わせたまま、同じことを二度言う。荷車が増えた。庄を空け終わって、動き出したという合図だ。まっすぐ来れば、市の日二つ。
俺は「軍まで」の欄の数字を、四つから二つへ書き替えた。書き替えた欄を、その晩は何度も見た。見たところで数字が動くわけでもないのに、どうにも目が戻る。日数は減っていく。その間、杜恪は戻らない。
四日目の夜、帳場の灯を消しに来た董白が、消さずに座った。
「……寝ないのか」
「そなたこそ」
それきり、二人とも帳面の上で手だけ動かしていた。筆が木簡を擦る音が、さらさらと続く。灯の油が倍要る、と言っていた口は、その晩は何も言わなかった。
~
杜恪が戻ったのは、五日目の日暮れだった。正直なところ、こっちは半分諦めかけていた。
戻ってきた杜恪に、騾馬はいなかった。履いていた草鞋も替わっていて、目の下に濃い隈が貼りついている。女将が何も聞かずに粥を出し、杜恪は三杯、がつがつ食ってから帳場へ来た。
「弔いは無しだ。銭は返さねえぞ」
「首尾は」
「まず悪い方からだ。騾馬は取られた。物見の連中に捕まってな。……いや、捕まりに行ったんだ。逃げ回って矢で射られるより、飯を持って捕まる方が安い。炒り粟を火頭に握らせて、糧秣の帳を握ってる奴に会わせろと言い続けた。丸一日、縛られて転がされたがね。せいぜい、騾馬一頭ぶんの縄代さ」
杜恪は自分の手首をさすった。縄の痕がまだ赤くて、俺は筆を止めた。
「陣の中は、どうだったんだ」
「馬を潰す臭いがしたよ。駄馬から順に潰して食ってるのさ。なにしろ、走れねえ馬は荷にしかならねえからな。潰した革が、車に山と積んであった。通るとむっと生乾きの臭いが来る。値の付かねえ荷は、ああいう積み方になるんだな。姫の言ってた売り先の無え荷ってのは、本当だったわけだ。それでもまだ、配給の列は立ってた。崩れちゃいねえ。ただな、列の後ろの方の目は、もう並んで待つ目じゃねえ。まったく、ああいう目は布告じゃ止まらねえぜ」
「それで、誰に会うた」
「若いのだ。
張繡。ノートに、その行は無い。ただ、繡の字には引っかかりがあった。喉の小骨みたいに、あるのは分かるのに形にならない。宛。また宛だ。名前を口の中で転がしてみても、どうもそれ以上は出てこない。
「で、最初は決裂しかけた。向こうの言い分はこうだ。四百あるなら、四百まとめて陣まで運んで来い。取りに行く手間が省ける、とな。蔵から蔵へ荷を移すくらいの口ぶりでな」
「よもや、運んでやると言うたのではあるまいな」
「断ったさ。渡すのは渡し場で、こっちが数えて、隊列の順にだけ。まとめて渡したら、並ぶ理由が消える。並ぶ理由が消えたら、あんたの軍は列じゃなくてただの人だかりだ、と言ってやった。ついでに教えてやったよ。飯は町にはねえ。南の倉と北の郷から、こっちの車で集めて並べる。あんたが町を割っても、出て来るのはどうせ端数だってな」
「それだけで?」
聞いたのは俺で、引く理由としては、まだ弱い気がした。
「引かねえよ。あの男は、引く代わりに算盤を弾き直すのさ。しばらく黙って帳面をめくって、それから、こう言った」
杜恪は湯を一口飲んだ。人の言葉を伝える時、この男はやはり声色を使わない。
「――略奪は、一日目に腹が満ちて、二日目に軍が壊れる。満ちた兵は散って、散った兵は戻らん。こぼした水を桶へ戻すようなことは、俺にはできん。並んで食えるなら、その方が先まで保つ。……買おう。ただし条件がある、とな」
「聞こう」
「一つ。食が途切れた時は、その場で終いだ。約定を破るのは俺ではない、兵の腹が破る。そう言いながら、指で卓の縁をとんとん叩いてた。脅しの声じゃなかったぜ。あれは、自分の軍の綱がどこまで伸びるか、その場で値踏みしてる声だ。もう一つ――歩きながら食える形にしろ。列を止めて炊けば、それだけで隊が崩れる、と」
「注文の多い客だな」
俺が言うと、杜恪はにやりとして指を一本足した。
「まだあるぜ。渡し場の飯は、渡す側が先に食え。毒見だ。……俺は気に入ったね。疑い方が、商いの疑い方だ」
歩きながら食える形。俺は帳面の端にそう書き付けた。書き付けてから、そんな飯がうちに無いことに気づく。間の抜けた話で、宿題が一つ増えた。
「塩と革は二つ返事だった。どうせ捨て値の荷が飯に化けるんだ、断る理由がねえ。手付だと言って、これを寄越した」
杜恪は懐から袋を一つ出して、卓に置いた。ざらり、と中身の動く音がする。塩だった。俺は重さを手で確かめて、帳面に付けた。手付、塩一袋。
「証文は、少し黙ってから判を押した。押しながら、こう言ったよ。――この紙が生きる日は、俺が宛の倉の前に立ってる日だ。取り立てる足があるなら、来い」
書付が卓に置かれた。指で弾くと、ぺらりと鳴る。張の字の判。宛の倉から、後日。読み上げるまでもない短さで、着いてもいない土地の倉から払う、と書いてある。今日の値打ちで言えば、塩の袋の方がよほど重い。
「布告は張済の名前で出るとよ。町に近づく前に、軍中へ回すそうだ。押すのは甥だがね。ああ、それと」
杜恪は口の端を上げて、湯呑みをこつんと置いた。
「柳白とはどんな男だ、と聞かれたぜ。向こうはもう、三十絡みの帳場の男だと思い込んでる。直してやる義理もねえからな。算盤より薄情な野郎だ、とだけ足しといた」
俺は口の中だけで文句を言った。薄情は余計だ。
董白は書付を手に取って、判の面を灯りへ向けてから、卓へ戻した。
「上出来じゃ。……杜恪。約定は、保つか」
「知らねえよ、そんなもん」
杜恪は湯の残りを飲み干した。
「ただ、あれは算盤の合う相手だ。合ってる間は、破らねえ。……姫、飯だけは切らすな。あの軍の綱は、こっちの升が握ってる。升が空いた日が、約定の終いだ」