董白を拾ったら三国志が壊れ始めた 〜にわか知識の下級書吏と、死んだことになった董卓の孫娘~ 作:ねじぇまる
軍の注文は決まっている。歩きながら食える形。列を止めて炊けば隊が崩れる、というのが向こうの言い分だった。
注文を受けた側のうちには、あいにくそんな飯が無い。粥は歩けない。炒り粟は袋ごと配れば、量る間に列が止まる。
一人に半斗、三日分。しめて四百俵。それを歩きながら齧れる形にして、渡し場へ並べる。俺は帳面の新しい頁に、そう書いた。
書けはするが、作り方は一行も書けない。仕様だけが先にあって、中身が無い。どうにも、いちばん質の悪い頁だ。
董白が指を三本立てた。
「刻限は。竈は。人手は」
「渡し場に並べ終えるまで、市の日一つ。竈は女将が貸すと言ってる。拠出の朝の、釜と竈は貸すよ、ってやつだ。人手は頭のところの若い衆。……正直、揃いすぎてるくらいだ」
「なら、しくじってよいのは初めの三日じゃ。どうせ一度で当たる仕事ではない。始めよ」
~
一号は、炒り粟を水で練って固めた塊だった。乾かすと、よく締まった。握っても、練った時の水気がもう指に付かない。締まりすぎた。卓に置くと、椀を置いたのと同じ音がした。
毒見は決まりで、渡す側が先に食う。これも軍の注文だ。人足の頭のところの若いのが最初の一枚を齧って、がり、と嫌な音をさせてから、変な声を出した。
「頭ぁ。歯が」
「兵隊より先に、うちの若いのが欠けるぞ。普請場でもな、道具を先に壊すのはいつも張り切った奴だ」
頭は笑わなかったし、俺も笑えなかった。とはいえ、歯の立たない物を四百俵、というのは笑い事では済まない。董白は一号を一枚取って、端を少し齧り、しばらく黙って噛んでいた。
「……これは、飯ではないな」
「飯ではあるだろ。硬いだけで」
「腹を空かせた男が、これを渡されて何を思う。飯を寄越せ、と思うじゃろ。……作り直しじゃ」
卓の上の一号を、通りかかった瓦屋の隠居がつまみ上げ、日に透かし、爪で弾いた。かちり、と乾いた音がした。
「言っとくがな。うちの瓦は、もっと薄くて、もっと軽い。こんな出来の悪い瓦と一緒にされたんじゃ、商売に障る」
誰も瓦とは言っていなかった。だがその日から、一号は瓦と呼ばれた。
~
二号は、水場番の婆の一言から始まった。
「炒るな、蒸せ。蒸して、搗け。飯は殺してから干すもんじゃ」
言われたとおり、粟を蒸して、米屋から借りた臼で搗いて、板の上で平たく延した。帳場まで湯気が来て、開いた頁がふやけた。米屋は臼を貸しながら、例によって言った。
「俺は、兵隊が並ぶ方は信じてねえからな。臼は別だ。……搗き賃は、いらねえ」
言いながら、蒸す前の粟へ手を突っ込んで、欠けた粒と痩せた粒をより分け始めた。欠け粒が混じると、そこから崩れるのだそうだ。粟の山を掻き回す手つきは、むしろ店で客に米を掬う時より速い。
「俵は、いちばん悪い一升で値が決まるんだ」
頼んでいない仕事だった。頼まれた臼より、そっちの方が手が早い。
蒸して搗いた二号は、柔らかく、味もましだった。そして冷めると、乾いた土を握って開いた時みたいに、端からぼろぼろ崩れた。崩れると、一枚が一枚でなくなる。数えられない飯は、うちでは飯ではない。
「熱いうちに切るんだよ」
竈の前から、女将が湯気ごしに怒鳴ってきた。
「餅も飴も、冷めてから切ろうなんて横着すると崩れるんだ。延したらすぐ、包丁を入れな。まったく、あんたたち、帳場じゃ利口なのに、竈の前だと揃って間抜けだね」
~
三号は、切り口が立った。塩湯で締めてから延したのがよかった。塩は、
毒見の若いのが二枚食って、水甕へ直行した。柄杓で三杯飲んで、まだ飲んでいた。
「駄目だ」
杜恪が、若いのの喉より先に値の方を見る顔で、横から言った。
「行軍の水ってのは、飯より貴重なんだぜ。塩っ辛い飯を三千人に配ってみな。水場のたびに列が乱れて、しまいにゃ殴り合いだ。なにしろ水は、道の上じゃ買えねえからな」
「では、どれほどなら」
「歩いて汗をかく男が、水を欲しがらねえ程度。……つまり、薄めだ。塩気で保たせるんじゃなく、乾きで保たせろってことさ。せいぜい、汗かいて渇いた口でも我慢できるくらいにしとけ」
塩を減らして、そのぶん干しを深くする。理屈は通ったが、案の定、日なたへ出しても二日で乾き切らなかった。急いで竈の熱で飛ばした一枚は、真ん中で割れた。
「そりゃ急ぎすぎだ。水気は、そう素直に抜けやせん」
割れた一枚を手に取って、隠居が瓦を見る手つきで断面を指でなぞった。
「瓦も同じよ。まず日陰で汗を取って、それから火に当てる。……炭はあるのか。炎が立つ火じゃ駄目だぞ。熾きでじっくりだ。慌てて焼いた瓦は、見場だけは立派でな。一冬で割れる」
炭は、郷から下りた御者が翌日に運んできた。荷を降ろす音が、粟の俵より軽くて硬い。御者はにやりとした。
「炭で飯を焼くたぁ、豪勢だか貧乏だか分からねえ話だな」
~
四号は夜どおし干す。夜番に立てた若いのが、明け方うとうとした。
それだけで、朝、莚の端の一列がやられていた。鼠だ。齧られた欠けが莚にぱらぱら散っていて、阿慶が黙ってそれを数の棒に付けた。損は損だ。
ただ、面白いことが一つあった。やられたのは、干しの浅い列だけだった。乾き切った一枚には、歯形だけ残って、欠けていない。鼠が諦めた飯は、兵隊の三日を保つ。
「やはり、乾き上がりの目安が要るな」
「一号と、同じ音がしたらじゃ」
「あれは歯が立たなかったやつだぞ」
「音は乾きを言うだけじゃ。歯応えは、臼が決める」
董白が卓の一号――例の瓦――を爪で弾いた。高い、硬い音がした。同じ音でも、こっちは蒸して搗いてあるから、歯を入れれば割れる。
しくじりの一号は、捨てられずに帳場の卓に残って、物差しになった。婆が言ったとおり、飯は殺してから干す。殺すのは臼の仕事で、干し上がったかどうかは、音が言う。
そこから先は、数の仕事だった。町のどこを歩いても、蒸す匂いがした。
竈は、女将のと井戸端の釜と女房たちの持ち寄りで十一。隣町の蔵の前にも六つ立った。行ってみると、煙が同じ形で並んでいた。同じ道筋の隣町は、逃げるも食わせるもうちと一蓮托生だから、話が早い。
ひと竈で一日に蒸せるのはおよそ四俵、しめて一日七十俵近く。四百俵を割って、六日弱。試しに食った三日を足すと、九日。刻限の市の日一つに、ぎりぎり収まる。
収まるが、竈が二つ倒れたら収まらない。日が続かなければ、干し場で消える。干しは急げないと、隠居に教わったばかりだ。
俺は帳面に竈の番号の欄を作って、朝晩、火の数と俵の数を突き合わせた。日に二度、同じ数を二つの列に並べて見比べるだけの仕事で、なんせ間違いが出るのは決まって、面倒だと思った日の方だ。
昼下がり、帳場の縁に腰かけて、俺と董白は割れた三号を齧った。しくじりの山は、二人の昼飯になっている。捨てるという話をしたら、董白がまず怒ったからだ。
「固いな」
「固いの」
それきり、しばらくどちらも喋らなかった。往来を、粟を担いだ女房が二人通っていく。日なたに、莚が白く並んでいる。洗い物を干した日の裏庭みたいに見えた。董白は自分の分を齧り終えて、俺の手元を見た。
「そなた、それを残すのか」
「食うよ。……食うから、そんな目で見るな」
「勿体ない」
湯に落とすと戻る、と気づいたのは董白だ。齧るのに飽きて椀の湯へ放り込んだら、しばらくして粥のようにほどけた。
夜営で湯が沸かせるなら、これは齧る飯と煮る飯の両方になる。捨てずに積んでおいた山から、また一つ出た。
~
出来上がった一枚は、掌より少し大きい四角で、白っぽくて軽い。持つと、乾いた板を持っているのに近い。
一枚が一食。一人一日二枚、三日で六枚。兵隊は十人一組で飯を炊くというから、一組に籠一つで六十枚。
籠には番号の木札を付ける。渡し場では兵の側にも同じ番号の札を配って、番号を呼んで、その籠を渡す。開帳の日に列へ配った、順番の札と同じ作りだ。
渡し場の稽古は、蔵の前でやった。若い衆を兵隊の代わりに並ばせて、札を配り、番号を呼んで籠を渡す。番号を呼ぶ声が、蔵の壁に当たって返ってくる。
渡す前に、渡す側が籠から一枚齧って見せる。毒見も軍の注文だ。それを聞いた若い衆が、役得だか罰だか分からねえ、とぼやいた。齧った分は、その場で飲み込むまでが仕事だ。
一度目は、すぐ詰まった。籠を受け取った者が、その場で中を覗き込んだからだ。数が足りているか見たいのは当たり前で、見ている間、後ろは一歩も動かない。二度目も三度目も、判で押したように同じ所で止まった。
四度目の前に、阿慶が縄を二本張った。籠を受け取る所と、覗き込んでよい所を、縄で分けた。列は流れた。
「歩きながら覗きゃいいんだ。立ち止まった奴は、縄の外へ出す。……荷車と同じだよ。曲がり角で覗き込む奴が一人いると、後ろが全部止まる」
「渡し場は、そなたに任す。……よもや縄で片づくとは思わなんだがの」
董白が言うと、阿慶は張った縄の端を結び直してから、短く答えた。
「あいよ。籠の数と札の番号、帳場と毎朝合わせるよ。あたしの目が届くのは、縄の内側だけだ」
「それでよい。外は杜恪と、軍の側の仕事じゃ」
~
帳場へ戻って、稽古で決まったことを書き付けた。縄を張った時の跡が、まだ掌に残っている。
升は、出さない。
うちは四年、皆の前で升を比べることで信用を作ってきた。ここでもそうすべきなのは分かる。ただ、升は一人ずつ止める。なんせ並んでいるのが三千人だ。量り終わる前に日が暮れる。
だから量らない。数える。籠の数と、札の番号だけで渡す。札で粟を預かり、札で飯を渡すのは白蔵と同じで、違うのは升を出さないところだけだ。
代わりに、数える側が信用される必要がある。番号を振る手と、籠を数える目と、妙な札を見た瞬間に弾く帳場。この三つが揃っているのは、正直、この町の中だけだ。
先だって川下の店へ扱い所を断った、あの線の内側の話でもある。紙だけなら、どこへでも配れる。数えて渡すのは、目の届く所でしかできない。
人足の若い衆が「白様の式」と呼び始めて、三日で「白式」に縮んだ。帳面の欄にも、そう書いた。
~
九日目の夕方、最後の竈の火が落ちた。
米屋が向かいから出てきて、出来たての一枚をつまんで爪で弾いた。一号と同じ音がした。
「……戦が済んだら、これ、売り物になるんじゃねえのか。峠を越える連中にゃ、俵で担ぐよりよほど軽い」
「済んだらの」
董白は山の前で、隠居の手つきそっくりに、一枚を日へ透かしていた。透かしながら、口の端だけで言った。
「上出来じゃ。……瓦屋には言うな」
蔵の前に、白瓦が積み上がっている。
名前は毒見の若いのが言い出して、隠居が「もう好きにしろ」と言ったので、それで決まりだ。莚の上の白い山と、脇に番号の木札の束。阿慶の縄が、渡し場の形に張られたまま、夕日で赤い。
「軍まで」の欄は、もう市の日では数えられない。
あと、一日だ。